歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む6 

●大久保利通文書 嘉永4年から安政6年

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

【目次】(ほぼ時系列で掲載)
(文書)2・参考2 安政6年6月2日・30歳
           樺山 三円より大久保への書簡
(文書)7・参考1 安政6年8月23・30歳
有村 雄助らより大久保への書翰
(文書)7・    安政6年 9月4日・30歳
堀 仲左衛門、有村 雄助への書簡
(文書)8・     安政6年 9月・30歳
藩主への上申書
(文書)8・参考1  安政6年9月・30歳
薩摩藩同志者姓名録
(文書)8・参考2  安政6年・30歳
(文書)9・     安政6年 11月
            藩主への上申書
(文書)9・参考1  安政6年11月6日・30歳
            久光公より大久保への書簡
(文書)10・    安政6年11月19日        
             藩主への上書

――――――――――――――――――――――

安政6年 1859年 利通・30歳

大久保利通【文書】2・参考2  安政6年6月2日
●樺山 三円より大久保への書簡

【意訳・本文】
いろいろ思いがけなくご両親様へ然るべく仰ぎたく、
よろしくお願い申し上げます。
ご細書(さいしょ・細かく書かれた書)、
恥ずかしながら拝読し、ますますご尽力の段、
深くお察し申し上げます。
さて、二人の使いの件、最早、ご安心の程、
お願い申し上げます。
その節は、当地の形成が変化し、東浜は
ますます差し迫り、とかく、事実相違は、あるまじく、
実は堀からの申し越しにつき、出来ない(決挙しない)
様子なので、ご察し下さるようお願い申します。
何分、後の便りをお待ち下さりたく、ご趣旨は本当に
その通りでありますが、無益と思うこともこれあり、
余事は、申せぬように致します。
さて、金子の件、お取り計らい頂き、ご多用のみぎり、
甚だ恐れ入ります。
この事、心配致しておりましたので幸せの至りで
お礼方々、おのずから堀から申し受けております故、
別段、申し上げませんが、然るべくご察し下さるよう
願います。
右、かくの如く、申し上げます。
恐れいります。
              樺山 拝
       6月2日
大久保 君

 二白(追伸)各自へ別段に書状を差上げませんので、
お取り計らいのみぎり、然るべく、お伝え下さりたく
はばかりながら、お頼み申し上げます。

*書簡の内容から見て、無事に金銭的援助が
得られたことが分かる。



この頃(年表より)
7月7日 利通、長男・利和、生まれる。
       幼名・彦熊、又は、彦之進。

安政6年 1859年 利通・30歳

大久保利通【文書】7・参考1 安政6年8月23日
●有村 雄助らより大久保への書翰

*参考
○有村 仁左衛門兼善について
△長男・有村俊斎(海江田 信義)
 生麦事件でチャールズ・リチャードソンに
止めを刺す。
 戊申戦争での東海道先鋒総督参謀で
江戸城明け渡しでは、
新政府軍代表として西郷を補佐。
西南戦争時、病床にあり、西郷の死を悼み、
その死を悼んだ。翌年の大久保利通の
遭難にもその死を悼んだ。
△二男・有村 雄助
 桜田門外の変に呼応して水戸藩士らと
京都に向かうも薩摩藩に伊勢四日市で
捕縛され、薩摩に護送され、自刃。
介錯は刎頚(ふんけい)の友・奈良原 喜八郎。
△四男・有村 次左衛門
 桜田門外の変で井伊大老を殺害。後、
重傷を負い自害。

(*解説)
この頃、同志は江戸にいて水戸藩士と結び、まず違勅の
閣老を除こうと計画し、決起して突出を決行し、
天朝を守護する議を定め、東西、相、通じようとしていた。
この頃、江戸にいる同士は、堀・有村の両氏を始め、
有村治左衛門・高崎 猪太郎・田中 直之進・山口 三斎・
益山 東硯などであった。

【意訳・本文】
なお岩元(*詳細不明だが、岩元家の出身地は鹿児島県と
される)、ほか六氏、明日、出立との知らせを受けました
ので報告申し上げます。
少々、差し障ることがありますので、
岩元氏には、この件、何も打ち明けておりませんので、
左様、お含みおき下さるべく、お願いします。
樺山 三円殿、無駄な取り締まり役を拝命されました
そうです。以上。

