歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む1 

●嘉永年間の大久保利通日記 1

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風に読んでいくものとします。

まず、大久保利通日記 上巻・下巻が刊行される。
●大久保利通日記 上巻 より
[例言](意訳)
維新の枢機に参画せられたる大久保利通の日記は、
特に史科として極めて重要なものである事は、
云うまでもない。
本会は、以前よりこれを刊行して学会に
頒けたいと思ってから、すでに久しい。
たまたま本年は、公の50年忌に当たり、
侯爵家一門において、その追悼記念のため
公の日記を上梓しようとする。
本会は特に請うて、このような上梓の労に当たり、
かつ本会会員に頒布することの許可を得た。
本会は、ここに多年の宿志を達し、
誠に喜び勝るものはなく、本書の刊行に臨み
謹んで侯爵家一門の好意に対し、
深厚なる謝意を表す。
   昭和2年3月
         日本史籍協会

●[諸言](意訳)
亡父の日記は、安政6年に始まり、
明治10年に終わる。
その間、19年。
だが原本は元々、全部、保存していたが、
図らずも明治22年の火災により、
その半分は烏有に帰した。
幸いにも太政官修史局において原本から謄写し、
編集して10巻としたものであるが、
同局の廃止後、散逸して、その所在を失い、
複写本の数部を諸家に蔵書されていたが、
いずれも誤脱が少なからず、甚だしいものは
他人の日記に混入されるものもあり、
常にこれを遺憾としていた。
これにおいて、大正7年、その整理を計画し、
当家の原本以外の宮内省図書寮、維新資料編纂局、
島津家編集所、および岩倉侯爵家所蔵本を借り、
かれこれ対照し、厳密な交合を行う事、数か月。
ようやく正確な台本を作成し、多年の宿望を
達することが出来た。

たまたま本年は、亡父の50年忌に当たる。
そこでこれを機会として日本史籍協会に図り
印刷することとなった。
日記、本文中の人名には当時の通称があり、
変名があり、あるいは略字、略称を用いており、
往々、判明に苦しむものがある。
よって参考のため傍注(同一人名は毎巻、
およそ初出にのみ注釈した。)を施し、
又、重要な事項は欄外に掲げ、検索の便に供した。
そして、その字体についても努めて原文に近いものに
しようと期し、多くの変体仮名を用いた。

本書の題簽(だいせん)は、西園寺侯爵に
揮毫を請い、原稿整理、校正補注、鼈頭(⁂上部の欄外)
などは、維新資料編纂官・勝田 孫弥、同 薄井 福治
両氏にお願いしたので特に記して深謝の意を
表わします。

なお不肖、私目らが多年、蒐集した亡父の書簡、
建白 意見書、覚書などの原本、並びに写本も又、
少なからず、よって、
これを嘉永4年から明治11年に至るまでを
年、月順に整理し、資料として重要なものを選び、
その解説を加え、大久保利通文書を編纂し、
別に亡父の年譜および日記文書の索引を作り、
これ又、順次、史籍協会に託し上梓しようとした。

思うに維新の歴史は、わが国史の中の最も
光輝な部分に属する。
そして、この研究も又、日を追って盛んになろうと
するに際し、亡父の日記および文書もその資料となり、
修史に多少、貢献することを得ることは、
不肖、私目ら一門として、最も意義ある追悼記念となり、
本懐、これに過ぎるものであります。
   昭和2年3月
       侯爵 大久保 利和
       伯爵 牧野 伸顕
            大久保 利武

