歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む17

●大久保利通日記・文書 文久2年

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

【目次】(ほぼ時系列で掲載)
文久2年・33歳

(日記)大久保利通日記・上巻・第2巻.
文久2年(1862年)四月一日 ~ 四月六日

(文書)19・参考1 (文久2年春ごろ)
 (西郷と横死を計るの條)(要点)

(日記)大久保利通日記・上巻・第2巻.
文久2年(1862年)四月七日 ~ 四月十一日

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大久保利通日記・上巻・第2巻.
【大久保利通日記】から 文久2年(1862年)
(本文・意訳)

4月1日 晴
関から40里ぐらい。

一 平郡島に波が打ち寄せ、北風、強く、
とても航行が出来ない状況である。

残花
 先(咲き)出でて、時をまかる(変える)
散る花の 色こそ道の守りならんや

 先(咲き)出でて、散りゆく花は なかなかに
 時をまかわぬ(変えない)色香ならずや

七ツ( 朝、4時頃)、少々、波浪が回復し、
解纜(かいらん・碇が解き放たれた・出航)した。
(*しかし)またまた夜半、波浪が高く、又、
ハツハと云う島(*詳細不明) へ波が打ち寄せる。
平郡島より10里ぐらいのところ。

平郡島から御手洗へ
IMG_0172 ★★平郡島・御手洗- (1280x960).jpg

4月2日 晴、
又 ハツハ(*詳細不明)を出航し、7,8里、就航し、
五ツ此(午前8時頃)から雨になった。
九ツ時分(*お昼12時頃)に、また、雨も止み、
凪(なぎ)になった。
七ツ時分(午後4時頃)、 御手洗の近辺は、
波浪が高くなく、着港の状況が良かった。
しばし上陸し、風呂に入った。
(*後) 直ちに乗船し、大鐘ごろ(午後6時頃)
出航した。
夜、四時分(午後9時頃)、入江イチ(*詳細不明)と
云うところが着港の状況が良かった。
仰いで(顔を振り、か?)、難波に行こうとする船中で、
   君が為  砕く心は あら磯の
     岩間にあたる 浪は ものかは

4月3日 曇り、
今日は、順風ではなかったが、
六ツ半時(午前7時頃)入江から出向し、
九ツ頃(お昼・12時ごろ)備後・鞆前
(とものまえ。鞆の浦・現、広島県・福山市
沼隈半島の南東にある港湾)を通過した。
昼後、順風となり、4,5里ほど就航し、
七ツ時分(午後4時頃)、讃岐・金毘羅前を過ぎ、
高松城が遥、彼方に見えた。
暮れ前に波が高くなり、備前・下津井と云うところに
かかり、しばらく上陸し、風呂に入った。
随分、賑やかな場所である。
五ツ前(午後8時前)に出航し、上戸島(小豆島)
の前辺りで、夜明けを迎えた。
上戸島(小豆島)から10里ぐらいである。

御手洗から下津井へ
 (左側の緑の線は、現在のしまなみ海道、
  右側は、瀬戸大橋 )
IMG_0174 ★★下津井へ(1280x960).jpg

4月4日 曇り
夜明け頃、景色は云うことなく、
遥に壇の浦を後にして、非常に感、無量である。

  天が下(*空の下) 春を占めるたる花にして
    やがて矢島の 秋の夜の月

今日は、風、なし。 七ツ時分(午後4時頃)、
播州・室前(*詳細、不明)を過ぎ、 
姫路の前あたりで、夜になり、小島は波浪が高く、 
九つ時分(午前0時頃)出帆した。 
この日、赤穂の城を遥に見て
  
  この城の 根張りたる 大石の
    動かぬ道を 世に照らすかな


4月5日 雨
今日は、夜明け から風雨が強く、 淡路島あたりで
帆をかけたが、やかて、ますます強風となり、
明石の手前にようやく、到着したが、波浪が高く、
少々、進んで、明石あたりに通りかかった。
昼ごろから、凪になったので、そろそろ出帆し、
一の谷の前を通り過ぎた。

  千代を経し みとり松原 一の谷
    魁し名の色 そえにける
(意訳)
  長い月日を過ぎた 緑の松原 一の谷、
  これから先も その名は、
  色、鮮やかに続くでしょう。

やがて帆を揚げ、兵庫・和田の原を過ぎ、
兵庫前・伊丹あたり(*伊丹は内陸地なので、
現・尼崎沖と推察できる。)を過ぎた頃には、
日暮れに入った。

★(利通、大坂着)
夜になり、五時分(午後8時頃)、
大阪(*蔵屋敷)に到着した。
加藤十兵衛に照会したところ、▲

(*西郷どん等は、下関から3月26日に大坂に着き、
大坂・薩摩蔵屋敷に入らず、加藤十兵衛という者の
屋敷に入り、伏見に向かった。
そのことを利通が聞き付けたので照会した。)

▲ 堀 仲左衛門は、先刻(*利通と入れ違いで)
(*島津久光に逢いに行く)その途中で、
(*利通は、堀の)出帆のことを(*加藤十兵衛から)
聞いた。

下津井から大坂へ・概略図
IMG_0183 ★★大坂蔵屋敷へ (1280x960).jpg

大坂・薩摩蔵屋敷から京都・伏見屋敷までの航路。
(三栖閘門(みすこうもん)資料館のパネルより。
画像処理済み。)
IMG_4493 ●淀川の氾濫実績(1280x960) - コピー - コピー.jpg

江戸時代の淀川の景観
(同上)


4月6日 晴
★(利通 伏見着)
今日、早朝、留守居(*大阪薩摩蔵屋敷)へ
行き、四ツ時(*午前10時)に出帆し、
(*京都)伏見へ向かった。
夜に入る前、伏見(*京都・薩摩屋敷)に着いた。

伏見・薩摩屋敷跡
大久保9    IMG_2318●.JPG

そしてお仮屋へ伺ったところ、本田 弥右衛門
(本田親雄)その他、西郷吉之助、森山信三、
村田新八の三士は外出しており、兼春に一宿し、
四ツ時(*午後10時)、(*彼らが)帰館したので
伺った。

★(*利通、西郷と面会する)
(*そして)いろいろ京都・大坂の様子などを聞き、
とりわけ、良い機会であった。
また、西郷吉之助と少々議論して、
一杯、振る舞い、まずまず、安心して、
鶏が鳴くまで(夜明けまで)に(*議論)に
及んだ。


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(文書)19・参考 利通日記抄
(西郷と横死を図るの条)
  明治31年1月19日
(文久2年4月頃の状況)
(要点)
文久2年4月、久光公、上京の途中、
西郷は事により久光公の激怒に触れ、
まさに死を賜わらんとするところ、

(* 4月6日、
上京途中の薩摩藩国父・島津久光が姫路に到着。
下関で久光を待てという命令を無視して
大坂に向った西郷隆盛(3月26日に大坂、着)
の捕縛を命じた。)

当時、利通は大いにこれを憂い、西郷と共に横死を
図ろうとしたことがあった。
ここに、以下、参考として本田男爵から
税所子爵の書簡をもとに、
次回・歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む18
に、掲載します。

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4月7日 晴
★(利通、下坂)
今、九ツ時分(*お昼12時頃)、出発し、
(*大坂・薩摩蔵屋敷へ)帰帆の途へ。
天気は良く、格別の景色である。
(*帰途)石清水八幡宮(*旧称・男山八幡宮)に
参詣し、心願した。
もっとも、狐渡り(*狐の渡し。
西国街道と京街道を結ぶ重要な役割を果たしていた
山崎と対岸の八幡の渡船場のこと。
川の流れが狐の七変化のようにかわることが由来。)
と云うところから上陸し、橋本へ下り、乗舟した。
七ツ時分(*午後4時頃)、大坂蔵屋敷に着いた。
夜になり、舟の手当(*準備)をして
大蔵谷(*兵庫県明石市にある)へ
(*久光公を迎えるためにそこへ)向かおうと
すると、順風であった。


4月8日
★(利通、大蔵谷に着き、久光公を迎える。)
今日八時分(*午後2時頃)、大蔵谷に着き、
(*久光公一行の)舟は、まだ到着していなかった。
七ツ時分(*午後4時頃)、 まだ行列は滞っていたが、
行列より先に堀(*堀 仲左衛門)が、先に(*大蔵谷に)
着いたので、いろいろ話を聞いて、
また、西郷隆盛の一件は、(*堀は)承知し、
(*堀に)いろいろなことを申し添えておいた。
奈良原 喜八郎(*有村 雄助の友人)、
有村武次(*有村俊斎、後の海江田 信義)、
が来て、いろいろなことを聞いた。
大鐘時分(*午前0時頃)、堀 仲左衛門に少し
会ったが(*状況は)分からなかった。
よって、小松帯刀へ伺い、いろいろ(*話した)。
(*その)帰りがけ、堀と出会い、旅宿に同伴し、
いろいろと論議した。
(*後)本陣へ行ったが、既に(*陣を)
引かれていた。

