歴史の流れ 「勤王芸者」を読む 8

歴史の流れ 「勤王芸者」を読む 8

勤王芸者

本編は、小川 煙村(おがわ えんそん)の
「維新情史 勤王芸者」( 明治 43年刊) の小説
を現代文(意訳) で読むものです。

*原文の表現について。
部分的に、現在にふさわしくないと思われる
個所があり、語句表現の一部を修正しています。

●長州藩の憤慨

勤王急進派の諸卿に閉門を命じ、長州の堺町門の
警衛を解くの令を発し、
御所九門を守るべき諸大名に、それぞれ通達を発して
厳しく守衛を整えた上に、既に人数揃いをして
合図の大砲を一発、放ちました。
そうでなくても人心、恐々たる時節に、
洛中の騒ぎと云うものはない。
中では御所内の邸では、上を下への混雑で、
今にも長州勢が押し寄せると、公家殿上の奥方、姫君、
公達は、皆、ここを落ち行く支度を致されて、
担ぎを召した上臈(じょうろう)もあれば、
風呂敷包みを背負った白髪の切髪もいます。
なかには寵愛のチン(犬)を大事にとばかり抱いた
あどけない方もあれば、
甲斐甲斐しく裾を高く取り上げて、守り刀を脇に挟んで
落ち行く者もあり、やんごとなき辺りの奥方は、
日頃、歩くのも慣れないのに、今日は徒歩で裸足に
なりて行き給うは、「西施 柳の雨を帯びる」に似て、
美しくも又、いたわし気に見える。
(*西施[せいし]は、中国、春秋時代の四大美人
[楊貴妃・貂蝉・王昭君]のうちの一人。)

このようだとは知らぬ長州藩では、当日、
暁前から何となく洛中、物騒がしいのに合図の大砲が
聞こえたので、これは必定、朝廷に変事があるに
そういなし、と、毛利讃岐守、吉川監物および家老・
益田 右京之介は人数を率いて堅めの堺町門へ
差し掛かると、奇怪なり。

「勅命ならば、長州は一人も通さじ。」

と、きっぱり拒まれました。
思いもかけぬ変事に三将軍は様子を知らぬので、
眉に不審の雲深く、とにかく関白に謁見して
仔細を聞こうと鷹司の裏門から入って、
関白に面謁を求めて、言う。

「今晩、洛中動揺致すのみか合図の大砲が聞こえ
ましたなら早く人数を引き連れて参ると、
『長州藩の者 一人も通さじ』それも『勅諚なり』との
返答。
ツヤツヤ合点が参らぬ。
そも我が毛利家は祖先以来、朝廷に忠義の心深く、
別けても当代・父子が身命をなげうって朝廷のために
尽くしているのは殿下もご存じあらん。
しかるに、今日只今の処置は何とも心得難き次第、
その仔細をぞ承らん。」

と、三将軍は気色を変えて問い詰めると、

「関白は、もとより今日の儀には与(あずか)らずして
不案内な事であるから。」

と、その事を申されると、三将は、益々、
合点が行かなく迷うばかり。
その内、柳原中納言前光勅使として鷹司邸へ参られ
関白を召されたから、鷹司関白は早速、勅使と共に
参内して、初めて、長州 堺町門 門衛 御免 を知り、
又、三条以下、七卿へ清水谷宰相中将勅使として参向し、
毛利家へは柳原中納言が参られる由を承って退廷
しました。
この間において、鷹司邸に充満した長州兵は、
いずれも切歯憤慨して殺気立ち、時宜によれば
押し寄せる様子にも見えたから、薩摩の高崎 正風、
奈良原 繁、会津の阪本 学兵衛、丹羽 解勘由は、
万一の為の押さえとして出張を命じられ、
これ又、兵を率いて堺町門へ馳せ向かった。
長州勢は、いずれも軍装して鷹司邸前に参列になって
整列し、大砲を控えている。
ちょうど薩摩の兵は会津の前にあって、
長州兵と面していましたが、

