歴史の流れ 「勤王芸者」を読む 7

歴史の流れ 「勤王芸者」を読む 7

勤王芸者

本編は、小川 煙村(おがわ えんそん)の
「維新情史 勤王芸者」( 明治 43年刊) の小説
を現代文(意訳) で読むものです。

*原文の表現について。
部分的に、現在にふさわしくないと思われる
個所があり、語句表現の一部を修正しています。

●長州勢、退京の由来

島原遊郭の話を大分致しましたから、
これから少し話を変えて長州の退京、
三条池田谷騒動、元治の合戦を述べ、
その間に久坂 義助が、お辰に別れを告げる事から、
勤王芸妓・君尾と品川 弥次郎の情話を挟んで申そう。

当時(文久2年から3年の春)
京都では日本の諸侯が追々に集まり、
その数、70余名に及んだ、と云う事であります。
都に邸があるのは、ともかく、ないものは大寺院を
本営と致したから、洛中・洛外のこれと云う寺院は
残らず陣営となって、入り込む武士の数は、
おびただしく、従って市内は殺気立つ浪人の乱入、
辻斬り、殺傷は、日にいくつとなく起こりました。
所司代・桑名候は二条城により、
守護職・会津候は洛東・黒谷に陣を構えて、
幕府の威信を落とさないようにするとすれば、
諸国の勤王浪士は、河原町の長州邸を根拠地として
尊皇攘夷を激烈に主張し、長州候の威勢は洛中を覆い、
御所に対しても勢力がありました。
長州は過激な損攘夷党である。
薩摩は久光候が温和な勤王主義を唱えられた。
岩倉中将の如きは、薩長 同じ勤王で国家の柱石で
あるが、両虎、相 対して一旦、行き違いが生じれば
由々しき大事なりと、密かに心配しておられた所、
果然、伏見・寺田屋騒動の事が起因となって
薩長の感情が面白くない様になった。

(*文久2年) 2月13日、
将軍家は江戸を発して東海道を京都へ上る。
従う人は、老中・板倉周防守、水野和泉守、
稲葉兵部少輔、田沼 玄蕃らで、大名はこれに付いて
同勢、おびただしく、3月4日に入洛した。
久坂玄瑞、寺島忠三郎、轟 武兵衛の三士は、
将軍の入洛以前に、攘夷の期日を(正)確と
定めるべき、と鷹司関白の邸へ行って激しく談じ込む。
関白は三士の猛勢に驚いて、これを上奏することを
承知する。
久坂ら三士の他にも当時、公卿中の過激家と聞こえた
十三卿(正親町大納言、橋本、三条西、豊岡、花園、
渋野井、正親町少将、姉小路、壬生、錦小路、清岡、
四条、沢)は、皆、関白に迫って攘夷の期日を
定められよ、と云う。
鷹司関白は余儀なく深夜に参内して、勅許を得られた。
延び延びになった攘夷が定まれば、諸外国に、
断然、通知するのだ。
浪士は額に手を当てて喜ぶ。
佐幕方は驚く。
その内に将軍上洛となったが、長州の勢いは洛中を
傾けるばかりで、如何ともし難い。
松平春嶽候は、辞表を捧げて帰国する。
一ツ橋刑部候は、将軍に代わって急に江戸に帰り、
各国公使を濱御殿に招き、老中に談判をさせる。
公使は聞き入れない。
そのうちに京都においては、鎖国の期限が過ぎたのに
何らの沙汰にも及ばないのは幕府が違勅の所為を
敢えてしている。
この上は、御親征じゃ、
大和に行幸があり、神武陵および春日の神廟に
御参拝あり。
ここに軍議を定め、伊勢の太廟にも御参拝がある、
と云う。
天下は騒然。
いよいよ矢は、弦を離れる危急となった。
世の中の事は、明日がわからない。
ここまで進んだ攘夷が、急に一変してしまった。
親征は止(とど)めさせられ、七卿および長州父子は
勅勘(ちょっかん・*天皇からの咎め)となる。
急激に又、天下の形勢が一変したのであります。
されば、昨日までの登る旭の勢いの長州藩は、
急転直下となり、味方の三条ほか七卿は都落ち。
その上、今まで長州の役であった境町御門の
守衛は免じられる。
いよいよ長州は退京となり、池田谷騒動となり、
爆発して元治元年、蛤御門戦争となる成り行きは、
大概、右(上述)のようなものでありましたが、
この間に沢山の波乱がありますから、
その中から世に伝えておくべき要点を
次章から申しましょう。