益山氏へ引き続きの7月18日の御手紙、
今朝、拝読致しました。
同じ志で、まずは御無事のことで、慶賀の至りです。
水戸藩の義挙が遅滞し、安心ではないとの件は、
至極、ごもっともであり、また、その議論は
変わることなく、実のところ、要路を和らげることは、
苟且(こうしょ・かりそめなこと)で、
(*我々)上下一同は、決挙を決めることは難しく、
高橋(多一郎)【4】、其の他、有志の者は死力を尽くし、
策略変更策を老いも若きも共に密かに相、通じて、
その手段を手掛かりにしようと決しました。
【4】高橋 多一郎は、水戸藩士。
この前年の安政5年(1858年)8月、戊午の密勅
(ぼごのみっちょく)が下され、
高橋は密勅の写しを江戸から水戸に届けた。
翌年、水戸藩に対し密勅の返還が命じられると
蟄居の身となり、この頃から有村 雄介らと
井伊大老暗殺を計画を組織したが、
これを危険視した幕府は組織解散を命じ、
これを察して脱藩していた。

水戸藩内でも高橋(*多一郎)は、国を捨て天下のことを
思う国賊に該当するので暗殺したい、と申すものもあり、
苦心することではありますので、
先日は、特別に高橋に小金を渡しました。
斎藤監物(*常陸国静神社の祠官で勤王家)
[二百人ほど引き連れ小金を渡してくれた]の所へ
行き議論しましたところ、我ら幕臣は、以降、
どのようなことがあっても、この地を退散致さず、
高橋らの策略変更策の指示を待つので、万が一にも
一挙を疑わず、この件はご安心するようにと申し
致しておりました。

さる16日より出会う約束通り、やって来て、
有村・高崎・山口・小生の4人は、墨水大七楼で
高橋・金子・野村・弓削・大湖・関・西墨谷に
取りあえず会って密議致しました。
一国、決挙の事はたやすくも、その勢いを制することは、
有志のなかでも初めてのことなので、これを置き留める
ことは苦心であり、大挙の当日から5,6日ぐらいは
大事なので、右(*上述)のように、この手順を
もっとも入念にし、先だっての天下の人々へ大義の
一挙の趣意を密かに相通じて、公卿方へ申し上げる書付も
精書して、その機が熟しています。
高野山へも又、10人位、引き続き人を出したので、
5人ずつ組み、45人ほど当地の所々へ潜入させました。
これも一策のありのことで、
仙台も遠からず大勢を引き連れ都に出るとのことで、
高橋からの話では、これらを嘆願、相談したことなどは、
大七楼で出会った折に高橋から小生を別座に呼ばれ、
極々内密にその秘議を聞かされました。
策略もすでに、まさに、このような情勢です。
そう云うことで、義挙、一発触発は、まず間違いないと
思いますので、お説の策ももっともだと思いますが、
しばらくの間、止め置き、隠れ住んでいただきたく、
少々、言い過ぎかも知れませんが、四十七士の一挙
(*赤穂事件のこと)もわずかに二千石位の
麾下(きか・家来)で2年の月日を要したわけです。

この節の件は、開闢(かいびゃく・世の始まり)以来の
大難で、軽重・大小差別の敵の頭を落とすまでは、
済まされず、いわんや、夷狄(いてき・野蛮な敵)が
目下に充満し、決着の措置が第一のことなので、
やや遅れ気味ですが、もとより、ご推察の通り、
機を失なう憂いは、至極、ご同論のこと。
そのようにならない内に、漏えいする憂いは、誠に、
もっともなことであります。
右(*上述) らの者は、いつも出会う度に、
一挙の正、不正の違いはあると云えども、
大塩平八郎の乱が、その前に漏洩したのを参考に
遠からず、熟慮していただき、一日も早く、一挙を行う
都合を発したく、申し入れております。
もっともこの勢いに迫り、十分な策は、
とても調べられないので、人事を尽くし、
運を天にまかせて申すことであります。
万一、議論が変わり、機会を失えば、お説の通り、
安全であることは、志士の恥じなので必死に、
越土長因(*越前・土佐・長州・因幡)の四ヶ国へ
連絡を取り、すぐに田直氏(*田中直之進・薩摩藩士)
を差し上げ、私は、一挙の次第を内々にお知らせ
しますので、ご叡慮の程、お取り計らい、お迎える下され、
少し、この策は差し置かれ下されたく願います。

何分にも期日が定まれば、手抜かりなく田中氏を早々に
差し上げます。
大義、云々の件は、委細、承知致しております。
有村俊君(有村俊斎・海江田 信義)から手紙があり、
ご返事申し上げたく、その前にまずは、大久保様の
お答えがいただきたく、慌ただしいことでありますが、
この如く謹んで申し上げます。
   8月23日認
  岩下 佐次右衛門様
  大久保 正助様(*大久保 利通)
          有馬 新七様
          いちゝ 龍右衛門様
          吉井 仁左衛門様
          税所 喜三左衛門様(*税所 篤)
          有村 俊斎様