「事態が容易ならざる時は、薩摩兵が前にあっても
お構いなく発砲下され。
長州を撃つ弾丸が誤って我が兵に当たって共死に致す共
苦しからず。」

と、会津藩へ申し送り、死を決して会津を励ましました。
この時、薩摩・長州の兵は、相、向かうこと
20間ばかり(*約6m)。
いずれも殺気立って鞘を払われた槍の光は、
霜、鋭い薄きと見えました。
鉄砲は、筒口から今にも雷光を迸(ほとばし)らん。


●久坂からお辰に与える手紙

鷹司門前においては長州兵は会津藩の兵と相、睨んで、
今にも衝突を始めそうな勢い。
鷹司邸内では長州の三将は、屈辱を重んじて
一歩も退かず、と動きません。
その内、柳原中納言が勅使として河原町・長州屋敷へ
参向される事になりましたが、
鷹司邸にいる三将は、故なくこのまま退去致すのは
心外だったので、
ここにおいて勅使を、お受け致したい、と申します。
それで柳原卿は鷹司邸に向かわれ、懇(ねんごろ)に
諭されたので、長州三将もようやく、うべない兵を
率いて帰ることになりました。
これで(長州は)会津・薩摩との衝突も裂けられたが、
退き行く長州への悲憤は如何に。
これぞ爆発して明年の大戦争となる元であります。
さて、三条黄門を始め七卿は禁足を命じられたが、
事態が分からない。
(そこで)打ち連れて鷹司邸へ参り様子を聞かれた事が
朝廷に知れて、すでに禁足とあるのを守らずに
関白邸へ推参するのは禁を犯すの咎(とが)である、と
重ね重ねのお叱り。
七卿は如何なる所存があったのか、長州勢が引き上げの折、
共に打ち交じって大仏妙法院へ退かれ、
その後、四更(*現在の午前1時、又は2時 から2時間)
と思しき頃、急に用意を致された。

七卿の長州落ちと云うのは、世にも有名な字歴で
ありますが、その人々は、
三条銃納言、三条西中納言、東久世少将、
壬生修理権田夫四条侍従、沢主水主、錦小路右馬頭の
諸卿で、これを守って総勢2,300余人。
槍、長刀の鞘を外し、小銃650艇、大砲150門、
もし途中で変があれば、一戦 致すを敢えて辞さず、と
武威を示して、陸路、山崎街道を摂津・兵庫に至り、
ここから毛利家の軍艦三隻に乗り組み、周防・岩国へと
着きました。

時運、非にして各々、都を出る長州の志士の感慨は
察すべきものがある。
その時、久坂玄瑞がお辰に送った書簡が幸いに
同女の家に残っている。
その文を読むと当時の志士の悲憤と久坂の情愛が
躍如たるものがある。
日付は、文久3年8月20日の手紙である。

「其後は如何 安もじ致したく、
私事、国へ帰らなくてはならない事が起こり、
お目にかかること出来ず、心ならぬこと、
如何にも推測されるよう願います。
この節のことは面白からぬ事ばかりにて、
国に帰らなくてはならない次第になり、
何とも口惜しき事にて、
さて出足の折、おかしき事ながら、

桂の川の水鳥の、たちのなげきに旅衣、
あかつき暗き村時雨、涙しぼるたもとなれ
大内は いづこもわかぬ駒さへ、さすが いばへけり、
へだての雲と賀茂川に、のぼるのきりぞ悲しけれ、

と、今様を唄い、出足致したく、
我事の心 すいもじ なさるべく ねんじたく、
その後もお前様の事のみ 思い続けています。

軒端の月の露と すむ さむき夕べは、
手枕に いのねられねば 
橘の匂へる妹の恋しけれ  」

久坂は勤王の志士の中でも牛耳を執る者。
先に真木 和泉らと関白に奨めて御親征の発表まで
こぎつけた功績を一気に欠いて、志、成らず、
その鬱をようやく最愛の女(ひと)に漏らす。
又、一場の悲劇であります。
彼は、この時、まだ青年でありました。


