歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む3

●嘉永年間の大久保利通日記 3

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。


嘉永元年 1848年 利通・19歳


大久保利通日記は、嘉永元年6月30日、以降は、
嘉永元年10月1日から同年10月30日に至ります。

●10月1日 晴れ
今日は出勤、月番が済み、
八ツ(*午後2時頃)から退出。
大鐘時分(*午後6時頃)、
(石塚)勇右衛門に問われて同道し、得能良介宅へ
伺い、会読があった。
九時(*午前0時頃)帰宅した。


●10月2日 晴れ
今日は出勤し、八(*午後2時頃)から帰宅した。
七後(*午後4時頃後)他に外出しなかった。


●10月3日 晴れ
今日は、四時(*午前10時頃)出勤、
重信 恕清が小倉氏へ伺うので誘われ、
お暇(いとま)して、早速、帰宅して、
長野氏へ少しの間立ち寄り、小倉氏へ伺った。
重信 恕清は、来られており、夜入前まで話し、
加治屋町方へ伺い、亀山 杢太夫氏へ伺ったところ、
新納 嘉藤次(にいろ かとうじ・*大久保利通の義兄)
がおられたので話した。
喜十郎殿は、夜入り、近くに帰られた。
もっとも今晩は、式夜なので石塚 勇右衛門へ
伺うことは取り止めにした。
九時(*午前0時頃)帰宅した。


●10月4日 晴れ

【刀、拵[こしら]え方を頼む】
今日は出勤がけに都城へ刀を頼んでいたので、
伺ったところ、まだ出来上がっていなかった。
(*後)出勤して、八ツ(*午前2時頃)から退出し、
七ツ後(*午後4時頃後) 他に外出しなかった。


●10月5日 曇り

【父、叔父等と不動に参詣する】
今日は出勤し、お暇(いとま)して
家君(かくん・家の長・自分の父)と初めて
樺山三円
((かばやま さんえん)・*利通の亡姉の夫の弟)殿、
皆吉金六(*利通の叔父)などと不動の参詣で、
私は、樺山殿へ伺い、弥左衛門殿と同道し、
新照院まで伺った。
父君は御殿からお出でになり、新照院から出発した。
後から上田 源衛門老、皆吉金六公がお出でになり、
終日、閑談し、遠望には秋の景色が素晴らしかった。
帰り道に詠んで云う。

【秋景の詩、成る】
 閑吟秋景盡歓游 日暮傍来 水流 遥聞樵歌一両曲
  遠村初見去人幽

(*上記の意訳)
静かに秋の景色の素晴らしさに詩歌を詠み遊ぶ。
日暮れがそこまで来ている。
水の流れと、遥か遠くの木こり歌の二つの調べ。
遠くの村で初めて、かすかに去人を見る。

と、詠みつつ、
皆吉金六公にも一つの吟詩があった。
ここに書き留める。
四方、眺望の内に帰り着く。
少しの間、藤井 助一氏へ伺い、
四ツ時(*午後10時頃)に帰宅した。


●10月6日 晴

【加治屋町の二才衆と伊集院・妙円寺に詣でる】
*二才衆(にさいしゅう)とは、青年男子の
年齢階梯集団の一種。別名、若者組のこと。
*若者組とは、
村内の 15~17歳の青年全員が成年式を済ませて加入し、
九州地方では若手、若手組、二才(にせ)組、二才衆など、
呼ばれた。

今日は早目に出勤し、同じく、お暇(いとま)した。
もっとも、加治屋方衆(*二才衆)が、
伊集院・妙円寺(現在の日置市伊集院町の徳重神社)
に参詣されるはずで、矢八郎殿が来られたので
同道し、勘定所へ少しの間、立ち寄ったところ、
早くも(*長沼) 嘉兵衛は帰られたので、
すぐに加治屋町方へ行き、二才衆、30余人と同道して
伺い出発し、四ツ過(*午前10時頃過ぎ)であろうか、
八過(*午後2時頃過ぎ)には余裕で到着した。
(*後)共に参詣して飯などを食べ、しばらくして
出発し、夜入り近くに帰宅した。
(*後)加治屋町まで生き、私は白浜へ行った。
もっとも父君、樺山氏達は、精進落としに行き、
四ツ過(*午後10時頃過ぎ)に帰宅した。