安政6年 1859年 利通・30歳

大久保利通【文書】7   安政6年9月4日
●堀 仲左衞門 有村雄助 への書簡 

(要点)
江戸にいる両氏から来た書簡に答えたものである。

(解説)
この書によれば、利通らは当時、内外の時事が
日々、非日常であることを憂いて、藩庁の因楯
(いんじゅう・*古い習慣ややり方にとらわれて、
今を改めようとせず、その場しのぎに終始する様子)
であるのを見るにつけ、密かに藩を脱して、
事を挙げようと画策するところがあった。
同志は江戸にいて水戸藩士と結び、まず違勅の閣老を
除こうと計画し、決起して突出を決行し、
天朝を守護する議を定め、東西、相、通じようと
していた。
この頃、江戸にいる同士は、堀・有村の両氏を始め
有村治左衛門・高崎猪太郎・田中直之進・山口三斎・
益山東硯などであった。
しかし井伊大老は、翌年3月3日、江戸桜田門において、
有村治左衛門および水戸藩に襲殺された。
間部は、下総守・詮勝であり、幕府の老中であった。

【意訳・本文】
先月(8月)6日、ご仕出の書簡、一昨日、2日に届き、
拝見しましたところ、まず負傷なく大慶の至りです。
当方は、仲間内で中々、元気なので、安心して下さい。
この節の情勢、奇妙に目を覚まし、水戸は人事を尽くして
天運に任せるとのこと、誠にもって奇妙なことで、
もっとも、あちらこちらに手を廻した次第は、
感服の至り、この事であります。
期日が定まり、ご沙汰が相、達っすれば、
仲間は、直ちに決挙し、順聖公の御趣意を奉り、
天朝を継ぐことをお守りする所存です。
皆々、一日を待ちかねており、いつか
井伊、間部の首が落ちるのを、よろしく願っております。
もはや、一々のご返答には及ばず、この後もまた策略が
立てられることを願う次第です。
  9月4日  
         大久保 正助
         有村 俊斎
堀 仲左衞門様
有村雄助様



安政6年 1859年 利通・30歳

大久保利通【文書】8   安政6年9月
●藩主への上申書

(要点)本書は、利通が同志40余人と脱藩の義挙を
決行しようとした際、藩主に上るために起草したもので
ある。

(解説)
薩摩においては、先に斉彬公が亡くなられると、
城代家老・島津久實、家老・新納久抑らが、
自ら政権を握り、斉彬公が施設(考案した)政策を
覆(くつがえ)し、只管(ひたすら・一途に)
幕府の意を迎えることに汲々とした有様で、
利通らは、これを嘆き、先君・斉彬公の遺志を
継承し朝廷のために大いに為すところが
あるであろうと機会を待っていたが、
たまたま、井伊大老が勤王の諸侯を罰し、
志士の斬罪の報せに接するにおよび、遂に
同志40数人と結盟し、断然、藩を脱して京都に出て、
義兵を挙げようとするに至った。
書中に、「別紙之通奉告政府侯」云々とあるのは、
別に藩庁にも提出しようとして起草したもので、
その書は、以下にある。
この書によれば、当時、利通らの精神は、一途に
先君(斉彬公)の遺志を継承し朝廷のために身命を
賭して大事を決行しようとするものである。
本書は、所々、欠文があり、かつ、本文だけが伝わって
いるので、何時ごろ起草されたものか明確ではないが、
9月、同志のひとりである吉井友實
(当時、仁左衛門と称する)とあるのを見れば、
9月頃、起草したものと思われる。

