歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む7 

●大久保利通日記 安政6年

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

【目次】(ほぼ時系列で掲載)
(日記)安政6年11月5日・30歳
      一 先月五日自 大守様以・・

(日記)安政6年11月9日・30歳
      一 同 九日 総州御再職・・
一 以上ノ事件ハ先鞭ヨリ・・
      一 名越左州御登雇相成・・
      一 十二月八日・・
           同
      一 同十五日・・
           同
      一 同十七日・・
      一 同十九日・・
           同晩 谷 夜入過・・
      一 君上別而御勉強・・
      一 右之外極機密之迄・・
      一  同廿二日 末川久馬・・
      一  同廿三日 四日比 御家老・・
      一  今日飛脚着・・
      一  御発駕被 仰出三月廿二日 ・・
      一  同廿五日御発駕
      一  十一月廿九日 立飛脚・・


――――――――――――――


安政6年 1859年 利通・30歳

【本文・意訳】
(西郷への書簡控え)
(茂久公の手書を授け、志士の脱藩を止める)

● 一 先月(安政6年11月)5日より
太守様(島津茂久公)の直筆で、ご内諭の要件を承り、
その次第は、この時世に嘆かれ、昨年来、
貴兄(西郷吉之助)の一条を初め、その後の同志の
突出(*一挙)の事実を聞かれた通りであります。
(*その)理由を、これ谷村(愛之助)から大山 正円
へ、伝えられました。
本書の件は、今の時世、万一、事変の到来の時は、
今こそ順聖院(島津斉彬公)様が、その趣意を継承され
国家、天朝を護られ、精忠を尽くされる思し召しで、
各々、国家の柱石となり、我等の不肖を助けける
ように、との、お頼りの趣旨、等々であります。
実名、花押が整い、精忠の士の面々へ宛ててあります。
よって、一同ありがたく拝承し、連名血判をして、
ご請書を差し上げますのでよろしくお願い申し上げます。
[及び、この挙の件は畢竟(ひっきょう・*つまる
ところ)貴兄のご趣意で、私共一同は決心を致しました
ので、この段、行動致し、ご連名を致します。]

これより先、豊州(島津豊後)の件は、多年の勤労を
御城代がひとえに賞せられ、仰せつけられました。

大久保利通日記
安政6年12月の條(本文1頁)
大久保利通日記(著作権満了)
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● 一  同9日(*安政6年11月9日)、
(藩の重職を更迭)

島津下総 殿は、再職を仰せ付けられました。
*島津下総(しまづ しもうさ)
当初、藩主・島津斉彬に重用され家老を務めていたが、
安政5年に斉彬が急死。
これにより、前藩主・斉興が藩政を後見することと
なる。
後、保守派に転じた家老・島津豊後(久宝)に
家老職を追われた。
[御軍役方、御勝手方、鋳製方、琉球産物方、
琉球掛、犬物(追税か)御製薬方など全ての掛を申し
付けられた。]

島津豊後 殿が家老を退かれたことのついては、
新納駿河、堅山武兵衛の上役、ひとえに、島津久光公
のご英断によるもので、
新納駿河【1】は、この日から病を偽り退職し、
堅山武兵衛【2】は、温泉で、これと同じ心持ちで
あった。
これは、ご攘除の筋により決められた事、とのこと。
【1】新納 久仰(にいろ ひさのり)
通称、新納駿河。
藩主・島津斉彬の歿後、斉興に重用され、
安政6年には軍役総奉行となるも、斉興の歿後、
罷免された。
【2】竪山 利武(たてやま としたけ)
通称、堅山武兵衛。島津斉彬の側近。
島津斉興、斉彬、忠義の3代に仕えた。

その後、蓑田 伝兵衛【3】は復職し、
三原 藤五郎は、お側用人を退き、
大野 四郎右衛門が復職され、
山口 喜三左衛門(御勘定方 小頭)、
福永 直之丞(御勘定方 小頭)は、退職され、
玉里掛(*玉里邸は、天保6年に島津斉興が
伊敷村に別邸を創建したもの) 御納戸以上、
御側役 御納戸奉行 御茶道に至るまで退職を願い出て、
免職を仰せ付けられました。
【3】蓑田 伝兵衛(みのだ でんべえ)
長崎在勤、後、久光の側役となり西郷隆盛、
大久保利通らとの連絡にあたった

