歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む18

大久保利通文書 (文書)19・参考1

文久2年 1862 33歳

(文書)19・参考1 本田親雄より税所篤への書簡
(明治三十一年一月十九日)
(文久2年4月頃の状況)
*注記。原文には句読点は無い。

(要点)
文久2年4月、久光公、上京の途中、
西郷は事により久光公の激怒に触れ、
まさに死を賜わらんとするところ。

(本文・意訳)
文久2年(*1862年)の春の頃、私(*本田親雄)は、
伏見の藩邸にいて、島津久光公が近い間に上京される
ので、その様々な用意に忙しかった。

[ 公(*島津久光)は、この時、和泉と称されたが、
諸国の有志、浪人が非常に多くいて、京・伏見に
集まって来て、これ(*島津久光公の上洛)を
待っていた。]

公(*島津久光)は、去年来、藩内に布告して、
わが三州(薩摩国(薩州)、大隅国(隅州)、
日向国(日州))の総力を挙げて、
朝廷の為に力を尽くそうと、時の幕府をも
少しも気にすることなく、公然たる訓令を発し、
これを伝え聞く諸藩の有志は、勤王の志を果すのは、
この時、この人(*島津久光)であると、
雀躍(じゃくやく・こおどりして喜び)奮起して、
久光公の上京を今や遅しと、指を折って(*数えて)
待っていた。
(*彼等は) 京都・伏見の藩邸に押し寄せ、
久光公の挙動を探り、(*その上京の)意志を
訊ねるなど、その状況は、今にも討幕の一挙に
なろうかと云う騒ぎでひしめき、
(事がややこしいので、略す)
筆で紙に書くにも尽くし難い光景であった。
この時、公(*島津久光)は、同じく3月16日に
鹿児島を発たれ、播州・室津に着かれたと聞く。
折しも、南洲翁(*西郷隆盛)は、森山新蔵、
村田新八の両士を伴い、我が(*薩摩藩)伏見屋敷に
来訪してきた。
(*西郷隆盛は)大島から帰って来たと聞いていたが、
何の音信もなかった頃なので、急に顔を見合わせて
何と言えばよいのか、言葉が出なかった。
(*そして)無事を祝し、時世の事などを語らった。
この時、堀 二郎(伊地知貞馨)も江戸から来ていて
ここ(薩摩藩伏見屋敷) にいた。
翁(*西郷隆盛)は、大島三右衛門と変名して、
幕府の嫌疑を避けて、外に出るのも深笠をかぶって
いた。
翁(*西郷隆盛)がこの伏見屋敷に来た事を探り
あてて、平野二郎(筑前藩士)が訪ねて来て、
その面談は、深夜に及んだ。
次の日も、他藩の者が訪ねて来ることを避けて、
文珠と云う旅店の奥まった坐敷で、翁(*西郷隆盛)
と人々は、終日終夜、語り暮らした。
だが、ここも又、薩摩の人々が泊っているとして、
翁(*西郷隆盛)は、煩わしい事だけが多かったので、
(*文珠と云う旅店)を去って宇治の里あたりに
物見に行こうと連れ発った。

(*その後) 萬碧楼(まんへきろう・*当時、
宇治の平等院近くにあった宇治を代表する料理旅館。
頼山陽が風光を賞して名付けた。
2006年から中村家が管理。
遺存建物をそのまま残し、外観をそのままに、
内装のみ改装して営業している。)
に行き、
朝日山(*宇治橋から約1キロ上流の宇治川右岸
にある標高124mの小山)の前を流れる清流に臨んで、
酒を酌(く)み交わしながら
「浮世の外なりけり」と翁(*西郷隆盛)は、
非常に喜んで、「今宵は爰に宿りぬへし
(今宵はここに宿泊しよう)」と決めた。

後、初夜(*宵の口、現在の午後8時ごろ)に
なる頃、使いの者が来て、伏見からの文と
云うことで、差し出したものを見ると、
大久保利通からの急報で、公(*島津久光が)
兵庫に滞在している(*と云う)。



*本文では、「萬碧楼に行き・・」とあるが、
他文献(維新の史蹟・昭和14年刊)によると・・
・・・萬碧楼の軒下を通って、宇治川堤に登れば、
土堤に沿って四方に壁をもたぬ、ちょっと風変わりな
二階建の家がある。
いはゆる上田屋敷とはこの家を指すのであるが、
対岸に聳える連山の緑と滔々(とうとう)と
流れる宇治の川瀬とが、相和し相映じて醸しだす
一幅の南画にもせまほしい明媚な山水の景観を
壇にしたこの上田屋敷は、もと薩摩藩邸に出入りして
茶を鬻ぎ(ひさぎ。*売り)、維新當時の西郷、
大久保などから格別の愛顧を受けた上田甚七の
控家だったという。  
(*上田)甚七はこの家に明治十七年まで住んでいたが、
家運の衰退とともに何處ともなく飄然(ひょうぜん)
と立去り、今(*昭和14年頃)は、現町會議員
浅田喜三氏の住宅となっている。
この家にまだ上田(*甚七)がいたころ、
上田(*甚七)から可愛いがられてよくこの家で
遊んだことがあるといふ元宇治町長 上林楢道氏が、
附近に矍鑠(かくしゃく)として老後を楽しむを
聞き、早速訪れると、
  あの家に西郷さんや、大久保、木戸、眞木と
いった人が度々謀議していたことは、上田(*甚七)
の友人であった私の父からもよく聞かされました。
私も子供の時遊びに行きましたが、その時分には
まだ西郷や大久保が筆を揮(ふる)った襖や額が
ありましたが、上田(*甚七)さんが轉居の時
持って行ったので いまは残っていませぬ。
西郷さんが二度目の流罪になるまへ、久光公の
勘気を案じた大久保の使が、西郷を伏見の藩邸まで
迎へに来たとき、西郷さんはこの上田屋敷に
いたので、ここから宇治川を下って
(*薩摩藩伏見屋敷から)兵庫に行き
そのまゝ大島へ流罪となりました。と語った。

                     と、ある。

(*当時の)宇治町菊屋の上隣にある上田屋敷
(維新の史蹟・昭和14年刊・著作権満了のものより)
IMG_1135 西郷隆盛・宇治町上田屋敷.JPG



(*私・本田親雄は)
時に寸暇(すんか・*わずかの時間)を頂き、
要件を告げようと伏見屋敷に来てみると、
「本田(*貴殿)は、どうしたことか。
このような時に、西郷などを連れて、
宇治の川の逍遥に物見遊山とは、実に驚くべき
振る舞いではないか。
すぐに、(*伏見屋敷へ)帰って来い。」
などと、言われた。
沈着慎重な大久保利通が、君主の元を離れて、
ここまで来たと云うのは、至急、重要なことで
あるので、(*私・本田親雄は)急ぎ(*宇治へ)
帰ると、人々は集まって騒ぎ立てる。
翁(*西郷隆盛)は、
「大久保利通がここに来るなら、共に美景をも
眺めて盃を交わし、(*いろいろ)語るものを。
やかましい連中だ。」と冗談を言った。
「ここから歩いて行くのも遠いな。」と人々は言う。
「船で川(*宇治川)を下れば、どんなに速いであろう。
宇治の柴船(しばふね・*柴 を積んで川面を渡る川舟)
に乗って、清流に棹をさすのも良いであろう」と、
漕ぎ出せば、四月初頃の月が上って、その影が、
波の上に浮ぶ景色は面白く、船は矢を射るように
速かった。
この趣の得難い佳境に、どのように言ったかと云うと、
翁 (*西郷隆盛)は笑って、
「川の水は流れるもの。月は望月(もちづき・*満月)に
なれば、丸くなるものよ。何の珍しいことはない。」
と、寝付きざまに答えられるのも風情があった。

(*伏見屋敷へ)帰り着けば、甲東兄(*大久保利通)
は、前から待ちかねて、まず翁(*西郷隆盛)に
向かって尋ねて、
「君(*西郷隆盛)は、京と摂津の間に奔走して
諸浪士共と話し合って扇動し云々と、聞き及び、
公(*島津久光)の憤りを買うところなり、
どのような言い訳はないと思うけれども、
(*これは)どのような・この上のない大事件なので、
この事の顛末を糺(ただ)し、かつ、京と摂津の
現状も見ようと、公(*島津久光)の許可を得て
急いで、ここに来たのである。
願わくば、漏れることなく(*詳細に)浪士の状況と
君が執(と)ろうとする方針を聞きたい。」
と、その至情(しじょう・真心)が顔面に現われて、
意気共に(*意気込みは)切ないものであった。
翁(*西郷隆盛)が答えるには、
[下ノ関から大坂、伏見などに至るまで
諸浪士の意志と、その裏面にある形勢について
縷々數千言(るる すうせんげん・*非常に多くの
言葉)を、実行に尽くしても、まだ、
餘薀(よえん・余すところ)ところがないような
ものである。」
そして、顔立ちを改めて言うには、
「わたし(*西郷隆盛)は、浪士を誘いもせず、
又、嫌うこともない。
ただ彼等が無謀な一挙に出て、かえって大事を
誤まることを恐れるが故に、今日まて彼等を
説得して、鎮めようとすることは、一座の諸君、
皆が知るところで、私に任されたことである。
私は一度、足をあげて、この地を去れば、恐らく
無事であることは難しいであろう。」等々。

ここにおいて、大久保利通の深憂疑團
(しんゆう ぎだん・深い憂いと心の中に
わだかまっている疑いの気持ち)もすっかり
なくなり、互いに時事を話しているうちに、
早、曙の光が東の空に、ほのかに見える頃、
又、(*大久保利通は)急に発って、兵庫を目指して
大急ぎで向かった。
 この意は、想定外の西郷隆盛と大久保利通の
話し合いの真(まこと)は、
驚天動地(きょうてんどうち・天を驚かし地を動かす、
すなわち、世間を ひどく驚かす)で、禍を残すこと
になるとは。後に、そう思われる。

その翌日になり、京都にいる田中国保から急ぎ、
書翰が来て、そのなかで、長井雅楽(ながい うた・
長州 毛利家の家老)と云うひとから朝廷に建白する
草案が、あった。

(*その)大意は、
世の浪士の不逞(ふてい)の徒らは、
勤王攘夷を名目として討幕の策を内議して、朝廷と
幕府の間を妨げ、機に乗じて自分の欲望をたくましく
しようとする者で、決して近づくべきではない。
とりわけ、攘夷の策は幕府において深い謀略があり、
大藩や巨族に命じて(*これを)必ず行おうとする
ところがある。
また、西洋各国は、大砲や巨艦の利のある武器があり、
今日(こんにち)の日本を十としても、敵としては
いけない。
その軍艦は、数千隻あり、日本の環海に木の葉の浮かぶ
ように来た。
囲むこと半年、ないしは、一年ならば、海路は全く
交通を絶たれて、京の都も江戸も一歩動く事が出来ない
難儀である。
又、幕府の深い謀(はかりごと)も知らず、
浪士ら、薩摩藩士と結び、島津和泉(島津久光
の最初の頃の通称)を擁して、既に上京するのは
近いと伝えられる。
もし、伏見へ到着すれば、速やかに島津(*久光)
を停めて、朝廷と幕府の間の調和を行えば、
禁廷(*宮中)の大事を醸し出すことになる。
島津(*久光)に示諭(*しゆ・口頭または文書で、
諭し示すこと)することを受ければ、長井 雅楽らに
当たる、等々。

この建白は、密かに公家の間を説得し続けて、
ようやく同意を感じる方々もいるとの説があり、
翁(*西郷隆盛)がこれを聞くと、

「これは実に軽々しく見過ごすべきではない、
我らは、大久保(*利通)と会談した末に、ここに
留まるけれども、このことは、非常に関係がある。
我らは、この建白を携えて、(*島津久光)公に
謁見して深く説得するところがある。
堀二郎(*伊地知貞馨)は、これから大坂に
下る等、すべきである。
本田親雄(*お前)は、京都に登り、田中国保と
相談して、いろいろと行うべきである」と。

(*そこで)部署を定めて、各々、東西に袂を分けて
却説(きゃくせつ。*そこで)、私(*本田親雄)は、
翁(*西郷隆盛)が示すように京都に行き、
さらに大坂に下って、翁(*西郷隆盛)の旅館に
伺った。[ (*これは)邸吏の古い慣わしである。 ]
(*後)すぐに、甲東(*大久保利通)の宿泊所を
訪ねて、西郷 (*隆盛) 翁が、下られる謂れ(*理由)
を言うと、主人は密かに答えて云うには、
「そのことなのです。」と。
(*以下の文章は長文で、『 』の区切りです。)



『「過きし夜に、兵庫におられる(*島津久光)公の
ご旅館に西郷(*隆盛)が来て、
「長井(*雅楽)の建白の事について拝謁の為に
参上しました。
その趣意はこれこれであります。」と
説明し終るのを待たずに、
大久保利通は、
「ここでは大事を相談することは出来ない。
外に出よう」と、
両人は、月夜の浜辺の人がいない物陰の砂の上で
対座して、大久保利通が伏見から帰って来て、
西郷隆盛が浪士を鎮める顛末の、その心配事が
あるところを詳細に(*島津久光) 公に言上したが、
(*島津久光) 公の震える怒りの意志は、
覆(くつが)える様子も見えなかった。

私(*大久保利通)が(*久光公の宿泊所に)
帰って来る前に、
すでに小監察・喜入某(なにがし)が足軽の
数人を連れて、兄(*西郷隆盛)の捕縛の命が
降りた、と聞いた。
拝謁の願いは横に置いても、このような境遇に
落ち入れば、予(*私・大久保利通)も
君(*久光公)の側を退けられる状況である。
多年にわたり苦労し尽くした計画書も、
ここに至っては、絵に描いた餅で、
水泡に帰すのは、致し方のないことである。
これは天命である。

願うに貴殿(*西郷隆盛)が、謂(いわれ)れなく、
奸吏(かんり・*不正を働く役人)の手に捕縛される
べきではない。
必らず、自裁(*じさい・自決)して死ぬべきである。
私(*大久保利通)は、これを止める者ではない。
私(*大久保利通)も、この世に生きて、
どうなるものでもない。
ただ、死、あるのみである。
死ぬときは、必ず貴殿と共に刺し違えて死にます。
これが我ら(私のあなたの)の志である。
既に決まったので、この無人の場所で、
共に・・」と言う。

南洲(*西郷隆盛)は、しばらくして、
(*大久保利通に)向かって
「これは、大久保の言葉とも思えない。
(*島津久光)公の激怒と君側の形勢が、ここに
至っては、いまさら、どうなるものでもない。
私は、君が思うように刺し違えることはない。
縦令(*たとえ)、縲紲(るいせつ・罪人を縛る黒縄)
の辱しめに会い、どのような憂目を見ようとも、
耐えて、命(*命令)に従って、大きな計画の
前途を見ようと覚悟するものである。
君もまた、このようになるべきである。
今になって我らが二人とも刺し違えて亡くなれば、
天下の大事は、去ることになる。
こうまでして推し進めてきた立派な計画は、
誰がその後を継承するのか。
男児、忍耐して、事に当たるのは、この時ではないか。
我ら、二人なくしては、皇室をどうすべきか。
国をどうすべきか。
辱しめに耐えるのは、まさに、この時である。
励もう、励もう、・・・」
と、心を込めて説得するのと聞いて、
私(*大久保利通)も深く、この言葉を信じ、
(*刺し違えの)決心を翻(ひるがえ)した。』



  と。(宿泊所の主人は、密かに答えた。)。

両雄(*大久保利通と西郷隆盛)は、
天下の大事を、その両肩に担いで、深く自ら
込めた志が高尚で、気宇宏廊(*気がまえが
広く大きく)、大謀偉略(大きな立派な計画)は、
まことに、廟廊の器(*宰相 たる器量)で、
「人中の龍」(*多くの人の中でも、飛び抜けて
優れた才能がある人。)とも云えるものである。
両雄が死地に着くのと脱するのでは、
我が国の中興の存亡の、かつてない一大関門で
ある事を思えば、この一瞬の死活、その機会は、
間髪を入れないものであった。
この時、もし大久保利通の一言を、西郷隆盛が
同意していれば、どうであろうか。
ここで、両雄を世に生かせたのは、これは
天の王室を助け、国(*当時の日本帝国)を
中興する賜物(たまもの)ではないであろうか。
まことに我らの皇祖皇考(*先祖代々の天皇)の
神霊冥助(しんれい みょうじょ・*神霊や
神仏の目に見えない助け)が降りて来たこと
ではなくで、何であろうか。

(*宿泊所の主人は、密かに) 語り終えて、
ため息をひとつ。
「このことは、真に秘中の秘であり、(*もし)
言って外に漏れれば、万事休すである。
前後の事情を洞察して深く心に納め置いて
下さい、」等々と、(*私・本田親雄は)そう
語って(*宿泊所の主人)と別れた。
(この一言は、私(*本田親雄)は、心に銘じて
明治11年、大久保(*利通)候が亡くなられる
まで、口に登らせたことはない。)

去程に(さるほどに・*やがて)南洲翁
(*西郷隆盛)は、どのようにして、どこに
居るのかと、いろいろ探ると、
安治川(*あじがわ・旧・淀川の名称のひとつ)
口に居るとのことで、数百隻が繋いである小舟を
探してみると、夜の初め、さらに更けて、
知ることが出来て飛び入れてみれば、
翁(*西郷隆盛)は、船中で平坐して居た。
村田(*新八)、森山(*新蔵)、も側にいて、
どうしました、どうしました、と安否を尋ねると、
翁(*西郷隆盛)は、
「勤王道楽のなれの果てである」と、
「あはは」と大きな口を開いて笑う余力、
児玉某(*なにがし)が足軽を召し連れて側にいた。
やがて加藤十兵衛が、訪ねて来た。
甲東(*大久保利通)も、また来た。
しばらくして、奈良原喜左衛門、海江田武次
(*有村俊斎、改め、海江田信義)が来た。
「監守の任を命じられました」と言う。
このように人々が集まったので、小舟の中所まで
混み合い、(*足軽を連れて来た)
児玉某(*なにがし)を説得して、
大川を出帆までの間、陸に上り、とある離れの亭
を借りて、人々は、終夜、物語った。

夜も(*明けて)白々と曙になろうとする頃、
甲東(*大久保利通)も去り、
私(*本田親雄)もまた、「伏見に(*戻る)と、
別れて帰った。
翁(*西郷隆盛)の舟出は、いつなるのか、
また、どこに、どのような処置になるのか
分からないが、(*考えれば)きりがないと、
知れ得ないことであった。

今朝も、私(*本田親雄)の草庵を訪れられて、
30余年前の思いがけない昔話も、西郷隆盛、
大久保利通の事に話が移ると、世の中の塵
(*世間のうわさ)を打ち払うことは、
物忘れにとっては、良い心構えであるけれども、
(*私が)思っているように、このような事柄は、
世間で知る人もいない。
こればかりは、忘れたくもない。
いや、そのあったまま、聞いたままの光景を
筆をとって留めて置かねばならない。
明日は泉州に帰ろうと思うので、
「今日の内に書いて下さい」と言うので、
ゆっくりと、私も忘れない内に灯りをつけて、
書き綴り、お送り致します。

  明治31年1月19日 夜

     楳 塘 ■ (本田男爵)
         ■は、判読、不能。
  鵬北老人壹(税所子爵)
    研北(*机下、御中)

 呉竹の 世にもまれなる一ふしの
  むかしかたりを 君 わすれめや


税所 篤と思われる写真
日付 1871年(明治4年)
国立歴史民俗博物館ー大久保利通展展示品[1]
右側は大久保、左側が堺県知事時代の税所篤と
思われる。
大久保 利通の日記(明治四年五月六日条)に
「今日税所子同行写真所等江参」とある。
(著作権満了のものより)
国立歴史民俗博物館ー大久保利通展展示品[1].png


次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む19
大久保利通日記・上巻・第2巻  に続きます。



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