歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む5

●大久保利通文書 嘉永4年から安政6年

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

【目次】(時系列で掲載)
(文書)1・     嘉永4年6月28日・22歳
             森山 与兵衛あての証文

(文書)1671・ 嘉永4年6月28日・22歳       
 森山 与兵衛への証文
(文書)1672・ 嘉永4年6月28日・22歳       
 森山 与兵衛あての証文
(文書)1673・ 嘉永6年6月4日・24歳        
石原直左衛門への書簡
(文書)1674・ 嘉永6年11月30日・24歳       
石原直左衛門への書簡

(文書)2・     安政元年 閏7月25日・25歳
             森山 与兵衛への書簡
(文書)3・     安政元年 12月6日・25歳
             樺山 三円への書簡
(文書)4・     安政3年 4月3日・27歳
             樺山 三円への書簡
(文書)5・     安政5年 12月29日・29歳
            菊池源吾 (西郷隆盛) への書簡
(巻48 詩歌集)     安政5年12月30日・29歳
月照和尚49日の忌日に当たり吉祥院において
同志と共に心ばかりの法事を営めるとき 詠める

(文書)5・参考1  安政6年1月2日・30歳
            菊池 源吾 (西郷隆盛) より
大久保への書簡 
(文書)6・     安政6年 1月4日・30歳      
            樺山 三円への書簡     
(文書)2・参考1  安政6年3月29日・30歳
            有村雄助らより大久保への書簡

――――――――――――――――――――――

この頃(年表より)
5月22日 関勇助、新納家を訪問し時事を話す。
           (新納日記より)
嘉永4年 1851年 利通・22歳

大久保利通【文書】1 嘉永4年6月28日
●森山 与兵衛あての証文

(解説)
利通は、初め正助と称し、後、一蔵と改めた。
皆吉金六は、利通の叔父である。

【意訳・本文】
証文
 金子14両1分 印
   1両につき7貫500文に代える。印
   (1両 = 7貫500文 とします)
銭にして106貫871文 印
1年に金子5両余りで、元本(がんぽん)をくずし
右の通り、この節、よんどころなく
(どうにもならないので)、
借用の件は、別条の通りであります。
ご返済の件は、1年に金子、5両ずつ、
3年目に、元利も揃えて、お支払い致します。
よって、後日のため、保証人を立て、
かくの如くであります。 以上。
  保証人 皆吉 金六 印
  借主  大久保 正助 印

*1両は、現在の貨幣価値で、約63,600円。
*1両の4分の1が分。
*なので、総額・約906,000円ぐらいであろうか。



嘉永4年 1851年 利通・22歳

大久保利通【文書】1671 嘉永4年6月28日
●森山 与兵衛あての証文

(解説)
父・次右衛門が流島中、家計の困難に際しての
借入金の証書である。

【意訳・本文】

証文
太刀     一本
代金     20両 印
         1両につき7貫500文替
銭にして150貫文 印
右(*上記) は、この節、拠りどころ無く入用につき、
御借用の儀、別条ありません。
右(*上記)、引き当てのため、本行の品を
差し置きます。
10年の内に金子を入れて お返し申し上げます。
もし、年限に合わなければ、お勝手次第に
お取り計らい下さるよう申し上げます。
よって、この日のため証人を立て、
証文はこのようであります、以上。

  嘉永4年6月28日
         証拠人 皆吉 金六 印
         借主  大久保 正助 印
 森山 与兵衛 殿




嘉永4年 1851年 利通・22歳

大久保利通【文書】1672  嘉永4年6月28日
●森山 与兵衛あての証文

(解説)
前書と同じ借用金の証書である。

【意訳・本文】
  請取
金子34両1部 印
  1両につき、7貫500文替 印
分では、256貫872文 印
右(*上記)の通り、 御借用金、確かに受け取り
ました、 以上。

6月28日   大久保 正助 印
森山 与兵衛 様



この頃(年表より)
6月3日 アメリカ水師提督、ペルリー、浦賀に来て
      開国通商を求める。
嘉永6年 1851年 利通・24歳

大久保利通【文書】1673  嘉永6年6月4日 
●石原 直左衛門への書簡

(解説)
金子 8両の借用を依頼したもの。

【意訳・本文】
いよいよ、ご健勝、ご自愛の程に存じ奉ります。
さて、そちら様へ一封、認(したた)めるについて、
私宅の八太(*人名)を遣わせます。
それで近頃、申し上げかねますが、
拠(よんどころ)無き(*金子)の入用の件があり、
別けても当惑致しております時宜につき、
何卒、金子・8両だけ、ご拝借したいのですが、
叶いますでしょうか。
当分、如何なることでも足らないと申す時節で、
あくまで推察されて、実に無分別の至極と思われるは
予想通りで、殊に最近、多大なるお世話になりながら、
厚かましいとも、何とも申し上げ難いのではありますが、
願わくは、ご賢察下さるよう、万々、伏して
願い奉ります。
金子・8両は調(ととの)わないと申されるならば、
5両だけでも、よろしく、なるべくは、皆目、
申し上げます通り、御都合下されば、別けても
大幸と申すことに尽きます。
そちら様に相談致して図に乗り、いきなり、
となりました。
ご難題を申し上げ、(*そちら様の)ご胸中にも
恥じ入りますが、全くそのようなことはなく、
拠(よんどころ)無くも発言しました次第であります。
何卒、御憐れみ、ご賢察下さい。
昨日も御相談、申し上げたい所存でありましたが、
そうとは、申し上げるほど厚かましくはなく、
近頃ながら、大略をもって 書中でこの段、
御相談、申し上げます。
何れにおいても、深く御礼申し上げます。
6月4日
 追記  今日、上様は興国寺へ 御参詣につき
詰めて急ぎお伺い致した事で、
乱筆、偏(ひとえ)に、お許しのほどを。
石原 直左衛門 様    大久保 正助
        要詞



この頃(年表より)
11月28日 関勇助、新納立夫が来訪、時事を談じる。
                    (新納日記より)
嘉永6年 1851年 利通・24歳

大久保利通【文書】1674  嘉永6年11月30日
●石原 直左衛門への書簡

(解説)
金子 3両の借用を重ねて依頼したもの。

【意訳・本文】
いよいよ、ご健勝、ご自愛の程に存じ奉ります。
さて、昨夜は、お出で下され、御礼申し上げます。
恥ずかしいと申すも愚の至り、如何に厚かましくとも
申し上げるだけにこれなく、
金子3両、ご借用下さること、叶いますでしょうか。
凍結、ご製薬方へ利息を上納し、これに該当しますが、
先日よりの一件の準備に(*金子を使用し、)
差し当たり、生計の見込みなく、拠りどころなく、
ご相談、申し上げます。
私が参り、お願い致すところではありますが、
余りに度重なる事で、直ぐに云える程、厚かましくもなく、
年末の(*我が)親の準備までもお世話頂いた由、
ご懇情、言葉もなく、ついてはご存知の事でありますが、
何れ、恩借なくては、(*願い)叶わないと申し上げますが、
何卒、然るべくお願い奉ります。
右(*上記)3両、その内に見込みあれば、お世話下されば、
別けても、幸せに存じ奉ります。
この旨、大略をもって書中にて、御意を得られますよう
奉ります。
なお、お伺いして深く感謝すべく、所用まで、早々、
                   以上。
          11月30日
 乱筆、お許しのほどを。
   石原 直左衛門 様   大久保 正助
           要詞



この頃(年表より)
7月30日 父・大久保利世、赦免される。
安政元年 1854年 利通・25歳

大久保利通【文書】2  安政元年 閏7月25日
●森山 与兵衛への書簡 

(要点)
借入金の返済に際し添付されたもの。

(解説)
大久保家は、元々、多少の世禄があり、生活に
窮することはなかったが、嘉永2年、父・利世が
君主側近の賊を排除しようとすることが露見して、
翌年、遠島されると、利通もまた、職を免じられて
謹慎の身となった。
時に利通、21歳、母は病に臥し、妹は皆、幼少で、
以降、家は急に衰え、一家の経営は、苦心惨憺たる
ものがあった。
窮乏のあまり、度々、親戚、知人に金策を依頼する
ようになった。
森山 (*与兵衛) は、棠園と号し、後に新蔵と改める。
以前から勤王の志が厚く気節あり、かつ、
資産家であったので、常に志士の急を救い、
こと、勤王に関しては、進んで資金を供給して、
殆ど家を顧みず、利通父子とも親交があり、
以後も国事に奔走し、文久2年(1862年)5月、
西郷隆盛が流される身となり、共に帰藩の途中、
憤慨のあまり、山川で自刃した。
又、森山(*与兵衛) は安政年間の江戸における藩同志の
義挙運動についても、少ながらず、その資金を
融通した。
当時、薩摩藩の勤王の志士の活躍は、森山(*与兵衛)の
義侠心に負うところが実に大きい。