[老公(斎興公)、ご逝去後、
官物(*官有物)を奪い、雇人が各々、私邸へ運送し、
これを奪い争う振る舞いは言語道断で、
実に極罪に処せられるべき件でありますが、
(*斎興公の)ご逝去の間もないことでもあるので、
彼らは許される御処置と伺っております。]



● 一 以上の事件は、以前より申し上げました通り
全て詳細が、分からない状態です。
その後の次第は、格別に変わったこともありませんが、
日々、盛大に帰向する勢い(*以前の状態に戻って
しまう状況)です。
山田 荘右衛門の件は、先月末、再び急に出府を
仰せつけられ、出立致しました。
[この件は、豊賊(島津豊後ら)が退職後、度々、
密かに密会し幕府へその意をことごとく通じている
天璋院様と結び、残った者らは、このため出入りを
せずの云々、これは(*彼らの)秘密の策略と伺って
おります。]

彼らの謀略は、もちろん、幕府の暴威は、とりわけ
嫌疑をかけて、十分にその処置をされる形になって
いると伺っております。

(御剣、献上の一件)
それ故、軍はもちろん、勤王の大御所、水戸・越前
・尾張などの三藩の結合の件、
かつ、貴兄(*西郷殿)の召し返しの件、
急々に英断出来かねる向きの折から、
京都へご献上のご剣の件が到来しましたので、

[この件は、朝命を賜わった島津斉興公がご在世中、
謹んで仰せつけられた波平(*なみのひら・薩摩の刀匠)
へ打方を仰せつけられ、完成し、御腰者方役人・
野村助七が上京していた所、京都に滞在し、拵方を仰せ
つけられ、折角、都合のよい時に豊賊(島津豊後ら)
から問い合わせがありました。
老公(*島津斉興公)が亡くなられたので、
太守様(島津茂久)拵方から、お断り申し上げる
ようにと。
御剣は完成してご献上すべきであるが、
斉興公が亡くなられたので、ご献上すべきでない
とのこと。
早々に御剣を持って帰藩するようにと申して来ました。
いきなりの近衛家の近衛家付医師・原田才輔からの
報告では、
「とりわけ都合悪く、違勅の名目まで被るので、
よろしく」とのことで、散々の首尾で、野村助七は、
帰藩しました。]

(*これは)実に国家の一大事で、忍び難く極罪で
あって、とりわけ、野村への仕業や建白の趣は、
このようであり、勅命の件においては、お家にとって、
前代未聞の慶事で、千年にも当たる名誉ですが、
ひとりの賊(島津豊後) の行為により御三代
(島津斉興・斉彬・茂久) 様の御名目は汚され、
特に太守様 (島津茂久)は、勤王のその志、
云々のご内諭を仰せつけらたことについては、
そのままにしておけば、人心一同は黙視するに至り、
もっとも、以後、どのようなご厳令があっても、
上手く行かないのは必定で、名分上の処置をもって、
極罪、相当の刑罰を加えられ、その人選をもって、
すぐにでも上京し、(*御剣を)献上しないことを
お断りの上、再度、御拵え方に、お願い、ご献上、
願いたく存じます。

これ幸いに、京都留守・伊集院太郎右衛門を交代させ、
松元十兵衛へ仰せつけられ、
岩下佐士(方平・いわした みちひら / ほうへい)
の件、他にも向いているが、学力もあり、
物事の違いをはっきりと見分ける者で、その任に
堪えられますので、是非、繰り替えを仰せつけられたく、
たとえ、この挙がなくても、この非常の時節、
御留守居の件は、有志の者が選ばれなければ済まず、
無上の機会なので、ぜひ、ご裁断なされたく云々、
願い奉ります。

島津茂久公へは、谷村愛之助
(*茂久公の側近・谷村 昌武(まさたけ))が直談し、
遂に上書し、防公(島津久光公)へは税所篤兄【4】
が建白し、總州(島津下総)へは、蓑田伝兵衛が
熟談の上、その趣意を伝えてその方策を回送しましたが、
何分、前件のご嫌疑の病根(*島津豊後らの策謀)
をもって、ご英断は成りませんでした。
【4】税所篤兄
税所 篤(さいしょ あつし)・薩摩藩の重鎮。
税所篤兄の兄は、~殿、~様などの敬称).

つまるところ、蓑田殿の趣意の成果の次第で、
その処置がなされなければ、事は成就しないので、
しばらくの間、国事を治め、決定することは成らず、
現在は、以前のように外事に手を及ばさず、沈静、
寡黙で、ただ変革を待つとの説に重きを置いて
おります。

島津下総殿の説も蓑田伝兵衛からのもので、
いよいよ、我が党の初心の志が達し難いところです。
防公(島津下総)の ご真意は、かなりのご英断では
ありますが、陰では後見の思し召しで権勢を避け、
万時、君意の説に従う忠義心で、その決議された
ことも遠慮なされる事件もあり、
[君側の正、不正の進退の件など、断然、思し召しを
なされますが、考え通りとのことではないこともあり、
町田 主馬などが話さない件は、ご明察の通りで、
かつ、島津下総殿も我が意ではないとの意見もある
とのこと。]

谷村愛之助、岸良 兼養(きしら かねやす・
島津久光の小姓。島津忠義父子と精忠組との連絡役
を務めた)が赤心片片(せきしんへんぺん・
全ての物事に真心を持って接する)であることは、
先君のご遺志を受け継ぎ復興することを自任し、
報国の志を無為にすることなく、
[君側の文武廃弛(ぶんぶ はいし・文武が廃れて
弛むこと)の懸案を起こして、その余り、
それを矯正する事件が、多々あることは、
この「赤心片片」の力によるところであります。]

(*谷村愛之助、岸良 兼養は、)島津久光と島津下総殿
との間に周旋し、二人の真意を窺うために大いに、
その道を開いております。
児玉雄一郎(島津茂久公の目附になる)は、
その過去を悔い、当分、二人の考えと心をひとつにし、
鈴木喜太郎は、木藤市助(*変名・芦原州平、
後の第二次・薩摩藩留学生でアメリカに留学している)
と同じである、とのこと。



(京都および関東の形勢)
●一 京都、関東の状況は、別紙の堀 仲左衛門
(伊地知 貞聲)の書状、徳田(*京都詰・徳田嘉兵衛の
ことか)の文面の通りですので、ご覧下さい。
堀 仲左衛門は危急の件について私(大久保利通)に
出府(*幕府のある江戸に出ること)することを
願い出ました。
何分、前条のとおり、以前から手を拱(こまね)き、
趣意を表さず、事を為すことについては、その裁断は、
難しいので、堀 仲左衛門に万一、難儀があれば、
同志は、とても傍観致さないと存じます。
もし、そのような事態に及べば、国家の難題に相違なく、
いつか出府を仰せつけられれば、ご当地の状況は、
天皇のあらせられる地であり、
かつ、防公(*島津久光公)、總州(*島津下総公)の
ご趣意の云々を相、通したいので、
畢竟(ひっきょう・要するに)お国元の事情の詳細を
間違えますので、急いで決心したい訳であります。
しかし、何分(*なにぶん)にも大事な一条ですので、
書面でも申し難く、よって、出府の上、しっかり
申し諭し、どこまでも、ご趣意を貫き、請書を差し
上げたく、初志をもって、防公(*島津久光公)、
總州(*島津下総公)へ願い奉るものであります。

[防公(*島津久光公)へは、岸良彦七、
総州(*島津下総公)へは、谷村愛之助から
篤与(とくと・しっかりと)事情を建白し、
蓑田氏へは、直談出来る機会が、相、成りました。]

ところが、都合悪く、当日、島津久光公のご登城なく、
島津下総公と蓑氏の評議で、さしあたり、堀 仲左衛門
に申し渡し、当日、町飛脚で、お問合せがなされ、
事情を聞き取られるとのことに決まり、翌日、
島津久光公のご登城、その議定の際の相談で、その通り
ご同意が成りました。
その翌日、蓑氏から申し合わせたいことあるとのことで
来られて、ご内諭の趣旨は、何分、国家の大事のことで、
急いでご裁断されたいので、さしあたり、堀 仲左衛門
を召された事情をお聞き取りの上、その処置をなすとの
ご吟味で、内分にお達し申されるよう、ご承知のほど
願いますとのこと。
また、児玉雄一郎(*島津茂久公の目附)からも、

[島津久光公の意を得能良助(島津久光の近侍・
得能 良介のことか)をもって密路を開いた
(*難儀な問題の解決の糸口を開く)ので
委ねることになりました。]

その前日、しっかりと事情を申し含めました。
島津久光公へも、また、その趣意を残すことなく
申しつくして、かつ、堀 仲左衛門の件も

「万一、却下となった場合は、危急を顧みず亡命して、
必ず、隠し事を計画することは、日頃、決心している
ところであります。」

と申し上げましたところ、島津久光公も至極、
驚かれて、そのような訳であるなら、何故、早く
知らせないのか、とのこと。
島津下総公から様々な議定の段、承知致し、
もっともであると云う風に同意致します。

(藩庁、利通の出府を拒む)
そうでなければ、必ずここに及ぶことになり、かつ、
大久保(*私) の出府致す件は、その事情が達して
いますが、同志が承服しなければ、皆、同じ行動を
起こすことになるのでは、ないでしょうか。
如何なることにて、この件については、
しっかりと彼(*私・大久保)が心得て、云々、
心を決めることで、その点では、疑う余地のない
ところであります。
いずれにせよ、これは、出府しなければ、なされ難く、
もし江戸の有志が暴挙を起こせば、いずれ国家の大事で、
正義を重んじる心意気を(*義侠心)を挫折させること
に該当し、この衰世にあたり、挫折すれば
(*暴挙を起こしても)思し召しがあると云う訳には、
決して、そう云うことには、
ならないところであります。
何分、この件については、明日、登城の上、
再度、ご評議がなされ、昨日、町飛脚を出され
ましたが、また(*町飛脚を)出しても十分、間に合う
ところです。

何分、これほどの心底(*意志)なので、ご安心下され、
御意(*藩公の意向)が、為されるのは必定であります。
島津下総公と蓑氏のところは、よくなされ、
もし(*大久保)を出府させれば、無謀なことを
醸し出し、(*出府は)名目だけなのは必定で、
別に何か策があるのではと、疑われるので、その趣意は
達っせず、また、島津久光公のところは了解されるので、
とりわけ、うまくゆき、その時期によっては、
その趣意は達っし、これからの再度のご評議次第ですが、
まだ(*その趣意が達したことは)申し渡されて
おりません。
島津久光公も勅命されれば、なお、ご猶予遊ばされ云々、
これを、ご決定あらせられるとのこと。



●一 名越左源太【4】、岩下方平【5】、御登用と
成りました。
[かつての お側用人、軍役奉行であり、毎日、
ご機嫌を伺い罷り出ているとのこと。]

【4】名越 左源太(なごや さげんた)。
諱は、時敏、時行とも。
お由羅騒動に連座し、奄美大島に流される。
安政元年7月29日に赦免。
流刑中に残した著・南島雑話が知られる。
以後、寺社奉行などを歴任した。

【5】岩下方平(みちひら/ほうへい・岩下佐士のこと)
*前述 で利通が岩下方平を推挙した件が実現した形と
なった。
以前、方平は江戸で水戸浪士と連携していたが、
安政の大獄で挫折し帰藩。精忠組に参加していた。

藩の中枢に(*二人を)置かれ、軍備、治定の趣意で、
その趣意に沿っているとのこと。
平田仁左衛門は、お側用人を承知されていましたが  
未だに要望されていません。
(お側役、仰せつけられたのこと)
両日中に、要望されるとのこと。
何分にも昔に比べると天地の隔たりが懸念される
次第で、日々、まさに勢いの向かうところ、何分、
得がたい この時節でありますので、あれこれと
ご観察されるべきであります。
山田荘右衛門の件(*20-4 参照)は、参勤の前に、
ぜひ帰府されるべきであり、
貴兄(*西郷隆盛のこと)も来春には、
太刀頭(*軍事方首領)の時節があるべきで、
一同、誠にそうなるようにと願っております。

○島津左衛門は、池ノ上(*何がし・何とか)
から上書した趣意は、君側、(*すなわち)谷村昌武、
児玉雄一郎(*島津茂久公の目附)、岸良 兼養
(*島津久光の小姓)らが組み合い、新役の人々を
巻き込んで、いろいろなことを謀略しているとのこと。
(*これは)非常に良くなく、終わりには君主の人徳を
失うことになりかねないとのこと。
島津茂久公から下札(*さげふだ。
ここでは、下げ紙の意で、上役が意見や理由などを
書いて 文書に貼りつける紙。付箋のようなもの。)で、
どういう訳で君主の人徳を失うことになるのか、
子細を逐一、申して見よ。とのお尋ねがあると、
たちまち、様子が一変し、三人の事ではなく、
新役の懸案のことですと、(*島津左衛門は)
お答えになったとのこと。
(*島津茂久公へ)直々にお話で、そのように
申す者もありました。
(*これは)何分にも大事なこと。
この者は、上役の人で、磯永喜之助と懇意のひと
だそうです。

○新納次郎四郎も三人の者と、いろいろと事を
起こすので悪し様(人を悪く言う)に申されるとこと。

○この事からお供の件は、遠慮されたく、両、三度、
申されました。
何と心得ているのだろうか。
(*島津茂久公は)辞退ともご存知ないとのこと。

○平田仁左衛門の件は、思し召しがあると、
申し含めがあったとのこと、
しかし、また、その心底には、その意志がないのでは
と危ぶむところがあり、谷村昌武・岩下方平(か?)
は共にそう思っていたが、それは非常に心得違いで
ある。
しかし、この上は、そのようなことは決してないと
申し置くとのこと。

○ふたつの説が判明した件は、ご明察の通りです。
以上、島津茂久のお考えであります。

島津茂久公は、文武に ご精励。
○島津茂久公は、とりわけ、ご勉強で、一時も御所で
暇を持て余すことは、そのようにあらせられず、
もっとも、火鉢は取り替えられないのですが、文武に
勤められ、武芸の折は裸足で、毎日、ご欠席なく、
坐られては、机に寄りかかかることなく、始終、読書、
或いは時に、ご近侍の列に坐り、自身で講釈をなされ、
一同の者が順に講釈、申し上げられるとのこと。
或いは、外史(*歴史書)などを繰り返し読まれ、
次には、三楠実録(*楠正成、楠正行、楠正儀の
構成で、畠山泰全作。
享保6年刊)などをお読みになられるとのこと。

○ある朝、谷村昌武へ槍を鍛錬するようにとの御沙汰で、
谷村は仕え、恐れながら御前へもお遣いを望まれ、
島津茂久公も、そうされたとのこと。

○気性が激しい者でなければ、お目に叶わず、
容貌、見せかけの者は、宜しからずとのこと。



(参照)
◎当時の薩摩藩(登場人物) *印は、精忠組。
●島津茂久(忠義) [総州]
   目附・児玉雄一郎
   君側・*谷村昌武

○主席家老・島津左衛門
登用
 名越左源太
 *岩下方平

●島津久光 [防公]
   側役・蓑田伝兵衛 
   小姓・岸良兼養
   (*堀 忠左衛門/伊地知貞馨)
*大久保利通、*西郷隆盛ほか



●一 右の他、機密を相、洩らし
(児玉雄一郎から島津茂久公へ伺われた一条、云々)
かつ、また、堀 仲左衛門(*伊地知 貞聲)の書状、
大山三左衛門と別にきた書状の件は、
疑わしく思えるが、同志のことであるので、
一紙にすべきである(*書き留めるべき)ところ、
何か訳があるところは、ないであろうとのこと。
もっとも、このような疑念は容易に分からず、
必ず子細があるべきである。
(*なので)谷村昌武に尋ねられたので、
私(*大久保利通)は答えた。
それほどお尋ね下されては、お答え申し上げなくては
ならないが、何分、ひとの上にも関わる件なので、
黙って見守るわけにもいきません、
しかしながら、不用意に機密の訳を聞いてしまった
上は、私も、また、心を明かし、申し上げない訳には
いかず、子細は、このような次第であります。と。
(*このように)残らず、ふたつの説を打ち明けた
ところ、(*谷村昌武は、)とりわけ、驚いて、それ程、
承れば、(*私も)実はいろいろと考えていました。
(*そう言う)次第であります。と、谷村昌武の
心底も承りました。

○私、大久保ら有志は、(*両方の説の)両立の件に
ついては、止められずとは申しながら、実に国家のため、
非常に嘆かわしいところで、かつ、容易に解明しようとも
むつかしく、これを解明するには、西郷隆盛が帰れば、
双方、事の運びが両立する、(*すなわち、)
西郷隆盛は、先君・斉彬公のご趣意を子細を承知
している者なので、島津久光公へその説を
説明されれば、もっとも信じられることは、
異論のないところであります。
蓑田伝兵衛(後の島津久光の側役)と云えども、
これには異議なく、よって、出来るだけ早く(*西郷を)
召還されたく、これについては、非常に懸念のかの
一條は、彼の輩下から起こったものであり、
その思いやりは、とかく薄くて、いずれ西郷隆盛側は
夢中になって島津久光公へ説明され、ご尽力なされば、
「子細承知」の返事があると云うことなど。

○この上は、我党、どのような汚名を蒙るとも
苦しくなく、ぜひ、そちらから疑われる趣意を
説明されたく、一同、願い奉りますと、
申し述べ置くとのこと。

○島津茂久公、ご参府前のご湯治の件、
申し入れ置くとのこと。

○平田仁左衛門、名越左源太へそちらから説明を
されたく、申し入れ置くとのこと。その他は、略する。



一 12月23日、24日、御家老・川上式部[久美]、
大目附・菱刈杢之介(*が、任じられた。)

一 今日飛脚が着き、堀 仲左衛門(伊地知 貞聲)から
一通の手紙が届き、江戸の形勢は無策なので、
絶えられず腹立たしく恨む、とのこと。

(御発駕の時期)
一 お駕篭(かごで)3月22日に仰せられて、
3月6日(*おそらく、3月26日のこと)に
に旅立たれる、とのこと。

一 同・25日、駕篭(かご)で出られ、お供に
川上式部が御勝手方、琉球産物方、その他の掛を
仰せつけられ、主席家老・島津左衛門、
川上筑後[久封] 、大目附・菱刈杢之介が、
演武館、造士館【6】などの掛を仰せつけられ、
何ひとつ、島津斉彬公のご在世と同様との事。
【6】造士館(ぞうしかん)
三国名勝図絵(江戸後期、薩摩藩が領内の地誌や
名所を記した文書)によると・・
府城の南 坂本村に属す、府城 二之丸の前なり、
本府の学校なり、外門には、仰高二字の額を掲く・・
とある。
演武館(えんぶかん)
府城の南 坂本村造士館の北隣にあり、安永三年、
大信公 始てこれを起し、武を講し兵を教るの所とす・・
とある。)

三国名勝図絵・造士館の図。
五代秀尭、橋口兼柄 共編 明治38年
(著作権満了のものより)
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(江戸の情報が到達する)
●一 11月29日に立った飛脚の大略では、幕府の
勢いは、非常に強く、水戸藩・高橋多一郎、
金子孫二郎は、永押込(おしこめ、無期限の謹慎)、
野村つね之介、弓削、大湖隼蔵(か)、関鉄之介は、
お役御免で小普請になり、これは、もっとも、
内々の処置と見受けられます。

○(*水戸藩)斎藤監物は、神職頭で二百人近くを
支配し、御朱印地領は、容易に動かし難く、
この節は、これを免れ、この人の出国論は一定の
ところ、相、通じるとのこと。
(*後、監物は、桜田門外の変に参加、重傷を負い、
熊本藩へ預かり後、亡くなる。享年39歳。
贈従四位。)

○伊勢津藩・藤堂高猷、ますます幕府に組んで、
越前・尾張・土佐の老候のことを井伊大老へ悪様に
吹き込んでいられる、とのこと。
細川藩、 加賀藩は、藤堂高猷を非常に頼りにしている、
とのこと。

○高松藩・松平頼胤(よりたね・井伊大老側の人物)
は、溜之間(*伺候席(しこうせき)で、登城した
大名・旗本が将軍拝謁の順番を待つ詰所、
控えの間のこと)を御免。
これは、水戸藩に対しての処置、とのこと。

○仙台藩は、志、十分にあると思えるが、
大夫(*家老)以外の者に人才が無いと思われる、
とのこと。

○井伊大老側の勢力が増々助長し、 間部詮勝は、
大老との間に隙間が生じ(*当時、詮勝は日米修好
通商条約の勅許を得て成果を上げ、幕政の主導権を
握ろうとし、井伊直弼と対立するようになっていた。)
5,6日後より登城がない、とのこと。

○仙台藩から例年、幕府へ献上の馬も他へ売り出し、
献上の馬も取り止めになった。
これは、届出によると、春末から夏初の洪水で、
馬の子が溺死したと云う事、によるとのこと。
国内産の米も、他藩へ出さない、とのこと。

○長州の吉田寅二郎(*吉田松陰)は、死刑。
小林民部(良典)【7】は入牢中に、去る24日、
そこで病死とのこと。
鮎澤伊太夫【8】は、 再吟味で、去る25日、
豊後の森・豊前の国(*豊後佐伯藩)へお預けに
なりました。
この者は、軽罪となりました。
【7】小林良典(こばやしよしすけ)
(民部権大輔小林良典霊)
福井藩・橋本左内らと交わり、
安政5年に前関白・鷹司政通を攘夷派に転向させ、
有力な公卿を一橋慶喜派に加えるも、同年秋に
捕縛される。
肥後人吉藩へ永預けとなり、出発前、
翌年の11月24日(19日とも)、獄死した。
享年52歳。贈位五位。
京都霊山護国神社、左京区長徳寺に墓。

京都霊山護国神社・小林良典の墓
03-IMG_9007 小林 良典.JPG

【8】鮎澤 伊太夫(あいざわ いだゆう)
水戸藩士。高橋 多一郎の弟。鮎澤家の養子。
勘定奉行、後、安政の大獄で豊後佐伯藩に
禁固となるも、3年後、許され京都に。
明治元年、水戸に帰り、奥羽征伐に参加し、
10月1日、戦死。享年45歳。贈位四位。

○日下部 伊三次の件は、 なんとも気の毒で、
後の家族はかわいそうである。
御留守居役は以前から罪状を知らず、
主人へ難儀を押し通し決起した次第。
お許し願うは、(*留守居役は)何の為か知らず、
ついては、息子から上野・寛永寺、増上寺の両山へ
願書を認め、祐之進(伊三次の長男)は妹の名前
で願書を出し、度々、都合が良かった、云々。

[*だが、伊三次、祐之進、共に捕縛され、拷問の後、
獄中で病死した。
伊三次は、元薩摩藩士・海江田訥斎連の子。
父が脱藩して水戸藩にいた時の子の関連で、
家督は薩摩藩士・有村俊斎が海江田 信義と改名して
継いだ。
海江田 信義は、明治期に西郷隆盛、大久保利通の
遭難に際しても、その死を悼んだ人物として
知られる。]

天下泰平が久しく続いたせいか、心、これある私目は、
気持ちが引き裂かれる思いであります。
もっとも、水戸藩もこれを阻止しようと申すことなく、
遅くも早くもなく、その勢いを待つような状況で
あります。
水戸藩はこれまで手段を尽くさず、水泡に帰すと
云えども、策略が成功することもあり、失策に陥る
ことは致さないと、権納右衛門(*この人物、
特定できず)も国許から来られました。
水戸藩を捨て、一挙をすべく、いろいろと愚かな考えを
するも、苦心して思いも焦り、十分な2、3の対策を
立てても、既にご相談申し上げ、
また、決挙をしたくても面前の有志は、
藩で論争するばかりで、なかなか勢いに応じることが
できず、恨み、憤(いきどお)り、何とも申しようが
ありません。
その上、我らから2、300人も京都へ差し送り、
この勢いに乗じて、諸藩に説明しようとは、相、無く、
動きが違うと存じます。
水戸藩・斎藤監物が遠からず来られて、結論を出すと
申しますので、このことだけを待つことにして
おります。
この節、またいよいよ結論がなければ、右(*上記)
の策 以外、動かしようがないと熱く申し上げたく、
(*これが)事の発端ではありますが、
紙上ではこのことの云々は、省略致します。


次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む8
大久保利通日記 上巻 に続きます。



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