●10月7日 晴
今日は、四ツ時(*午前10時頃)に出勤し
八(*午後2時頃)から退出した。
今晩は式夜のはずなので、(浜田)竹林士が差し支えあり、
得能良介殿がお越しになり、一宿された。


●10月8日 晴

【刀剣鞘師へ立ち寄る】
今朝は、六ツ前(*午前6時頃前)得能良介殿が
帰られて、四ツ前(*午前10時頃前)準備して、
都城の鞘師所へ立ち寄り、四ツ(*午前10時頃)に
出発し、八(*午後2時頃)から退出した。
大鐘(*午後6時頃)近く、上(城下の上)で
地取(*能、狂言)があるとのことで、行ったところ、
取方があった。

【長沼 嘉兵衛らと国学の会読を行う】
暮時分まで見物して帰ったところ、
今夕は式夜で加治屋町衆、(石塚)勇、(長沼)嘉兵衛
が来られて、国学の会読の論語があり、素読もあった。
今晩は一宿の方があり、六ツ時(*翌朝の午前6時頃)
帰られた。


●10月9日 晴
今日は六ツ時(*午前6時頃)に加治屋町衆が帰られ、
四ツ時(*午前10時頃)に出勤した。
八(*午後2時頃)お暇(いとま)して、
夜入り近くから三島 嘉十郎殿、本田 彦左衛門殿、
染川 安之介殿が来られ、九ツ時(*午前0時頃)まで
話されて帰られた。


●10月10日 晴れ
今日は、四ツ時(*午前10時頃)出勤、
下(城下の下)から帰宅。
夕方から加治屋町方へ伺い、長沼(嘉兵衛)氏へ
少しの間、話し、東郷(吉左衛門)氏は、夜、話で
出席した。
四ツ時(*午後10時頃)に帰宅した。


●10月11日 雨
今日は、四ツ時(*午前10時頃)出勤、
九ツ時(*お昼12時頃)岩崎氏が別勤したので、
帰宅した。
大鐘過(*午後6時頃)、(税所)喜三府殿(*税所 篤)
が来られ、四ツ時過(*午後10時頃)帰られた。
恕兄(*重信 恕清)が来られるはずであったが、
来られなかった。


●10月12日 雨
今日は、四ツ時(*午前10時頃)出勤、
下(城下の下)から退出した。
七ツ過(*午後4時頃)得能 佐平次殿(*得能良介)殿、
明日、上京されるので、暇(いとま)乞いに伺い、
帰りがけに白浜氏へ伺い、夜入り近くに帰宅した。


●10月13日 雨

【亡姉の墓参へ】
今日は、四ツ時(*午前10時頃)出勤、
少しの間、お暇して上山寺へ墓参し、
帰りがけに藤井(助一)へ伺い、
八ツ前(*午後2時頃前)御座へ行き、
下(城下の下)から退出した。
大鐘前(*午後6時頃前)(石塚)勇右衛門殿が
参られ、話した。
今日は、官中の明月を見て■■(原文不明)で、
■■(原文不明)術を見物し、夜入り近くに
終わった。
もっとも今晩は式夜で、加治屋町方へ
(石塚)勇右衛門と同道し、勇右衛門宅へ伺い、
長沼 嘉兵衛も参られ、四ツ時過(*午後10時頃過)
に帰宅した。


●10月14日 晴

【年中行事で鎧着用の妙円寺詣りを思い立つ】
今日は、六ツ過(*午前6時頃過ぎ)に起きて、
今日は、例年に同じく妙円寺の参詣の日で、
なかなか懐古に耐え兼ね、参詣いたしたい気分で、
私は、鎧の痛んでいるところがあるので、
長野玄子へ少しの間伺い、太刀を拝用し、
又々、右(*上記)の痛んでいるところを
繕(つくろ)ってくれるよう頼んで帰って来た。
(*後)四ツ時(*午前10時頃)出勤し、
お暇(いとま)して森山与兵衛氏へ少しの間
伺い、黒麻(*くろそ・紙の原料の楮の別称)を
借用に伺ったところ留守で帰ったところ、
私の宅へ来られていた。
よって借用するために(*人を)遣わした。
具足も当然、貸してくれたので、(*それを)借りに
(*人を)遣わした。

七ツ過(*午後4時頃)から参詣し、
官内の門前から誠に見物が多かった。
千石馬場(*現・鹿児島市西千石町)に
差しかかったところ、ますます人が多く、
男女、貴賤(きせん・*身分の高い人と低い 人)
の数知れず、であった。
ようやく水上を越えて、坂の上で恕兄(*重信 恕清)
と約束があり、少しの間、待っていたところ、
加治屋町方衆が通られたので、同道して
(*重信 恕清へ)伺った。

【関ケ原戦の追憶、所感を述べる】
月も朧(おぼろ)に照り、甲冑(かっちゅう)
霜に映し、あたかも戦場に臨むのに異ならず、
志気は、自ら凛々と心に留め、待ち遠しく、
ああ、恐れながら、
島津義弘公が関ケ原においての難儀な戦い
(*島津退き口のことか。)は、明日、
15日である。

今の世、役所は下士(*身分の低い武士)に到るまで、
我らの面々は、太平の世界を気にかけず、
戒衣(じゅうい・*軍服、)あるいは
旌旗(せいき・*のぼり)、陣羽織、各々、
その所志(しょし・*こうしようと思っている事)
により参詣した。
妙円寺、伊集院の路程は四里半(*1,767キロ。
徒歩で約4.5時間。)で臨戦場の感が非常にあり、
遠慮すべきだが又、(*この感)一理あり、
薩摩人は、幸いに泰山に比べ安心して行ける沢がある。
何の不平不満もない、聖代(*すぐれた天子が治める世)
の民は、どこにいるであろうか。
松齢公(*島津 義弘(戦国から安土桃山時代の猛将。
島津 義弘の戒名は、妙円寺殿松齢自貞庵主。)の
余徳であろうか。
よって有志は、この日、安閑として徒然に同じ場所で
耽(ふけ)って歓談し、いわゆる国家の罪びと、となる。
壮士は、懐に甲を入れ、髪を乱して鉢巻をして地面に頭を
すりつけるように拝礼するとき、これを感じ得る。
先公の御尊霊は、悦んでいられようか。
誠に、座ることを、ぜひ止めるべきである心持ちである。
九ツ時(*午前0時頃)に、ようやく参詣を終えた。
(*そして)伊集院町で弁当などを食べて
七ツ時過(*午前4時過ぎ)に帰り着いた。

【父の慈愛に疲労を忘れる】
加治屋町方衆は、平田氏、西郷(吉之助)、亀山氏
東郷氏 福島氏 上田氏と同道し、西田町橋で別れた。
帰宅すると父君、その他がお待ちで、
くたびれた(*疲れた)事も忘れた。
私は、(*家族と)話をして休息した。


●10月15日 曇り

【岩下某を訪ねて伊集院における無礼の理由を問う】
今日は、五時(*午前8時頃)に起きて、
四時(*午前10時頃)出勤した。
一時、加治屋町の岩下(直太郎)へ伺い、
昨夜の訳を尋ねたところ、全く間違いで、
容赦致してくれとの訳で、異議、これ無く、
一礼を述べて帰った。
少しの間、加治屋町の亀山 杢太夫へ伺い、
一時、話して、皆吉(金六)氏へ、一時、
立ち寄った。
造士館に平田氏に一時会い、それから御座へ出て
御下(城下の下)から退出した。
大鐘過(*午前0時頃)から休息した。


●10月16日 曇りのち雨
今日は、四ツ時(*午前10時頃)に出勤。
一時、お暇(いとま)して勘定所へ江川新次郎殿に
用事があり、(長沼)嘉兵衛殿へも少しの間、
会った。
それから御座へ出て、御下(城下の下)から
退出した。
夕方から(長沼)嘉兵衛殿、(石塚)勇右衛門殿と
同道して来られ、式夜であった。


●10月17日 曇りのち雨
今日は、四ツ時(*午前10時頃)に出勤致し、
お暇(いとま)して帰宅した。
恕兄(*重信 恕清)が官門まで同道して
浜田 竹林へお伺いするとのこと。
今日は、白浜 仲右衛門殿が長々と病気のところ、
養生叶わず、八前(*午後2時頃前)からお伺い
したところ、来客があった。
夜入り前に、皆吉(金六)殿まで伺い、
上下(かみしも)などを着て伺った。
墓所まで行き、父君はすぐに帰られた。
私は、又々伺って母君、樺山三円殿の衆と
同道して帰宅した。