●品川 弥二郎の弁舌

同年(文久3年)12月になり、
長州の家老・井原 主計は、「奉勅始末」と題する
嘆願書を懐に京都へ登って
「毛利家の誠忠を弁明せん」と大坂から船で淀川を
遡って八幡まで参りました。
その時、京都の出口には、それぞれ大名が番を致して
山崎は松平 甲斐守、淀街道は稲葉 長門守、
竹田街道は加藤 越中守、伏見街道は戸田 釆女正、
下鴨は仙石 讃岐守、丹波口は織田 山城守と九鬼 大隅守、
粟田口・東海道筋は本田 主膳正、そして
八幡表は阿部 主計守の手の者で番をしていました。
今しも長州の家老が淀川を上って京都に入るとの注進が
ありましたから、それぞれ用意致していると、
団子三つに箸片しの紋所をつけた船が一艘、
八幡表にかかった。
警護の役人は船を漕がして長州の船の前を
防ぎました。

「(こちらは)当所を預かる阿部 主計守の手の者。
貴藩は、何所であろうか。」

井原 主計は、明らかに答えさせました。

「長州、毛利でござる。」

「毛利家とあるからには、その船、お止め下され。
朝命によれば長州の上京を認め次第、早速、
京都へ注進致し、かつ船をやらすなよとの事であるので、
何卒、此所をお引き取り下されい。」

「いや、我らは朝廷へ長州の赤心を告げ参らせん為に
参った者なれば、武士の情けに、お通し下され。」

「情けよりも命令が大事でござる。
強いて通行あるなら、あれなる岸に控えた大砲五門の
火蓋を斬って、お止め申す。」

岸から大砲を五門も打たれてはたまらないので、
井原も困った。
警護の士は頑固にも通さぬ、と云います。
それのみか八幡を退いて貰いたい、と云う。
心は京都に飛んで藩の赦免を叶えば一命も惜しからず、
と思う人々も、そう盲目滅法に大砲を撃たれては
たまらない。
まず引き下がって何とか勘考しようと、言うがままに
船を枚方へ帰した。
帰したが、癪に障ってならない。
何とかして通行したい。
せめて伏見までも行きたい。
長州の船中の人々は額を集めて相談したが、
名案が出ません。
何れも、ほとほと持て余していますと、
品川 弥二郎、思いを決して進み出ました。

品川弥二郎 二十三歳の像
京都大学・維新特別資料文庫より
「Free License 」二次利用自由、のものより。
著作権者が第三者の自由な再利用を許諾した
ことを確認済。

24-1  IMG_3532● (960x1280).jpg

「国老、拙者、不肖なれど何とか致してこの船を
通行致すようにしますから、阿部家の談判を
お任せ下され。」

「胸に成策がござるか。」

「イヤ 何の考えもござらぬが、臨機応変をもって
たかが拙者の一命、投げ出せば、この船は通れましょう。」

「よろしい、品川。 貴公に任した。」

この時、品川、わずかに21歳の小冠者。
如何なる弁舌を振るって八幡の番所を通過するか、
その時の男らしさに祇園の芸者・君尾は心から
底から惚れぬきました。


●惚れたが無理か、しょんがいな

八幡警衛の者共は、首尾よく長州の船を追い返した故、
やれやれ、これで一安心と思う念と共にゆるみが出て、

「如何でござろう。
今宵も又、飲みましょうではないか。」

警衛と云った所で、そう毎日、事故があるものでは
ありませんから、大抵、気、保養にきているつもりで
料理屋などに飲んでいる事が多くありますが、
今宵はひとつ、大いに飲もう、と急に早駕を走らせて
京都の祇園町から物云う花の芸妓、4、5名を
引き連れて参り、飲めや唄えやと、
見る目、鼻なきを幸いに大浮かれに浮かれていました。
君尾はちょうど、これに招かれていましたが、
何か「ひとさし」舞え、との注文に
「雪」を舞って見たが、こんな上品なものは、
このような客には向かない。

「わしが踊ってやるぞ。
琉球へおんじゃり申すならを踊るから、
三味線を頼む。」

と、酔いに乗じて、へっぴり腰で踊り出す。
我も我も、と負けず劣らず権兵衛をやる、
お前を、まちまちをやる。
一体、お客が芸をやるとは如何なものでしょう。
近頃でも芸自慢のお客がありますが、
太宰 春台先生の独語を読むと、
大名が謡を唄って聞かせたり、士太夫が歌曲を他人に
聞かせて(それを)芸事と心得ているのは嘆かわしい事
だと云っていますが、
大名とか士太夫とか紳士たるべき者は、芸人に芸を
やらせて聞き役見役、芸人に「ハナ」をくれるのが、
紳士の芸と思われます。
苦しい声を出したり、見ぬからぬ形をして衆人に
未熟の遊芸を見せて、粋だとか、通だとか、
鼻動めかして、得々たるは苦々しい事では
ないでしょうか。
このような馬鹿騒ぎの最中へ、見慣れぬ若侍が、
づかづかと入って来た。