この折、安政6年11月以前の大久保利通の日記は、
収載されていませんでした。



その後、大久保利通文書(全10巻)が刊行され、
嘉永年間の大久保利通日記が、第9巻に所収されました。

大久保利通文書 第9巻
●嘉永元年 利通日記について(意訳)
去る大正10年に利鎌が帰県し、
市来川上にある大久保家祖先の墓参に行った際、
同地の分家が所蔵する
「弘化五年正月 改め公用書付 書覚帳」
であるものを発見した。
内容を検分すると、大久保・ 中宿に関する藩庁への
願書等の控へ書きであり、多くは利通の自筆に関係し、
そこで、右の覚帳用紙の裏面に細字があるのに
気がつき、これを解明すると処理されていない
(*前回、所収されていない)利通の日記で、
嘉永元年正月元旦から2月11日に至る40日間、
次に同年6月朔日から同晦日に至るもの、
同年10月朔日から同晦日に至るもの、
および11月10日から同晦日に至るものなど、
前後 100余日間の記事であった。
当時 祖父・次右衛門は、琉球館附役の
在職時代であり、大久保家は鍛治屋町から移って
館内役宅に居住していた。
日記中に官内、又は宮中とあるはこの事を云う。
利通は19歳で御記録所で勤務中であり、
この年 1月13日に御家譜編集書役を命じられ、
1月19日に藩学助教授・横山安容の門に入り、
さらに同年6月9日、 様式砲術を成田正右衛門に
学んでいたことなどが、日記により、
初めて知られることになった。
すなわち他日、 利通が新日本建設の大事業を双肩に
担って立つべく青年時代を如何修養刻苦した所が
あったので、本書はこれを語り、
余蘒なく頭注・鼈頭(上部の欄外)などを加え、
ここに掲載することしました。
但し、原書の字体は極めて粗雑で不明の個所が
少なくないのを遺憾とします。
             (利武 識)



よって、本稿では、時系列で上記の嘉永年間の
大久保利通の日記から始めるものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

嘉永元年 1848年 利通・19歳

●嘉永元年正月元日
(記事の前半を欠く)
(*この日は、元旦なので、おそらく
新年の挨拶回りの状況であると、推察される。)

【年頭廻礼】
これより新納 嘉藤次(*にいろ かとうじ・
大久保利通の義兄。)と別れて、
私(*大久保利通、当時、19蔵)は、
加治屋町辺りを遠い所、近い所を歩いて、
年頭の挨拶のため、三原 孫左衛門氏、
伊地知氏、(*伊地知 正治、後、伊地知貞馨、
別名・堀 仲左衛門)、
大山彦八氏(*大山 綱昌(おおやま つなまさ、
彦八は通称)、堀 八郎右衛門氏へ少し伺い、

又、挨拶のために上床 彦助氏、毛利 八兵衛氏、
大重 仲兵衛氏、川畑 魯水氏、
児玉新五右衛門氏、西郷 九郎氏(*西郷九郎隆盛)、
湊川 源左衛門氏へは少し伺い、阿多 十郎氏に挨拶をして、
宮内 藤助氏(*徳之島代官)、不明屋・八木次兵衛氏、
平田 正十郎氏へ少し伺い、

帖佐(*ちょうさ) 為右衛門氏
(*大正期・陸軍大将・黒木為楨 [ためもと] の父)、
伊地知氏。新篤[原文ママ]氏、
前向いの伊地知氏、黒木 荘次郎(*組方書役)氏、
有川 新蔵氏、福島 半之進氏、石塚 勇右衛門氏へは
少し伺い、亀山 杢太夫へも同じく、川北氏も同じく、
東郷 吉左衛門氏(*東郷 実友 [とうごう さねとも]
の通称。この当時は、郡奉行見習いであった。)、
鈴木氏へ挨拶をして、
萩原小路(*はっぐわらんしゅっ・鹿児島の文化通り
から甲突川河畔までの通りで、かつて、この小路に
面し萩原家があったことからこの名があると
云われる。)の長野氏へ少し伺い、
湯地氏へ挨拶をして、華山氏江少し(*伺い)、
税所 篤氏も同様であった。

【菅公社へ参詣】
(*後)、諏訪へ参詣し、大田氏へ伺い、天神へ参詣し、
城井氏、長崎氏へ礼を云った。
木場 伝内氏、山城氏、土橋氏、牧野氏へ
少しの間ずつ伺い、すでに夜入に近くなったので帰り、
四ツ時(*後10時頃)に休息した。


●同(*1月) 2日、曇り、
今日は五ツ時(*午前8時頃)前に起床、
未だ礼廻が済んでない所へ行くために、
早々に片付けをして、朝稲氏へ少し行き、
それから塩屋中道・御船手を通り、
肝付氏、小倉(*喜左衛門)氏 へ挨拶をして、
敷根氏へ少しの間、北原氏, 日置氏へ少しの間、
餅原氏へ挨拶をして、敷根氏へ少しの間、
山口氏へしばらく、種子島氏・税所(*篤) 氏へ挨拶をして、
肝付氏に同じく、それから草牟田の長野 勘兵衛氏に
挨拶をして、円清院強武居士へ参詣し、
肥田氏へ向かおうとしていた所、
児玉(*孫次郎)氏と行き逢い、幸運で同道して挨拶を差し上げて
帰りに藤井 助一氏 (*宅にしばらく滞在して)
ご飯などを頂戴した。

【姉・新納なか子の墓に詣でる】
七ツ前(*午後4時頃)に失礼して、
橋口・今彦氏、野崎氏へ挨拶をし、
上山寺の亡き姉の墓に参詣した。
愁涙、堪え難く、在りし日の昔ならば、どんなに
歓んでいただいたであろうか、ただ、墳墓に向い、
涙の他なく、すごすごと別れ、山を越えて、
児玉氏へ少しの間 (*伺い)、
税所 篤氏(*通称、税所 喜三左衛門、)
*以降、文中、税所 喜三左衛門を 税所 篤と表記します。

のところへ行こうとすると、
税所老(税所 本然)が先日から帰られており、
段々と話しをする内に、緩々と長居をしてしまい、
既に大鐘(*午前0時)過ぎになったので帰った。

【破魔投げの遊びを試みる】
今日(*の朝方)は、客人が来て、私(*大久保利通)
が少し裏門辺りに出たところ、
川上 四郎左衛門殿などと破魔投げなどをして交わり、
少しの間、付き合い、川上氏へ立ち寄り、非常に
度が過ぎるので辞し、直ちに伺い帰宅し、
客もいなくなったので、四ツ時(*午前10時頃)に休息した。
*破魔(はま)投げは、西洋のホッケー競技のように、
弾を棒で打ち合う競技。


●(*1月) 3日、曇り、
今日は六ツ(*午前6時頃)過ぎに起床、
早々に片付けをして、四時(*午前10時頃)に
城ヶ谷の猪俣 猪右衛門氏へ少しの間、戸口まで伺い、
ご祝儀のお邪魔をしたところ、出席の予定があったので、
九ツ時(*お昼12時頃)に出席したところ、
およそ150人ほどであった。
そして、日高氏に挨拶をし、高麗町橋(*現・武之橋)
を通り、日置 半蔵氏の戸口で(挨拶をし)、
有馬氏に挨拶をし、有馬一郎殿(*利通や西郷隆盛らに
和漢の学、世界の大勢を教えていた。)に少しの間いた。

【菅公社へ参詣】
そこから、あぜ道を行き返し、天神社へ参詣し、
森山 与兵衛棠の戸口で(挨拶をし)、
田宮へ行き、中村氏へ挨拶をし、
そこから、江田氏の戸口で(挨拶をし)、
岸良氏(*岸良 兼養[きしら かねやす]島津久光の奥小姓)
へ挨拶をして、そこから帰宅した。
今日は、よほど天気は良くなかったけれども、
暖気で、途中で暑いほどで、最早、春景色が広がり、
武田畝(*うね)の景色も良く、心気は長閑(*のどか)
で、一入(*ひとしお)、気がすさみ、
夜、四ツ時(*午後10時頃)、休息した。


●(*1月) 4日、曇り、

【牧野氏と囲碁をする】
今日は朝六ツ半(*午前7時頃)に起床、外出せず。
身の周りを少し整理して、
八ツ前(*午後2時頃)前、牧野 喜平次殿が碁を打ちに
来られて、三番、打ったが、私(*大久保利通)は、
負けてしまい、それなりに取り止め、
その内、税所 篤殿が来られた。

【破魔投げを遊ぶ】
牧野 喜平次殿は帰られ、税所 篤殿と段々、話しをして、
破魔投げで遊び、(*また、)川上 四郎左衛門殿、
門番九兵衛などと屋敷前で話などをして、
後は、安愛寺前でも(*話を)して、
大鐘近程(*暮れ六ツ、午後6時頃までか。)遊び、
夜入に近く、税所 篤殿は帰られ、
今夜は、九ツ(*午前0時頃)に休息した。


●(*1月) 5日、晴天、
今日は、五ツ時前(*午前8時頃前)に起床、
外出せず。

【無参和尚の法話を聞く】
段々、年始客などがあり、
八ツ過(*午後2時頃過ぎ)から宮内での催物に行き、
夜入前まで、いて、帰ると、
郡山 一介氏が来られて、段々、話しをして、
山口氏がお出でになったので、郡山 一介氏から、
早々に、その要件(*物事の道理や心得)を承り、
四ツ時過(*午後10時頃過ぎ)二人とも帰られ、
その要件が済み、方丈へ伺うようにと
無参和尚(*吉井友実の叔父。利通は、西郷隆盛、
吉井友実らと共に、陽明学や禅学を教わった。)
に仰せ付けられ、皆々で行き、お話があり、
○○様[原文不明] も来られた。


*●1月6日、原文ナシ。


●(*1月) 7日、快晴、
今日は五ツ前(*午前8時頃)から出勤、
四ツ時(*午前10時頃)に六組(武士組合)
触役所から御用があるとのことで、
嘉兵衛先生へ願い出た。
八ツ過(*午後2時頃)には済んだ。
それから又、御記録(*所)へ行き、
八ツ過(*午後2時頃)には退出した。
大鐘近に(*午後6時頃近くに)
今度、仰せ渡された高一巻を差し出すようとの
ことで、石神 新五右衛門殿から申し渡されたので、
早々に書き認(したた)め、夜入り、近々に、
意益殿が来られたので、同道し、
意益殿は、「今日、母上様が、
皆吉 金六 (みなよし きんろく・*利通の叔父) 氏
へお起こしになられ、
そちら(*皆吉 金六氏)へお伺いするように」
と頼まれたと云うことで、同道した。
私(*大久保利通)も加わって行ったところ、
少々、よろしくなく、書き改めて、明朝、
伺うこととなった。

【南林寺に講釈を聞く】
今晩は、南林寺に講釈を聞きに
得能良介 (とくのう りょうすけ・
*後、島津斉彬、久光の近侍となる。
通称は新右衛門。
得能直助の長男として誕生したが、誕生2ヶ月前に
父が急死したので、藩は母の吉(阿吉)及び
直助の母・藤に良介の養育を命じた。
17歳で藩の御記録所書役助として出仕。
利通とは5歳年上。)
*以降文中、原文・新助兄・得能 新助は、得能 良介と
表記します。

の所へ行くと云っておいたが、
吉利家は、式夜なので断られると考えて、
折角、そこへ(*南林寺)向かい、千石馬場(*町)へ
伺ったが、途中で(*新助兄と) 出会ったので、        
少しの間、そちらまで伺い、その段、申し分なく、
走って行って、そのことを述べて、同道した。
南林寺に着いたところ、折角、初めての所で、
余程、[不明] (xxx)した。
(*講釈は) 四ツ前(*午後10時頃前)済んだので、
二官橋通まで (*得能良介と) 同道した。          
(*そして)上萩原小路まで来て、そこで別れた。
間もなく、父上様も彼方からお出でになられて、
四ツ過(*午後10時頃)まで話されて帰られた。

【母の病気、快癒】
母上様には、不快があると云えども、
よろしく(*お伝え下さい。)。


●(*1月) 8日、快晴。
【高一巻書を提出する】
今日は早目に起床し、昨日、申し渡された書類を
書き認め、石神 新五右衛門へ持って行き、
四ツ時(*午前10時頃)に出勤し、
今日は、お暇を頂き、帰った。
得能 良介、浜田 竹林氏は、少々不快で
(*また)お伺い致します、と約束して
私の自宅へお問い合わせ下さい。と申し置きました。
九ツ時(*お昼12時頃)、相、来られ、一緒に来られ、
非常に喜ばれた。