【意訳・本文】
私共、今般、重い禁制を破り朝廷の危急を救うため、
一同、国命を待たずして、今晩、京都へ出立致します。
実に不敬の罪、恐れ多くも堪えがたく、国家、
倒行逆施(とうこうぎゃくし・*時代に逆らい筋道の
通らない行動)の挙動、ごくわずかの間もなく、
別紙の通り、政府に通告、奉ります。
さりとて(しかしながら)
委細曲折(成り行きの詳細など)を記すると
段々、不快に思われますので、概略の主意を記すまで
であります。
そもそも、これに及ぶこの挙の件、一朝一夕(*短い期間)
の根拠に機密の漏洩が許されなかった事から
醸し出されている次第で、ひとえに、国家の大事に
関わることであります。
危急存亡の時節でありますので、
この主意、始めから終わりまで微細に述べたく左記の通り、
言上、申し上げます。
いやしくも私共、国家重大の機事を申し上げるのは
重ねて違法の罪で恐れ入りますが、
累代に及び浴してきた(国家への)高恩であります。
臣子の義理人情は、黙して止まらず、他念はないので、
如何ように重刑に処せられても一同、甘んじて、
これを受けるところであります。
伏して、私共は一同、国家が(*焼損・滅亡?)するのを
請うものではありません。
(私共は)ただ一筋、順照院(*島津斉彬公の法名)様が
取られた政策、そのご遺志を引き続けることが、
その第一の趣意であります。
近年、外敵の進行が終わり、
彼らの心のなかは・・(*焼損・意味不明)で、
世の始まり以来、未曾有の瑕瑾(かきん・きず)を
受けることになり、ひとえに、その(対策の)叡慮に
悩まされることになったが、幕府の役職どもは、
その脅威がますます大きくなり、・・(*焼損・意味不明)
その処置を成り行きのままに取り計らい、
ここに勤王に至り、
水戸藩の老公(*徳川斉昭)は勿論のこと、
順照院様を始め、越前侯(*松平慶永)、
尾張侯(*徳川 慶勝)、その他の結合が相、成り、
外敵を除くその趣意が相、成り、ついては、
いずれ外を防ぐには、内を統治するしかなく、
内を統治するには国策を定め、
人に思いやりがあると聞く方(*阿部 正弘)が
西の丸に立たれ改革を成し、風俗一新、
十分に内を堅く防禦して外敵に対処して、
これを屈服させるための布石として
とかく当時、才徳、人望の名(*焼損・*堀田正睦)
ある方、その任務に当たられる。
(*一方)、一橋公が、西の丸にお立ちになられたく、
その意図として既に、昨年春、堀田備中守が上京の折、
一橋公の西上の件が(*焼損・決まり、か)
決まっていた。
にもかかわらず、賢明な方(*井伊大老、
城代家老・島津久實、家老・新納久抑)は、
賊徒らがわがままを振るい、政権を牛耳らないようにと、
幼君(*慶福(よしと み・後の家茂))を押し立て、
悪だくみをし、かつ、
外敵の仮条約(*日米修好通商条約)のご処置の
(*焼損・裁断、か?)裁断をなされるに及び、
いかに悩み深く考えられておられるかは、
人心と同じく国家の重大事で、三家以下、
諸大名が召されるたび、云々(*焼損・意味不明)
水戸中納言殿(*徳川斉昭)を始め、
松平大膳大夫(*長州藩主・毛利敬親)、
松平相模守(*伯州・丹後宮津藩主・松平宗秀)
松平土佐守(*土佐藩主・山内豊範)ら諸侯は、
文書により通告され、上奏文(天皇に意見を述べる文)に
掲載され、(*焼損・意味不明)
井伊掃部頭(*井伊 直弼)、間部下總守(*間部詮勝)、
水野土佐守(*水野 忠央)らに追討された。

江戸表の同志のうち、堀仲左衛門へ水戸から
引き合いがあり、当時、(焼損・この節、か)
この節の折りから、この挙については、
(焼損・結合、か)結合が大事という訳で、
彼方(かなた)比叡山との結合が、相、成り、
その他、四方に、この結合に応じて、
(*その事が)伝わりましたが、急変で、
我らの人数を京都・近衛家からも、そのご委任の
要請がありません。
今日の暁(あかつき)、同志が急を告げてきたので、
その状況を述べるに従い、国命は当然の義なので
ありますが、恐れながら、
順照院様(*島津斉彬公の法名)のご存命中、
その訳を深く考慮されておられるので、
水戸藩、その他の侯伯の有志へ結合されて置かれ、
(焼損・不明)お亡くなりになられて後、
上記の結合で江戸表の同志へ(焼損・その通達、か)
その通達が遂に及んだわけが、この挙の理由であります。
なので、ここにおいては、一日も早く、
(焼損・結合すること、か)結合することの件は、
一番、重要なことで、かねてより賊徒の余党を京都に
備え置いているわけで、一日後は、どのように
なっているかも分からず、お家の瑕瑾(かきん・きず)
がどのようになるか、なので、いささか、
順照院様の御遺志を少しでも継承するため、
その万分の一でも補いたく、前後の思慮を
考える暇もなく、突出(*決挙する)次第であります。
一同の純粋な気持ちは汚されず、その名分は、
大体、大義名分・天皇を守護するものを建て置くこと、
を明らかにするものです。
国家たる御所は、(*それを)担当する役目・仕事であり、
後世の模範となるように、決められる所であると、
一同、懇願する次第であります。



安政6年 1859年 利通・30歳

大久保利通【文書】8・参考1  安政6年9月
●吉井仁左衛門より父への書翰 (吉井家蔵)

* 本書により、前述の藩主への上申書が、
安政6年9月に起草されたことが推測できる。
(前回の解説を参照。)
本書は、家族への別れを切実に綴っている。
通称、仁左衛門は、吉井友実(ともざね)のこと。
この時、仁左衛門、32歳。
この2年後の文久元年には藩の大目付役となり、
その後、精忠組の中心人物として藩政を
導いていくことになる。

【意訳・本文】
私事、今度、士臣の分(*侍の身分)を尽くすこと叶わず、
お暇も申し上げずに、京都へ行くことになりました。
生きて再び帰れないので、盃を共に頂だける趣意を
申し上げるつもりでございましたが、
同盟の40余人と堅く申し合わせしていますので、
不本意、千万でありますと共に、お知らせできないので、
お知らせすれば、かえって、お喜び、お勤め下されないと
存じます。
何分にも、前文に申し上げました事情の次第のため
であります。
もっとも、その趣意の件は、ご家老へ向けて一書を
差し出しましたので、追々、お聞き及ぶことになると
存じます。
ただ、ここに至り、堪え難きは、(*父上の)老身の
行く末が気がかりであると共に、以前より大義のために
父母妻子をも顧みず、命を捨てることであります。
義士である者の職分で、元より満足しておりますので、
何卒、よろしくご賢察いただき、わざわざ、
お気になさらずにいられたく、お祈り申し上げます。
妻子については、別段、申し上げることも
ありませんので、平次郎様、藤左衛門様にご相談されて、
何分、よろしくお願い申し上げます。
母上様のご遺言の件もありますが、母の一生は、
なるだけ、不自由がなければ、
(*私・仁左衛門の仕事も)叶わないと、かねがね、
承っておりますので、少しは、安心しております。
私は、天皇のため、かつ、国家のために順聖公
(島津斉彬公)のご遺志に従い、随分、働いて
来ましたので、戦死すべく誠をもって、
武士の冥加(みょうが・冥土)はなく、この上、
いろいろ申し上げたのですが、
急を要することなので申し上げたく、この如くで
あります。
            畏れ多くも謹んで。
     9月    吉井 仁左衛門
父上様


安政6年 1859年 利通・30歳

大久保利通【文書】8・参考2  安政6年(9月)
●薩藩同志者姓名録   (有村家蔵)

*大久保利通文書では頁の脚注に9月と記載されている。

大島 渡海
菊池 源吾(西郷 隆盛)

在 藩
堀 仲左衛門(伊地知 貞聲)   
岩下 佐次右衛門(後 子爵 方平)

大久保 正助(利通)
有村 俊斎(後 子爵 海江田 信義)

有馬 新七
吉井 仁左衛門(後 子爵 友實)

奈良原 喜左衛門
伊地知 龍右衛門(後 伯爵 正治)

鈴木 勇右衛門
税所 喜三左衛門(後 子爵 篤)

樺山 三圓
中原 猶助

山口 金之進
本田 彌右衛門(後 男爵 親雄)

高橋 新八
森山 棠園

森山 新五左衛門
江夏 仲左衛門

奈良原 喜八郎(後 男爵 繁)
永山 萬斎

野津 七左衛門(後 陸軍中将 鎮雄)
道島 五郎兵衛

大山彦助
坂本 喜右衛門

大山 角右衛門(後 綱良)
野本 林八

山之内 一郎
有村 如水(後 國彦)

野津 七次(後 侯爵 道貫)
高橋 清右衛門

中原 喜十郎
鈴木 源右衛門

鈴木 昌之助
西郷 龍庵(後 侯爵 従道)

在江戸
有村 雄助
有村 次左衛門

山口 三斎
田中 直之進(後 謙助)

高崎 猪太郎(後 男爵 五六)
益山 東硯

旅行
仁禮 源之丞(後 子爵 景範)
平山 龍雪

鵜木 孫兵衛
赤塚 源六(眞成)

在伊集院
坂本 六郎
坂木 藤十郎

京都詰
徳田 嘉兵衛



この頃(年表より)
9月12日 先々君・島津斉興、没す。

安政6年 1859年 利通・30歳

大久保利通【文書】9   安政6年11月
●藩主への上申書

(要点)
本書は藩主から利通ら同志に親諭書を賜ったの対し、
請書に添えたもので、海陸の軍備を整え、
水戸・尾張・越前、その他の諸藩と総合して、
勤王の大志を貫徹すること、及び、西郷隆盛
召還のことなどを建言したもので、利通の起草に
関わるものである。

(解説)
利通らが脱藩、義挙を企てると、
当時、藩侯に近侍の谷村 昌武
(この時、愛之助と称する)は、大いにこれを憂い、
密かに利通らの計画を島津忠義に告げ、
未然にこの挙を中止させようと、公、すなわち、
島津久光公と相談し、親諭直書を利通らに賜い、
その書において云う。(*以下のようにある。)

【原文意訳】
方今世上一統同様、容易ならざる時節にて、
万一事変当来の節は順聖院様 御深志を貫き、
以って国家に忠勤を抽(ぬき)んずべき心得に候。
各有志の面々深く相心得、国家の柱石に相立ち、
我らの不肖を輔(たす)け、国名を汚さず誠忠を
尽くし呉れ候様、偏(ひとえ)に頼み存じ候。
よって、(*この)件の如くであります。
  安政6年巳未11月5日  茂久 花押

精忠士 面々へ
そもそも君臣の情誼(じょうぎ)は、深く厚く、
現在では想像も及ばなくて、当時において、
このような懇篤な親書を賜わった以上は、
利通らは、如何にその恩遇に感激させられたことで
あろうか。
ここにおいて遂に、利通らは脱藩の挙を止め、
連盟の血判をもって請書を提出したものである。
しかし、これに起因して利通らは、漸次、
久光、忠義の両公に認識され、遂に藩の重職に
任じられ、機務に参与し、以来、両公を補佐して
国事に鞅掌(おうしょう・忙しく立ち働き暇がない)
し、遂に維新の大業を成就するに至ったのである。
血判の請書は失って、現在、伝わっていないが、
本書によれば、建言の第一、すなわち、
島津左衛門(久徴・日置領主)【1】登用のことは
直ちに採用され、即日、家老に再任された。
文中の中島圖書は、忠義公の弟・久治である。

【1】島津 久徴(しまづ ひさなる)
日置島津家(大身分)。日置島津家12代当主。
島津斉彬・忠義の世に主席家老として藩政に関わる。
お由羅騒動で自刃の赤山靭負、西南戦争で戦死の
桂久武は、弟である。
             【原文意訳、以上。】

【意訳・本文】
ご内諭の趣旨をもって、御書、
別紙の通り、請書、血判を差し上げ、
上書に添えて連盟し嘆願申し上げます。
同8日(*11月8日)から谷村愛之助が
入られご覧になり、島津左衛門殿が出られ
(*再任され登城され)た。
とりわけ、有り難く恐れ多い事であります。
謹んで言上、奉ります。

もって、御書、容易ならず、内諭の趣旨を
謹んで承りました上で、卑しい私共は、
国家の機密に関わり、事件を推し進めて建言
しましたこと、かつ、又、何とも至極、恐れ多く
国家の大難、お家の大事、かつ、夕べの危急と
相、迫る折から、ただ傍観しているだけでは、
長年の恩恵に浴しているだけであります。
臣下の情誼(じょうぎ)は、相、済まされず、
万死の重罪を願う次第であります。
趣意は、左記のように申し上げましたので
思し召しが叶わないのであれば、
たとえ、極刑にされても、元より、かまわない
ところであります。
世の動揺を十分に知られ、順照院様のご遺志を
深く戴き、国家を護るべきご精忠の云々の
この次第は、もって容易ではありません。
この件は、皇室の再興の機微(*微妙な動き)が、
幾重にも有り難く恐れ入り、飛び上がるに
堪えがたい(*決挙したい)ところであります。
ついては恐れながら(焼損)時を待てば、
その対策は決められなくなり、急ぎ備えて、
一つの方針を決めなければ、相、済まなく、
なるものと存じます。
既に関東表、水戸藩を始め、仙台、因州(鳥取)、
土州(土佐)その他、勤王諸藩の四方が共同で、
賊徒の進軍を討つ決挙がいよいよ、迫っております。

以上、普(あまね)く、四方の藩へ布告し、
10月中を期限とする件で、京都へ密使を出発させる時期
に及んでは、禍いの乱れは、明白なことで、遠からず、
事変を告げる件に及んで、考案中であります。
朝廷の危急は勿論のこと、お家の大難は、
述べるまでもないところであります。
なので、かねてよりのお手当をなされたく
お願い申し上げます。
軍備、お手当(*人の配備)の件は、かねてより
定め準備され、不慮があれば、これを行うもので
ありますが、この節のことは、別して、
国家の大事であり、急を要することなので、
このご処置をなされなければ、済まされなく、
もっとも機械(*兵器)の用意などは、
取るに足らぬことであります。
ここにおいて急務のこと第一は、人心が如何に
従うかと云うことで、頼れる人望のある方が、
その執政を行うために、島津左衛門殿が、
全く、その任に適任の人でありますので、
早々、再職のお出ましを仰ぎ、お手当を厳重に
準備置きされたく、お願い申し上げます。

右(*上述)のように危急の時節に、あらかじめ準備を
しないことは、長年の僅かな欠点となるべきかと
早速、ご英断下されますようお願い申し上げます。
人数を差し出すことについては、主将の任は、
重責なので、要請されれば御意に従います。
島津左衛門殿でなければ、相、済まずと
申しましたのは、恐れながら、当時は、重任に
立っておられたお方であります。
(焼損で意味、やや不明)選ばれずとも、
島津図書殿は、ご器量、人望は、相当に値します
ので、名代を命じられたく、もっとも、決挙の
報告は、当日、できずに相、成りましたが、
(*主将の任の)決定は、最も大事なことであります。
また、謹んで、右のような趣旨で、言上、申しますので、
急いで、ご英断されることをお願い申し上げます。

恐れながら、順照院様のご在世中、菊池源吾(*西郷隆盛)
の件(焼損)、ご腹心であられ、
水戸、越前、尾張、その他の結合のとき、
共に委任されて、京都は勿論、関東の諸所を奔走し、
第一に周旋し、一橋公の西上の一件では、尽力し、
折柄の事情を言上せずには、この理由を説明すること
叶いませんでした。
(*西郷隆盛が)昨年七月、罷り出て、満足され、
事の始終を聞いた頃、幕府の威力は盛んで、
一橋公の西上の件、何分にも成就致し難いと
承知され、ご沙汰の趣きには万一にも悪だくみに陥り、
紀州へ西上の件が決すれば、
天下の禍の乱にもなることは明白で、(焼損)
皇居に出られ、お護りできれば、九州はことごとく
我らに属するのは、必定であります。
(よって、)ご発駕(*はつが・天皇が駕籠[かご]で
出発されること)の件も、9月朔日
(*安政5年9月1日のこと)に、
日にちを限られましたが、この模様は、ご出府なされぬ
思し召しで、早々、(*西郷隆盛が)いきなり
出府致すべきと申し上げたことも、その意あるところで、
以て、これは実に英断であり、
ありがたく感服に堪えないところであります。

右のように勤王の忠誠は、確固たるものなので、
自然、じっくりと、それを感じ取られ、
鎌田出雲【2】殿が、昨年8月、伏見に滞在の節、
近衛(*忠煕・ただひろ)殿より、ひとえに国を
依頼するよう思し召されました。

【2】鎌田出雲正純(かまた まさずみ)
斉彬公の若年寄。
異国船関係事務から海岸防禦の主任となり、
安政2年に江戸に行き、4年後、斉彬公が朝廷と
幕府の周旋の策が成ると同時に、苦労して、
8月19日に、京都・伏見に着いていた。

(*忠煕公は、)叡慮の趣を承知され、(*鎌田に)請書まで
差し上げられました。
時、ちょうどよく、殊に薩摩守(*斉彬公)が
亡くなられた後のことで、(*天皇から)
差し支えないとのご沙汰まであらせられて、
近衛(*忠煕・ただひろ)殿から月照和尚へ直接、
ご承知の段、(*忠煕公は天皇の)股肱(ここう・腹心)
で(焼損)誠にもって感激に堪えない思し召しで
あります。
この件は、そのような訳で、ぜひ諸藩に(*請書が)
なされずに、後、勅意を戴き奉らないのであれば、
相、済まないことなので、お願い申し上げます。
(*よって)趣意を早くお取り上げいただき、
大志を立てていただきたく、そして、(*これが)
天下万世にわたり、大義名分が関わるところとなれば、
このご英断は、公然明白なご措置となり、
順照院様のご遺志は、長年のわたり輝くことになると
存じます。
そうなれば、太守様(*島津茂久公)が
述べられていた忠誠は、永久に、かつてこの世に
ないご功業を達成するための大いなる機会となると
存じます。
私共一同、恐れ多くも、差し出がましくも、
必死の覚悟で、嘆願、申し上げます。



安政6年 1859年 利通・30歳

(文書)9・参考1  安政6年11月6日
               (有村家蔵)
●久光公から大久保への書簡

【意訳・本文】
再三のお手紙、その詳細、その意を汲み取り、
天下の大事を深く、心痛く、思うところである。
先だって吉祥院(*住職・真海(利通へ囲碁を教える))
へも、申し含んだ通り、何分、元気論(*正義に向かう
ところ敵はないと云う考え)には、
和議論(*和睦をすると云う考え)があり、
これは、密路を開き難く(*腹を割って話しにくく)、
少なからず情が残り、充分に面談すべきと考える。
まずは自分の気持ちを申し述べて、このようなこと
(*充分に面談すべき)であると存じる。以上。
         11月6日

なお、別紙を早速、出すべきところ、多事に取り紛れ、
引き延ばしになっており、相変わらずなので、
ご了承くだされ。
東部(*江戸)の状況もお知らせのほどを。



経緯
11月19日 利通、順聖院遺志に基づき、御剣献上の儀 を
         建白する。
*以下、これに該当する。

安政6年 1859年 利通・30歳
(文書)10・      安政6年11月19日
                 (大久保家蔵)
●藩主への上書      

(要点)
利通は、海江田信義と共に御剣献納のことにつき、
建言するところがあるとして拝謁を願い出た。

(解説)
これより先、斎興(なりおき・島津斎興) 公は、
御剣献納の勅命を蒙り、野村助七に御剣を携えさせて
上京させるが、すでに斎興公は、亡くなられており、
もって、城代家老・島津久實らは、幕府の嫌疑を
受けることを恐れ、野村助七に命じて御剣献上を止めて
帰藩させる。
利通らは、これを聞き、大いに憤慨し、すなわち、
藩侯に拝謁して、献納中止は不可(駄目)であることを
建言した。
書中、「金剛定院」は斎興公の法号である。

【意訳・本文】
謹んで言上申し上げます。
金剛定院様(*島津斉興(斉彬の父)公)より
 [焼損]  御剣を造るようにとの件、
勅命を以て波平(*なみのひら・薩摩の刀匠)へ
仰せつけられ完成しましたので、御腰者方役人・
宰領(取り仕切り方)野村助七へ仰せつけられ、
上京致しましたところ、(*既に、斉興公は)
ご逝去につき、早々、御剣宰領(*野村助七)に
帰藩するように豊後殿(*城代家老・島津久實)は、
ある人に問い合わせて伝え、特別な不都合なために
(*野村助七を)帰藩させました。


[参考]
10代藩主・島津 斉興(なりおき)
 子●11代藩主・斉彬(なりあきら)
    養女・貞姫 = 近衛忠房(近衛忠煕の四男)
の正妻となる。
    養女・篤姫 = 後、近衛忠煕の養女
となり、徳川家定の正妻
となる。
    養子・12代藩主・忠義(茂久)
 子●久光(ひさみつ)。 斉彬の異母弟。

島津久實(しまづ ひさたか)。
久宝とも。島津斉彬に仕え、弘化2年(1858年)に
城代家老に。
だが、斉彬が亡くなると、前藩主・斉興の指示で
保守的な政策を実行したために、
志士たちの反感を買ったと云う。


これについては、
[*焼損で意味不明であるが、おそらく、この行為は
違勅に当たり、これには、(*朝廷は)怒り、]

もちろん、近衛殿も、特に、ご立腹なされたとのこと。 
(*近衛殿は、近衛 忠房(このえ ただふさ)か。
正室は斉彬の養女・貞姫で薩摩藩と関わりが深かった。
近衛 忠煕かも。)

この事は特に、国家に一大事で、永き世の(*藩の)
瑕(きず)にもなりかねないので、
(*いろいろな意味で)微妙なこの時節、
実に、その痛み、心に堪えられない次第で、
そのご処置の件を建白 奉りたく、愚考致しますが、
(*その)名分大義 [焼損・意味不明] かつ又、
大臣は、黜陟(ちゅっちょく・功績に合わせ人物を
評価し登用する)の訳で、重要かつ密かに進めるべき
案件なので、その始終は悉く詳細に書面で記すことは、
難儀なことであります。
先だっての再三のお目通しの件は、難儀があり、
内鍮の趣まで謹んで承りました上、
[焼損・意味不明]・・願いの件、
恐れ入りますが、如何様とも、
密路を開く(*難儀な問題の解決の糸口を開く)
ため、お目通しいただけるように嘆願、申し上げます。
かの(*野村助七、か。)ご嫌疑の訳も
公務の為にしたことと存じますが、
その間にも、時勢は変わり、[ 焼損・意味不明]
特別に忌諱に触れる(*他人が嫌がる言動を行い、
不興を買う) こともありますので、恐れながら、
両日中に、ご都合をつけていただきたく、
伏して、お願い申し上げます。
幾重にも、国家、大事に関わる事件[ 焼損・意味不明]
・・の上、僣踰(せんゆ・僭越)ながら、これは、
極刑を免れない重罪でありますが、とかく、
臣下の至情(まごころ)、
默止し(もだし・黙って見過ごせない)難く、
萬死を顧みて、言上、申し上げます。
恐惶(*きょうこう・恐れ入ります)
  11月19日
          大久保 正助
          有村 俊斎


次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む7

大久保利通日記 上巻 に続きます。



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