●姉小路少将、暗殺される

文久3年5月20日の夜の事、
時刻は亥の刻と申せば夜の10時、
御所内は比叡山から吹き来る風、清々しい。
刻限に、これも三条実美らと共に
勤王過激派閥の浪士に関係が浅くない
姉小路少将公知卿、
朝廷から退がられて禁裏御所の東手に当たる
自分の邸に帰ろうと、朔平門を出て、
猿ヶ辻の方へかかられた。

猿ヶ辻
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朔平門(さくへいもん)は、ちょうどの
内に当たる禁裏御所の北門でありまして、
近衛邸の東南方向に当たる門であります。
この御門は外廓の方を申すなら、北は今出川御門、
東へ廻って艮(うしとら)に石薬師門、
東にあるのが清和院門、寺町通に寺町御門、
南が堺町御門、堺町門を内に入ると東側が鷹司家、
西側が九条家、それから西へ廻ると坤(ひつじさる)
にあるのが下立売門から蛤御門、中立売門、
乾門とあります。
これを御所の九門と云います。 

禁裏九門・概略図
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これら御所の外門内には宮家・公卿家の邸宅に
囲まれて、主上が居られる禁裏御所がある。
禁裏御所の諸門は、南門が南手、西手は公卿門、
台所門(二か所)北が朔平門、東手が日の御門、
この諸門内には、さらに日華門、承明門、月華門など
があって、紫宸殿、清涼殿、小御所、常御殿、
内侍所、准后誤伝などの宮殿があります。
これらの地勢は、文久元治における大波乱につき、
一つ、一つ関係がある場所なので、よく記憶願いたい。
当時の御所の有様は、只今では代わっていますけれど、
諸門は大抵、当時の場所に今もあります。

さて、姉小路少将は、鉄輪左近に太刀を持たせ、
中条右京を従えて朔平門を出られました。

姉小路少将公知卿
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猿ヶ辻を右へ廻れば、すぐ邸であります。
何心なく夜路を行かれると、3人ばかりの曲者が、
バラ、バラと駆けて来たって、狼藉者、と言わせるも
敢えず、突然、太刀を抜いて、
空が曇れる夜なれど、先行く従者が照らす提灯を
バラリ と切り下げました。
提灯持ちは、一言もなく腰を抜かす。
少将、年、若かれど、多才・多弁の素早い人なので、

「推参なりッ」と叫びつつ、

従う太刀持の左近が持つ太刀を取って、公家ながら
雄々しく立ち合わんと致さるるを、
さても運の尽きか、左近は、只今の刀の稲妻に
キャッ と叫んで、太刀を抱えたまま転びつ、起きつ、
一目散に逃げて行きました。

「卑怯者ッ 名乗れ、卑怯。」

少将は無手で、切り込む曲者の刀を右に左に
隙(す)かす。
中条右京は、主の御大事を見て健気に踏み止まり、
腰の刀を抜いて曲者と渡り合う。
此方は公家の青侍、相手は腕に覚えある刺客、
なので、2、3度で右京は手傷を負いました。
彼も わずかな間、これも わずかの間、
隙を見て少将は、近い我が邸を目指して走ろうとする。
逃がしはせぬ、と曲者は南と北とに挟んで滅多斬り。
憐れや、才知 秀でた姉公路少将も不意の事なり。
無手の事とて、遂に面部、胸部に重傷を受けられ、
血まみれになって横死致された。
さァ、この賊は何者か。
跡に証拠の物を残して置いた。


●御所九門の警衛

それ人殺しだ、辻斬りだ、暗殺だと、
たちまち御所中は騒ぎで、この場を目指して提灯は
飛んで来る。
3人の曲者は、見つけられては かなわない、と
陰の多い方へ、雲を霞と逃げ失せましたが、
駆け付けた人々は少将を助け起こしたが、
もう、玉の緒は切れている。
無念の横死に少将の怒れる顔になっているのを見て、
涙ながら姉小路家では、亡骸(なきがら)を
屋敷へ運ぼうとすると、曲者が落として行った
品々がある。
これは屈強な詮議の材料と、取り上げて見れば、
刀 一口に下駄が捨ててあった。
刀は薩摩鍛冶の鍛えたもので、頭に藤原、
縁に鎮英と、金の象嵌(ぞうがん)がしてある。
その刀、装いはまさしく薩摩藩の用いる以外になし。
その上、捨ててある下駄も薩摩人に限る薩摩下駄。
されば必定、曲者は薩州の者に相違なし、と定まって
姉小路家が伝奏へ向けて委細が報道された。
野の宰相中将は伝奏の役であるが、長命(*その事、の意)
を将軍家へ伝える。

姉小路少将儀 昨夜 朔平門 東手の辺(ほとり)に於て
暗殺されたり
御所を軽蔑致し容易ならざる始末
殊に将軍上洛の砌(みぎり)に右様の事あっては
将軍家に於ても 深く恐れ入られ候議と存ずる
厳しく穿鑿(せんさく)に及び 早々罪人
召し捕られよ

と、云う文意でありました。
幕府では、早速これを守護職、所司代および滞洛中の
各大名に対し、家来の末々まで厳しく申し付け、
少しでも手掛りがあれば早く申し出でよ、と
通達致した。
このような事があった上に、なお、その翌夜、
学習院の門に張り紙を致した者があって、
過激勤王派の三条中納言実美卿を罵っています。

転法輪 三条中納言
右之者 姉小路と同腹 公武御一和を名とし
実は天下の争乱を好み候者に付
急速 辞職 隠居致されれば
不侍旬日(じゅんじつ を またず)
雛(また)天誅可殺戮(てんちゅう さつりく すべき)
者也

先に御所内において姉小路少将を斬ったのみならず、
なお図に乗って、三条卿に害を与えんとの恐喝に
張り紙。
打ち捨て難き乱暴者、又は御所内においての
奇怪時があった上からは、片時も油断はならず、と、
早速、土州藩、熊本藩の藩士の中、腕利きを選んで
10名ずつ三条家を護衛させ、他に御所の九門を
警衛すべき要ありとて大名に命じて持ち場が
定められた。

清和門(土州) 寺町門(熊本)
堺町門(長州) 下立売門(因幡)
石薬師門(阿波) 南門(芸州)
東門(米沢) 北門(中津)日の門(大垣)

この他、会津および所司代に命じて、
唐門、西門、台所門を堅めさせられました。
この時、長州は御所の正南門に当たる堺町御門の
要所の警衛を命じられ、面目に余るところで
ありましたが、これが、三月後には堺町門の
警衛を免じられる事から長州勢の退京、
壮士、悲憤、慷慨(こうがい)を致す、
と云う事になる。

それは、さて置き、姉小路少将を殺した者は何者ぞ、と
刀によって詮議致と薩藩の者にこの刀の所持者が
明らかになった、と姓名さえ判明致した。


●薩人、黒谷の会津を襲う

守護職・会津肥後守の公用人に至急参れ、と
坊城大納言からの使いが参ったから、
外島 機兵衛、何事か、と伺うと、

「姉小路卿を殺害致した賊は、田中 雄平と
申す者。
あたかも雄平と同宿している者が、
二名、あるそうじゃ。
これぞ、かならず共謀者であろう。
その仔細はと申せば、曲者の落とし置きし刀こそ、
彼の雄平が佩(お)びし物にて、
長州藩の者のみならず、土州藩の者にも証明致す者が
あるばかりか、証拠、歴然たる上は片時も容赦を致さず、
直ぐさまに、その曲者を召し捕れ。」