【式夜に得能 良介らと会読する】
七ツ前(*午後4時頃前)まで話して、
それから一緒に横山(*安容)氏へ伺うつもりで、
お伺いしたところ留守で、末川久馬氏の前まで
同道し、私は帰った。
今晩は式夜で、大鐘(*暮れ六ツ、午後6時頃までか。)
から浜田 竹林氏が来られ、夜入り近くに得能 良介氏が
来られた。
六ツ前(*午後6時頃前)に会読(*かいどく)が済み、
九ツ前(*午前0時頃前)、まで、いろいろと話して
帰られ、夜入近くから雨が降り出していた。


●(*1月) 9日、雨天.
今日は, 五ツ前(*午前8時頃前)に起床。
五ツ(*午前8時頃)から雨が降り出し、
春雨は、朦々(*もうもう)として(*視界が)開かず、
四ツ時(*午前10時頃)に出勤し、八(*午後2時頃)
から退出した。
藤井助一様が来られるので、
「七ツ過(*午後4時頃過)から、牧野氏へ伺おう」
と、父上様が仰せられので、私もお伺いした。
六兵衛殿も、おられなかったが、話をして、
猪(*猪鍋か)を御馳走になり、
四ツ時分(*午後10時頃)に、(*二人で)帰った。


●(*1月) 10日、曇り雨で、強風。
今日は、五ツ(*午前8時頃)に起きたところ、
朝立(あさだち・*朝方に降る にわか雨)までは、
風雨は、厳しくなかったが、八ツ時(*午後2時頃)
になると、中々、堪え難き風雨で、
四ツ時(*午前10時頃)に出勤し、
八ツ(*午後2時頃)になると、非常に眠気を催し、
一息入れて寝た。
(*後)藤井助一様が来られた。
夜 入り近くから税所 篤殿が来られ、藤井 助一様と
一緒に帰られた。


●(*1月) 11日、曇り。
今日は、四ツ時(*午前10時頃)に出勤し、
九ツ時(*お昼12時頃)、
得能 良介、仁礼新助殿が一緒に、
市内見物に出かけられた。
大鐘近く(*暮れ六ツ、午後6時頃近くか。)から
南林寺で又々、法楽(ほうらく・*読経)を
勤めると云うことで、郡山一介氏・加藤父上様が
お越しになられるので、一緒に市内見物などをして、
晩に帰ったところ、父上様も帰られており、
すぐに休息した。


●(*1月) 12日、雨天。
今日は早朝から雨天で、
九ツ時(*お昼12時頃)から藤井助一様・郡山一介殿
が来られ、いずれも私は、外出しなかった。
七ツ過(*午後4時頃過)には、御記録所から
御用があるので来るようにとの故、安心いたし、
今晩は、椛山三円 (かばやま さんえん・
*藩主・島津斉彬の茶坊主で機密の用を務める。
また藩内の改革派と親交を深め、後、精忠組に入る。)
氏衆ら、御祖母様も来られ、九ツ時(*午前0時頃)、
家へ帰られ、(*私は)八ツ(*午前2時頃)に休んだ。


●(*1月) 13日、晴天白日、

【系図 御家譜 編集別勤 改書役を命じられる】
今日は早く起床し、御用につき、
五ツ過(*午前8時頃過ぎ)支度して出かけたところ、
小xx【xx原文・不明】が多くて、出勤の人なく、
丁度、いい加減で、九ツ時前(*お昼12時頃前)、
町田孫一郎殿から末川久馬殿・田中善左衛門が
取り次いで、(*私は)系図 御家譜 編別勤 改書役を
仰せつかった。
例のように、御請書 月番御家老、取次御用人、
その他、奉行書役へ御礼に廻り、
御家老は、末川久馬殿(*へ)、
御用人は田中善右衛門殿(*へ)、皆々、一緒に、
下方(*したがた)の人たちは上方(*うえがた)へ、
上方は下方へと廻リ、
私は、石塚 勇右衛門・折田 平八殿・藤 七郎殿・
米良甚助(*など)の五人の内、先に野崎氏へ
伺った。