大久保利通日記・上巻・口絵
(著作権満了のものより)
IMG_0173● (1280x960).jpg

*4月8日の日記は、利通が一貫して西郷の処分
(久光の捕縛命令)の状況を把握しようとする行動
が描かれ、簡潔ではあるが、利通の西郷への思いが
吐露する文となっている。
西郷は、島津斉彬への思いが強く、
一方の利通は、この時点では島津久光ありきの精忠組。
すなわち、久光の精忠組の取り込み・それによる
利通、税所・堀・吉井らを側近として抜擢、
活躍したのであった。
この日は、利通にとっても大事な分岐点でもあるが、
それを知るべきか、原書「大久保利通日記」でも、
この場面の重要性を示唆するかのように、口絵に、
この日・次の日の日記に【原文】の写真を掲載している。


4月9日
★(久光公、兵庫に着。 西郷が来る)
今日は、(*私は)お供で 六ツ前(午前6時前)
に出勤。
六ツ半時分(午前7時頃)、お発ち。
七ツ時分(午後4時頃)、兵庫に着かれた。
大島(*西郷隆盛)、突然、来たことなど。
 
★(利通、西郷、共に互いに決心するところあり。)
心中は、なかなか我慢出来ないところがあるが、
もっとも、森山信三、村田新八らも来て、
有村武次(*有村俊斎、後の海江田 信義)も
宿へ来た。



*同日、「西郷南洲選集. 上」
谷口武 [編]著 (読書新報社出版部, 1944)
によると・・
四月九日、(*隆盛) 兵庫に赴き、
久光の宿舎に至って面謁せんとす。
大久保利通 密にこれを海濱に誘ひ、
久光の立腹 甚だしいことを語り、
なほ、事 茲に至つては、もはや前途の望も
ないから、共に死せんといふ。
隆盛 これを慰諭して止む。
          と、ある。
すなわち、【大久保利通日記】本文の
「従容として許諾」、「安心二而無比上」。
この二句が、西郷と大久保の一切を物語っている。



(*そして、西郷に)しっかりと申し含めたところ、
ゆったりとして、その意を承諾した。
何分、このような状況なのでこの上なく
安心した。
よって、久光公へお伺いして、
奈良原 喜八郎(*有村 雄助の友人)、
有村武次(*有村俊斎、後の海江田 信義)と
私目が、同船し、大坂へ舟を廻すようにとの
ご沙汰であった。
今晩、舟の都合をしたが、順風でなかったので、
出航が出来ず、私目は旅宿へ一宿した。

4月10日 雨 
★(利通ら、 大坂着)
今日は、大雨で、 四ツ後(*午前10時過ぎ) 
晴れて、すぐに出帆し、八ツ時分(*午後2時頃)、
(*大坂に) 到着した。
もっとも上陸はせず、届を申し出ることを
承知しているので、小松帯刀殿へ届を申し出た。
夜半、12時頃、(*上陸して) ご用で伺ったところ、
(*西郷については)今晩中に出帆出来る舟が
あるので乗船し、お国元へ帰られるように、
とのことであったので承知した。
一 今晩中に舟の準備は整わなかった。

*同日、「西郷南洲選集. 上」によると・・
四月十日、(*隆盛) 大久保等に送られて、
海路 大坂に至る。
     と、あり、符号している。

4月11日 晴
★(西郷隆盛、乗船して帰藩へ)
今日四時分(*午前9時頃)、出帆につき、
本船へ三人(西郷、村田、森山)が乗船し、
我ら三人は(大久保、堀、海江田)見送った。
(*そして)そのことを小松帯刀殿へ申し届けた。

一 私目は、西郷隆盛の一件については、
春の初めに請け合い、申し上げた趣があるので、
小松帯刀殿へ申し出て、これにより、
出勤を差し控えた。

一 吉井友実、海江田、奈良原 喜八郎、
本田 弥右衛門が、旅宿へ来た。

一 今晩 又、本田 弥右衛門が来た。
岸良七之丞も。


次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む18
大久保利通文書 巻1
(文書)19・参考 本田親雄より税所篤への書翰
(西郷と横死を図るの条)明治31年1月19日
(文久2年4月頃の状況)
に続きます。



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