ちょうど三条家からも、
「あの刀は薩藩・田中 雄平(*新兵衛。雄平は諱。)
の差料であるから早く捕えよ、」

との命がありましたから、会津肥後守には、

「さらば田中を、」

と、物頭・安藤 九左衛門に、その組の足軽を
率いさせて、外島 機兵衛、広沢 富次郎らも
一緒に行き、雄平の宿所である東洞院 蛸薬師へと
行かさせました。
相手は、聞かず者の薩摩士である。
かつ、その宿のごく近くに薩摩屋敷があるから
万一、薩摩屋敷に田中召捕の事が聞こえたら、
気早い隼人が武士道の意地で、渡さぬ、言い出すかも
知れぬと、捕手の側では大いに心を配り、
極秘密に、又、極手配りをよくして、
雄平に、宿所の安藤 九左衛門は、向かって言った。

「拙者は、会津藩・藤 九左衛門と申す者。
坊城家に、ちと、貴殿にお尋ね申したき儀あれば、
同道してお連れし申してくれとの頼みによって
推参致した。
これから直ぐに御同行を願いたい。」

「成る程な。その用向きは。」

「用向きは、拙者において存ぜぬ。
ただ坊城家まで同行致せばそれでよろしいので
ござるから。」

「それならば、お伴致そう。」

「その上、ご同宿の方にも、ご一緒願いたい。」

「同宿は、これなる仁礼 源之亟殿。」

「拙者は、仁礼と申す者。
拙者も坊城家へ参りまするかな。」

「ぜび、同行願いたい。」

田中は仁礼を守って、安藤 九左衛門は首尾よく
坊城家に送り込みました。
相手が薩州だから、今にも取り戻しに来るかと、
両人を会津に預けんとの沙汰があったが、
会津藩は、お受けをしない。
これは町奉行が預かるべき役目だとあって、
奉行書へ送り届ける事になった。
奉行所の与力や同心は、薩摩と聞いて震えあがって、
会津藩に助力を頼んで途中で奪われぬ様にと、
とにかく二人を奉行所へいれましたが、まだ不安である。
今にも薩州の荒くれ武士が、田中を返せと談じ込みに
こよう、と氷を踏む思いでいると、

果たして錦小路 高倉の薩摩屋敷では、
田中に捕手が、かかったと聞いてハチの巣を叩いた
ような大騒ぎ。

「それ、田中を戻せ。」

と、追取り刀で田中の宿所へ飛び来る者、ひきもきらず、
しかし、その時はすでに連れていかれた後であるから、
地団太踏んで口惜しがり、捕手は会津藩と、聞いた
内田 仲之介、伊勢 助兵衛は、会津藩のある黒谷に
来て、怒気 憤々、大いに談じ込みました。


●薩摩武士の切腹

「拙者は松平修理太夫が家来でござるが、
同藩の田中雄平なる者、如何様の疑いにや。
貴藩において召捕られたと云う事なるが、
薩摩の者を召捕られるには、一応、お応えが
ござったか。」

「イヤ 事、唐突で、かつ迅速を、との申し条で
ござったから。」

薩摩の伊勢、田中の談判には会津の外島 機兵衛が
当たりました。

「応えずに我藩の者を引き捕われしとは、
奇怪、至極な、為され方。」

「いや、それには仔細のある儀で。」

「仔細の有無は存ぜぬ。
他藩の侍を召し連れるには、連れ様がござる。
会津は薩摩の武威を蔑(ないがし)ろに なさるるか。」

「決して、けっしてその儀では。」

「さらば何故、理不尽の事を致された。」

薩摩の両士は、怒気に満面、朱を注いでいました。
外島は、おもむろに、これをなだめて、

「今回の事、第一、姉小路卿 殺害に関してで
ござって、現場にありし凶器が田中雄平殿の
日頃の差料とござるから、証拠は歴然、免れぬ。
曲者、定まったらば片時も容赦はならぬ。
直ぐに引っ捕えよ、との朝廷の厳命。
相手は名にし負う貴藩の事なり。
もし仕損じずれば、会津一藩の恥はとにかく、
朝命に背く訳。
と云うて、又、 武士は相見互身。
疑いかかればとて、未だその罪人とも知り難き侍に
縄かける事もならず、
朝命には、田中雄平捕えよ、との厳命ありしも、
そこが貴藩に対する武士道の礼儀。
決して縄もかけず、捕えも致さず、
ただ、坊城家まで同道致せしばかりで、
その後は、町奉行の手に移り、
当藩は、ただ送りしばかりでござる。
御両君。
もし、これが会津藩の者を捕えよ、と貴藩に
朝命があった時、如何 致して下さるか。
武士の道ならばこそ、みだりに他藩の士に縄かけねど、
朝命は、もだし難し。
貴藩の憤りも さる事ながら、会津藩の苦衷も お察し
下され。」

と、理を含めた言葉に、流石は薩摩隼人なり。
武士道の駆け引きに適(かな)ったる口条を聞いて、
一も二もなく合点して引き取った。

藩士の方は、これでおさまったが、田中雄平、
その夜に大変なことを致した。
すなわち、その夜中に自分の脇差をもって
腹十文字にかっ裂いて薩州武士のこれを見よやと、
見事に切って見せ、自ら喉笛を刺して自殺しました。

聞けば、ここに一条の物語がある。
田中雄平、その頃、祇園新地の某楼に遊んで
いましたが、ある夜、何者にか刀を盗まれた。
盗まれた刀が姉小路少将を斬って現場に落ちて
いた。
人を斬った咎は、云々説くべきも、
妓楼に遊び戯れて、不覚にも刀を盗まれたとは、
武士の面目、死すとも云えず、八難 武運は尽きた。
恥は語らぬ、生命は棄てる。
せめて散り際を潔くせんと、唇、堅く閉ざして
我れと我腹へ拳を堅めて十文字。
理屈はいらぬ。
この気風はいつまでも日本に残して置きたい。


●会津藩の馬揃え

田中雄平の事件があって以来、薩州は朝廷における受けが、
よろしくなくなった。
勤王過激の長州勢、独り、洛中・洛外に世評よろしく、
朝廷の少壮有為の公卿も多く結んで、
その勢力、あなどるべかざるものがありました。
これに対する幕府方では、もちろん、会津の雄藩・
松平肥後守、精兵を率いて黒谷に本陣を構えて、
臣下にも智謀の士がいる。

金戒光明寺
21 IMG_2410● 金戒光明寺 (800x600).jpg


*京都守護職時代の会津肥後守(松平 容保)
(ウィキペディア・著作権満了のものより)