●10月18日 雨
今日は、四ツ時(*午前10時頃)に出勤し、
御下(城下の下)から帰宅した。
(*後)早速、加治屋町方へ伺ったところ、
今日は木棒切方へ伺うはずのところ、
としまらす(*その件は叶わない、の方言。)
とのことで、(長沼)嘉兵衛殿宅へ伺い、
夜入り前まで話し、それから得能良介宅へ
伺い、一宿した。


●10月19日 雨
【伍中自現流用の木刀の棒切りに行く】
今日は、得能良介宅から六ツ過(*午前6時頃過ぎ)
に帰宅し、四ツ時(*午前10時頃)に準備して
長野 玄子宅へ少しの間、伺い、それから勤務し、
御下(城下の下)から得能良介宅へ参上した。
もっとも今日は、加治屋町方衆が棒切りのはずで、
迎えに伺う途中で重信 恕清も紫立の辺りまで
お出でになり、橋上から別れて、私は急いて
「諏訪之口れい山」へ登り、半里(*約2キロ)ばかり
行ったところで、皆々、帰って来られ、
同道して引き返し、土橋に差し掛かってところ、
福島(半之進)氏、黒木(荘次郎)氏、
御児(おちご)衆がおられ、五ツ時(*午後8時頃)
に帰宅した。
(*後)亀山 杢太夫氏へ伺い、一宿した。


●10月20日 晴
今日は、六ツ過(*午前6時頃過ぎ)に起きて、
喜十郎殿も(長沼)嘉兵衛も、まだ寝ているので、
私は、帰宅した。
四ツ時(*午前10時頃)に出勤し、御下(城下の下)
から退出した。
七ツ(*午後4時頃)後、外出しなかった。


●10月21日 晴
今日は、四ツ時前(*午前10時頃前)に出勤した。
四ツ時過(*午前10時頃過ぎ)に頼み、
明日の件も頼んで帰宅した。
もっとも今晩は式夜である。

【浜田氏と会読する】
大鐘近(*午後6時頃近く)から得能良介殿が来て
鐘近過(*午後6時頃近く過ぎ)から、
浜田 竹林士が来て会読があった。
浜田 竹林士は、四ツ時過(*午後10時頃過ぎ)に
帰られた。
重信 恕清は一宿された。
七ツ時(*午前4時頃)まで話し、それから休息した。


●10月22日 晴
今日は、大鐘過(*午前6時頃)に重信 恕清は
起きて帰られた。
それから私は、又々、休息した。
五ツ過(*午前8時頃)起きて、
四ツ時(*午前10時頃)森山(与兵衛)氏に
具足を借用していたので返済した。
もっとも鍬形(くわがた・*兜 (かぶと) の 前部に付け、
威厳を添える前立物 (まえだてもの) のひとつ)
が少々傷んだ跡があったので、返す時に断っておいた。
それから長野氏へ一時、伺い、帰宅した。

【障子張りに税所 篤、木場両氏が加勢のために来る】
今日は障子張を致すはずで、税所 篤殿にも来て
頂くように頼んでいたところ、来られたので障子張りと
していると木場伝内士も加勢に来られた。
七ツ過(*午後4時頃過ぎ)には終わった。
税所 篤殿は脇方へ伺うとのことで帰られた。
(*しかし)夜入り近くから、
又々、税所 篤殿が来られて、一宿された。


●10月23日 晴
今日は六ツ (*午前6時頃)に 税所 篤殿は、
帰られた。

【祖先の墓へ参る】
私は、五ツ前(*午前8時前)に起きて
出勤の途中で少しの間、南林寺へ参詣し、
それから出勤した。
もっとも義岡氏から御用で来られるので、別勤し、
勘定所へ一時、立ち寄り、(*長沼 )嘉兵衛士と会い、
今日、得能良介宅へお伺いするよう約束致し、
(*石塚) 勇右衛門士へ来てくれるように
頼み置き、直ぐに義岡氏へ出かけたところ
御用は済んでいたのだが、(*会えず)
書役・木藤 源右衛門によろしく、と頼み置き、
それから、亀山(杢太夫)氏へ一時、伺った。
八ツ過(*午後2時頃過ぎ)、
(*長沼 )嘉兵衛士が来られたが腫物が痛み、
得能良介宅へ伺われないので、(石塚)勇士へも
行ってくれるように、とのことで、(*行ってみたが)
彼も伺われないとのことであった。
(*後、長沼 )嘉兵衛士は帰られた。

私は、又々、造士館まで行き、(石塚)勇士を誘い、
得能良介氏へ伺った。
(*そして)夜入り近くまで話し、段々、ご馳走など
頂いた。
夜入り過ぎ、又々、加治屋町方へ行き、一時、
私は夜話しに出て、亀山 杢太夫氏へ伺ったところ、
石塚 勇士も来られた。
今日は式夜であるけれども、(*長沼 )嘉兵衛士は
(*腫物が)痛いので休まれた。
(*私は)彼(*亀山 杢太夫氏宅)に一宿した。


●10月24日 晴
今日は、早目に起きた。
亀山 杢太夫氏から出勤致し、
八(*午後2時頃に)に(城下の)下から退出し、
七ツ前(*午後4時頃前)に一時、
佐市郎氏が来られ、帰られた。
七ツ後(*午後4時頃後)、外出せず。


●10月25日 晴
今日は、雨で四ツ時(*午前10時頃)に出勤し、
(城下の)下から帰り、退出した。
七ツ過(*午後4時頃過ぎ)木脇藤淵氏へ
一時、伺い、弥左衛門殿に用事があるので、
帰りには同道し、帰りがけに樺山 三円氏へ伺い
碁などを打ち、夜入り近くに帰った。
夜五過(*午後8時頃過ぎ)石塚 勇士が来られ、
四ツ前(*午後10時頃前)に帰られた。


●10月26日 雨
今日は、四時(*午前10時頃)に出勤、飛脚が来た。
御記録所 御用に封書を取りに出殿ノ御(原文ママ)
から退出した。

【浜田 竹林の宅において会読の後、琵琶天吹を聞く】
七ツ過(*午後4時頃過ぎ)に重信 恕清が来られ、
浜田 竹林氏へ伺い、今夜は式夜なので会読があった。
夜入り過ぎに、向井 彦左衛門が来られ、
(*彼は)琵琶天吹者で、誠にもって、その興に
感じ入り、(*それが)終わり、今夜は大雨で、
帰られず、一宿した。


●10月27日 曇り
今日は、六時(*午前6時頃)帰宅した。
重信 恕清と同道した。
四時(*午前10時頃)に出勤し、下(城下の下)
から退出した。

【砲術を習う】
七ツ時(*午後4時頃)鉄砲所へ行き、そこから
税所 篤へ伺い、大鐘近(*午後6時頃)から
新納 嘉藤次氏へ伺い、八ツ過(*午前2時頃)まで
話し、税所 篤は私の宅へ同道し一宿した。


●10月28日 晴れ
今日、五ツ時(*午前8時頃)に起きて、
税所 篤は、四ツ時(*午前10時頃)に
同道して出勤し、下(城下の下)から退出した。
夜入り過ぎから、石塚 勇右衛門、長沼 嘉兵衛
が来られて、もっとも式夜なので参談があり、
今晩は一宿された。


●10月29日 晴れ
今日は、石塚 勇右衛門、長沼 嘉兵衛と
四時(*午前10時頃)に同道して出勤し、
御暇致して、九時(*お昼12時頃)に退出した。
七ツ時(*午後4時頃)から得能良介宅へ伺い、
岸 喜右衛門殿が来られ、少しして帰られ、
私は、一宿した。


●10月30日 曇り
今日は、得能良介宅から帰宅した。
出勤の途中で都城の鞘師の所へ立ち寄り、
それから出勤し、下(城下の下)から帰った。
今晩は、樺山 三円宅へ伺い、話して、
もっとも、皆吉 金六様が、お出でになり、
九ツ時(*午前0時頃)帰宅した。
父君もお出でになった。


*この後の大久保利通日記は、
嘉永元年(1848)11月10日から
同年11月30日に至ります。


歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む4 
     に、続きます。

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