【意訳・本文】
残暑まだ厳しいですが益々、ご健勝のこと
奉賀の至りです。
さて、年々のご返済金ですが、当月は引き延ばして
いただきたくお願い申し上げます。
ぜひ5両だけでも首尾よく都合しようとして
せいぜい工面しまして、ようやく2両だけ
納められ、何とも申しようもなく、
はなはだ恥ずかしいのですが、
何卒、右2両だけ、お受け取り頂き、残金は、
暫く、お引き延ばして頂くことが出来ましょうか。
平に、お願い申し上げます。
この旨、大略ながら書面をもってご相談
申し上げます。
なお、お目にかかり、仔細を申すべく、  
お詫び申し上げます。(では、)これにて。
     閏7月25日
 
森山与兵衛様    大久保 正助
  金子相添



安政元年 1854年 利通・25歳

大久保利通【文書】3  安政元年12月6日
●樺山 三円への書簡
 
(要点)
借入金のことについて。

(解説)
当時、大久保家の困窮の状況を知る樺山 三円は、
利通の義兄に当たり、新納嘉藤次
(にいろ かとうじ)(立夫)の実弟である。
利通、および西郷隆盛らと親交があり、
安政元年、江戸に遊び、諸藩の志士と交わり、
国事に奔走し、特に長州藩・久坂玄瑞らと  
親交があった。

【意訳・本文】
樺山 三円様     大久保 正助
なお、2両でもよろしいのですが、
それを貸すご覚悟は、おぼつかなく
存じますが、お願い申し上げます。

両日は、お目にかかれませんでしたが、
ご清安、奉賀の至りに存じます。
さて近頃、自由の件で申し上げておりますが、
当分、金子の持ち合わせがなく、二両だけでも
借用、出来ませんでしょうか。
ご懸念はあると存じますが、しばしの間、
手元不如意ですので、お願い申し上げます。
この訳の大略は、紙面で、かくの如くであります。
なお、お伺いすべく感謝、申し上げます。
12月6日



この頃(年表より)
2月月29日 樺山三圓の東上を送る。
                  (新納日記より)
安政3年 1856年 利通・27歳

大久保利通【文書】4  安政3年4月3日

●樺山 三円への書簡
 
(要点)
利通は、先に出発した樺山 三円に京都の近況を
問い、養子の一件の真否に及んでいる。

(解説)
樺山 三円は、2月29日、鹿児島を出発し
東上したが、出発の晩に送別の宴を催した。
書中の「のし不申」は「堪へ不申」の方言で、
是枝は、歌人で奇人の評判があり、幸左衛門、
是枝生胤であろうか。
*是枝生胤(これえだ いくたね)
野村忍介の自叙傳のなかで、・・適〃和歌を
教ゆる人 是枝生胤あり来り隣居す・・とある。

秘術とは、かくし芸のことで、また、
「御養子の一件」は、不明だが、斉彬公の
世嗣・虎寿君が、先に早世されたので、
京都から(近衛家であろうか)養子を迎えられる
という風説が伝わったものであろう。

【意訳・本文】
一筆啓上、致します。
愈々もって、相変わらず、既にご安泰で、
ご堅固、ご忠勤、目出度く過ごされておられる
と存じます。
一方、私目の方も家内一同、相変わらず過ごしており、
はばかりながら貴兄も、憩いのひと時を
過ごされておられると存じます。
で、この節、一般の様子は、どのような状況で
差しさわりは、ありましょうか。
引き続き天気も、よろしき折から、
恐らくその途中は滞りなく、京都に
到着されたことと存じます。
京の地の光景は如何なものでしょうか。
この節、飛脚の様子さえ何も変わりがないので、
細かな状況も相見えるようであります。
面白いことがあれば、なにとぞ、
お聞かせ下されたくお願い致します。
(私目は)その上、暇も、もて遊んでおり、
及び腰(おっくう・何事も消極的)になっております。
何事も変わらないということもなく、
大したこともないというのも中々堪え難く、
おぼろげにでも、ご理解下されば
ありがたいところです。
さて、ご出立の晩は、だんだんと賑わい、
是枝氏のかくし芸も追々に出て、
面白いばかりでありました。
深夜まで、お邪魔して、大いに祝い、堪能しました。
さて、ご出立の前より風評のありました
京都からご養子を迎えられる一件ですが、
如何なるものなのでしょうか。
深く信用致し難く思いますが、
それを耳に触れて、その実否を知りたく、
右、お知らせ下されたくお願い致します。
この節、以上でありまして、大まかに
このような次第であります。
なお、最後ながら、畏れ謹んで認(したた)め
させて頂きます。
   4月3日     大久保 正助
樺山 三円 様



この頃(年表より)
12月28日 島津忠義、領地を受け継ぐ
12月29日 利通、急に書を山川寄港中の西郷に送り、
         勤皇の義挙について意見を聞く。
       【以下の書簡に該当するもの。】

安政5年 1858年 利通・29歳

大久保利通【文書】5  安政5年12月29日
●菊池源吾 (西郷隆盛) への書簡 

(要点)
西郷隆盛が大島へ潜居を命じられ、その渡航の
途中、すなわち、鹿児島湾山川港で滞留の際、
利通は、伊地知 正治[原文ママ]に託して、
贈ったものである。

(解説)
これより先、井伊直弼が大老になると、列藩の
世論に反して将軍の後継ぎを紀州から迎え、
また、勅許を得ようとして欲しいままに
(*日米修好通商)条約を締結し、これに加え、
天下の志士を逮捕して大獄を興し、薩摩藩もまた、
斉彬公が急逝して俗論党が勢力を得て、
その形勢は、日々、穏やかならずに至った。
ここにおいて利通は、深く時事を概観し、
藩を脱して京都に出て、東西、相応じて事を
挙げようとし、まず同志のひとり・
伊地知貞聲[原文ママ・伊地知 正治のこと]に
諸藩の形勢を視察させることに決め、これについて、
あらかじめ西郷隆盛の意見を求めた。
(*東西の東は、水戸藩)
そこで西郷は、この書簡に答えて、まず天下の
形勢を詳細に明らかにして諸藩の総合を図り、
それにより、同盟の根拠を堅固にして
時機ひとたび至れば、断然、決起すべきと説いた。
その後、伊地知[原文ママ・伊地知 正治のこと]が
肥後藩の形勢が穏やかでないことを報告するに及んで、
一時、突出(一挙すること)を中止するに至った。

*時處位は、時と場合の、意。

*菊池は、西郷の変姓で、名は源吾と称した。

*堀。名は、仲左衛門、後、伊地知貞聲と改める。

*肥後長岡は、監物のこと。

*陽明家は、近衛家のことを云う。

*利通、時に29歳、西郷32歳であった。

*(焼損)は、書簡の後半部が焼けて棄損して
いることを示している。

【意訳・本文】
この節、貴兄が渡海されるについては、
同志のなかで信望を失い、普通ではありませんが、
時と場合で、(ひとは)他人の意見に左右
されるので、大事は成就し難く、殊に貴兄は、
その先端で、遠慮、云々をお聞き致しているので、
やむを得ず時節を待つことなく、その願いは、
相叶わぬこととなりました。
併せて、ご出立後は、ここに作戦を練って、
愚行(実行)致したいので、その策を
承りたく、(質問の)各条項を左記の通りに
書きましたので、ひとつひとつ、ご回答して
頂きたくお願い申します。

一 
堀(*伊地知貞聲)から肥前藩は(一挙すれば)
「他に影響を及ぼすことはない」と決定した件。
将来において、合体(統合)の人数は顧みず、
決起すべきかどうかと云うこと。

一 
筑前、因幡、長州の三藩は、当然、将来に
おいては、その対象には及ばないこと。

一 決起の時は、これを認(したた)めること。
右、連名は名々、書を残さないこと。

一 
決起の事因も、非常に腹立たしいことなので、
むつかしいところです。
その訳は、万一、堀(*伊地知 貞聲)に難儀が
降りかかると同志のなかの人心を憤慨させるので、
この時においては、決起すべきかどうかと云うこと。

一 
この節、護送の在任を極刑に処することなどは、
恐れ多くも堂上方から不思議であると懸念されるので、
人心を動揺さす第三のことになるので、ここにおいては、
合体(統合)の人数は顧みず、決起すべきかどうかと
云うこと。

一 
肥後・長岡監物、ならびに陽明家(近衛家)へ配慮を
もって、書を添えること。

一 
諸藩のご面接の有志は、相談できる人の名を全て
書き残して置くべきこと。

右の他の事は、なるべく書き置いて下されたく
お願い致します。
29日  利濟[原文ママ]
               百拝
   菊池 尊兄

追って、私に・・[原本・焼損] 
一 
島に滞在中は、ご自愛のほどを。
天朝を護(まも)り、造次顛沛(そうじてんぱい・
とっさの時)【注】のため、暴飲暴食 [焼損]
なきようの事。

【注】論語・里仁の「君子は食を終うる
間も仁に違 (たが) うこと無し。
造次にも必ず是 (ここ) に於いてし、
顛沛(てんぱい)にも必ず是に於 いてす」から。

一 
あまり他のことに、(煩わされず)お過ごしならないで
頂きたいこと。


時々、考え付かれたことがあれば・・[原本・焼損]



(巻48 詩歌集)     安政5年12月30日

月照和尚49日の忌日に当たり吉祥院において
同志と共に心ばかりの法事を営めるとき 詠める

● 手向けする 法のむしろの諸人は
    君とひとしく 身をかへりみす



この頃(年表より)
1月2日 島津藩の世子、哲丸、没す。
(同日、伊地知正治、山川港で西郷に利通の手紙
を渡す。
西郷、利通に返書を書く*)

安政6年 1859年 利通・30歳

大久保利通【文書】5 ・参考1  安政6年1月2日 
●菊池 源吾 (西郷隆盛) より大久保への書簡 

(要点)
上記の* 返書に該当するもの。

(解説)
この書簡は、西郷隆盛の書簡として
有名なもので、西郷隆盛伝・西郷南洲選集などにも
収載されている。
現在で考えられないが、
特に戦前・昭和18年以前までの西郷隆盛の人気は
絶大で、世の多くの人は、この書簡から当時の大久保の
動向を垣間見るが世の見方であり、そうであった。

【意訳・本文】
大義の一挙【1】につき策略の件は、幾たびも承知
致しておりますが、私は、土の中の骨のようなもので、
武運に恵まれず、特に大義を後回しにして
離れ小島に身を逃れ、例えれば敗れて降参した兵卒で、
たってお断り申し上げるところです。
しかし、はからずも先君公【2】の朝廷ご尊奉の志に
親しく、承知致します。
どんなことをしても、天朝のために忍び難きを忍び、
道が絶え果てるまでは尽くすべきである、と、私目は
思っております。
汚顔を顧みず、未熟な考えであることも、
ご返事申し上げる次第で、必ず、ご親察下され、
ご容赦のほどお願い申し上げます。

【1】(西郷隆盛側からの見方)
他藩の志士と総合して義挙を計画しようと
云うことは、西郷の出発する前に決定していたが、
いざ実行となると種々の疑問が起こるので、
西郷の意見を聞くべく大久保利通が同志を代表して
西郷に書面を送った。
西郷の船は、山川港に仮碇泊をして正月を迎え、
外海の風波の様子を見て出帆する予定であった。

【2】島津斉彬のこと。
西郷が斉彬公を尊崇、追慕し、その遺志を奉る
勤王の姿勢がよく、あらわれている。

一 
堀(伊地知貞聲)から(の報告で)肥前藩の決心は、
将来、到来する云々。
要するに、いよいよ(一挙の)決心をしても越前へ
ひとまず、返事を届けず事を挙げることは、決して、
してはいけなく、越前と事を合わせて、行うべきと、
考えます。
それのみならず、筑前、因幡、長門藩らも必ず
(その態度を)見合わせてから(実行する)と存じます。
ついては、事を挙げる機会が、十分に整えば、かねがね
覚悟のこと・一挙の実行を願いたく存じます。
その節、遅れをとるようでは、忠義の人ではなく、
しかし、機会を見合せて、(一挙の者に)死を遂げさせた
のでは忠臣、と心得、はなはだ、よろしくありません。
幸いかどうか、(貴君は)隠れ住んでおられるところで
しょうが、お祈り申し上げます。

一 
堀(伊地知貞聲)が、もしも幕府の手に掛かったならば、
同志の連中の憤激は云々。
要するに、同志のひとが難に遭遇しようとも無謀の大難
を引き出す事、有志のなすべきことでしょうか。
大小の分別を分けないことと考えます。
人によっては、成程、残念の至りですが、堀も何のために
奔走したのでしょうか。
その志を汲み取って頂きたく、死を決心して天朝に
尽くすのではないでしょうか。
そうすれば、その志を受け継ぐことこそ、
同盟者の同盟たる根本と考えるところです。
あまり理屈がましくなるところですが、楠木公が正行を
帰したことは、子々孫々までも朝廷のために忠義を
残した彼の大親切で、後世までも仰ぎ慕うところで
あります。
その節、正行も共に戦死して大孝行の子でありましょう。
遺訓を守って忠義を尽くすところは論じなくても
明らかです。
よくよく、お考え下さい。
千騎が一騎になるまで、わが党の忠節を尽くすところが
肝心であると存じます。
必ず前事の移さざるべきこと(報復しないこと)と
存じます。

一 
三藩へ暴命の云々。【3】
要するに、三藩に(幕府が)暴命を発したならば、
必ず敗れると申し上げます。
もう、この上は死を賜わるほかに暴挙はなく、
その節は、彼方から応援を致します。
事が速やかに進めば、(応援することも)
間に合うでしょう。
しかしながら、同盟の件は、三藩と死生を共に
致したいと存じます。
何故なら、先君(島津斉彬)公は三藩と共に
天下の大事を相談され、朝廷のために尽くされたので、
これと同じく、(私は)決心したいと存じます。
三藩が動いて起ったならば、共に動き、起つべきと
存じます。
【3】このうえ、さらに幕府が暴命を出すような事が
あれば、どうすべかと云うこと。
西郷の決断は、即ち、幕府は、以前に水戸老侯・
徳川斉昭(なりあき)に永蟄居(ちっきょ)を、
越前藩主・松平慶永(よしなが)と
尾張藩主・徳川慶恕(よしくみ)に隠居を命じている
ので、この上の幕府の暴命は、許せない、の意。

一 
堂上方に恐れ多くも難儀をかけること云々。
要するに、堂上方(*公家)へ手をかければ、当然、
勤王の諸藩は、見ぬふりをしないので、
必ず軽率に動き立ち回らず、諸藩と合体して、
ぜひとも、その難を救うということは肝要と存じます。
憤激のあまりに、ことを急いでは、
ますます難を重ねることになるので、よくよくお考え
下されるようお願い申し上げます。

一 
陽明(*近衛忠熙・ただひろ)殿に添書の件。
一同も評議されたことでしょうが、もし吟味されて
いなければ、異議がある者が出てくれば、かえって
良くないので、伊地知の考えについて、充分お話しして
頂き、ご相談下さるようお願い申し上げます。
捨文【4】の件は、同じくお断り申しますので、
そのようにご納得下さい。
【4】おそらく脱藩の際に藩庁へ差し出す投書である
と推察される。

一 
諸藩の有志に該当する人物、云々。
(*多くは、維新偉業のために散った人々である。)
        水戸
          武田 修理
          安島 彌次郎
        越前
          橋本 佐内
          中根 靱負
        肥後
          長岡 監物
        長州
          増田 弾正
        土浦
          大久保 要
        尾張
          田宮 彌太郎

右の他、ご意見があれば、ありがたく、感服の至りです。
必ず、一途にお考え下さるようお願い申し上げます。
       正月2日 夜認    源吾 拝
        正助 様




安政6年 1859年 利通・30歳

大久保利通【文書】6 安政6年1月4日 
●樺山 三円への書簡  

(要点)
島津忠義の公の世子・哲丸君の夭折(ようせつ・若死に)
を報じ、また義挙のことを江戸にいる樺山へ知らせたもの。

(解説)
先君・始末斉彬公には、かつて、男子が出生されたが、
皆、夭されて(ようされて・若死に、されて)、
当時、志士らは反対党の所為となし、大いにこれに
憤慨した。
哲丸君は実に公の六男で、公が亡くなられてから
忠義公の嗣子となり、志士らが望んでいた方であったが、
遂にまた夭折されたので利通らの悲嘆もまた一層深い
ものであった。
かつ、前年12月、堀仲左衛門は鹿児島を出発して
途中、肥後・筑前・因幡・長門の四藩を訪ね、
同志の突出・決挙に応じて奮起することを勧誘して
から、その後、東上することに及び、
四藩がこれに応じるか否かの一報を待ち、
直ちに同志の進退を決めようと、
この手紙は報じている。

【意訳・本文】
なお、奈良原氏、有村氏へ、ご伝達下さるよう願います。
若君様のこと、舊臘(きゅうろう・昨年12月)
26日頃から不例(ふれい・病気)になられ、
次第に重病になられ、一昨、2日(1月2日)、
ご養生なされるも叶わず、ご逝去され、なんとも、
言語に絶する次第であります。
このこと互いにご愁傷様であります。
恐れながら、(*我々は)哲丸君おひとり様こそ
頼りにしておりましたところ、またまた、
このような次第で時節到来かと申すべくも、
ご家運はすでに、ここに窮したと存じ奉ります。
最早、わが党は他に頼むこともなくなりました。
実は昨年来、不幸が続き、また、この君さえ失い、
最早、暗夜になりました。
実は昨年来、年内終わりから、お体、全体が
ご不快なご様子で弱られて、一同、懸念致して
おりました次第であります。
(12月)25,26日から乳をお吐きなられ、熱もあり、
食欲もなくなられ、やがて気力も脱せられ、自然に
お隠れ(亡くなられ)になられた由、ご病状は、
皆、驚く風であったとのことであります。
一 堀子(*堀 仲左衛門こと伊地知 正治)は、
去る12月19日、肥後・筑前・因幡・長門へ
出立致され、各地に立ち寄られるので、
その地の筋について、いきなりその辺りにいることを
ご承知ください。
堀から一報があり次第、一同、評定に苦慮しているので、
これ(*決挙)について決心しますので、そのように
ご承知下さい。
その時は宜しく決挙するよう申し上げますので
いよいよ、この一報を一日三秋の思いであります。
(*一日千秋の思いで待っております、の意)

右四ケ所の内としていますが、
そうなることを満々として相、願っております。
何分、堀の訪ねる地は、少々、手間取るのでないかと
考えております。
 右、今日、急に決めましたので、
詰所にいながら、(*この文を)認(したた)め、
委細 お悔みまで申し上げます。
委細は、何分、確認し難いので、有村雄助が出立の
はずなので、じきに近々にはと、ご承知下さいますよう
願います。
   恐れ多くも謹んで言上申し上げます。
正月4日
             樺山 三円 様




安政6年 1859年 利通・30歳

大久保利通【文書】2・参考1 安政6年3月29日
                (大久保家蔵)
●有村雄助らより大久保への書簡  

【意訳・本文】
一筆啓上。
以て、ご壮栄、大賀の至りに存じます。
従って私も至極、元気で過ごしておりますので、
お構い下さらぬよう願います。
当地(京都)の形勢は、追々、申す通りで、
この節は全く連絡しないこと、相違なく、
許されないと勿論、存じます。
因みに、長州へ直ちに行きたいと思う件は、
当分、取り引きの傍らで拝借金が、とても難儀
しており、一同、本当に困窮致しております。
他に才覚も思案も出来かね、最早、一日でも
早目に致し、時節に、銘々、突出(一挙)
の用意がなく、ことに、僅かな人数なので
思い通りにも出来ず、近頃、ご相談申し上げており、
60両だけでも森山さんに貴君から相談して頂いて、
ご都合して頂けないでしょうか。
右、このような訳で、別に工夫も出来かねず、
ご相談申し上げたく、何分にもお取り計り
下さりたく、お願い申し上げます。
右、用事まで、この様な次第であります。以上。
        3月29日
有村 雄助
樺山 三円
堀 仲左衞門
    大久保正助様


*利通は、前述のように樺山三圓、堀 仲左衞門らと
気脈を通じて、諸国の様子を窺っていたが、
彼ら自身の懐事情も困窮を極めており、
利通を通じて金銭的援助を求めてきたもの。
前述のように森山は資産家であり、
利通父子とも親交があり、こと、勤王に関しては、
進んで資金を供給していた。 

*「大久保利通文書」では、この書簡は、
【文書2】の 森山 与兵衛への書簡・
安政元年閏7月25日 の次に掲載されているが、
時系列で掲載しているため、ここに掲載しました。



次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む6
大久保利通文書 巻1 に続きます。

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