歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む8

●大久保利通文書 万延元年 正月

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

【目次】(ほぼ時系列で掲載)
(日記)万延元年1月5日・31歳

      一 五日晩 堀 仲士・・
一 旧臘節季 窮士・・
一 正月十一日(藩ノ要路者名)・・
一 正月十五日 大番頭 御勘定奉行勤・・
一 同十七日 御供見付・・
一 同十八日 助教 堀 仲左衛門・・
一 同廿三・四日 御広敷御用人格・・
一 同十九日 於二ノ丸 於二ノ丸・・
一 同廿四・五日比 堀士入来 左州・・
一 同廿三四日此 飛脚一左右 ・・
一 小石[水戸] 此機ヲ以・・
一 正月廿八日・・

――――――――――――――――――――――

万延元年 1860年 利通・31歳

【本文・意訳】
(堀 仲左衛門・高崎猪太郎が帰藩し、水戸藩の情勢を
報じる)

一 1月5日の晩、堀 仲左衛門、
高崎猪太郎が帰藩す、昨年、12月に
(*江戸を)発ったとのこと。

○水戸藩の形勢も、有士は、ことごとく国元へ
引き返し、蓑辺蔵と申す人(御目付様の役、
とのこと)に引き合わせくれるように申すので、
この人に度々引き合わせた。
国元から斎藤何がしが出府のところ、これをもって
慎んで差し出さざるを得ず、しかしながら、
他に3人の有志を差し出すとの旨、
引き合いがあったが、その節までは出府は、
なかった。

○水戸藩も内情は、とりわけ、騒乱の最中で、
有志達も相、対していた。
一説は、国家を捨てて大事を引き起こすこと相、
成らず、ぜひ内情を治めることが第一と議論致し、
これは、所謂(いわゆる)
会沢恒蔵、豊田彦九郎、原田八兵衛、荻 信之助ら
その他、同意が多く、

(*他の)一説は、君主の冤罪・その恥辱の情は
もちろん、朝廷のために賊を除く真心を止めず、
奔走、周旋致す徒らで、所謂(いわゆる)
高橋多一郎[愛諸]、大湖・弓削・金子孫二郎らの
人達で、その他、その党の者は、抜群とのこと。
国論を主張する者から、非常にこれを憎まれ、
もしも、今、召すと云う形をとれば、
国害を引き出すので処置を加えるところであるが、
高橋多一郎に随従する有志が大いに躍起するので、
無事には済まないとのこと。
高橋多一郎は、温厚な性格で人望が厚いので、
藤田東吾 が在世中、(*彼が云うには)
私の跡を継ぐ者は高橋多一郎であると、云った
そうであるとのこと。
これまで当公に侍し、始終、相、助け、
その功績を少なからず全うすれども、
この情勢では遠ざけられ、ただ今のとことろ、
君側は、危ない(*上記・旧保守派に牛耳られる)
情勢であるとのこと。

○幕府の形勢は、奸賊の威力が大きいので、
間部 詮勝(まなべ あきかつ)は、退役をしたけれども、
井伊 直弼(いい なおすけ)は、大いに威厳を張り、
水野土佐守(*水野忠央・ただなか。
紀伊新宮藩(紀州藩附家老))とも一定の距離が生じた
とのこと。
人心の不服、ここに至っては、却って、間部 詮勝を
慕う人気があるとのこと。
幕府も今まで通りでは済まず、必ず変化致すべきで
ある。
この上、如何に変わるべきか、変わったとしても、
よろしくはないであろう。
水野土佐守が勢いを得るようになれば、ますます
大きな害を生じると申すべき云々。
(*だが、この年、3月3日、井伊大老、暗殺後、
6月14日に失脚し、翌日、家督を長男・
忠幹(ただもと)に譲る。)
(*奸賊が)幕府役職の正論者をことごとく打倒した
ので、江戸幕府が始まって以来、ここ当分は、
役場(*役職)に弱みがあってなどの説はない、
とのこと。

(英米から日本に援兵を求めるとの風聞あり)
○英夷(イギリス・夷は中国、日本などから見て
異民族の意)から日本へ援兵を請い、これが成らず、
(*幕府がイギリスに)金二百万両を借りることが
出来なかったのは、(*イギリスが)日本の對馬の地を
借りることを強訴したためで、とりわけ、
心配とのこと、金子 孫二郎のところで評議とのこと。
アメリカからも人数を差し出してくれるように
との申し出があり、これは、もっとも今まで通り
では、日本も手薄で台場の修築も行えず、
日本のために、よろしからず、アメリカも全く
備えがないので、互いによろしくないので、是非、
人数を差し出してくれるようにとの趣旨で、
その他、幕府の外国掛の善悪の意志だけで
(*諸事が)左右される勢いとのこと。
実に混乱の次第で、大変な様子であるとのこと。

○前条の通り、外患内憂、とりわけ、大事の時節で
ありますが、水戸藩は、右の通り、内情が騒乱し、
意外な憂いもあり、その他、諸藩正論の方も当分、
まず手を引き、たまたま、こちらから議論を
持ちかけても返答すら来ない勢いであり、
また、水戸藩は、一回は事を遂げるに相違なく、
何分、高橋多一郎らの数人は、とりわけ、
頼もしいところであります。

(青蓮院宮・久邇宮朝彦親王、近衛忠熙、久我建通、
大原重徳らの態度)
京都でも久我 建通様【9】も少し、その論を変化され、
自ら私権を張り、有志らは至極、苦心とのこと。
【9】久我 建通(*くが たけみち・公武合体派の
勤王家。
和宮降嫁問題などに関与し、俗に権関白と呼ばれ
内大臣などの要職にもあった。

○久邇宮朝彦親王【10】は、相国寺へ幽囚され、
その従士、幕府からもすべて、悪しき者のみ、
とのこと。
幕府から厳しく睨まれているとのこと。
【10】久邇宮朝彦親王
(くにのみや あさひこしんのう)
通称・中川宮(なかがわのみや)ほか。
日米修好通商条約の勅許に反対し、将軍継嗣で
一橋慶喜を支持したため井伊直弼に疎まれ、
この頃、安政の大獄で隠居永蟄居となっていた。

○近衛忠熙様【11】には、少し寛容で桜木御殿を
お借りになり、移られた。
最初、ご帰殿が許されたが、ご自身の好みで、
この屋敷をお借りになったと、とのこと。
【11】近衛忠熙(このえ ただひろ)
公武合体派の公卿。将軍継嗣で一橋慶喜を支持。
戊午の密勅の献策で、安政の大獄で失脚し落飾謹慎中
であった。

○久我様に、ご随従の面々、第一、大原重徳様【12】
は、これまで、とりわけ、正論が突き出てられる御方
であるが、当分、久我家とご同論とのこと。
始終、その説を変えず、正論を立てられる方は、
久邇宮朝彦親王のお一人である、とのこと。
【12】大原重徳(おおはら しげとみ)
孝明天皇に重用された公家。
日米修好通商条約調印のため勅許を求め、
老中・堀田 正睦が上洛すると岩倉具視らと反対し、
謹慎させられた。

○京都の有志たちの議論も今では、
勅錠(ちょくじょう・天皇のお言葉)のことで、
水戸藩の前後の事もあるので、
とかく、水戸藩の件は、一挙は当然のことであるが、
まだ諸有志の藩においては、世が若い(*時期早々)
と申し、また、変(*一挙)が到来の上は、
どのようにも対処できるけれども、今のところは、
京都は、頼りにならない、との議論、とのこと。

○関東の件は、内憂は及ばず、外患がとりわけ
差し迫り、そのうえ、凶作の傾向もあり、とりわけ、
大事な時節、とのこと。

○水戸藩・大胡聿蔵と申す人は、文武のひとで大男で、
とりわけ、人望のある人物である、とのこと、
以上、堀 仲左衛門の姓、その他は、追々、記して行く。

(窮乏の士に下賜金、あり)
一 昨年12月、窮乏の士に、御恵(ごけい・ここでは、
下賜金のこと)があり、家督(かとく。家を継ぐ者)
には、前金、1両、家内の人には別に、2朱1片ずつ
全体に下され、小番、新番、御小姓とまで、
千、2,300はある、とのこと。


一 1月11日
(藩ノ要路者名)

出水  島津 左衛門(久微) 
(*出水(いずみ)、地名・100石以上)
高岡  川上 式部(久美)
(*高岡、地名・100石以上)
谷山  島津 隼見
(*谷山、地名・100石以上)
伊集院  菱刈 杢之介
(*伊集院郷、地名)
顛娃  島津 靭負
(*顛娃町(えいちょう)、地名)
大崎  末川 久馬
(*大崎郷、地名)
大根占  諏訪 數梅(島津 伊勢)
(*旧・大根占。現・錦江町、地名)

御目附不及日勤  白尾 登五座衛門
(*毎日の勤務に及ばず)
一代小番  日高 喜三次
御馬預見習  佐多 彌之助
寺社方取次  川上 班之進
御使番勤方 是迄之通  樋口 休八
(*これまでの通り)
御側各 御軍役奉行  安田 助左衛門
奥御 小姓  相良 量右衛門
右 同    折田 兵十郎
御廣敷番々頭 是迄之通 相良 新左衛門
(*御広式は、御鎖口(お鈴廊下)より外の意)
六人頭  河野 玄仲
右御側 (*以上はお側役である)

病  寺尾 庄兵衛
御勘定古頭 御金方勤  中村 善兵衛
御勘定方 是迄之通  野元 一納右衛門
同          萩原 清右衛門
帖佐組御代官 新楮蔵掛  岡村 新之丞
(*帖佐、地名・100石以上)
旅  吉利 仲次郎
同  伊集院 伊右衛門
山奉行見習  肥後 平左衛門
御作事奉行  帖佐 為右衛門
高奉行  阿多 六郎
物奉行勤方 是迄之通  春山 休兵衛
郡奉行勤方 是迄之通  和田 乗助
高奉行  千田 壮之丞
御細工奉行勤方 是迄之通  平田 源之丞
右勝手方(*以上は勝手方である)

一 1月15日
大番頭 御勘定奉行勤  堅山 武兵衛(利武)
伊佐  福崎 助八
(*旧・伊佐郡、地名)
水引  中村 伸介
(*水引、地名・100石以上)
御馬預  堅山 八郎
病  大野 四郎右衛門
姶羅郡山田  柳 正之進
(*旧・姶良(あいら)郡、地名。)
小林  郷原 輔
(*旧・日向、小林郡、地名。)
曽於郡  町田 孫太夫
(*旧・曽於郡(そおぐん)、地名。)
櫻島  平田 伊兵衛
(*桜島、地名。)
曽木  伊集院 権右衛門
(*曽木(そぎ・曽木の滝で知られる、地名。)
内之浦  名越 左源太(時敏)
(*大隅半島の 内之浦町(現・肝付町))
御使番  井上 新右衛門
当番頭  島津 良馬
詰衆  二階堂 蔀
同   市田 隼人
同   義岡 佐平太
右表(*以上は、表方である)

御小納戸 伊集院 周八
同    伊東 仙太夫
右御側(*以上は、お側方である)

表御小姓  新納 用之丞
同    (*氏名ナシ)
右御側役御用(*以上は、お側役御用である)

御船奉行 高奉行勤  伊東 正兵衛
御細工奉行  小笠原 彦八郎
御船奉行 御用部屋  四本 助左衛門
右御勝手方(*以上は勝手方である)

一 同(*1月)17日
御供見付  中村 周助
御馬預  田中 七右衛門

一 同(*1月)18日
助教  堀 仲左衛門(伊地知 貞馨)

一 同(*1月)23・24日
御広敷御用人格 御同朋頭  上村 良節
奥御茶道  三原 玄甫
*上記の者が任命された。

一 1月19日
(*藩主)二ノ丸において造士館に御召出があり、
講釈、素読をお聞き遊ばされたとのこと。
食事や宴の用意がされたとのこと。


一 1月24・25日ごろ
(*1月18日に助教に就任した)堀 仲左衛門
(伊地知 貞馨)が来て、島津左衛門の建議の次第
(*経過)を承知した。
(*藩主の)御参府のお供の人数を調べられ、
変に対応する用意をなされたく、有志の者を選び、
斥候を出されたいので、この二策を中心として
申し上げられた、とのこと。
何分、十分なところは難しい情勢なので、その他は、
だんだんと機密の話もあるけれどもそれは略します。


一 1月23・24日ごろ
飛脚の一報・田中直之進からの一報では、小石川の
水戸藩邸からは今に至り、何の返答もないので、
紫の朝廷のおしるしを以て美濃辺文蔵
(*前述では、蓑辺蔵となっている。)へ引き合い
尋ねたところ、
国元からの有志の音信も不通である(*連絡がない)。
しかるに、国賊は甚だしく隠密に働いている様子で
あります。
あなた(*田中直之進のこと)が出立のことを申せば、
直ちに国元(*水戸藩)へ申し伝え、なお又、
(*その)返答も、遠からず内に致すつもりです。
毎日、池田慶徳(*因幡国鳥取藩12代藩主)、
松平武聡(*石見浜田藩の第4代藩主、美作鶴田藩主)、
その他、ご親類の諸侯、お出でになり藤對馬(信睦)守
も参り、何かと難しく聞こえ、美濃邊文蔵の申すところ
では、勅のことではないでしょうかとのことであります。

*日付が前後していますが、本文のママ(順序)に
従いました。

側用人、御納戸役が、急に国元に出立された、
とのこと。
美濃辺文蔵から、
義民(ぎみん・民衆のため 一身を捧げる人)は、
急ぎ、有志の人数を先に回し遣わすので、万一、
これが伝われば、途中で首をはねるとのことなので、余程、
混迷していると思われ、幕府から是非、(*その有志の人数を)
出すようにと、当・君主へ申し渡された。
(*この状況は)国賊が手を下す糸口となるので、
最早、切迫しており、その(*幕府の)浮沈が定まるかも
知れないと推察されます。

〇間部詮勝、(*お役)御免に相成り、
久世廣周(くぜ ひろちか・下総 関宿藩 第7代藩主)
が(*老中に)再任になる模様です。
この節、アメリカ船使が来て、来春早目には、
村垣範正・淡路守、新見正興・豊前守が来られ、
主君のおことばがあり、ますます暴奸を行う上、
外夷の難事も差し迫り、日々に(*その憂慮)深く相、
成ります。
〇印(朝廷も、*何らかの)手を打つと存じます。


一 小石川の水戸藩邸は、この機会に奮発して頂ければ
幸せに存じます。
天下の安全、危険は、十分、これをもって、
事を果たすことが急務であることはなく、何分、(*事態は)
緩やかな模様で、この節は、ぜひ、非常のご処置、
ご活動を図られことが先生の任務であるので、云々。

〇水戸藩・鮎澤伊太夫の5歳の子は、追放、
茅根 伊予之介の7歳の子供は、遠島になりました。

〇日下祐之進は罪一等を免れ、留守居添役・立花直記へ
面会の上、引き合わせたところ、上野・東叡山の方は
来春になるのでよろしくとのことで、
御法会は、来夏になるはずとのこと。
まずは右のような懸案で、その通りに致し、
来春、早々には手を抜かぬように周旋するようにする
云々、
その他は、略します。
田中直之進の書状のうち、公儀の都合は、この末、
大丈夫でしょうか、しかるに、天下の形勢は、
どのようになるのか愚考しかねます。
略しましたお話のご普請の件も、下々の風聞では
大木が朽ちるので、しばらく、見合わせると
承っています
ので、当分は、(*ご普請は)承らないでしょう。
ご金納の件も、昨日、お願い致しました。

(間部詮勝、老中を罷免される)
安政6年12月24日
    間部下総守
     名代 松平織部正
病気に就き、御役御免の件、なおまた、相願いの趣、
やむを得ずとの思し召しがありました。
これにより願いの通り、御役御免と辰の間の席で
仰せ付けられました。
心、いつまでも養生致し、気分が良い折りは登城し
ご機嫌を伺い、月例の黒書院(*日常的な将軍の
応接間)の五節句には、白書院(公的な将軍の応接間)
で、お目見えするように仰せ付けられました。


一 1月28日
物奉行御趣法方調掛 是迄之通
(*これまでの通り)
 三原 善兵衛
同  高橋 金五郎
御代官御役料 三拾貮表
 田原 十太郎
(*御役料は、役高とは別に、当時、
家禄に関係なく役職手当として、米、
金銭などで支払われた。)
御代官格御役料 銀五枚三拾目
 中村 新十郎
郡奉行見習 御役料 金一枚半
 山内 作次郎
御弓奉行御役料 米七十〆
 田尻 務
(* 〆は、単位の総計。
ちなみに、この字は「しめ」と云う。
訓読みしかなく、日本で作られた漢字。)

奥御小姓
 伊集院 勇蔵
奥医師
 萬膳 玄昌
施行
 川上 復右衛門

 重久 筑次郎

 上原 藤太夫


(島津茂久公 妙円寺および日新寺にご参詣)
一 同日(*1月28日)から
太守様(*島津茂久)、妙円寺にご参詣。
(*妙円寺は、現・鹿児島県日置市伊集院町徳重に
ある曹洞宗の寺院で、島津氏18代当主・
島津 義弘(しまづ よしひろ)の菩提寺。)
伊集院にお泊り。
加世田・日新寺に参詣。
翌日、昨日は、踊をご覧になり、2月3日に
ご帰殿とのこと。
踊の節は、鹿兒島から段々見物人が多くなり、
ご城下の諸士は、全て、お假屋内へ急いで
押しかけ、ご覧になられたとのこと。
(*島津茂久公)は、ご旅行中、退屈であられ、
書物などもお持ちになり、お假屋内でも
小姓に槍術などをさせ、御自身も遊ばされたとのこと。
中門などは破壊され、庭は、鋤(すき)で地面を
掘ったようであった(*荒れた)とのこと。

*妙円寺
左・三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)
江戸後期・薩摩藩編纂による領内の地誌や名所を記した文書。
著作権満了のものより。
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*現在の妙円寺山門
クリエイティブ・コモンズ・ライセンスのもとに
利用許諾のものより。
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*加世田(かせだ)
薩摩半島西岸にあり、平成17年、加世田市と近隣町と
合併し、現在は南さつま市。枕崎市と隣接する。

*日新寺(じっしんじ)
文明17年(1485年)、島津氏の分家・島津 国久の
開山・保泉寺が始まりで皇徳寺の末寺であった。
後、島津忠良の菩提寺となるも明治2年の廃仏毀釈
で廃寺。
後、代わりに明治6年、島津忠良を祀る竹田神社と
なる。
戦前まで加世田詣り(日新寺詣り)は、
盛んであったが、後、消滅した。


次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む9
大久保利通日記 上巻 に続きます。



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