歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む9

●大久保利通文書 万延元年 2月

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

【目次】(ほぼ時系列で掲載)
(日記)万延元年 2月1日・31歳

      一 二月朔日比 造士館ヨリ・・
      一  禁廷江五千両・・
      一  久我様二ハ九条・・
      一  二月四日 山口三斎 着・・
      一 前條江府一左右二付・・
      一 防州江堀拝謁・・
      一 右御返詞申上候趣・・
      一 左州[島津左衛門・久微] 御軍役
      一 萬一 變事ノ節ハ人数被差出候二付
      一 御発駕 三月十三日・・
      一 二月十九日 太守様・・
      一 二月末 山荘・・
      一 名越[左源太] 偶・・
      一 平田(仁左衛門)モ舊格・・
      一 二月廿一日 田中直之進・・
      一 一昨年[安政五年戌午]秋・・
      一 去未[安政六年]十一月 ・・
      一 當申[万延元年庚申]正月元旦・・
      一 安藤 若御年寄二而ハ・・
      一 威義二公以来・・
      一 期日ハ来月日前後・・
      一 天朝より云々ヲ以・・
      一 勅云々下リ候ハヽ・・
      一 斬奸尊藩三千御人数・・
      一 勅云々下リ候ハヽ・・
      一 斬奸云々討濟し・・
      一 尊藩三千御人数・・
      一 雪(水戸)人数者諌争・・


――――――――――――――――――――――

万延元年 1860年 利通・31歳

一 2月1日ごろ、
造士館から御小姓、両人が選ばれました。

一 朝廷へ五千両、堂上方へ二千両とか
幕府から金子が献上がなされたとのこと、
(*その真実)糺(ただ)すべきでしょうか。

一 久我 建通(くが たけみち・公武合体派の勤王家)
様には、九条尚忠様にもよろしく、所司代にも通じて
おられ、もっとも、その叡意(*賢さ)には、親しみも、
あられるとのこと。
このことは、徳田 (*京都詰・徳田嘉兵衛のことか)
からの書状で申しております。

★(水戸藩、勅書返上の 一件)
一 2月4日
山口三斎(*精忠組の志士・江戸詰め)が到着し、
1月19日に出立しました。
もっとも、またまた(*幕府の威力)切迫の勢いで、
先の勅書の一件(*戊午の密勅) は、いよいよ幕府が
責められたので、(*幕府が自ら密勅の返還を促す勅命
の草案を作り、天皇の同意を得る方針に転換し、)
安政5年11月、勅使の伝奏が下向し、叡慮の旨が成され、
御返上が、相成り、勅書、相、下される趣をもって、
12月25日、(*老中)安藤對馬[信正]守にぜひ、(*密勅を
安政7年1月15日までに)ご返上下さるようにお達しが
あり、もし、そうでなければ、ご違勅にも相当するので、
徳川慶篤公(*常陸水戸藩・10代目藩主)が、お国元へ
帰られ、御返上下さるようにと強く迫った、とのこと。

よって、(*水戸藩)木村聿から
有村雄介(*薩摩藩士)らへ照会の件、
この上、幕府から(*勅書を)奪えば、前後を顧みず
決起し、50人で、一手は井伊を、一手は商館を放火し、
一時、征伐するとの決心で、一足先に、有志が上京し、
勅書の実否を糺すつもりで、両人は、1月15日に
出立したとのこと。
よって (*薩摩藩士)有村 次左衛門、田中直之進は、
決心して、一足先に国元へ同志を差し立たせよう、と
(*水戸藩・木村聿へ)申し入れをしたところ、
とりわけ、満足して、その通りに取り計らい下さるよう、
と申して、山口を出立し、京都・守衛所へ差し立たせる
よう、その方法を頼んだとのこと。
もっとも、勅書の実否に及ばず、事、挙を糺す決心をする
ように有村雄介(*薩摩藩士)から議論をしたところ、
もっともではあるが、私(*木村聿)、一存にては
決めることは難しく、一旦、帰国の上、相談し、何分にも
申し入れのことなので、と、(*水戸藩)木村聿は下って
行った、とのこと。

〇50人の人数、何卒、(*薩摩藩)芝藩邸のお屋敷の近辺に
潜んでいます。
場所は頼みますとのこと。
両三人は、日下部伊三次(くさかべ いそうじ・
薩摩藩士。安政の大獄で亡くなる。)
跡の親類の名目で、そちらの方へ潜んでくれるように、
とのこと。

○(*水戸藩)木村聿から
(*薩摩藩)堀 仲左衛門に手紙が来る。

○横浜の異人を殺害とのこと。
本当のところは、彼は紀州出身で、俗名・休助と申す者
とのこと。
足軽へ以前、失礼なことをして、その場所から去った後、
同志の者らが困ったところ、しばらく待って欲しいと
申しました。
(*そして横浜の)異人が、その後、子供と遊んでいる
所を(*休助が刀で)突き、刀はそのまま捨て置いた、
とのこと。

2月8日について
道奉行 四本 彦兵衛 (*以下、就任)
同日について
御馬預にて山奉行 相良 彌兵衛 

2月11日 御供目附 原田 才之丞
     物奉行 平田善太夫  
2月11日 新納久仰、願いの通り解任。
(*以下の者・就任)
御家老 川上 矢五[久運]太夫
若年寄 頴娃織部
大目附 諏訪數馬[島津伊勢]
御軍役惣頭取 新納 次郎四郎[中三・久脩]
御小姓組番頭 桂 小吉郎[久武]
2月12日 (*以下の者・就任)
 御勘定方小頭 図師崎 良助
 同      野崎 良八郎


★(堀 仲左衛門 出府の件)
一 前の案件で付則しますと、
堀 仲左衛門(伊地知 貞馨)から防総の間に 
(*島津久光と島津斎興の間)
一 書状が差し出されました。もっとも、ぜひ、
堀 仲左衛門の急の出府の仰せ付けの建議が
なされました。
蓑田伝兵衛(*後の島津久光の側役)
から2月10日の晩、
来て下さるようにとのことでしたが、
堀 仲左衛門には出府の嫌疑もあり、
出府は相、ならず、
三士(有村兄弟・田中直之進)へ書面をもって、
しっかりと、その趣意を諭し聞かせ、出府は難しく、
それは出来ない、との政府の定説で、これから先、
有志の中で熟談するように、とのこと。

○今、決挙の報告があれば、ご参府は、この秋までの
延期になるように計画するべきであるが、只今のところ、
そうともいかない、とのこと。

堀 仲左衛門は、島津久光に拝謁し、
しっかり、これまでの事情、事態を申し上げました。
(*堀は、)「政府の議論は、かくの如く、
有志のなかで評議は、このように(*であります)」と、
申し上げたところ、
「なるほど、この節の件は、書面をもって、
申し諭しの筋である、と聞いている。
それで安心すべきであろう」とご沙汰の通りでした。
堀 が申し上げるには、
「なるほど、安心すべきでしょうが、
追々、御参府も近いこともあり、その上、追々、
礫(*小石川水戸邸)からも引き合いがあるでしょうし、
その時に臨んで、何分にもこの通りの人数では、
お国元の事情も詳細に届かないので、
何分、懸念致すのでは。」と申し上げたところ、
(*久光は)「そうであれば、しっかりと相談して決定し、
明日、(* 堀に)申す。」とのことでした。


一 この返事の申し上げる趣旨は、あえて言えば、
その趣旨(*出府は難しいことを)貫ぬき、
三士(有村兄弟・田中直之進)が、これを
受けなければいけないのですが、たとえ、
書面で申して見ても、礫(*小石川水戸邸)が決挙すれば、
なかなか、その対処は難しく、よって、この件は、受け難く、
何とも、この節の件は、堀が出府を仰せ付けられるように、
願い奉ることでありますが、翌日、堀が、またまた拝謁して
言うところによると、(*堀の出府を)御承知されました。
蓑田の方へもその通り、返答され、然るところ、
(*これは)久光公のご英断で、(*久光公は)堀の急の出府
を仰せ付けられました。

★(変事到来に備える策)
2月18日、堀 仲左衛門、出立し、そのうち、
島津久光公へ3度拝謁し、相、調べ、
内外のご処置の件などを建白し、(*久光公も)
ご同意とのこと、島津左衛門の方へも度々
お越しになられ、建白のことを、(*云々。)

○(*藩主)ご参府の節、筑前福岡公(*黒田斎溥・
黒田長溥(ながひろ)、筑前福岡藩の第11代 藩主のこと)
へお立ち寄りになり、万一、変事のときは、筑前まで
引き返され、お国の兵を待たれて合流し、
ご出馬されるよう、かれこれ篤く、お立ち寄りにて
ご相談されるよう、もし京都近辺(*におられる時の変事)
であれば、川上式部(薩摩島津・川上氏)へ人数を
召し出すため、ご名代としてお守り致します。

○粮米(ろうまい・兵糧米、食糧としての米)を
囲(*かこ)む件、下ノ関、大坂へ託されるよう、
下ノ関の件は、白石正一郎へ託すこと。

○出府の上、変事があった折は、
外邸は捨てて、渋谷、芝の御屋敷の両所を固め、
有志の諸藩(因幡、長州、越前、尾州)、
土佐藩へ応じて、幕府へ「意趣は無く、
斬奸の仕業である」旨を申し開き、その後、
安心される処置を尽くして国兵の到着の続きを
待ち、なるべく静まりことが主眼で、その他は、
臨機応変に。

○炭屋間道の一件、手を付けたく。

○変事の当日、お御屋敷の近辺の米屋から
米を買い占める策。

○京都へ立ち寄り、水戸藩への勅錠が返上されると
その勅錠の真偽を探索すること。

○変事の節は、喜入攝津(きいれ せっつ、
*喜入久高、薩摩藩の主席家老)へ
真実を明かし、表向きには直ちに向かって
変事に臨めば、君意と云うことで(*幕府からの)
引き合いは都合よく、左州(島津左衛門・久微)
から命じられたとしても都合がよいとのこと。
その他、詳細な件は、略します。
このことは、島津左衛門の方で評議の上、
島津久光公へ申し上げて下さいとのことで、
堀 仲左衛門が建白したところ、(*藩主は)至極、
同意されたとのこと。

○島津久光から我が党・岩江一和への一件、
且、過激に出るように相談すべきとのご内諭が
ありました。


一 島津左衛門、御軍役惣奉行を仰せつけられ、
島津久光公から当時、とりわけ、世の中は
不穏で、既にご参府も近いので、万一、
変事の上は、どのような処置を致すべきかを
見留めるように、とのご内達があったとのこと。

一 万一、変事の節は、人数を差し出すので、
百人(*を)、内々に調べるように御軍役方へ
当たれとのこと。
新納中三(にいろ ちゅうぞう、薩摩藩家老)は
至極、正論で、安田助左衛門(*御軍役奉行)は、
日常の吟味で富家の調べ等をしていたところ、
これを止めて、有志の取調べと申して、
その場にいて、密かに調べ方などを差し出し、
人数の件は、こちらで手配出来そうです。

一 御発駕(ほつが・ご出発)は、3月13日と仰せの
飛脚が到着。
早目の方が、ご都合が良いとの申し出で、もっとも
最初の日限通りであれば、4月14日、ご到着。
直ちに25日にご登城の都合で問題なく、よって
早目になるとの云々。

★(茂久公 五社を御参拝)
一 2月19日、
太守様(島津茂久公)、五社を御参拝。
諸士、皆、お供を仰せ付けられました。

★(名越・安田らの登用に対する風評)
一 2月末、山田 荘右衛門(*山田壮右衛門、
島津久光の御納戸役か)が到着し、
関東の諸都合の為 に出府したが、島津久光も
どうにもならないことは叶わないとの返事で、
早川五郎兵衛(*兼彜(かねのり)、江戸御留守居役)
なども同意して、島津久光も「どうもならぬ」
とのお気持ちであるとのこと。

一 名越 左源太、たまたま、御抜擢(*この年、
1月15日に内之浦・管轄)になられたが、
何分、堅物で、甲州流(*武田流軍学)を主張する
弊害があります。
安田助左衛門(*御軍役奉行)を登用したのは,
兄弟(名越・町田兄弟)の訳で、とりわけ、
町田彌は無用で、ここに至っても平穏論を唱え、
島津左衛門(*御軍役惣奉行)は、手荒であると
島津久光公へ告げ口をして、
堅山武兵衛(*大番頭 御勘定奉行勤)その他、
君側の正邪、進退の件、大いに妨げになっている
とのこと。
最早、島津久光公・島津左衛門に見抜かれ、
兄弟ともサルトヨモ(*猿の方言)と、
島津久光公のご沙汰とのこと。
右の人数の調べについて、新納中三(*薩摩藩家老)
も不承知で、名越 左源太と話したところ、
安田助左衛門の件、萬事、成熟し、殊に人望もあり、
任せて置いて然るべきと申されたとのこと。
町田は、ともあれ、名越 左源太は、信じるに足り、
かくの如く不明では、足取りは残らず、の事情、
状況です。

一 平田仁左衛門(*お側役)も古い格式を
かたく守る弊害があるとのこと。

★(田中 直之進、報告の大意)
一 2月21日、 田中直之進、急を告げる。
大意は、以下の如し。

一 一昨年、安政5月年秋、相、下られ、
勅書の件は、その形は召され置かれ、禍の根源は、
是非(*これを)取り返そうとする賊の策で、
非常に幕府から画策し、徳川慶篤(よしあつ・
常陸水戸藩の第10代藩主)殿をいろいろ欺いたが、
高橋多一郎などが君側にいて、始終、助けて
諫言(かんげん・忠告)したので、先々の懸念も
これ無く、併せて、何分にも素直な方なので、
高橋多一郎は、次第次第に、なだめすかして、
勅書を受け取り、有志が、それを護って国元へ下り、
老公・徳川斎昭(なりあき・常陸水戸藩の第9代藩主)
が受け取られ、宝蔵へ格護(かくご・保管)された
とのこと。
そして又、高橋多一郎は、君側を離された後、
とりわけ、危うくなりました。

★(幕府、水戸藩に勅書返上を迫る)
一 去る安政6年11月、例年の通り、
勅使・伝奏の方々が下向され、
叡慮の旨をあらせられ、勅書のご返上が
なるように、同12月17日、
若年寄・安藤對馬守(安藤信正)が、
中納言殿(水戸藩主・徳川慶篤)に迫り、
今日から8日の間に(*勅書を)
差し出さなければ、水戸家の為によろしくない、
とのことで、中納言殿は、お困りになり、
家老、御納戸の両人に、是非、 勅書を差し出す
ように命じられたのこと。
だが、本家老・大場一真斎(いっしんさい)、
高橋多一郎ら一同は、決して御返上は相、
なりません。もし、この上、勅書を持ち出せば、
打ち首にされる決心で、有志は中国境を固めるので
よろしくとのことで、国中、議論となり、不穏と
なるので、その訳を幕府に申し出たところ、
又々、若年寄・安藤對馬守が、そうなると、
水戸家の大事で、ご違勅にも相当し、ご改易を
出さねばならないことになるので、是非、
中納言殿がご帰国され、(*勅書を)ご返上下さる
ようにと、ひどく(*中納言殿)を
責められたとのこと。

一 当、万延元年正月元旦、
有志20人が急遽、出府し、どのような件であろうと
勅書を御返上してはいけませんと、きっと、戒め
申し上げたとのこと。
そして、ようやく、重役を召され、国元へ
帰らすことになったとのこと。

★(水戸藩有志 出府)
一 若年寄・安藤對馬守(*安藤信正)は、お年寄では
権限がなく、正月14,5日ごろ、閣老と面会し、
是非とも中納言(*徳川慶篤)殿がご帰国され、
(*勅書)ご返上するように迫りました。

一 威公(*初代水戸藩主・水戸頼房)および
義公(*二代水戸藩主・水戸光圀)の二公、以来、
勅書が下ったことは、多々あるが、
幕府より取り次がれることはなく、
(* 勅書返納の朝旨・朝廷の意向を指す)
いわんや、今回のことは、偽勅に相違なく、
正月15日、(*徳川慶篤へ)両使(*使者まで)も、
立てられたとの事。
木村權右衛門が一旦、(*江戸から)帰国してみると、
国元(水戸)では、有志が一決のうえ、
正月27日に出藩し、他に、海野槇八が
神田浦三と同行。
当方へ書付で紹介してきた趣(おもむき)は、
左記の通りである。

★(斬奸手順書)
一 悪人退治の日は、来月20日前後。
ただし、予定が一杯でも、延長はなし。
このこと、貴藩(*薩摩藩)でも、すぐに、
檄(げき)を飛ばして、すなわち、
広く皆に知れるように回状して下さるよう
お願い致したい。

一 朝廷からの諸事の依頼により、
この条約を元の通り(最初の勅諚)になるように、
いろいろな手段を取って頂きたい。

一 (*水戸藩に下された)勅状では、
1、200人程、守衛として上京してほしいとのこと。
ただ、ことは臨機応変で、薩摩藩からも
差し出して頂きたい。

一 悪人退治が濟めば、一物(首級)は、
馬で速やかに南品川まで行き、
そこ(南品川)からは、船路で(運びます)。

一 貴藩(*薩摩藩)の三千人は、
京都の守護をお願い致したい。

一 雪人(*水戸)の面々は、いさかい、争いと云う名
のもとに、来月上旬より(*江戸藩・水戸)屋敷へ
繰り込みます。


次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む10
大久保利通日記 上巻 に続きます。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント