歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む10

●大久保利通文書 万延元年 2月

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

【目次】(ほぼ時系列で掲載)
(日記)万延元年2月・31歳

一 木曾街道 東海道・・
       一 花 桂 月 武・・
       一 外二高橋ヨリ堀高橋江・・
       一 斬奸誅伐之義ハ兼而・・
       一 人数之義二月初旬ヨリ・・
       一 井伊讃州安藤三奸ヲ・・
       一 京師奉護の義者・・
       一 横濱商館大風雨二乗シ・・
       一 有志諸藩江引合ノ義・・
       一 右二付支是迄・・
       一 即日御殿二而城陰・・
       一 防公江ハ同日阿兒雄ヲ以・・
       一 同日八後城陰ヨリ・・
       一 廿二日兒玉ヨリ防公・・
       一 廿三日左洲右書附・・
       一 同日亦々兒玉ヲ以奉・・
       一 右二付而ハ萬一・・
       一 廿五日谷村 重邸(久光公)江・・
       一 廿六日晩 御殿江参候様・・
       一 一左右次第人数繰出之所・・
       一 二月廿五日 御金二拾五両・・
       一 二月末 飛脚ヨリ徳田[彦次]・・


――――――――――――――――――――――

万延元年 1860年 利通・31歳

一 木曽、街道東海道の両道へは、
人数を差し出して頂く事。
幣藩(*水戸藩)は、人数を差し出します。
別紙に合言葉

一 花(柱)。 月(武)。浦浪(赤井伊)。
対馬(對安藤。若年寄・安藤對馬守)。 
沖石(金讃州)。 雪(吹水)。
清章君(老公。水戸藩の徳川斎昭)。 
十四君と(當公。水戸藩の徳川慶篤)。 
星月夜(也也薩)。 
清狂(高橋。水戸藩の高橋多一郎)。
西遜(錦木村)。

海野槇八、神田浦三の両人は、
日下祐之進の所に隠れています。


一 他に高橋(多一郎)より堀高崎へ宛ての
決定書の書簡が来ましたが、別に仔細はなく、
右の書面の詳しい様子は、次の通り。

一 悪人退治の件は、以前、紅葉山へ人員を
配置しておいて、放火後に、
幕府の役人が登城する間に、隠れて
彼らを討ち果たすか、登城の途中で、
討つかの、両方、どちらかの策に決まりました。
紅葉山放火の件は、御廟所の外に離れ家があり、
これに印をつけただけのこと。

一 人数の件は、2月初旬から当公(*徳川慶篤)
に御諫めして、3~5人ずつ、およそ50人の
人数をところどころに配置し、その隙を狙い
騒動に乗じて、誰がしたのか分からないように
するとの策。
多人数ではかえって、仕損じるので、
(*この件に)同意の者を選び、ここまでの
機密を説明するには(*人数は)50人限りと
する事。
これは、ひとえに、成功を主眼としてのこと。
とりあえずは、右の通りの策である。
しかし、一挙の仕方によっては、
全国の応援、間違いなく、ここに至っては、
清濁ともに決起し、もちろん、志の者は
国境(くにざかい)に5~60人ずつ
昼夜、警備し、夜は、のろしの火をあげるので、
入る者は出ることができす、出る者は入ることが
できない云々。

一 井伊直弼、
讃州侯高松藩主・松平 頼胤(よりたね)【1】、
老中・安藤信正
の三悪人を主眼とする悪人の首級を得たときは、
直ちに三人共を警固し、馬で品川まで駆けて
商人風に変装して海路より上京し、
主意、勅状を申請し、幕府、承認(安堵状)
の処置をする、との定策。
【1】松平 頼胤(よりたね)・
讃州高松藩の10代目当主。
幕府の命により水戸藩主・徳川慶篤の藩政を
補佐するにも関わらず、
将軍継嗣問題、日米修好通商条約などで
井伊大老側につき、補佐すべき水戸藩を
圧迫していた。
(これら、三悪人の2番目の人物とその理由は、
現在の歴史書などでも具体的に、
よく説明されていない。)

これを諸侯伯へも同じく承認していただき、
かつ、攘夷を除く件は、
これまでの邪(よこしま)な(幕府の)所業は、
かくの如しと、お示し下さいますように。


一 京都、警護の件は、勅状の返上を名目とし
「100、200人が正々堂々と上京するように」と、
お褒めの勅書を出す必要は、ありません。

一 横濱商館へ、大風雨に乗じて
放火するというのは、奥の手で、
人員を速やかに出していただきたいとの事
(意味)で、東海寺やその他に滞在する異人を
共に討つと云う決策(結論)で、あります。

一 有志を諸藩へ引き合す件は、
先般の告文を近々、差し廻します。
(悪人共を)討ち果たし、幕府の届書を各大名へ
布告する件は、「主義(主眼)は上記の如くである」
とのことで、人員を配置し、早々に回達するとの
決策(結論)で、あります。
右の通りが大意であります。
いずれ 京都は手薄なる、ことが心配なので、
「御国(薩摩藩)からすぐに
堅固のために人員を差し出していただきたい」と
依頼するとの事。
しかし、もはや右の通りに決定しましたので、
往復(やり取り)を待たず、
事を挙げるようにと云々。
薩摩藩・堀 仲左衛門(伊知地 貞馨・さだか
誠忠組・文久元年、国元からの指示で薩摩藩・
江戸藩邸を自焼させた人物。
大久保利通とは長年の盟友。)
が、江戸詰めの間、国元までへも書状が行き、
上の者から下の者まで決起することも
伝わりました。
故に、いよいよ全国の志士、相通じるべく
引き合せますので、その節は、
何よりも、お互いに疑わないように。
かつ、
薩摩藩・田中直之進(田中謙助・
寺田屋で島津久光派遣の鎮撫使と激論となり
眉間を斬られて昏倒。寺田屋事件の発端と
なった人物)も
「国元へ、この事実の【委細】は達しないので、
容易に兵を動員できるであろう」との意見で
それに、従うとの事でした。


一 右については、これまで薩摩藩・田中直之進の
注進(事件や出来事などの書き記し上申すること。
現在では、告げ口の含みをもって
否定的・非難的に一般的に使用されことも
あるが、この当時の意とは異なる)を
一日三秋(詩経の出典から、一日会わなかっただけで、
三年も会わなかったような気がする・一日千秋の意。)
の思いで待っていたので、同志は決起しました。

★(久光公に内願す)
一 即日、御殿で蓑田伝兵衛【2】と面会させると、
これまでの経過を説明し、
「ぜひ人数を差し出して頂きたく、
当時、御邸宅も手薄で、
またお姫様方もおられ、もちろん
朝廷への難題があるのも明らかなこと。
それ故、この際、長引かせれば、決して
すまされません。」
と申し述べました。
【2】蓑田伝兵衛
薩摩藩士。長崎に在勤し、外国汽船や
武器の購入に任じられていたが、
島津久光の御側役となり、大久保利通や
西郷隆盛の連絡役となっていた。

一 毛利 敬親公へは、同日、一同より右の趣旨を
誠意をもって同様に、お願い致しました。

一 同日の八(やつ・午後2時)すぎ、
また、お城よりこの挙について詳細に
相談したいので来ていただきたいとのことでした。
右の件についての説明などについては、
日が差し迫り、右については、これまでの
手続きの勅書が下って以後、
この面会の件、(および)
遂にこの挙に及ぶ一部始終を、ことごとく書き記し、
かつ、右については、人数を出す件、
一同の存念と上申書を一紙に書き認(したた)めて
遣わして下さるよう(お願い致します)。
何分にも政府(薩摩藩)のところも
わずかな有志ししかいなくて、
ほんの少し、この大事を云っていただいても
普通に聞くには驚かれるでありましょう。
いずれこの計画の次第が、そうなのかと、
気が付くように、これ(上申書)がなくては、
ならないのです。
よって、この考えを認(したた)める事
については、その晩の内に認(したた)めて
差し遣わせました。

★(出兵建言 主意書)
主意は、第一、順聖院(島津 斉彬(なりあきら)様が
ご存命中、水戸藩・越前藩・尾張藩へのご結合
(一緒になると云う意ではなく、諸藩大名と諸藩の
家臣たちを横断的に合従連衡(れんこう)させるの意)、
させました。

順聖院(島津 斉彬(なりあきら))様が
日本国が外国に、いいようにされる端緒を
(作らなければよいが、と)憂えられ、
心(忠誠)から外敵を取り除く主意より、
内外とも幅広く情勢を急ぐご意見を持たれ、
外敵を防ぐには内政を強くするにつきるとの
ご意見で、一橋慶喜の西に上ることにおよび、
右のようにご内命を出されて、西は京都、
関東周辺を奔走せねばならないというご主張は、
世の中が衰退する兆候なのでありましょうか。

(その後、幕府の施政は、)外敵、
ますます多くなり、それを防ぐ事、うまくいかず、
幼主(徳川慶福・当時13歳)
を擁立し、遂に家定公が亡くなられた折
(安政4年(1857年)7月6日)
には、精忠の三藩へ幕命を下し、その後、
外敵の除去の策はこれと云ってなく、
ここにおいて日本国の大事は、ほとんど、
あやつり人形のようで、
忠義の志士の尽力と至誠をもって、
勅諚が下ることになることになり、(*戊午の密勅を指す)
しかも、いよいよ国難を醸し出し、
忠の堂上方【3】を始め、
藩士、浪人をことごとく召捕り、非命の死を遂げ、
あるいは、配流などにおよぶ始末。(安政の大獄)
【3】堂上方(どうじょうかた)
鎌倉時代以降、天皇に奉仕する
二つの形態があった。
武力 → 武家。 政務一般 → 公家。
公家は、広義には
殿上人(てんじょうびと)と
堂上家(どうじょうけ)で、五位以上の者で
昇殿(しょうでん)、すなわち
清涼殿南廂へ昇る事を許された者であった。
すなわち、表現が異なるが、堂上家と公家は
同じ意味である。
精忠の堂上方 → 精勤の公家の方々の意。

鎌田出雲【4】が 京都留まる件、
月照和尚の成行きは、その後、有志も出席して、
ぜひ復興を計画するとのその真心は、
変わっておりません。
【4】鎌田出雲(いずも)
薩摩藩士・島津斉彬 (なりあきら) により、
大目付から若年寄に。斉彬の密命を西郷や大久保に
伝え、尊攘派を支援していた。

我が薩摩藩の先君のご遺志を尊重し、
有志は出没し、伊地知貞馨や西郷隆盛により、
これまでやってきましたが、遂にこの挙に
至りました。
これまでのいきさつや聞き伝えの次第は、
吟味して詳細に書き記し、右の通りですので、
先君のご深意、結合を継続すると云う信義に
背かず、かつ、お姫様方もおられる間、
名目上、国外の禍(外患)もあり不満な世情
であるので、関東を護ると云うことで、
京都、関東へ100人ずつ、海と陸に二手に分けて
朝廷再建の大志を貫かれるために人員を
差し出して頂きたいと、諸々の趣意をもって
差し出しました。


★(久光公の御返詞)
一 (*万延元年)2月22日、児玉より
(*児玉 宗之丞・薩摩藩の中級武士。
書役の家柄だが、島津久光の護衛を務める。)
毛利 敬親公への返事の趣意は、
争乱になるのは非常なことで、自然に成行き
ですが、以前に人員を差し出したのは無名の兵で
あります。
今回のことでも勅諚であるので、
人員を差し出しますが、何分にもその名目がなく、
とにかく、いつまでもその名目を正す御趣意であると、
説明されたとのこと。
(そして)この大事については、一同、
皆さまの英断を望んでいるという趣意を
申し上げたところ、これは、
(私の)一存で決断できないので、
必ず、左洲*(左洲、土佐藩。
土佐藩の山内 豊範が養女の婿という関係で
山内豊信こと山内容堂と交流があった。)
などと評議のうえ、決断しますとのお答えであった。

一 万延元年2月23日、
土佐藩は、右の書付を持参し、
毛利 敬親公と相談することになったとのこと。

一 同日、また児玉雄一郎(島津茂久公の目附)
が嘆願した趣*は、これまで水戸が決挙する
機会は度々ありましたが、
確認しなかったことは必定で、また、
この節の一挙については、万に一つ、
疑うことがないので、これまでの前条の通り、
結合が、第一であります。
なので延長されることになっては、相済まず、
かつ、水戸が一挙に及べば、京都の危急は、
明らかなる次第(確かなものであります)。

なるほど、勅錠がありませんが、
危急を傍観すると申し上げるのであれば、
返って名分とは違うことになるので、
ぜひ、この一挙をご承知下さらなければ、
無に帰すことになります。
既に、ご報告した上は、ぜひ(兵を)
出していただきたく、

もっとも(*江戸の藩邸には)姫様方もおられるので、
辛抱しなければならないことになりますが、
名目を変えて(*江戸藩邸に)兵を出せば、
たとえ、一挙の日が延長されたとしても、
その後の(*江戸藩邸には)難題は、なく、

もし、この節、一挙の日が延長されれば、
有志は安心するも難儀は残ることになります。
(この点)理を尽くして、申し上げる次第、
今日、左州(島津左衛門・久微)へ
じっくりと、ご相談下さい。
この件は何回もご承知されましたが、
昨日、聞かれた通りであります。
争乱の一報があった折は、非常のこと故、
少しも猶予がなく、昨日も一報次第では、
きっと、治めるようにと申し置きました。

*冒頭の「児玉が嘆願した趣」は、島津久光が、
児玉に答えさせた「自己の思い」であった。
*島津 久徴(しまづ ひさなる) こと、
島津左衛門。日置島津家(大身分)。
日置島津家12代当主。
島津斉彬・忠義の世に主席家老として藩政に関わる。
お由羅騒動で自刃の赤山靭負、西南戦争で
戦死の桂久武は、弟。

もっとも、命(命令)がなくても兵を動かす件は、
してはならない御法で、これは幕府、私的な立場に
立つに関係なく天下の大法であります。
なので、少々は、人数を出し、水戸藩が
もし失敗したら、どんな難題が降りかかるで
しょうか。

★(変の報告が到ってから後に出兵しても遅くはない)
なるほど、京都の危急も去るでしょうが、
私目の見解では、水戸藩の一挙は、早速、
直ちに天皇を擁護、奉り、人目に付かず行動する
ことになるようなことには及ばず、あれこれ
考えるに、悪者の首領は切れ者の三人で、
その他は、全て、その勢力についている者で
あります。
当時は、古よりも格別に表向きの理由も曖昧なので、
決してそれほどの名目には及ばず、
もっとも、井伊大老は、京都の隣国(*彦根藩)
ながら、これも城主が討たれると聞けば、狼狽して
すぐに京都へ行くまでには及ばず、
私目の見解では、変事の一報があり次第、
駆けつけるまでには速やかであると申すわけ
にはならない(駆けつけるには時間がかかる)
と予想するところであります。
この一件については、どのように申して決定しても、
未然に兵を出すことは、してならないとの
(*藩主の)ご主意なので、しっかり申し諭すように、
とのことであります。
まだ詳細な議論もあり、水戸藩から表向きに、
はっきりと引き合いがあれば、
また、処置の方法もあると存じますが、
内輪のことで、遊学生などから建白の一言を取り
(*建言に基づき、の意)、大切な国家の大事を、
何卒、ご処置される件もあり、(*上記が)
大略の要件であります。


一 右については、万一、この節、(*一挙の)
延長については、我党までも突出の議論も
あるので、これまでのところは、全て国の義士は
応じず、同調しないのを見届け、これを(*一挙を)
止めないことを決心するに至りました。
当時はこの節とは変わり、勤王の誠忠は、
深くなっているので、右の通りにて
ぜひ大挙を行う深意と伺い、かつ、また、
太守様(島津茂久公)、お書き取りの訳もあり、
気を引き締め、ゆっくりと待つだけのこと、

★(有志の突出の議論があるも却下されず)
とかく、天皇の再興のところ、
根源の主旨の件は、たとえ我党が少人数で
突出しても天皇の再興を見る事はなく、
これ(*突出しない)により全て国の奉護に
該当するのであれば、大きな功業(功績)である
ことは疑う余地もありません。
(*このことは)止める、止めないの
軽重、大小の議論に及び、いずれ、
(*一挙の)一報を待っての定論に決まりました。
ご返事の件は、一同、そのご趣意を承服し、
この上、変事の一報があれば、当日は、
(*兵の)人数を繰り出すことはせず、
きっと落ち着くこと、
万一、ご発駕(*天皇が出発する)の一報が
なければ、ぜひ、(*一挙を)延長していただきたく、
(*それが)とても難儀であれば、
お供の人数を召され、たとえ、どのような事態に
なろうとも、動揺なさらないよう、落ち着いて
ご発駕なされたい。(*との一件。)
西郷隆盛を召し返すよう。(*との一件。)
(*江戸で水戸藩などの尊攘派と交わる)田中直之進、
早速、今の形で召し置いては、かえって、
嫌疑もかかるので、出立させたいので、
お聞き通り下されるよう短観しております。

右の通り23日から24日までに衆議、一決して、
その晩、田中直之進と同行して谷村昌武
(島津忠義の側近)へ行き、右の要件のことを
田中直之進から、また、関東の形勢を申し述べました。
もっとも返事は、谷村昌武の方から申し上げるべき、
とのこと。


★(田中直之進、再び上京する)
一 25日、谷村昌武、久光公へ参上のところ、
よんどころなき来客のため、おおよそ右の要件を
書で申し上げ、委細は、明日、謁見に参じて、
言上申し上げるとの主意で、書を差し上げ、
「御承知のご返答」を承り、その夜、
田中直之進は、その返事を待たず、出立した、とのこと、
この次第は、翌日、蓑田伝兵衛(島津久光の御側役)
も止められず、(*田中直之進は)出立した次第。
この次第は、翌日、左州(島津左衛門・久微)も
止められず、(*田中直之進は)出立し、
よって、これは左州(島津左衛門・久微)へ
申し上げることであります。

一 26日晩、御殿へ参じるようにと伝えられ、
右のご返事を承りました。
変事に一報次第では、いよいよ出立すること、
ご発駕(*天皇の出発)の件は、多分、そのうち
一報があれは、万一無事であるとしても
現在は決め難く、よって、その懸案は、
吟味されるであろうとのこと。
西郷隆盛の件は、変の一報次第で、船を出して
(*西郷を)帰すのに、17日あれば往復できる。
只今のところ、(*西郷隆盛の召還の件は、
幕府に対して、すでに)死去の届を出しているので、
召喚させれば、すぐに世上に流布するのは必定で、
(*やがて)段々と(*幕府の耳に)入り、かえって、
西郷に難儀が降りかかり、
召還の件も無情になることになるので、
大切な思し召しをもって、右の通りに
(*しばらく島に滞留させることに)なった、
とのこと。
田中直之進の件は、昨夜、差し出され、お聞きの通り、
かえって、よろしくとのこと、でありました。

★(島津茂久公、出陣に決まる)
一 一報次第、兵を繰り出せば、およそ治まるであろう。
新納(*薩摩藩・家老・新納 中三)が差しはさみ
島津久光公に拝謁し、
「我党の趣意をお汲み取りいただき、まず、
繰り出す(*兵の)人数で大方は治まると存じます。
一番手は、関東・京都へ100名づつ、
二番手、300名づつ、三番手に(*忠義公、自らが)
御出馬されれば、治まるでしょう、」のこと。
これまで、(*忠義公、自らが御出馬されて)
何も治まらなかったことはなく、
かえって、混雑を被ると聞き及びます。
新納がいなければ、実にむつかしい次第であります。

★(西郷の家族に藩主から金を賜う)
一 2月25日、御金25両、
菊池源吾(西郷吉之助)の家族が困窮であると、
お聞き及びになり、太守様(*島津茂久公)、
周防様(*島津久光公)、別段の思し召しをもって、
内密で拝領を仰せつけられ、町田内膳久憲(*家老)
から谷村 昌武(*島津忠義の側近)へ伝えられ、
直ぐに持参された。

★(在京の徳田嘉兵衛から報告書が着く)
一 2月末、飛脚から徳田嘉兵衛(* 薩摩藩・京都詰)
からの一報の大略は、左の通りで、私も、相、変わった
ことを承っておらず申し上げられません。
宮様のことは、相國寺から北岩倉へ御幽居、とのこと。
今朝、承りましたが、この実否を詳細に述べられない
ので、後便で申し上げます、云々。

○去年の12月、諸候伯の官位の昇進が決まり、
仙台・伊達慶邦(だて よしくに *陸奥仙台藩の
第13代藩主。)は、正四位下中将に。
長州・毛利慶親(もうり よしちか *長州藩の
第13代藩主。)は、正四位上中将になりました。
仙台は、宰相任官のはずで、手当があるところ、
彦根が異議を唱え、これにより奥州の存念は、
不平とか、云々。

○兵庫交易館および長州守衛館など、
近々、造立のはずであるとのこと。 

○当分、諸物価は大いに高く、とりわけ、
金は甚だしく、小判金100両は、300両になり、
大判一枚80両は、1朱金より高く、
新米一石、[書き損じか、] 115匁くらい、
縮緬羽織一枚は、4両ぐらい、準じて、
野菜、雑物は悉く高騰し、世情は、皆、困窮を極め、
外夷を悪く云う者はなく、その恨みの根は巷に
満ち溢れております、云々。 

○これより先、矢野玄道(やの はるみち 
*伊予国の国学者・神道学者。著書に神典翼[約40巻]
がある。)と申すものと、交遊いたしました。
この人は、古学者で玄学(*中国の三国時代から
晋にかけて隆盛を誇った哲学思潮)を好み、
博識が高く、よって当地でも肩を並べる者はなく、
いろんな高貴な方へも侍読などをしている、
とのこと。


次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む11
大久保利通文書 巻1 に続きます。



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