22 Matudaira_Katamori[1].jpg

勤王家にとっては、この会津は実に目の上のコブで
あった。
一体、この会津は、勇ましく力強い兵がいると云うが、
実際、どれだけの軍容があるかと、勤王家の方では
試みに実見致したい。
その実力の如何によっては、又、考えもある事ですから
何とかして知りたい。
なので田中雄平事件があって間もなく、すなわち、
文久3年7月28日に、御所・建春門前において会津勢に
馬揃えを致して叡覧に供せよ、と仰せ出されました。
馬揃えとは、只今(*明治34年頃)の御前演習のような
もので、軍勢を整え、戰さの駆け引き、進退をご覧に入れる。
第一、 陛下の御前で行うのですから、この上もない晴れの
場所である。
当時、会津の兵力なるものは、天下の疑問となって
いるから、下手な真似は少しも見せられない。
すわわち、鼎(かなえ)の軽重をとわれと云う
意味にも当たりますから、会津藩にとっては
栄誉でもあり、かつ大切な場合であります。
会津中将は早速お受けを致し、部下の者に、それぞれ、
通達に及んだが、あいにく28日は雨天でありました。
最初のお達しによると雨天順延とあったが、
当日になると雨天と云えども叡覧の思召しありとの
事で、会津藩では、ちょっと困ったが、敢えて辞する事
もなく、肥後守には即、時命を下して軍兵を率い
黒谷から御所に着いて、暗夜、降雨の中に篝火
(かがりび)を焚かして、隊伍、粛然、操練を致した。

朝廷からは「ご満足に思召され候」と御沙汰があった。
さあ、雨天順延とあるを、俄に催促致しても、あの通り
粛々として乱れずにやって来る所を見ると、
会津勢も、なかなか侮(あなど)れぬわい、と勤王家は
大いに警戒致した。
幕府方は、我事のように鼻を高くする。
この剽悍無比(ひょうかん むひ)の会津勢と元治元年に
戦って会津中将の身体も危うかったと云うのですから
長州勢が軍備を整えていた事も判ります。
何しろ長州と会津とは、両大関と云う格でありました。

(文久3年)7月28日は、雨夜の事なれば、
十分に叡覧になる訳には参りませんでしたから、
改めて8月3日になり、明後5日に叡覧を仰せ
付けられるから、卯の上刻(*午前5時40分)に
御花畑本地へ到着し、巳の刻(*午前10時頃)から
馬揃を始めよ、との御沙汰がありました。
会津藩では早速お受けを致し、当日を待ち構えて
いると、当日は晴天なり。
秋気、やや催し、軍を用いるのに屈強の時、
総大将の会津肥後守のこの日の紛争を見ると、
紺糸緘(こんいと おど)しの鎧の上に、
恩賜の大和錦で造られた陣羽織を羽織り、
頭には黒漆の烏帽子(えぼうし)を頂き、
金色燦然(さんぜん)たる黄金造りの太刀を差して
三軍を令する采配をしっかと握り、
金の鍬形(くわがた)を打った甲は脱いで近臣に
持たせ、南部産の逸物にひらりと打ち跨って
押し出した有様。
実に幕府が、この人そ、と頼む威容があって、
日頃敵視する勤王党まで、天晴れの武将よ、
この人ならば敵としても不足はあらじ、と
密かに拳(こぶし)を握っていました。


●幕府党の大活躍

会津肥後守の馬印・祖先・保科正之が、
尊王の志を表して作った金の参内傘、
小馬印は緋羅紗の丸形、これを馬前に押し立て、
この日は特に加茂皇大神、正八万と記した二流れの
旗を立て、白地に黒葵の幟(のぼり)を旗奉行が
掌って朝風に翻し、鉄砲を先に甲冑の侍が隊列を
なして、寅の中刻(*午後4時20分)と云うのに
黒谷から凝華洞(ぎょうかどう・*京都御苑内の
御所の南東側にあり、現在は、凝華洞跡の立札が
あるだけである。)に参着した。

*凝華洞跡
イチョウの木の左背後にある松の木の
向こう側に凝華洞跡の立札がある。
23 IMG_1781 凝華洞跡(600x800).jpg


「ソレ 会津の軍勢を見よや。」

と、沿道は老若男女が堵(と)をなして
見物致した。
凝華洞に参った会津勢は隊を整えて、
南門から唐門前を過ぎ建春門の前に居並んだ。

現在の建春門
24 IMG_1279 建春門 k (1024x768).jpg

やがて主上は、天覧所へお出でましましたが、
天覧所は、建春門の北手に仮御殿を造り、
御簾(みす)を垂れ、赤白の御幕をかけさせられ、
主上、皇族方を始め傍観の栄を得た
月卿(げっけい・*卿や殿上人)、
雲客(うんかく・清涼殿に昇ることを許された者)、
諸侯は所狭し、とご覧になっている。
誠に会津家にとっては、一代の名誉なり。
又、大事の場合であります。

馬揃えの戦ぶりは、まず,繰懸けの法を行い、
次に繰引きを見せた。
繰懸(くりか)けとは敵に向かって前進するので、
前列に並んだ銃隊が発射すると同時に、
後列にいる銃隊が前列の間に進み、
この様に前へ、前へと進撃するのであります。
繰引(くりひ)きの法は、これと反対で、
背進して敵を誘う法、すなわち、戦いつつ退き、
敵を頃よきところまで誘い寄せ、潮を計って
逆襲する。
すべて進むには鼓を鳴らし、三軍大挙して敵を
突く時は、法螺の音 勇ましく響いて、全軍、
大突貫する。
この壮観には観覧の人々、酔う様になり、
主上も非常に興を催させ給い、最後の大突貫の折には
御簾(みす)を少し開かせ龍顔、殊に麗しく拝し
参らせた、と云う事であります。
ああ、この演習を面白い、と見る公卿の人たちは、
明年、この御所内において真の銃声、
真の突貫を聞こうとは、神ならぬ身の誰も知らぬ。
会津も知らぬ、長州も知らぬ。
しかし時の運命は、この間に次第に迫って来て、
文久3年8月17日、勤王に味方の諸卿は参内を
禁じられ、長州は堺町御門の守衛の任務を
御免になる。

それは前にも申したように、
一方は久坂・真木の勤王の士が、鷹司関白に迫って
攘夷、御親征をお勧め申す。
三条、その他の十三卿は天下の事を決行するには
ぜひ御親征を、と主張する。
幕府方は、この御親征は外国の御親征よりも
それ以前に兵を整えて、幕府を討つ御親征と
解した者もありますから、さあ、騒ぎであります。

佐幕党の中川宮(久邇宮朝彦親王)は、
今まで全て控目にいられたが、急に活動を始められ、
会津藩の某臣が、又これに参加して、
二条右大臣 近衛父子を説いて味方とし、
文久3年8月18日の子の刻(*23時から1時の間)
会津肥後守は所司代・稲葉 長門守を従え、近衛二条の
諸公と共に参内し、会津・薩摩 両藩の兵を繰り出して
御所の九門を閉じさせて、たとえ鷹司関白であれ、
誰であり、お召しにあらざる者は一人も御所に
入れじ、と厳達をして、
広幡、徳大寺、三条、飛鳥井、野宮、三条西、東久世、
川鰭。橋本、豊岡、万里小路、滋野井、東岡、烏丸、
正親町、四条、壬生、錦小路、沢の諸侯へ
「参内 並びに他人面会無用」の旨が達せられ、
長州の藩主に向かっては、

堺町門守衛之儀、以思召従 只今被免候 
尚ほ追って御沙汰被為財候迄、
屋敷に可引退、勅詔候事

(意訳)
堺町門の守衛の事、思召しをもって
只今、免じられました。
なお、追って、ご沙汰が、あらせられるまで、
屋敷にに引退すべし、勅詔の事。

と、命じられれた。
これは幕府党が突然、大活動をやったので、
勤王党は確かに一打撃を加えられた。
さあ、長州の藩士を始め勤王の浪士は
怒髪(どはつ) 冠(かんむり)を衝(つ)く
(激しく怒って髪の毛が逆立った凄まじい形相)、
の概で、今にも大騒乱が起こりそうに、
雲行きが険悪になって来ました。
(維新史もここからが、大活気を帯びて来る。
この暗澹(あんたん)たる風雲が、つまり、
今日の明治・聖代に国威振揚を産んだのであります。)


次回、歴史の流れ 「勤王芸者」を読む 8
に続きます。


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