「御酒宴中、御無礼を致すようなれど、
我ら、藩の休威(きゅうせき)浮沈にかかわる一大事
なれば、礼を犯して御酒興中をお妨げ致した。
失礼の儀、幾重にもお詫び申す。」

その面白く、やせ形の見よげなる侍。
年令は、20歳を越えたか越えぬ位だが、云うことは
明晰にして、弁舌は淀みなく、天晴れの若侍よ、
と見られまして、不意の出現に警衛の士は、
目を丸くして驚き、からげた裾を降ろすやら、
急に咳払いをするやら。
やがて、その内の一人が、

「貴殿は、何れの方でござるか。」

「拙者は今日、当初へかかりし長州の藩士、
品川 弥二郎でござる。」

やれやれ、毛利の者が油断に乗じて参ったか、と
一座が色めくのを、心得たり、とばかり気負いて
品川 弥二郎、当年21歳なれど腹に力を入れて、

「拙藩の哀情、云わぬでもご承知下されよう。
さればこそ、家老・井原 主計以下、禁命なれば、
京都へは足を踏み入れるとは申さぬが、
伏見の下屋敷まで参り、そこから相応の
伝手(つて)を求めて朝廷に陳情致したいと存ずる。
当所に鎮護まします八幡大菩薩をご照覧あれ。
この船をお通し下されば、我らは伏見下屋敷よりは
向こうへ進まず、かつ、貴藩にご迷惑はかけ申さぬ。
ぜひとも、ここを通る事、お許し下されたい。」

弁舌、流れるが如くで、しかも厭(いや)とあれば、

「お見受け申す所、警護の疲れを慰めんとの
御愉快な御酒興。
いやはや、お羨(うらや)ましい事でござる。
その御愉快をお妨げ致し、重々相、済まぬが、
何卒、御許容下されたい。」

と、暗に警衛を怠りたるを詰まり、動きの取れない
ようにした。
こちらは、何分、番所の守りを預かりながら、
この放埓沙汰(ほうらつ さた)、
もし、世間に云われては、各々の身の上に
かかるのみか、藩の主公の名にも関わる。
そこの呼吸を飲み込んで、締めつ、緩めつ、
談じ込みました。
その頼もしげな応対ぶりを瞬きもせず見ていた
君尾の歳は19歳。
花は、色も匂いも、こぼれるばかりの春であります。


●品川 弥二郎、独り残る

品川 弥二郎は21歳の年少にかかわらず、弁舌巧みに
談判致し、遂に長州の船を伏見まで行けるように
話を決めました。
何分とも番所の警衛の任務中に寛怠(かんたい)の
始末を致している現場へやって来られたので、
何とも申しようがなく、

「それでは弊藩の迷惑にならぬようにさえ致されば、
当所通行の儀は、わざと知らぬ顔をしましょう。」

と、番所を守る者は承知致しました。
21歳と云えば、明治の只今なら中学を卒業した
ところぐらいであります。
今日の(*明治時代)年少者にこの品川ぐらいの
度胸、弁舌、智略のある者が何人いるでしょう。
歌留多とか工業的な運動に浮き身をやつす暇があれば、
胆の据え腹の締めくくりの稽古をしてもらいたい。
維新当初の志士が20歳代で国事に奔走し、
立派な働きをしているのを見て、今の青年、壮年の
意気が衰えたのを感じます。
さて先刻より、面白玉((おもて はくぎょく
*面に才能があるのがよく分かること。)を
伸ばすようなものも、心、あくまで強い品川の
応対振りを

「神ぞ、神ぞ、神かけて男らしい方、
私の好きなのは、あんな方。」

と、ぼんやり見とれていた芸妓・君尾。
品川の立ち行く後ろ姿を見送って、ボーとしていると、

「君尾さん、どうかしたの。
急に気分が悪くなりましたの。」

と、親切に尋ねてくれる朋輩(ほうばい)芸妓の
言葉に、答える事がめんどうくさく、

「イイエ。」とばかり、障子の外に立ち出ると、
山城八郡を来たりし冬の風は厳しく頬を打ち、
一昨日(おととい)降りし比叡の雪はまだらに
比良の全山、真白に装(よそお)いて、
あれは東山、南下がりに斜めなり。
見下ろす眼下は淀の大川、
帆をはらませて伏見に向かう船、一艘がある。

「紋所は団子三つに箸一本、あの船にこそ健気なる
若侍が乗り込みいるよ。
ままになるなら身体はここに残れども、
せめて我が魂をあの船中に入れて欲しい。」

と、君尾は長州の船が小さくなるまで、
欄干によりかかりつつ、見とれておりました。
この才人佳人、遂に縁を結ぶ機会は、いかなる時で
ありましょうか。
出雲の神は、ずいぶん、人じらしな神であります
からね。
井原 主計の一行は無事に伏見の下屋敷に入り、
奉勅始末と取調べ所の二通を朝廷に差し出しまして
長州の勤王無二なる事、誠忠の志、変わらぬ申し訳を
致したが、時勢は益々、長州藩のために非にして、
取り上げ下さらない。
取り付く島もなくて井原 一行は、又もや帰国致す事に
なったが、その中で品川 弥二郎は唯、独り、京都に残り、
天下の形勢、幕府の方針を偵察するために、
隠密を致す事になりました。
当時、京都は絶対的に長州人の滞京を許されませぬから、
品川は、或いは町人となり、或いは相国寺・薩摩屋敷に
隠れて名を橋本 八郎と変じ、全くの薩摩武士の風体をして、
天下の様子を探っておりました。
その頃の品川が学問好きであった話から、
君尾と偶然の再会、壮士、君国のために女(ひと)を
棄てて戦場に赴く佳話。
話の花は、これから咲くので読者は心して見て下され。


●国事奔走と読書

井原 主計の一行、唯、独り京都に残った品川 弥二郎は、
名も橋本 八郎と変え、髷(まげ)を薩摩風にして
京都・二本松の薩摩屋敷に潜み、外出の折には、
別府 新助ら、2, 3人と連れ立って出掛けます。
そうすれば幕府方においてこれを捕えようとすれば、
連れ立つ薩摩武士が、

「この者は、同藩の橋本 八郎。
何御用が、あるか。
人違いして後日、迷惑致されるな。」

と、やりつける。
だから手の出しようなく、品川、一人外出の折を
待つが、なかなか出ません。
買い物でもしていると、その隙に引捕らえようと
必ず品川の姿が見えれば、幕府方の者が見え隠れに
ついけていた。
すると又、薩摩の者が品川には陰の形に添うように
付き添うていました。
その頃、品川は坂本龍馬とも非常に交わりを深く
致しておりました。
品川 弥二郎は、なかなか俗謡を作るのに長じている。
ここにその一例を載せましたが、この都々逸は
薩摩屋敷に潜伏当時の都々逸。

花は佐久良に 人は武士
  と云うたお方の 顔 見たい

21、2歳の青年の気概はおもしろい。
品川は前にも述べたように、身をやつして国事に奔走
している際に臨み、読書を止めたかと云うと、
そうではない。
その時分から馴染みになって品川子爵となり、
薨去の後まで品川家と関係のある東京・本郷湯島の
田中文求堂、すなわち、維新の頃は京都四条・御旅町に
書店を開いておりましたが、
品川は、この文求堂に来て、よく本を買いました。
もちろん、その頃の事でありますから外史政記に
日本歴史を論じ、詩文書を愛読して熱心な読書家で
ありました。
なので、ここに感心すべき逸話がある。
品川はこの時において、英語を勉強していた。
国事奔走のため一命を賭して死生の境に入りながら、
なお英語を勉強していた。
その時分は今と違って、文典も辞書もない。
わずかに江戸版で英国文範と云う本がありましたが、
これが品川の英語勉強の唯一の手づるであります。
ある時、品川は文求堂にきて、ウェブスター大辞書と
云うものを求めたいが、あろうか、との注文。
もちろん、当時にウェブスターが、易々、
あるものじゃない。
神戸へ聞き合すと、今、日本においては売るべきものは
弊館に2冊あるのみ、との返答。
その事を品川に告げると、

「かかる得難きものなれば、2冊とも買わん」

と、代価、一冊25両を払って2冊とも買って、
薩摩屋敷において耽読致していた、と云う話があります。
その決心、その根気、その励精、もって亀鑑(きかん・
*模範)とすべきものではありませんか。

余談にわたるが、同じ長州藩士・入江 弥源太と云う
侍は、時々京都に参って様子を窺い、又、京都に
潜伏する者と気脈を通じる用向きもあるので、
もちろん、侍としては一歩も入京、出来ません。
防州徳山の書肆(しょし)桝屋 茂兵衛と名乗り、
書物の仕入れのために上京と云う体に致し、
文求堂へもよく来て、普通の本屋のように色々な書物を
買い込み、これを荷物にして又、下向した事があります。
このようにして長州藩は、入京を禁じられた後も、
志士は千辛万苦、天下の形勢を探っておりました。

京都・正法寺
品川 弥二郎夫妻の墓 (右・弥次郎)

24-2  IMG_8275★★.JPG


●紙屋川の梅見

一目見てから恋した君尾は、八幡から帰ったその日から
何事をするのも物憂く、今まで賑やかなりし座敷の
取り持ちも、トンと寂しくなった。
何時も涙をためているような打ち湿った女になりました。
惚れた男に会えぬ芸妓は、皆、こうなるものであります。
朋輩や友達は、その顔色の勝れないのを見て、
病気じゃないか、悪い風邪が流行るから、罹ったのじゃ
ないか、と親切にいたわってくれますが、
君尾の本当の病気、すなわち、恋の病なる事は、
誰一人、見破る者なく、又、出先、出先の内緒や、
仲居の者、贔屓(ひいき)にしてくれる客は、
自分の親類が病気になっても、こうは云ってやるまい、と
思う程に慰めてやりましたが、君尾にとっては、
百の慰めや、千の言葉を聞いても、何の役にもなりませぬ。
せめて一目に良いから、方様のお顔を見たならば、
この曇った胸が開けようか、とて、又、独り考えては
涙ぐんで、太い吐息をフゥ と吐(つ)きました。

「あまり出不精になったからだろう。
きょうは恰(あたか)も天気もよし、風もなし、
空、如月(きさらぎ)の日照り。
梅見には最上の好天気。
君尾、そちもこういう日に外を出歩くと、
気が変わってよかろう。
これから梅の名所の北野から紙屋川、平野、
金閣寺をぶらぶら歩いて見よう。」

と、君尾の贔屓(ひいき)のある商人客。
心屈する女と見て気の毒を思い、励ます言葉の新設を
無下にことわり兼ねて、自分はそう出歩きたくない
けれど、客の親切にほだされて、
客に、仲居に、芸妓、3、4名、打ち連れ立ち、
白梅や北野天神の境内に香を慕い、
神にかける願いも、どうぞあの方に会いますように、
と、天神様には筋近いな願いをかけて神頼み。
境内を抜けて紙屋川の岸にかかりました。

ここは両岸が高くして、梅花、数丈の崖に香り、
西を見晴らす、又、京洛の一名所。

北野天満宮・梅苑

25  IMG_6022  ●2016-3-25 (800x600).jpg


流石(さすが)、垂れ込めがちの君尾は、
久しぶりに見晴らしのよい場所へ来たものですから
少しは心も晴れかかり、梅の香りに骨も清くなる心地
している折柄、
がさ、がさと梅の木陰から現れた非人の様な見苦しい男。
垢に塗(まみ)れて顔は煤(すす)けたる銅顔、
髪は蓬(よもぎ)と乱れて、おどろ。
君尾の顔を見るや、

「やあ、われは お君。」

無図とばかり、白い腕を握りました。

アレヨ と(君尾は)驚き、振り払おうとするのを、
いっこうに離させず、

「俺が顔を見忘れたか。」

と、グッと突き出す顔に、出刃の大傷。

云わずも知れたお君が、まだ芸妓をしていない頃から
横恋慕する出刃安。
今は落ちぶれて、非人同様の姿になっても、お君を忘れず、
無理無体に引っ立てようとするのを、客は恐れて
手を出せず、連れの女は、我が身にかかる事か、
と気を失わんばかり。
君尾の危難を誰一人、救う人もない。


●池田谷騒動の顛末

婦人の助けを請う喧しい(かまびしい・*やかましい)
声を聞いて馳せつけた侍、2、3人。
この場の様子を見ると、その内の一人がいきなり、
君を引き立てる出刃安の襟髪を取って、やっ、と声をかけ、
崖下の紙屋川を目がけて投げ込んだ。
出刃安の人礫(つぶて)。
小気味よくも転がって行く。
これで女たちは生きた心地になり、中でも君尾は、
ふと、我が恩人を顔をみるや、

「まあ、貴方は。」

誰あろう。
我が危難を助けてくれたのは、夢にも忘れられぬ品川様々。

「品川様。」

と、言うなり、弥次郎の袂をひっしと捕えて、恥ずかしさも
忘れて泣き出しました。
連れ立つ薩摩の侍は、

「品川、貴公は、この芸妓を知っとるか。」

「イヤ 存ぜぬ。」

「御存知ないは無理もございませぬ。
あの八幡の番所で。」

「成程。
あの時、あの席にいたものか。」

隠せど穂に出る恋の色。
会いたい、会いたい、その人に、
さて、会って見れば、日頃思う千分の一も云えぬもの
ですが、その、もじもじする所を
粋な客は見て取り、

「ヘェ、只今は私らをお助け下さりまして、
誠にありがとうございます。
お礼を申すも何でございますが、お近づきも異な訳で
ございますが、そこらの料理屋で一献、
差し上げ申したい。」

と、腰を低くして頼む。
芸妓らは品川の眉、秀でたる男ぶりに岡惚れの
手合いもあり、
君尾は、極力、これを引き留めようと致すから、
好意にほだされて品川は、そのまま連れ立ちて
料理屋に登り、構わぬ書生気質の上に、
奨め上手に盛られて、大酔淋漓(たいすいりんり)、
夜に入って賀茂川千鳥の鳴く辺りへ連れ帰られ、
才人佳人、ここにめでたく縁が結ばれました。


*芸妓・都々逸
寝ても さめても 覚めても 寝ても
  主の 封絶(うわさ)の 事ばかり


この間において天下の形勢は如何に進んでいるか
と云えば、天誅組は戸津川に割拠し、
平野国臣ら、但馬・生野の義兵を挙げたが、
時、未だ至らずして、皆、敗北し、
運命は、まだ勤王党に向かってこない。
中でも元治元年6月になると池田屋騒動なるものが
起こり、長州の藩士10余名が密儀の所を会津、彦根、
松山、桑名の5藩、他に新撰組の手の者が、
何れも槍の鞘を払い、刀を抜き、四方から乱入して
殺傷がありました。
これぞ薩摩藩の寺田屋騒動と一対の騒ぎであります。
池田屋は、京都三条小橋の旅舎(はたごや)で、
豊後屋と共に長州の出入り旅舎でありました。
さて、吉田 稔麿(*原本では、「吉田 松陰の甥と
聞こえし吉田 大次郎」とあるが、これは、
吉田 稔麿[よしだ としまろ]のことである。
以下、原本「吉田 大次郎」を「吉田 稔麿」と記します。)、
肥後の宮部 鼎蔵(みやべ ていぞう)、土州の山本 七郎、
他10名の壮漢は、近頃、朝廷が幕府方に傾いたのを
悲憤し、禁裏を襲って会津中将を斬り、ぜひとも、
攘夷親征の議に復活させようと、寄り々、密儀を
致しておりました。

(*以降、史実とは、異なる個所があります。)
その密儀の筆頭には、古高 俊太郎(*原本では、
「古高頼母」とある。以下、「古高 俊太郎」と
記します。)と申す人が掌り、6月4日に丹虎と申す
家で密議をして、いよいよ、某月某日に快挙を計ろうと
一決して、その日は、それぞれ引き取りましたが、
次の朝、同志の一人が顔色を変えて吉田ら宿泊している
池田屋へ駆け込み、

「大事が破れた、新撰組の手から探ったらしい。」

今夜、黎明から洛中、洛外、急に物騒がしく、
ご警衛の諸家は人数を繰り出す。
必定、我らが策略が破れる、と息を切って言います。


●中には吉田 稔麿、24歳

のみならず、党の頭とも頼む古高が召し捕られた
との評判あるから、油断あるべからず、との説明
でありました。
吉田 稔麿、これを聞いて、

「古高が捕らわれたとあれば、味方にとって一大事で
ござれど、かの人は、頗(すこぶ)る義士なれば、
如何なる拷問にかけられるとも、迂闊に密事を白状
致ものでない。
ただ、我ら一味の連判状を召し揚げられた時は、
彼が白状致さずとも、事、ことごとく露見致す。
早く古高の宿所を焼き払って根絶いたそう。」

と、火薬を用意して、高瀬・四条の古高の宿所を
目指して飛んで行きました。


吉田 稔麿の生家
「松陰先生と吉田稔麿」(1934年刊)、
(著作権満了のものより。)
写真中、「松は大臣松と呼ぶもの」とある。
令和の現在、萩市・松陰神社の近く、家はなく写真中の
石碑のみが佇(たたず)む。

27  IMG_0061 ●(600x800).jpg


その後、同志の面々は危急が迫ったと伝え聞いて、
三条・池田屋へ集まる者20数名。
いずれも額を集めて善後策を講じている内、
吉田は悄然として帰って来て、

「彼の宿所へ駆けつけた時は、既に事、遅れたり。
捕り手は家探しして書類は、もちろん、武器の類まで
召し揚げた後でござった。」

ますます事態は容易ならず、この上は決然、
事を起こすか、あるいは、古高を助け出そう。
さて、古高が揚げられたのは町奉行へか、
壬生浪人組へか、それも探りたい。
中には、一層の事、味方される中川の宮へ襲撃痛そう、
と申す者もあれば、会津邸へ斬り入ろうと、
憤激、各自の議論を述べました。
が、一向に、まとまりがつきない。
そのうち、日は暮れる。
晩飯には酒を添えて遣った。
酒を遣りましたから、又もや議論の花が咲いて、
議論を致していると、かねての手配りにより、
会津の藩士および新撰組ら7, 80人ばかり、
池田屋の前後を多数の兵に取り囲ませて、
池田屋の二階へ飛び上がり、

「御諚なるぞ。」

と言うより早く斬ってかかる。
さて、しまったなり、と思いつつ義徒は早速の機転に
皿鉢、火鉢を投げ、隙に乗じてズラリと
抜いてしまった。
さあ、双方、手慣れの者で、恥を知り、鎬を削って、
入り乱れて戦う。
伏見・寺田屋の時と違って人数が多いから戦いが
すさまじい。
中でも吉田 稔麿は当年、24歳であるが、
向かう敵を切り返し、わずかの隙に池田屋の表に出ると、
脱兎の勢いで河原町の長州屋敷に駆けつけ、

「只今、同藩の者、池田屋にて会津と激戦中」

と知らすや否や、又も同志の者を助けようと、
再び池田屋へ取って返し、入り乱れる敵味方の中へ
割って入り、悪戦を致しました。
この時の戦いが如何に激しかったかと云うと、
近藤 勇がこの事を知らせた手紙の中に、

「これ迄、しばしば戦いに接したれども、
二合と戦うものとては稀なりしに、
今度の敵は多勢とは申しながら、
何れも万夫不当の勇士して、
誠に危急の命 助かりたり」

と、彼の不敵なる近藤をして、こう言わしめた程の
手痛き勝負(*負勝)でありました。
時刻が過ぎれば、池田屋と長州邸とは3、4町の間、
もし、加勢の者が来たなら面倒なり、と打手は
切り込み、切り込み、切りまくれば、
此方は一歩も退かずと、刃のササラのようになるまで
切り結ぶ。
これぞ世に有名な池田屋騒動です。

京都・霊山護国神社にある吉田 稔麿の墓。

28-06IMG_1603吉田稔麿.JPG


次回、歴史の流れ 「勤王芸者」を読む 9
に続きます。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント