歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む11 

●大久保利通文書 万延元年

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

【目次】(ほぼ時系列で掲載)
(文書)12・    万延元年2月
           久光公および家老・島津下総に
           呈せし嘆願書卯
(文書)11・参考1  万延元年2月28日 
            菊池源吾 (西郷隆盛)より
            大久保らへの書簡

――――――――――――――――――――――


この頃(年表より)
2月 利通、書を島津久光及び、家老・
    島津下総に渡し、江戸にいる同志へ
    義挙中止の事情告げるため出府を願い出、
    聞き入られる。

大久保利通【文書】12   万延元年2月

●久光公および家老・島津下総に提出した嘆願書

(要点)
江戸にいる同志に藩の事情を告げるため、
(利通が)自ら出府することを請願した。

(解説)
精忠派が決起を中止した事情を江戸の同志はまだ、
これを知らず、精忠派が水戸の藩士と結び、
進んで井伊大老を襲撃することが、いよいよ切迫した
という密報が、藩に達した。
そこで利通は、事、もし、起こることがある時は、
堀忠左衛門らの危急は、勿論のこと、
藩内の同志の決起は、火を見るよりも明らかで、
昨年秋に親諭書を請願奉ったことは、すべて
水泡に帰するので、利通、自らが出府して、
共に、この事情を同志に告げて、
一挙を中止させようとするものであった。
だが藩庁は、なお利通の真意を疑っていたが、
遂に、これを許したのであった。

【本文・意訳】
京都、関東の形勢は、別紙、堀忠左衛門の書状、
徳田嘉兵衛(*薩摩藩・京都詰)の文面の通りなので
ご覧いただきたく存じます。
とりわけ、堀忠左衛門の危急の件につき、
私(*自身の)出府の件を起こしました。
何分にも前条の通り、先々、手をこまねき、
事を成さないのでは、ご裁断は難しく存じます。
堀忠左衛門が万一、難儀に陥れば、藩外の
同志は、とても傍観することはないでしょう。
このような事態に及べば、国家の難題に
違いないので、いつか(*私に)出府を
仰せ付けられれば、当地の状況を知ることは、
君意のことなので、
防公(*島津久光公)、総州(*島津下総公)の
趣意云々などにも通じたく、とりわけ、
国許の事情を詳細に伝えられるので、
差し迫った決心をした次第であります。
何分、大事な一件なので書面では、とても
説明できかねますので、出府した上で、
とくと申し諭し、どこまでも ご趣意の請書を
差し上げたく、その志をもって願い奉ります。


―――――――――――――――――――――

大久保利通【文書】11・参考1 菊池源吾から

万延元年 1860 31歳

●菊池源吾から大久保らへの書翰
     万延元年2月28日
        (川上直之助氏蔵)

(*安政7年3月18日、万延元年に改元。)

【本文・意訳】
ますます久光公の男気、実に感じ入りおります。
将又(はたまた・*また)、
波平(*なみのひら・薩摩の刀匠)の刀の一件、
正々堂々のご建議、もっとも、値い千万に当たり、
それを取って返した件、名分上の処置よりも必ず
後の後悔をなくすべきであり、これは、まず、
その通りで、幕府へは追従の姿をみせて、
本道の忠義を願い奉るものであります。
それを(*幕府が忠義を)なせ、と云えば、
悪人から幕府へ、このように、このようにと
言ってきて、いろいろな件を持ち出されては、
大きな害となるので、陰で力を持ち、
その恥を義挙をもって取り返すべき策を
立てるように願うところであります。
この件に関わらないにもかかわらず、
考えのまま申し上げました。

○南島にも、本土の流行病(*コレラか)が
大流行で死亡者多く、小生もこの節は
4,5日苦しみましたが、全快し、当分は
静まる傾向であります。
永久丸、恵泰丸、順恵丸の三便の貴殿の書簡、
ありがたく拝見致しました。
(*貴君は)同盟、どちらにも属せず、
安穏とのことで、喜んでおります。
小生は、変わることなく月日を送り、
憚りながら、ご安心下さいますよう願います。
陳者(のぶれば・*さて)天下の形勢、
ようやく、落ち着きの模様で、
実に、憤って嘆いております。

橋本(*越前藩・橋本佐内)迄
(*この年の前年10月7日に)刑死になった件、
思いがけなく、悲憤千萬(*悲しく嘆き)で
耐え難く、これも時世でありましょうか。
堀忠左衛門も、
些 目角相立(ちと めかど あいたち・
*随分、幕府が注目して危険人物としている
様子で、)残恨の思いであります。
貴君が江戸に行かれては、何の策も出来かね
ないので、願くは、この1年間、
この様な身の上なので、何とぞ、
姿を変えて(島を出て)走りたく、
一日千秋の思いで呼び返される日を相、
待ち、朗報を待ち望んでいる時期で、
小生が罷り出て、また(*久光公が)
どうような肝癪(かんしゃく)を起こさない
かも知れず、幸い(*小生は)孤島に流罪中の
このなので、黙止しておきます。
なお(*悪者は)余談を許さない連中なので、
その吟味は大変難しいかと苦察いたしております。

○貴兄ら、お国のことは勿論、朝廷の大難も
建白され、余程、ご忠誠を尽くされ、
実に関心の至りで、天下国家のため、
ありがたい次第であります。
そして容易ならざるところ、(*藩主・茂久公の)
ご直筆までの一件、夢々、このようなことには
ならないと考えていたところ、何とも、
ありがたいことであります。
(*ご直筆とは、大久保利通【文書】9 安政6年11月
●藩主への上申書、の(解説)の中の、
方今世上一統同様、容易ならざる時節にて、
万一事変当来の節は順聖院様 御深志を貫き、
以って国家に忠勤を抽(ぬき)んずべき心得に候。
各有志の面々深く相心得、国家の柱石に相立ち、
我らの不肖を輔(たす)け、国名を汚さず誠忠を
尽くし呉れ候様、偏(ひとえ)に頼み存じ候。
仍て如件。
  安政6年巳未11月5日  茂久 花押
精忠士 面々へ )
        を指している。
*この時、同志40余人連名の請書の筆頭に
菊池源吾こと西郷の名を加えた一件を
大久保が西郷に知らせたのが、この手紙である。

ただただ、死人と同様のこの身さへ、
涙を流します。
とりわけ、諸君らのご忠誠に感じ入り、
心、躍る次第であります。
国家の柱石になれ、とのご文言、恐れ入り奉ります。
ご請書についても、小生の名前まで、
お書きいただき、過分の至りで、痛み入ります。

○ここに至り何よりもありがたいことは、
天皇(*孝明天皇の健勝と幕府に対する毅然たる
態度のこと)におかれては、意志が固く、
動揺されないこと、何とも申し難く、
朝廷の大幸と仰ぎ奉ります。

○水戸藩が長岡の陣所を引いた一件は、
(*安政6年12月以降、水戸藩の烈士は、
勅書を返納を拒み、長岡に集結していた)
表に弱さを表し、勃興する気配があるのであろうか、
一向に見届けることが難しいところであります。
正義の諸侯も心意気を奪われたのかと推察します。

○小生の帰藩ならず、の件は、どなたが
拒まれたのでしょうか、このこと残念に存じます。
すでに捨てたこの命、何のために生き
長らえているのでありましょうか。
命ある限りは僅かな忠義を捧げ奉ります。
心がけはこのようでありますが、どのようなことが
あろうとも、ただただ茫然と変を待つべきで
ありましょうか。
帰藩すれば、いろいろなことを申し上げるので
その見込みを予見して、一日でも引き延ばしたい
策でありましょうか。
何分、お知らせ下さるように。

○大正阿(*薩摩藩士・大山正阿彌、大山正圓、
後の大山綱良。安政の大獄で国元で永押込と
なった。大山家と西郷家は親戚関係にあり、
精忠組に入り、西郷、大久保らと文武に励んだ
関係であった。)の一件、気の毒なことに存じます。
 右の通り、大まかにご報告、このようであります。
 恐れ入ります。
   (*万延元年)2月28日
          *西郷隆盛
大税有吉様*

*大税有吉は、大久保利通(この時、正助)、
税所 喜三左衛門(篤)、
有村 俊斎(後の海江田信義)、
吉井 仁左衛門(友実)のことで、
あたかも一人の人間のように宛名としている。

御直書を拝読して(*詠むに)
「思ひ立つ 君が引き手の鏑矢(かぶらや)は
 ひと筋にのみ 射るぞ かしこき」
大事を決心し、帝の引く鏑矢(かぶらや・
放つと音が出ることから戦場における相図として
合戦の開始の合図に用いられた)は、
ひと筋にのみ射るもので、申し上げるのも畏れ多い
ことであります。

「一筋に 射ると云う弦の 響きにて
 消えてしまう身をも 呼び覚ましつつ」
一筋に射ると云う弦の響きは、消え果ててしまう
わが身さえをも(*合戦の心意気を)呼び覚ます
ものであります。

追って、申し上げます。
皆々様、いろいろご丁寧な品を届けて下され
誠にありがたく、ご厚情、お礼申し上げます。
永楽丸の件は、琉球で破船しました、とのこと。
肥後の長岡監物の死去の件、津田 山三郎の書面でも
詳細に書かれ、実に悲しく涙の至りであります。
このような衰退の世の中では、秀でた人物が
ことごとく、このようなことになるとは、
嘆かわしいことであります。

*長岡監物。是容(ながおか これかた)は、
肥後藩の家老で実学党と呼ばれる藩政改革派の
中心人物であった。
一時期、家老職を辞職するも、嘉永6年(1853年)、
ペリー再来航の際、復帰し、浦賀守備隊長となる。
後、保守派学校党との抗争に敗れ引退し、
この前年、引退先の領地・八代で死去した。

*津田 山三郎。津田信弘(つだ のぶひろ)
肥後・熊本藩士。江戸、京都の留守居役。


次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む12
大久保利通日記 上巻 に続きます。

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