歴史の流れ 「勤王芸者」を読む 9

歴史の流れ 「勤王芸者」を読む 9

勤王芸者

本編は、小川 煙村(おがわ えんそん)の
「維新情史 勤王芸者」( 明治 43年刊) の小説
を現代文(意訳) で読むものです。

*原文の表現について。
部分的に、現在にふさわしくないと思われる
個所があり、語句表現の一部を修正しています。


●無類の大剛・安東 鉄馬 

一時は捕手の方も危なかったけれど、何分、
捕手は多勢なり。
かつ、充分に用意のある事なり。
一方は不意を打たれたのでありますから、
心は早れど、退き足になって、宮部・吉田の5、6名は
その場を去らず斬り死し、23名と云う者、力が尽きて
逮捕されました。

ここに一人の豪傑があり。
安東 鉄馬と云う。
美作(みまさか・*現・岡山県北東部)の生まれで、
この時、未だ22歳。
同じく池田屋の党の者でありましたが、いち早く、
乱刃を切り抜けて自分の宿所へ馳せ戻り、
大胆不敵にも蚊帳を垂れてその中に大の字になって
寝ておりました。
すると翌朝、これを嗅ぎつけて新撰組の者10余名が
軍兵を率いてやって来る。
言うは、面倒なり、と表戸を蹴破って入って来る
物音を聞いて大胆至極な鉄馬は蚊帳の中から

「何奴ぞ。」

と、怒鳴りました。
言うも早く、捕手は安東の四方を囲んで、

「汝も暴徒の一人ならん。
出所、来歴を名乗れ。」

と、叱りつけますと、安東、腹の中でせせら笑いながら、
問うがままに、淀みなく答えました。
余り答弁が明白であるので新撰組の隊長は、

「この者は、あるいは暴徒の者ではないかも知れぬ。」

と、やや、心をゆるめました。
しかし、まだ問うべき事があるので一緒に来い、
と言いますが、鉄馬、受容として、

「小生は水口藩の者なり。
我れを引き立て行かんには、藩へ告げて
その上になされ。」

と、拒んだ。
新撰組は、これに怒って、

「この期に臨んで何事を言う。
すぐさま召し連れて参る。」

と、白刃を抜いて鉄馬の前後を厳しく守って
脅かしたが、鉄馬、少しも動じず、

「方々は寝込みを襲われたから、
拙者、まだ朝飯をしたためぬ。
飯を食う間、暫時、お待ち下され。」

と、土風呂に薪を焚いて湯を沸かして、
心のままに湯漬けを数椀傾けて、
その後、衣服を更(あらた)め、新撰組と共に
出掛けました。
余り落ちつき払った鉄馬の挙動に、
新撰組も全く心を許して鉄馬に縄をかけず、
二人の卒に左右を挟まれて河原町まで行った。
すると鉄馬は、

「下卑なれど、小便が致したいからお待ち下され。」

又、ゆるゆると溝の中へ小便をする。
小便をするのをポカンとして見ておられないから、
新撰組の隊長は、人数を引き連れて、
7、8間前へ行きかけると、安東 鉄馬、
小便を十分に済ましたる後、電光石火、
独りの卒を水もたまらず切って倒した。
これは、と驚く他の一卒を返す刀で切り捨てて、
血刀を提げつつ、河原町を一文字に長州邸へ駆け込み、

「我れは、天下の正義士、安東 鉄馬。
賊を斬って逃れしに、追兵、急なれば、
門を開いてお入れ下さい。」

と、雷のような大音声に怒鳴りつけ、長州邸へ
逃げ込みました。
新撰組の隊長、後を追ったが、もう駄目である。
鉄馬は、舌を出している。
繰り返して云うが、この時、22歳で、
吉田 稔麿、24歳であった。
今(*明治後期)の青年諸君は、これを聞いて、
如何な感じがするであろうか。

安東 鉄馬の墓・京都霊山護国神社
29 IMG_1227安藤鐡馬.JPG


●長州、大挙して来る

慷慨(こうがい)の壮士、空しく池田屋に斬死して
勤王の士の計画は、又、外れた。
されば又、勘気は免じられるかと云うと、なかなか、
免じられそうにもない。
井原 主計の陳情も暗々と退けられ、他の藩でも
対州、因州の如きは、長州のためにいろいろ、
とりなしたけれど、長州は入京を再び許されそうにない。
この上は、強訴に及ぶより法はなし、と慷慨の士気、
最も厚い久留米水天宮の神官・真木 和泉、
長州の久坂 玄瑞、来島 又兵衛、入江 九一らを
首謀者として、家老・福原 越後を押し立て、
総勢400名ばかり、元治元年6月19日、
防州・三田尻を出帆して大阪に着き、兵を二隊に別ち、
ひとつは諸藩の脱兵浪士、数十名、騎兵隊と号して
来島、久坂がこれを司り天王山に陣を構え、
ひとつは福原 越後、自ら兵を率いて伏見の下屋敷へ
入った。

これを見た伏見奉行は大いに驚いて、汗馬を馳せて
京都へ注進に及ぶ。
降って湧いたる騒ぎに洛中は、老幼男女、慌て迷いて、
今にも大戦乱が始まるか、と東に西に、南に北にと、
家財道具を運んで逃げ支度を致した。
だが、山崎、伏見に陣する長州は、厳然、一糸も乱れぬ
軍容で、少しも乱暴致すようでないから、諸人、
ようやく、安堵致しました。

長州からは泣血百拝して、藩が朝廷に忠なる事を
朝命に従って攘夷を計りし事を陳情して、
朝廷へはもちろん、味方の諸藩・浪士から、それぞれ
自分の藩へ向けて届書を出しましたが、
中には堂上の方で長州の意を察し、取り成しを致される
方もあったが、皆、無効に属しました。
その内、洛西・嵯峨の天龍寺にも長州勢が立て籠もる様子。
遂には、家老・国司 信濃(くにし しなの)が
200余名を引率して、ここに着陣しました。
(*一方)益田 右衛門介、又、数百の兵を率いて
天王山へ行った。

国司 親相(くにし ちかすけ)
通称、国司 信濃
京都維新史蹟・著作権満了のものより。
30 IMG_8988● (960x1280).jpg


これで京都の出口三方は、全く長州勢のために
閉塞されてしまった有様になりましたが、
幕府方では、

「会津中将は、けしからん振る舞いじゃ。」

と、憤る。
一ツ橋中納言は、事を穏便に済ますようにと、
大小監察を遣わして、

「とにかく、国許へ引き取り、
福原 越後ら少人数で願意を申し出よ。」

と達せられたけれど、
(*長州勢は)こんな まどろこしい事では
承知親しませぬ。
いずれも一死を覚悟して参った者共でありますから、

「この度こそは、朝議を一変して、
前(さき)の尊皇攘夷を御主張なさるか、
さもなければ、邪魔するのは会津 肥後守、
彼が禁裏に隠れれば詮方なし。
禁裏を襲ってまでもその頭を得ん。」

と、意気込んで、壮士、一剣を麿(ま)して、
10年の怨恨を晴らそうと云う場合。


●会いに来たのに、情け(つれ)なくも

島原・角屋へ駕が一丁来た。

「へェ お客様。」

駕の垂(た)れをあげて現れたのは、

「まあ、 久坂・・・様。」

仲居のお仲は、ビックリしたように辺りを見廻しました。
駕屋は客を送ったから汗を拭いつつ帰りました。

「貴方、まあ、お珍しい。
如何、遊ばした。」

「その後、一度参りたいと思ったけれど、
いろいろと用事が立て込んで。」

「久坂様、貴方を遊ばします訳には参りませんよ。」

「フム。それは又、如何なる訳あって。」

「貴方方の事は、もうよく存じておりまする。
長州へ落ちて、お出でなされた事やら、
今度、天王山に、お越しの事やら。」

「わしも天王山におるが、
この先、如何なるか、と思えば、のう。
辰の顔も見て、のう。」

「優しい、そのお志。
お辰さんが聞けば、きっと泣いて喜ぶでしょう。
それ程、思い思われますお方を会わせ申す事が、
出来ぬ、とは。
しかし、久坂様。
お役所からは、もし貴方を始め、
長州のお侍が見えれば、早速知らせい。
召し捕りの人数を出すから、と、厳しいお達し。
それに壬生組が近こうございますから、
もし、お身に傷がついては、と、
この留が貴方を思う心から、このままお帰り下さる
ように願います。
こう言う間も、危ない。
早く、お引き返し下されませ。
それでと時が参れば、こんな危ない思いをなされずとも
会わせて進ぜましょう。
今日は、このまま、お帰り遊ばせ。」

と、理を分けたるお留の言葉に、
千金の身は重んずべし、と、
久坂は、黙って帰って行きました。

「ああ、もったいない。
あの、お優しい久坂様の心を、お辰さんに知らせて
あげよう・」

と、お留は、すぐにお辰を呼んで知らすと、
これは、又、泣きながら、

「あの久坂様が・・・
どちらへ、お帰り遊ばしたでしょうか。」

「天王山と云えば、道は鳥羽街道より西国街道を、
しかも、まだ2、3町も、お行きなされますまい。」

「それでは、一走りして。」
お辰は、甲斐甲斐しく裾をからげる。

「これさ、お辰さん。
お前は、この夜に。」

「いえ、いえ、あの方思う一心には。」

夜道も田んぼ路も、恐れることか、
お辰は狂乱のようになって、
千本通りを一目散に南へ指して走りました。
幸いにも東寺の近い所まで追いかけ、
久坂を見るなり、

「久坂様。」

と、すがりついて、息も絶え絶えに泣きました。

天王山は西南に聳(そび)え、
長州の陣所と思える所には篝火(かかりび)燃え、
洛陽はなんの山川の隔てなれど、
長州藩の士には目に見えぬ関所がある。
恋は胸に燃え、義は胆に徹する。
久坂は、泣き伏すお辰の背に手をやり、

「辰、永い別離じゃったのう。」

お辰は、かじりつくように久坂の膝に取りついて、
ひた泣きに泣く。
久坂、時に26歳。
お辰は、21歳。
この時分の恋は、明治の恋と違って、
辛い恋を味わったものでしょう。


●忍ぶ恋路の はかなさよ

「辰、去年、七卿のお伴をして、国(長州)に帰る折、
そてに会わず別れたから、さぞ、本意でなかったで
あろう。
恨んでも、いやろう。」

「イイエ 何のお恨み申しましょう。
ただ、ご無事にお出で遊ばすように。」

「ムゝ 何事も君国のためじゃ、我慢せい。
一旦、遮(さえぎ)られた雲、晴れて我らの天下に
なった時は、久坂が思うだけは尽くしてやる。
したが、のう、辰よ。
昨今の雲行きでは、雨が嵐が来そうじゃわい。」

「どうぞ、御身、大切に、
お国のためにも。」

「尽くす事は忘れぬが、武士の身はな、
明日をも知れぬ桜花じゃ。
ただ、散り際が大事じゃ。
わしも万一の時には、きっと武士らしい散り際、
見よう。
それで辰に、こうやって会うのが暇乞いかも知れぬ。
しかし無謀な死にようはせぬ。
はやまりもせぬ。
実は我らの味方にも無理に一戦させて、
事を決しようと急ぐ者もあるが、
わしは、無謀には組しはせん。
臣下は臣下らしく、道を守って我が、
主張を通す法もある。
毎日、戰さをするか、せぬかで評定じゃ。
ところがのう、武士は辛いもんじゃて、
我らが無謀な戦さをするのを止めるのを、命を惜しむ
卑怖(ひきょう)と推測する者もあるそうじゃ。
(そう)云われては、梓弓を引いて帰らぬ無理な
戦さもしよう。
まあ努めて無理はせぬが、時節を場合じゃ。
そちは体を大事にせぃ。
芸妓には無理酒、夜更かし、体をこわさぬようにせい。
今宵は角屋で久方ぶりに、そちに会って、と思うたが、
詮議が厳しそうで、かなわぬ。
せっかく忍んで来て、会えぬかと力なく思ったれば、
そちの貞実、思いがけぬ対面出来た玄瑞、
嬉しう思うぞ。
ここにある20金、
まあ、何とも言わず、受けてくれ。
やがて晴天白日になったら、ゆるりと会うて、
今夜の夜露に打たれた話をしよう。
しばしの我慢じゃ、辰! 辛抱せい。」

花の実も匂いも添いたる久坂の親切、心づくし、
ああ、もったいない、と、お辰は涙に身も浮くばかり、
いつまでも、いつまでも、こうしていたいと思えど、
主の御身の事もあり、又、向こう見える提灯は
自分を迎えの者。
見咎められて、もし、主のためにならぬ事でも
あっては、と、お辰は泣く泣く、別れを告げて、
いらぬと言うを無理に懐中にねじ込まれた小判の重み、
これも、あのお方の懐中にあったものと思えば、
いと懐かしく、さらば、さらば、と別れる折しも、
空には一声、子規(ほととぎす)、
テッペンカケタカ、血を吐いて天王山の方へ
鳴き渡る。

*芸妓・都々逸
こうなる約束 してないものと
未練が 言わする 独り言


●一座を驚かす大砲の響き

時は元治元年8月18日、
夜に入って縄手の貸座敷・吉松へ参ったのは、
橋本 八郎の品川 弥二郎と久保 無仁蔵。
芸妓は品川の君尾を始め、4、5名、呼びましたが、
賀茂川に沿った座敷に座って、品川は盃を君尾にさし、

「わしは近々、九州の方へ旅をする。
これが門出の盃じゃと思うて、受けてくれ。」

その意味を知るか、知らぬか、君尾は快く受けて返杯し、

「どうぞ、旅に気をおつけ遊ばして。」

いまさら云わずとも、君尾を品川の仲は、比翼連理の
深い契り。
品川は懐中から紙を出して、矢立(やたて)から
筆を抜いて、すらすらと、認めた若の一首。

「これを、お前にやる。」

取って見れば、今の心を詠んで、

 又来んは いつと定めず 不知火(しらぬい)の
   今日九重の みやこをぞ 立つ

「ハイ ありがとう。
拙(つたな)きながら私も。」

と、君尾は別の神に返歌を書きました。

 千早ふる 万(よろづ)の神に 祈るなり
   別れし君の 安かれとのみ

これが名残の宴ぞ。
今夜は夜もすがら飲み明(あか)さんと、それから盃を
重ねたが、盃は動けど、座は何となく湿っておりました。
時刻は進みて子の刻、丑の刻。
おかしい事には、品川、久保の両人は時々立って河原に
向かった障子を開けては北の方を見て耳を澄ましている。
そうとは気付かぬ芸妓、仲居は徹夜の宴を賑わそうと、
盃を催促をしていましたが、夏の夜は明けやすく、
時刻は早けれど、空は、ほのぼのとなって来ました。
今にも久保 無二蔵は、盃を唇に当てようとする刹那。
思いかけずも乾の方の当たり、時ならぬ砲声、一発。
無二蔵は、盃をからりと投げました。

「品川、時じゃ。」

「品川、時じゃ。」

品川も、すっと立った。
続いて砲声、砲声、入り乱れて響く。
戦争だ、大変だと、芸妓は、慌てて騒ぐ。
その内に品川と久保は用意の風呂敷包みから軍装を
取り出して、手早く着替えようとする。
先刻から心に覚悟せる君尾は少しも乱れず、
思う男の軍装を手伝い、甲斐甲斐しく用意をさせる。
砲声、砲声は、いよいよ、入り乱れる。

「君尾、いよいよ、九州行きの時じゃ。
無事で暮せい。」

言い捨てて、品川は久保と欄干に足をかけて、ひらりと
賀茂川の河原へ飛び下りようとしますと、
君尾、暫し、と袖をとめました。

「この期に臨んで未練がましいぞ。」

「イエ イエ、河原は近けれど、河原は小石が多くて
御足がくたびれます。
それより縄手通りを北へ三条へ。」

「ムヽ それも道理だ。
さらば、君尾。」

両人は、追取り刀で、逸散に表へ飛んで出ました。
後には、呆れる芸妓ども。
君尾は氏神の祇園神社の方角を伏して拝みて、
南無、とばかりに、鉄砲は豆を煎るように聞こえ、
大砲は天地に震動して響く。
これぞ、元治元年の戦争。


●最初の砲戦

伏見、山崎、嵯峨に陣を構える長州勢は、しばしば、
冤罪を解こうとするため、泣血百拝して陳情書を
奉ったが、お取り上げにならない。
その上、同勢、国許へ立ち帰れとのお達しがあった。
(長州藩)今度は、いずれも覚悟をしての上洛である。
志を達せず、おめおめ下国して、どうであろうか、
父母・朋友に面を合わさるべき唯一死で党の敵、
会津中将の首級を得て、尽忠の一端を致そうと
気負うたる者共。
いずれも逸り(はやり)立っています。
この19日になれば、もし長州藩が引き取らなければ、
逆寄せに幕府へ三方から押し寄せるとの風聞が
ありました。

先んずれば人を制し、遅るれば人に制せられる。
彼方(幕府)の来らぬうちに当方から攻めかかるべし、

と、来島 又兵衛、畳を叩いて慷慨(こうがい)する。
一座の勇士、いずれも裂かれる悲憤。
今にも打って出ようとするのを真木 和泉、久坂 玄瑞は
言葉を和らげて穏和説を持ち出したが、なかなか
聞き入れない。

今は仕方なし、方々と共に生死は一つ、

と、軍議が定まり、7月19日 子の刻過ぎる真夜中、
嵯峨・天龍寺に屯集致していた一手は隊長に
来島 又兵衛を頂くだけに例の気早い勇士なので、
他の二手に先を越されては格別の恥と、
この隊の大将・国司 信濃が中軍を司って
総勢、合わせて千名ばかり。
夜露を踏んで嵯峨を出立しました。

帷子(かたびら)ヶ辻で兵士は二手に別れ、
来島 又兵衛、児玉 民部は300名を率いて下立売御門に
向い、国司は桂 小五郎を参謀として残りの兵と共に
中立売門に向かう。
中立売門は福岡黒田藩の守備。
門の扉を堅く閉ざして敵が打ってかかれば一塩つけん、
と待ち構えていると、長州勢は中立売を進行する途中、
御門近くに来ると一ツ橋家の大隊の兵に出会いました。
元来、長州の恨みとする敵は会津のみ。
残りの諸藩に対しては戦いを挑む心がないから、
一橋勢が進むのを片側に避けて通すと、
中立売門の近くに進んだ時、思いかけずも一橋兵は
長州に向かって不意に発砲した。
思わぬ砲撃に長州兵が、たじたじとするのを
国司 信濃は鞍壺に踏ぞり返り、

「きたなし者共。 返せ、返せ。」

と指揮すると、長州隊は恥を知って、無二無三、
煙の仲を切って集まり、一橋勢を追いまくって
烏丸通りを南へと追撃しました。
その戦いの最中に蛤御門において猛烈な砲声が聞こえる。
これぞ豪勇・来島 又兵衛が会津方と決戦を致した
当戦争中の最大の激戦、
あれを助けよ、と勝ちに誇った国司勢は一橋勢を捨てて
蛤御門へと押しかけました。

蛤御門
31 IMG_4128 蛤御門.JPG

来島・児玉の一隊と国司は別れて御所に向かったが、
さらに二隊となり、一隊は児玉が隊長となり下立売門を
攻め、来島 又兵衛は会津が守備する蛤御門へ面も
振らずに突進した。
双方、いずれも手練の兵である。
恥を知る者だけなので銃身が裂けるまで打って、
打ち込みましたが、会津勢は手頃の所まで敵を引き寄せ
打ちますから、最初は長州方が優勢に見えました。
来島 又兵衛、こうと見ると怒髪を逆立てて、
馬上、声、振り立てて、


●蛤御門の激戦

来島は馬上で声を振り上げ

「これほどの敵勢、何かある。
今に伏見・山崎の味方、乗り入って勝負を決する時なるに、
他所に遅れて笑われな、者共、進め。」

と、叫んで、自分が真っ先に馬を乗り出して突進すれば、
この一隊の兵士は、これに励まされて敵、間近くまで
攻め寄りました。
会津勢においても、今は鉄砲、用に立たず、と白刃を
ぬいて切ってかかる。
会津勢は弱くはないが、決死の来島隊の猛勢い押されて
あわや蛤御門から崩れかかろうとしました。
その上、児玉の一隊は下立売門に向かいましたが、
守備の藤堂藩は、
義によって戦いを好まぬ。
長州も会津以外の藩を敵とする者にあらねば、
かたじけなし、と、この一隊も潮のように、
会津守備の蛤御門へ押し寄せた。
そうでなくでも来島の一隊でさえ持て余している折柄、
援兵が来たから会津勢は遂に退却の色を見せました。
阪本 角兵衛らは、きたなき味方かな、返せ、返せ、と
励ますが、何分、長州の鉾先は鋭く敗軍となった。
勢いを得た長州は蛤御門を乗っ取って、

会津中将は何所(いずこ)か。
松平 肥後守は何所(いずこ)にか。
首級、給わらん、

と、来島・児玉・国司の三手の軍勢は、ドッと、
凝華堂(ぎょうかどう・●幕府党の大活躍 の項を参照)
へ乱入したが、遺恨なり会津中将は、早や、宮中へ
参内した後でありました。

この上は、どこまでも突き入って御首、給わらん、と
勝ちに乗った長州は、公家門から宮中へ入らんとする。
それを入れさせては末代までの恥辱、と会津・桑名の
藩士は必死に防ぐ。
されど長州の勢いは破竹のようである。
すでに(会桑勢が)危うい折柄、乾門の方角から
薩摩の300が横合いから長州の真ん中にパラ、パラと
小銃を打ち込んだ。
不意の事であった。
思わぬ新手に、さすがの長州兵もたじたじとなる。

蛤御門・鉄砲の弾傷跡
32 IMG_4136 鉄砲の弾傷らしき跡.JPG


得たり、と薩州は打ち込む。
これに勢いを回復して会桑 二藩も盛り返す。

「此所をいずこと思う。
かく禁中へ乱入したからは生きて帰る命にあらず。
百騎が一騎となるとて、当の敵、会津の首、見るまでは
引くな、退くな!」

と、来島は励まして縦横にかけ廻る。
薩摩から打ち出す弾丸は見事に来島の脇壺を打ち抜き、
猛き又兵衛も馬上、たまらず転げ落ちました。
これから、長州の大勢、盛り返すこともなく、
次第に敗軍となって、この一隊の兵は散々に打ち砕かれ、
その上、伏見から来る福原 越後の兵が中途で食い止め
られて、来ないので手筈が外れて、崩れに崩れて、
国司 信濃は天龍寺へと落ち行きました。

又、山崎方面の長州勢は、大将・益田 右衛門介が百人を
従えて天王山に止まり、久坂 玄瑞、入江 九一、
真木 和泉は、同勢500人が19日の暁天に山崎を出発
しましたが途中において、伏見方面に銃声が聞こえる。
スハッ、福原の手の者は合戦を始めた。
急げ、急げと砂煙りを巻いて桂村まで来ると、
京都の方面に砲煙が見える。
寸時も猶予がならじ、と、ますます宙を飛んで堺町御門へ
押し寄せた。
この手には、久坂、真木などの沈勇がおりますから、
いきなり、発砲はやらない。
まず、おもむろに取るべき所を取り、尽くすべきを尽くし、
どこまでも天朝に対する誠忠を現わしました。


●久坂、寺島の たち腹

山崎から出発した長州兵500名は堺町門に向かい
ましたが、隊の首領・久坂、真木は5, 6名の兵と共に
堺町門内の鷹司関白邸へ参り、関白に面会を請うて
この度の上京の理由から事情を述べました。
関白は長州の申し分は理屈があるが、如何とも仕様がない。
返事に窮しておられると、長州勢は堺町門に迫ったり、
と聞いて、越前の兵は鷹司の邸宅へ向けて発砲に及んだ。
こちらは元より一戦を辞さない者。
敵から挑まれて、黙してはいられない。
久坂、真木は関白に陳情しているが入江 九一、
寺島 忠三郎は隊を率いて越前に抗戦しました。
戦争が始まると、桑名の一隊は越前に加勢する。
彦根藩も来る。
三藩の兵を引き受けて決死の500名は生命を
鴻毛に比して(命を捨てることを惜しまず)奮戦すると、
幕軍は持て余して苦戦の体となった。
弾丸は禁裏内に飛び、喚声がしきりに起こって公卿は
生きた心地もありません。

堺町門
33  IMG_4893  堺町門.JPG


その内、蛤御門の戦争が片付き、会津・薩摩はこの手に
(堺町門に)向う。
一橋も加わる。
戦いに疲れた長州、500人は、6藩の兵を相手にして
一歩も退かず、踏み込み、踏み込み戦う様は、
凄まじい、とも、凄まじき有様。
戦争は次第に激烈になって長州、小勢ながら勢い鋭く、
又しても幕軍は退色(ひけいろ)を見せる。
あまり戦いが長引き、かつ、烈しいから、

長州親子も上京を許して和睦をする事にしたらよい、

との説が、禁裏の堂上方から出ました。
今、ここへ和睦を持ち出せば幕府の威勢、全く地に落ち、
戦敗に等しき事になる。
一橋中納言は、

寸時も早く、長州勢を追いまくれ。
鷹司邸を焼き払え、

と、号令し、大砲数門を曳きして鷹司邸へ目がけて
打ち込む。
察したり、と長州兵は大砲隊へ打ち込む。
一進一退は、何時果てるべし、と思われません。

鈍き味方の戦いぶりよ。
鷹司邸を焼けば足溜まりを失って長州勢は、
破れるに相違なし。
誰か焼く者は、なきか。

と、激しき下知に命を賭して鷹司邸へ爆裂弾を打ち込んだ
者がある。
火炎、たちまち天を焦がして長州勢は四方を火に囲まれた。
今朝からの戦いに敵は新手を引き替え、引き替えるも、
味方に続く者なく、息つく暇もない。
しばし退いて気を養おうと退鐘(ひきがね)を鳴らすと、

それ、長州勢が敗北せり、

と、六藩の兵は潮のように寄せる。
身体は疲れ矢玉は尽き、猛火にあぶられて、
今は討ち死にと、刀のまがるのを直して取って返す内にも、
三条・池田屋で剛胆無類の振舞いをした安藤 鉄馬、
左手に手頃の松ヶ枝をかざして弾丸除けとし、
大刀を右手に奮って、勝ち誇る敵中に切って入り、
見る間に数兵を切って倒しました。
けれど轟然(ごうぜん)、一発の大砲が飛び来て
あっ晴れ勇士も微塵となった。
このように恥を知る面々、いずれも見事に戦死をしたが、
久坂玄瑞、寺島 忠三郎の両隊長は、無暗に討ち死にを
はやる味方をなだめて、

我らのように重傷の者はとにかく、傷を負わぬ者は
無益な戦死、するなかれ。
また山崎表に兵も残り、長門守殿も御詰めのため本国を
出発致されたから戦さの折は、これから、いくらもある、

と、諫め、一同は理にせめられて退き行く。
跡に久坂は、寺島ほか8、9名と何れも重傷の者ばかり。
地獄の火と燃える鷹司の邸内において、拳を固めて
腹、十文字に切腹して果てました。
その折、武士は最期が大事。
取り乱しては、と鏡を出して、鏡に面して尋常に
相、果てましたそうですが、26、7の青年の振舞いと、
今から思えば、とにかく、この連中は豪傑に相違ない。


次回、歴史の流れ 「勤王芸者」を読む 10
に続きます。
右欄の「テーマ別記事」勤王芸者 を参照。


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