【亡姉の墓参】
私は少し、上山寺に墓参し、それからまた、
田中を通り、郷田氏へ伺い、それから三手下を通り
すゝけ橋を下り、善谷寺を通り、田畝(でんぽ・
*田と畑)を踏み切り、高麗町へ出て、奥氏へ伺い、
それから東郷氏、それから又 伊集院氏、
後田(うしろた)の畝を踏み切り、
荒田へ出て、得能良介氏へ伺い、それから寄り返して
(*戻って)、又 佐近 允へ伺い、それから隈岡五助・
橋口 今彦氏・汾陽 彦次郎氏・木場 次右衛門 、
それから、手の口【樋の口、か。】の平川 宗之進へ
伺い、今日は、まことに暖かくて、(*挨拶廻りは)
早く済み、八ツ時(*午後2時頃)に済んだ。
地蔵角で八ツ(*午後2時)の鐘が打ち、
六日町通り内前で四人と別れて帰った。

【得能良介の宅において友人と会読後、
会議(武士心得問答)の修行あり】
今日は、上方へは廻らず、今晩は式夜の前なので、
得能良介宅へ石塚勇右衛門と一緒に行こうとして、
もっとも、大鐘(*午後6時頃か。)近くに、
少し立ち寄り、それから伺ったところ、
夜入り前に行き着き、直ちに会読(かいどく・
数人が集まり、同じ書物を読み合い、
その内容や意味を研究し論じ合うこと。)
が始まり、私は一番で、それから、
浜田 竹林、得能良介氏で、夜入り前になり、段々
詮議もあって、夜入り過ぎに済んで、
それから、話があり、段々、御馳走で、
今晩は一宿すれば、と云われたので、両人共、一宿した。
荘八が、九ツ(*午前0時頃)に来たが、
我々は、(*もう)寝ており、官内の人たちは、
帰られたとの事であった。


●(*1月) 14日、曇り、
今日は、夕方から得能 良介氏の所へ 一宿したので、
一緒に浜田 竹林氏と帰り、五ツ前(*午前8時頃前)に
帰り着いた。
それから支度して 四ツ前(*午前10時頃前)に出勤、
まだ少し早目だったので、卓 (たく・*机の上) などを
整理して、今日は手習(手習い・*ここでは学問のこと)
などして、細工所(さいくしょ・*工芸品製作が行う機関)
で、得能 良介氏と少し話をして、その後、
御蔵(おくら・*米蔵)で話をして別れ、
九ツ過(*お昼12時頃過ぎ)、得能 良介氏と又、
御蔵に行き、段々、話をしていると、
正八郎殿が来られ、それから、ここを出て、
八ツ(*午後2時頃)まで、いろいろなことをして、
八ツ(*午後2時頃)から帰宅した。
今日は、お礼廻りに伺おうと考えていたが、
得としまらす(*それが出来ず、の方言。)
明日にしよう、と考えていたところ、
七ツ時(*午後4時頃)、浜田 竹林氏が立ち寄られた
ので、お礼廻りに伺おうか、と話していると、
税所 喜三左衛門(*税所 篤)が来られるとのことで、
書状を差し出すので、お礼廻りは断った。

【習字の稽古】
晩は、夜入り近くから、税所 篤殿が来られて、
話をされ、(*その後) 例の手習いをしようか、と、
硯(すずり)に墨を擦(すっ)ていると、
五ツ時(*午後8時頃)に郡山 一介氏が来られ、
上方(*うえがた)からの帰りがけとのことで、
(*私の) 親父様へ伝言などがあとのことで、
しばらく話をした。

右(*上)のようなことがあり、字などの
書き方などがあり、おもしろくて
四ツ時(*午後10時頃)に帰られ、それから、又、
税所 篤殿が話され、九ツ時(*午前0時頃)に
帰られた。


●(*1月) 15日、晴れ
今日は朝になり、天気が良く、早目から支度して
上方(*うえがた)へのお礼廻りが済まないので、
町田氏・伊藤氏・近藤氏へ伺い、ちょうど
四ツ時(*午後10時)に出勤した。

【得能らと相撲を見に行く】
今日は、横井氏の石檀の内で、
例年ある相撲が、あるとのことで、
北原氏・山田 孫八氏へ伺うにつき、
私にも勧められ、得能 良介氏を誘ったところ、
随分、お伺いしてないと落ち着いた様子であり、
私は、すぐに帰って、握り飯を四つ持って、
ご記録所へ行った。
(*すると)門番所に、得能良介、山田 孫八氏が
来られ、「北原氏は?」と聞くと、
「さっきまで、内におられた」とのことで、
「どこかへ行かれたかな」と、尋ねると
「お蔵あたりには、おられず、もっとも
山田孫八は、一緒に帰るので待つべきだ。」と
(*言って)、帰られようとするので、
「(*北原氏は)決して激しい方なので、どこかへ
行かれたのだ。」と云うことで、あちらへ行こうと、
三人で向かったところ、(*北原氏は)ここにおられて、
一時(*いっとき)小松屋敷へ用事で伺っていた、
とのこと。
「(*そうか)見つけられたので、最早、ここにいても
仕方がない、と思っていると、力の限り走って来た者が
「皆な間違いだ」、と言ったので、笑いを催した。
それから、四人で連れ立って(*横井氏の石檀の内)へ
急いで向かうと、(*たった)今、始まるとのこと。

【西郷隆盛らも見物する】
(*そして)八ツ(*午後2時頃)
加治屋町 (*原本で、加治ヤ町「方」とあるのは、
加治屋町が加治屋町方限と称されることによる。)
の黒木 荘次郎(*組方書役)、亀山 杢太夫、西郷 吉之助
(*西郷隆盛のこと。) 氏などが来られており、
ゆっくりと(*相撲を)見物した。
随分、おもしろく、「みよしの・早ふさ(相撲取りの名)」
から下の力士まで、大鐘近く(*午後6時頃近くに)
まで、見物した。
私は、新納 嘉藤次(*大久保利通の義兄)と、
(*新納)側からのご用で、他にもいろいろとあり、
(*私は)御小納戸見習なので、
楽水様(重富領主・島津山城忠義公)の御付きを
申しつけられ、
この度のお礼に、と伺わなければならないので、
帰ることを促したところ、
得能良介氏も最初から早く帰りたかった、とのことで、
一緒に、二人とも話していました。
(*そうこうしている内に)帰ろうとすると、
日入り近くになり、西田町の橋元で、荘八と出会い、
衣装を持って来ました、とのことなので、
それから、諏訪小路まで一緒に行き、別れ、
新納 嘉藤次(*大久保利通の義兄)氏へ伺い、
いろいろ客人もあって、九ツ時(*午前0時頃)まで、
話をして、最早、八ツ前(*午前2時頃)になり、
今日は、組方から御用で来られるとの留書(とめがき・
*伝言の文書)があった。


●(*1月) 16日、晴れ。
今日は、四ツ時(*午前10時頃)に出勤した。
昨日のご用につき、四ツ(*午前10時頃)に
北原氏と一緒に御殿へ出て、組方が出て来たので、
書役人方へ引き会わせたとのこと。

【(利通、)組方へ出頭し、分家の中宿の年限を
届け出るべきである事を命じられる】
引き会わせたところ、互いに居合わせたので、
木藤 源左衛門殿(*組方書役)が、大久保太郎次
(市来の川上の途中で中宿する大久保分家
一族である。)、同じく武右衛門・同じく善兵衛
同じく新五郎が中宿されていると見受けられる
ので、「右(*上記の者に)は、何年から何年までの
お暇なのかな。」とお達しがあった。
*中宿とは、城下に籍を残したまま他郷へ
移住すること。

それから、北原氏と一緒に出来(しゅったい・*
物事ができあがること。)(*を見るのに)木脇藤淵氏へ
見に伺おうと伺ったところ、二才衆(にさいしゅう・
*薩摩地方にあった、「二才組』や『二才衆』と呼ばれる
若者の組織。)出て来られ、しばらく見物していると、
海老原氏の鎧が奇麗に出来あがり、誠に立派なもので、
耳目を驚かした。
それから、すぐに座敷を出て、八ツ(*午後2時頃)から
退出し、帰った。
そしてご用の赴(*おもむ)きを父上に聞いたところ、
大久保新五郎が、湯浅(*家)へ養子に行くことになり、
当分は、最早、(*大久保)家を出るとのこと。
「三人は、相、分かれないで、木藤源衛佐門(*組方書役)へ、
よろしく、相、頼むように。」との「ご云い付け」で、
既に大鐘(*午後6時頃)近くから、
木藤氏へお伺いしようと考えていたところだったので、
よくよく考えたところ、帳面などをみれば、
分かるだろうと、南泉院へ書物を取りに下人を遣わすと、
すると、(*下人は) どこかへ立ち寄っていて、
まだ帰って来ておらず、私は、すぐにそのことを
神護院へ云ったところ、税所 篤殿が持参されている
とのことで、
○○【原文不明】へ(*○○のところへ下人を遣わし)、
(○○は、)下人へ渡したのであった。
今夜は、その帳面などを見ていると、
文化(1804年頃) 近くまで、願次、あるけれども、
それ(*文化)から、この方(現在・嘉永元年)まで、
さっぱり、なので、分からずじまいであった。
そして、右(*上記)知っているところを
書き移しておいた。


●同(*1月) 17日、風天

【分家の中宿の件を木藤氏に依頼する】
今日は五ツ前(*午前8時頃前に)準備して、
少々、風が立った後には快晴で、
中宿の件について、夕べ、書付の通り、
木藤 源左衛門氏(*組方書役)へ頼み申したく考えて、
お伺いしたところ、まだ出勤されていないとのことで、
この段、少々のことならば何とも取り計られることで
あるが、何年も経ってしまっては、
取り計らいも全て出来なくなり、併せて、
後で同役に相談し、後刻に伺おうとすることにし、
「それなら、よろしくお頼み申し上げます。」と、
少しの間、石塚 勇右衛門氏へ立ち寄ったところ、
長沼 嘉兵衛殿が来られており、少しの間、話し、
もっとも石塚氏は、湯治へ行かれたはず、とのこと
なので、せっかく(*なので)、
だんだん退屈なく入湯されれば、と、挨拶をしておき、
四ツ時(*午前10時頃)に、(*長沼) 嘉兵衛殿と
同道して出勤(*することに)した。
天神馬場で長崎氏で尋ねたところ、まだ出勤されず、
それから(*又)同道して、(*長沼) 嘉兵衛殿は、
枡形で別れて出勤した。

四ツ過(*午前10時頃)に御殿へ伺ったところ、
少しの間、お達しで鷲の間にいたところ、
浜田 竹林氏、得能 良介氏が同道して来られ、
浜田氏は、少しの間、話されて帰られた。
それから、得能 良介氏は、御兵具処に用事がある
と云うことで帰られ、
それから、(*私は)御用を申し付けられ伺ったところ、
木藤 源左衛門氏(*組方書役) から、
「こちらからの下知(げじ・*上から下へ指図)とは、
申してはいないが、今度、新たに願い出ることは
決めてよく、併せて、こちらからの下知は、していない」
と、云うことなので、(*私は)面倒であると、
その場を引き取り、御座(*貴人の居間)へ行き、
八ツ(*午後2時頃)から退出した。

今日は、御母様は、七ツ時(*午後4時頃)から
南林寺に参詣などなされ、
牧野 御みは様(*牧野 伸顕の養母)は留守にされ、
出かけられ、
稲津 正助一鳳先生、前野 清左衛門殿が来られ、
晩まで話された。
私は、今晩、吉利家の式夜前であるけれども、
少し風邪気味なので断わり、
今晩は、五ツ過(*午後8時頃)に休息した。


歴史の流れ・「大久保利通日記」と「文書」を読む2 
●嘉永年間の大久保利通日記 2
     に、続きます。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント