歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む12 

●大久保利通文書 万延元年

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

【目次】(ほぼ時系列で掲載)
(日記) 万延元年3月8日から
         万延元年3月・31歳

       一 三月八日 三十人出府被仰付・・
        一 一同右之御内諭奉承知・・
       一 同九日 八後 有七・・
       一 右二付篤ト勘考ノ處・・
       一 十日今日御用也・・
       一 十一日早天 差越候拝謁相調候・・
       一 三月十三日 太守[茂久] 様 御発駕・・
       一 御書取之寫
       一 同廿三日町飛脚着別紙落手・・
       一 有村[雄助・次左衛門]親類江・・
       一 次左衛門 雄助 右人數江・・
       一 右通二而事實不相分粉々ノ説・・
       一 右様談合之折柄 [有村]雄助・・
       一 田中直之進[盛明] 罷下候後・・
       一 関鐡之助[遠・水戸藩士]義・・
       一 去ル二月廿五日 金子孫二郎・・
       一 三月二日二野村彝之助儀・・
       
       
【本文・意訳】
★(出府の人数に同志を加えることを内願する)

一、3月8日、30人、出府を仰せ付けられ、
15人は来て、(*3月)16日、15人は22日に
出立しました。
これについて、我々同胞は、要請されて人数を
仰せ付けられましたが、非常に不満で、
もっとも前日頃、岸良 七ノ丞こと、岸良 兼養
(きしら かねやす。*島津忠義父子と精忠組との
連絡役を務めた島津久光の小姓)から
内分に承知の訳もあり、藩が我らから人数を
差し出しては、何か問題が出るのではないかとの
吟味もありましたが、岸良 兼養を何分、この節、
我らの人数(*の中に入れるよう)にとの仰せ付けは、
一同、安心し難く、7、8人でも是非、仰せ付けられたく、
久光公へ内願し、おまかせ致しました。
なので、3月8日の四つ(*午後10時頃)の後、
蓑田 伝兵衛(*薩摩藩・島津久光の側役)と会い、
是非、我らの人数、4、5人でも仰せ付けられたく、
内願致しましたところ、この人数は、京都の方へ
振り向け、久光公、久徴公の特別なご吟味で、
京都の方は、第一の案で、我らの人数を手厚くする
との思し召しにより、関東の方への人数は、
差し出さないので、よくよく、前述のご趣意も
汲み取るように、(*とのことでした。)
ただ、下の者から無理に申し上げては、
上の者も、とりわけ、ご処置に戸惑われるので、
一同、承服したいとの赴きは、再三、承わりました。
(しかし、)我々の人数を受け入れる訳もあり、かつ、
これまでのところ、変事についてのご処置は、既に、
関東からの報せもなく、参府の適当な時期を決める
ことについては、無事なご処置で、もっとも、
関東の内情の詳細を知っておられるかについては、
とりわけ、義理と人情も忍び難いので、
是非、4、5人でも仰せ付けられたく、その旨の
推察を述べましたところ、ご吟味もあるとの返答で
ありました。
そうしているところ、当日の午後10時頃前に、
前述の人数を仰せ付かりました。
当日の午後10時頃後に、(*薩摩藩家老)新納 次郎四郎
(*こと、新納 忠堯(にいろ ただたか))からの
ご内諭では、この節、ご参府についての人数を
仰せ付かり、精忠組からの人数は仰せ付かれないことに
ついては、そのお気持ち、どう受けられようとも、
すべてのことに思し召しがある訳ではなく、
京都の守衛は重要であるので、変事の節は、一同、
京都の方に力を尽くしてくれたくとの、
偏(ひとえ)に手厚いご趣意なので、一同、
安心致しました、との次第であります。
(*これは)久光公からのご沙汰で、久徴公からの
お達しでありました、云々。

★(同志、強いて(*久光公の)篭に従い
上京を請願する。)
一 一同は、右のご内諭を承知致し、そのご趣意の訳にも
背かれず、何分、藩の吟味の件は前もって承知している
ところでもあり、殊に、お引き受けの人数には、
一同、仰せ付けられないので安心ではあります。
しかし(*久光公が、)蓑田 伝兵衛(*久光公の側役)
の方へ都合よろしく仰せ付けられた件については、
非常に不公平な処置であるので、一同、納得する
ところではありません。
(*精忠組の)人々は、なかなか忍び難く、蓑田 伝兵衛へ
押し寄せ議論をしたその上で仰せ付けられれば、
公然とお駕籠(かご)にお供するとの決心で、
とても安心できないのが人情であります。
よって、当日の晩、大山 綱良(おおやま つなよし・
*精忠組所属。久光公の上洛に随行。後の寺田屋事件
では説得に成功させた。)宅で、谷村昌武(*島津 忠義
公の側近)と会合し、この内情を充分に説明し、
ご内諭の件については、この趣意に少しも背くもの
ではないが、このように(*精忠組の)人心を
挫(くじ)けさせるようなご処置については、
後から来る者については、実に大きな害を及ぼすのは、
明らかなことであります。
もっとも両立の件は、分けても手厚く、
ご内諭までも承知致す訳もありますが、
このような次第では、ご趣意を貫くことも納得できない
と申しますと、谷村昌武も非常に不快で、
(*一同の思いは)至極、もっともなことで、
私も心残りで、ましてや、ご一同にとっては当然なこと
であります。
これは、とにかく7、8人でも仰せ付けられなくては、
相、済み難いことなので、明日、精一杯、尽力を
尽くすので、名前を認(したた)めていただき、
8、9人の名前を認めてすぐに、差し遣わせるように
致します。(*とのことでした)

★(志士の請願が聞き入れられなければ一挙の決意が
あることを語る)
一 3月9日の八つ(*午後1時から3時頃)の後、
有川 七之助(*家老座書役)から蓑田伝兵衛
(*久光公の側役)へ用談があり、早々に
来られるようにとのことであった。
よって、出かけると、谷村 昌武(*島津 忠義
公の側近)と引き合わされ、今日、防公(*久光公)の
ご都合を伺ったところ、言上されました。
それによると、「昨日、新納中三(*家老)が京都の
ことが第一で、京都へ人数を振り向けると聞き及んだ。
それは共に不服である」との主君の意でありました。
(*蓑田が)そうでございますかと、申し上げたところ、
(*谷村が)しからば、お供を仰せ付けられなければ、
一挙のつもりであるか、と聞かれましたので、
その通りでございます、と申し上げましたところ、
仕方がないところだ。
とにかく、政府のほうへ談合して返答するので、
云々との次第であります。
蓑田が来られたので、谷村から差し出された書を
もって「口上の趣」とし、これを差し出されたと
聞き及んでいます。
その通りであると、承っております。
谷村へ託され演説の次第は、
もしも、人数を申し付けられなければ、一挙の
決心とのこと。
その人数が、誰々であるかと云うことについては、
別に誰々とは限っているわけではなく、
このような非常な時節、ご参府については、
非常に耐え難いので、我々(*精忠派)一同は、
これを請願申し上げる次第もあり、
一挙に出たいという趣意は一同、その通りであります。
この内、誰々と差別なくと申しますと、そうであれば、
それでよろしい。
右のことは、内願なので、島津 久光公、島津 久微公が
とくと会談なされ、昨日、手厚く内定の訳まで、
諭されましたが、それも不承知で是非、是非と、
願い出る件は、我々の意を立てて下さる思し召しで
これまで一同志のところ、頼もしく、思し召しの
ところより、度々ご内諭を仰せ付けられ、
この節は、殊に格別の訳で、お申し、お諭しされた
ことであります。

★(君命に従わなければ処分すべし)
そのような手厚い次第(*思し召し)をも知らずに、
一挙するつもりと云えば、そうはいかないでしょう。
ぜひ思し召しいただければ、不敏ながらも
表向きは思し召しを受けるべきであります。
その上で、大目附が、それ以前に取り扱われ、
お手前のお計らい(*我々の計画)を調べる訳には
いけなくなるでしょう。
それとも、黙っておられるのでしょうか。
このことは、私から貴方へ申しましたことを
承知下されば、詳細を承知したと申しますので、
明朝、どのようにするかを返事致します。
蓑田 伝兵衛(*久光公の側役)の言い方に
久光公は、非常に不機嫌で、この上、
卒爾(そつじ・*軽率なこと)などがあれば、
容赦はしないと、威厳をもって気にかけられて
おります。
また、私から貴方(*精忠派)へ、
このようなことを申すのも非常に心配であります。
貴方(*精忠派)のことは久光公も、よく御存知で
あります。
私にも、追々、引き合わすつもりなど、
欺くような言い方をされ、これは、心外であります。
私目も同意なので、内願、申し上げます。
ここにおいて、(*お供のひとの人選には)差別は
ないことを言い切っておきます。
先方からの返事がなければ大丈夫だが、
敢えて甘い言葉には惑わされないように。

★(利通、久光公に謁見して素志を上申しようとする)
一 右について熟考のところ、それを承れば、
罪を恐れて黙ることにもなり、かつ、
一同をお捨てになるとのお言葉、はなはだ残念で、
久光公のお疑いも理解できず、我らの主意も立たなくては
死んでも不安で、実に我が党の主意も立たない境目で、
大事なことなので、ぜひ、久光公へ拝謁し、とくと
その素志を申し開きたく決心致し、岩下方平【1】と
会談したところ、同意とのこと。
【1】岩下方平(いわした みちひら)
薩摩藩士。安政の大獄で水戸浪士と結託して幕政の
打開を図るも挫折し帰藩。
後、精忠組に参加、薩英戦争の和平交渉の正使。
慶応3年(1867年)家老となる。

(また、)精忠組の同志らと会談に及んだところ、
ことごとく同意とのことでありました。
よって、ここに及び、決心致しました。

一 (3月)10日、今日は出勤の日である。
早目に御殿において児玉 雄一郎(島津 茂久の目付)、
谷村 昌武(島津 忠義の側近)と会談し、
右の赴きのことを説き、ぜひ、久光公へ拝謁する
ことに尽力して頂きたく、大変、難しければ、
無用にされたく、直接、押しかけ、再三再度、
願いたく存じます。
お会い下されなければ、お屋敷を出ない含みに
及び、相談したところ、両士は同調し、児玉雄一郎は、
お引き受けした、とのこと等、云々、約束致しました。
当日、八後(*午後1時から3時頃の後)、
久光邸へ会いに行きますと、随分と待たされ、
今日の大鐘後か、明朝と云うことになりました。
よって、引き取り、大鐘後に伺うと、来客のため、
明日、来るようにとのことでした。

★(利通、初めて久光公に謁見し、同志の哀情を訴える)
一 (3月)11日早朝、御前に出て拝謁が相、整い、
(*当方の)趣意を述べました。
この前のご内諭の訳について、極めてわずかな違いを
申し、主意はなく、根拠もなく、安心し難く、
内情があることは、これまで、人数においては、
そちら(*藩側から)疑いを受ける件云々故に、
なかなか(*精忠組)一同においては、承服できず、
特にこの節の件については、我ら(*精忠組)が、
人数を差し出すことについては、(*後に)
害を引くとのことも、
(*また、)島津 久徴●などの吟味があることに
ついては、極めて内密であることも承知しがたく、

●本文の「注釈」では、久光公の側役の蓑田と
なっている。
これは、本文の「サ」を漢字の草カンムリと判読して、
蓑田としていると思われる。
だが、カナカナのサ、と判読すると、
左州・島津 左州こと、島津 久徴となり、
ツジツマが合う。
すなわち、蓑田 伝兵衛は、島津 久光の御側役で、
島津 久光と大久保 利通、西郷 隆盛の連絡役であり、
その人物が吟味などをする訳がないからである。
再三ながら、この項は、大久保 利通が初めて久光公と
謁見し、利通の所存を述べたことで、歴史的に見ても
重要な場面と云える。


両立の件云々も手厚く、ご内諭を承知致しますが、
このように不公平な処置(*精忠組が同行できない
こと)については、ご趣意を貫くことは出来ず、
ただ今のところ、害を生じているわけでもなく、
万一、非常の節にあっては、人心を引き立て、
どのようなことが起きても、計画ができないので、
実に前後に難題を抱え、(*精忠組の同行を)
を止めることが出来ませんと申し上げます、云々。

再三、恐れながら、お供の内願の主意は、
少しも私の意を立てて申し上げているのではなく、
この節、島津 忠義公のご参府については、
死地に行くのと同様に、実に、古今、未曽有の
大事で、われら精忠組においては、請願の訳もあり、
かつ、関東の変事、内情の仔細をご存知であれば、
他に代わる義理と人情は忍び難く、自ら、安心して
お供致します。
しかし、この人数を仰せ付け下される所存では、
他へ仰せ付けられ、実に臣下の至情を止み難く、
前後の不敬を忘れ、願い奉りますので、(*何卒)
この主意(*思惑)をお聞き届け下さいますよう云々、
を、建白するところであります。
御意は、もっともで、児玉雄一郎(島津茂久の見付)
などより、その主意を承りましたが、
詳細は承知で、詳細を聞き及んでおります。
精忠組の主意は少しも疑い、これ無く、
忠節の志は、急ぎ承っております。
決して島津久徴公からのお達しは、圭角【2】
であり、
【2】(けいかく・桂馬、角のことから、性格や言動に
かどがあり円満でない、の意)
念を入れますが、島津 久徴公の人となりを御存知なく、
その言動をご覧ください。
何分にも、圭角な人物とお見受け致します、云々。

○両立の件については、いずれ島津久徴公と
ご熟談致し、受け給わります云々。

○一報次第、人数を御所へ差し出す件は、
ご決定に違いなく、
(*また)京都の方へ精忠組の人数を差し向わ
させる決定については、(*精忠組)一同、安心致し、
この件については、島津久徴公にも充分、
談合し、一報次第、表向きは、その人員の名を
書をもって、これを決定することは間違いなく、
何分にも藩の吟味については、古い格式があるので、
その上、有志の者も少なくとも万事、思召し通りに
行かない者も多く、別に悪く云う訳ではないが、
このようなこともあり得るのではと、下から
推察してくれるようにとのこと、云々。

○精忠組の一同はどのように思っているのか、
それとも、ぜひお供したいとの考えなのか、との
ご沙汰について、それほど、精忠組の思惑を
伺われることについては異議なく、
一同の素志をお聞き届けいただければ、
まったく何の一念もなく、ご安心のほどを。
このような思惑を、念を入れてお聞き届けられる件、
云々。

○島津久徴公の疑念の件、その方など、
これにすぎなく、(*疑いなどなく)、
児玉 雄一郎(島津茂久の目付)、
谷村 昌武(島津忠義の側近)なども、やはり、
疑いがあり、これに合わせて、ここに来て、
(*その疑いが)少々、解けるようになりました。
先夜、児玉 雄一郎は、久徴公の所へ行き、とくと、
会談されたところ、何度が同意された由との
児玉雄一郎の話でした。
しかしながら、児玉 雄一郎から、そうであれば、
この趣、左公(島津 茂久のこと・官位、左近衛少将)
へ、一夜、ゆっくりと謁見し、この主意を申し上げた
ところ、島津久徴公から当時、忠義公も少しも暇がなく、
決してご都合が悪いと云うことではなく、
先に、差し控えるように申されたとのこと。
この件は、まだ、児玉 雄一郎(島津 茂久の目付)へは
お話し、していませんが、
昨日、島津 久徴公が参られた節、
仁礼 景範(にれ かげのり・精忠組)、
伊東 才蔵(いとうさいぞう・島津 斉彬の側近)などが、
そちらへ行ったとの話もあります。
そうであれば、全て合点がゆき、児玉雄一郎だけが、
暇がない訳でなく、これも島津久徴公から、
押し留められたと考えられます、云々。

○京都へ人数を差し出す上は、どのように考えているのか
とお尋ねについて、いずれ、ご主意もあられるべきで、
第一にご危難を救い、どこまでもお護りすることが
主要であるべきです、と申し上げたところ、
それはその通りで、京都が無事で、関東に変があれば、
京都の人数をすぐに、関東へ差し向ける件は、
如何とのご沙汰につき、それは、恐れながらも難しく、
いずれお護りのため、人数を差し出す上は、
京都に勤めていては、(*人数を)差し出すことは出来ず、
この件は、幾重にもそのようになるのはよろしくなく、
併せて、京都を十分に厚い守りの備えをして、
薩摩からも十分な(*人数を)差し出された上のことで
そのような義理もありますが、現在のところ、決して
それには及ばず、と言上致しましたところ、
久光公にも、そのようにとの思し召しがあり、
この件は、そのとおり、取り調べると聞き、なお、
それについては、思し召しがあるとのご沙汰、云々。

★(藩兵の総指揮は、岩下方平(いわした みちひら)
にする)

○(*藩兵の)総指揮の件をお伺い申したところと、
その方などは、どのように存じるかとのご沙汰につき、
桂 右衛門(*かつら うえもん・桂 久武のこと、
後、元治元年には、大目付となる。)、
関山 糺 (*せきやま ただす。)が然るべきで
第一に人望もあり、天下の形勢も心得た者で、
この他の者のでは、よろしくなく、
新納中三(にいろ ちゅうぞう。*家老、通称・刑部)
では十分ではありますが、この者を一番手に差し出しては、
後の(*薩摩藩の) 軍備が難しく、成程、
安田 助左衛門 (御軍役奉行)、名越 左源太がいますが、
安田は論外で、名越は「でくのぼう」のようで、
新納は、いずれ召され置かれるべきですが、この節は、
非常のことなので、非常に抜擢ではありますが、
岩下方平へ仰せ付けられれば、人望もあり、天下の形勢も
熟知していますので、不足ではありません、と申し上げた
ところ、いずれ、考えの上、なされる。と云々。

○右の他、段々、詳細な議論もありますが、
およそ、左の主意にて、その他を略します。
当日、午後2時頃、谷村 昌武(*島津 忠義公の側近)、
岸良兼養(きしら かねやす。*島津 忠義父子と精忠組との
連絡役を務めた島津 久光の小姓)、お暇で参上のところ、
事実、直にお聞き取られ、ご安心の旨、
ご沙汰之の由、云々。


一 3月13日
島津 茂久公、ご出立、
3月16日、(*臣下)15人、出立。

一 御書き取りの写し
昨年、安政6年9月に申し達した通り、
怠け者は、少しもいないけれども、いよいよ武士道を
精励し、誠忠純孝の徳に基づいて禮讓(れいじょう・
*礼を守り、争わない)ことに専念して、
穏やかな風俗に腹を立てたく、皆、この気持ちを持ち、
これからもこの趣旨を達するように、ことさら、
軍政の件は、国家の急務であるので、各自に
申し渡したいこと。
右、ご出立後、(*3月)14,5日ごろ、組頭宅で
拝見するように回覧致します。
(*3月)22日、15人出立。

★(桜田門外の変の報せが鹿児島に達する)
一 (*3月)23日、町飛脚が着き、
別紙を入手致しました。
追伸、申し上げます。
江戸表が大変で、3月3日朝、井伊 直弼様ご登城の折、
(*その)かごへ水戸様のご家来、17人が仕掛け、
かご越しに刺し、(*井伊直弼様の)首を討ち取り、
持ち逃げしたとのこと。
右の人数の内7人は、(*取り押さえられ)
肥後・細川家へお預かりになった次第。
昨夜、(*このことを)承わり、(*事の)中途まで
内々に早飛脚でこの事、ご報告申し上げます。
この度の手紙はたぶん、そのこと(*島津茂久公
の入洛)に向けて察し申しあげるところでありながら、
初めに、この段(*桜田門外の変を)申し上げます。
言語同断の次第であります。
      村上 銀右衛門【3】
       3月
    中村 善兵衛様

【3】村上 銀右衛門は、小倉の商人で旅籠を営んで
いたが、小倉藩から士分格を与えられ、村屋の宅地で
町役人を勤めていた。
ここには、長崎街道が通り(現・北九州市小倉北区)、
薩摩藩士・中村善兵衛に3月19日付の注進状が送られる。
その知らせは、3月22日頃、
筑後国松崎宿(現・福岡県小郡市)で入洛の途上の
島津茂久一行に届いた。
又、その翌日に、大久保利通が、その情報を入手した
のである。
この後、一行は入洛を取り止め、薩摩に帰藩した。
薩摩藩にとって村上銀右衛門は、大変重要な情報提供者
であった。
もし、この情報がなかったら・・。
このように村上銀右衛門は、薩摩藩の行く末を左右する
重要な情報提供者であった。


右、ご仕法方(物事を司る係か)へ行くと、
別に手紙が大阪の留守居方から島津久徴公に
来ていたけれども、なんとも状況が分からず、
よって島津 久徴公へ面会しようとしたところ、
急にご用が取り込み、後程、面会してくれとの
こと。

○よって新納中三(*家老)に面会しようとしたところ、
別勤務とのことで、午後2時頃行ったところ、
まだ(*桜田門外の変)ご存知なく、
午後6時頃、出発し、島津久徴公へ面会したところ、
確かに江戸の件は聞き及んでおり、この節の件は、
不用意に、まず、面会のない者が面会をすれば、
返って、あなた方もご嫌疑がかかるとの、
島津 久徴公からその段のお達しがあった(*との事)。
ごもっともで、その通り承知していますと、
差し控えていると、そうであれば致し方なく、
(*と云うことで)面会して、この節の変事は、
非常の件と存じ、遠慮なく説明したところ、
(*島津 久徴公は)何の、変事とは言えないと
言い捨てられて立たれた。
よって(この変事を)しっかりと知らない御様子。


一 有村 雄助と有村 次左衛門、親類のへお裁き方から
事情聴取があった件は、有村 雄助が(*京を)下った
とのこと。(*もしも)帰藩すれば、親類・土師吉兵衛、
梁瀬 源之進、郷田 仲左衛門などへその旨(*帰藩したこと)
を申し出るようにとの お達しがあった(ことである)。

*有村 次左衛門は、有村 仁左衛門の四男。
桜田門外の変で井伊大老を殺害。後、重傷を負い自刃。
有村雄助は、有村 仁左衛門の二男。
桜田門外の変に呼応して水戸藩士らと京都に向かうも
薩摩藩に伊勢四日市で捕縛され、薩摩に護送され、
自刃。
介錯は刎頚(ふんけい)の友・奈良原 喜八郎であった。


一 有村 次左衛門、有村 雄助。右は、桜田門外の変に
加わり、有村 次左衛門は戦死。有村雄助は、水戸藩の
者と同道し、上京の途中で四日市まで来たところ
(*京都の)お屋敷から追手が掛り、(*雄助は)
縛につき、(*京屋敷の)肝入り(きもいり・支配役) が、
付き添い、京都を出た(*薩摩へ下った)ことが、
分かりました。

一 右の通り、事実は分かれて諸説紛々なので、
新納 中三(*家老)としっかりと相談し、ぜひ、
島津 久徴公の元へ押しかけ、関東の変事
(*桜田門外の変)の状況を聞き届られるよう
島津 久光公に拝謁し、建白の主意をと、申し詰めた
ところ、先ほど、有川七之助が行ったところ、
別に知った様子ではなく、島津 久徴公へお留守居役
からの手紙は、他の件の事を承ったので、
たとえ島津 久徴公のところへ押しかけたとしても、
別に大したことではない、とのこと。

★(有村 雄助 帰藩し、井伊大老暗殺前後の事情を語る)
一 右の如く会談をし、有村 雄助が今晩、
帰藩すること知り、よって水上(*現・薩摩川内市)
まで行ったところ、詳細な事情が分かった。
その語ったところによると次の通りである。

★(水戸藩有志、御用人・久木 直次郎を斬る)
一 田中 直之進(*薩摩藩)が帰藩後、去る2月19日、
関 鉄之助(*水戸藩・桜田門外の変の実行部隊
の指揮者。)と云う者が、江戸表へ出府し、
勅書を差し出した(*戊午の密勅)一件は、
水戸藩の腹黒い側用人・久木 直次郎、桑原何とか
(*桑原 信毅)の二人が、ぜひ勅書を差し出すようにと
要請した(*水戸藩の勅書(戊午の密勅)不返納論の
中心人物は、高橋 多一郎、金子 孫二郎、久木 直次郎
の3人であったが、久木(ひさき)直次郎が
徳川 斉昭の説得に応じて勅書返納論に転換していた。)
ので、水戸藩・有志の者4, 50人ぐらいで話し合い、
去る2月24日に、久木直次郎が夜、下城のところを
途中で待ち伏せて、討ち果たしたとのこと。
(*常盤神社の資料では、傷を受く、とある。
史実でも暗殺未遂事件とされる。)
これにより(*2月19日に関 鉄之助が江戸表へ
出府することにより)2月18日の朝、
水戸藩の評定所から
関 鉄之助、金子 孫二郎、高橋 多一郎、
野村 彝之助(つねのすけ)、 矢野長九郎、
住谷虎之介の六人へ御用を申し渡されたところ、
矢野・住谷両人は自ら名乗り出て、
他の者らについては、追々、江戸を出るとか
潜居するとのこと。
この件は、両人(*側用人・久木直次郎、桑原信毅)
を下城の途中で待ち伏せて打ち取ったとのこと。
警固は300人位いたが、有志50人で一人も
仕損じることがなかったとのこと。
全て高橋多一郎の計画と聞き及びます。

*背景。
会沢正志斉(あいざわ せいしさい。
*水戸学藤田派の学者)は、
久木直次郎ほか、勅書返納論者が、次々と襲撃される
のを危惧し、直ちに勅書返納の反対勢力である水戸の
長岡勢を処分し、勅命書を返納することを重ねて
建言する。
衝撃を受けた徳川斉昭も、ついに長岡勢征伐を命じて、
長岡勢と高橋多一郎、金子孫二郎らの接触を断とうした。


一 関 鉄之助の件、去る2月19日、江戸へ着き、
2月22日に有村 雄助と面会し、前件のことなど
詳細に有村 雄助に説明し、必ず、近々に決挙致すと
のことであります。
(*注・桜田門外の変は、3月3日。)

(金子孫二郎、出府し、有村雄助方に潜居する)
一 去る2月25日、金子孫二郎、江戸へ出府し、
同25日の朝 、有村雄助は御長屋へ行き、
江戸中、幕府から(*金子の )探索が厳密であるので、
何とか、有村 雄助の御長屋へ潜居の件をよりどころなく、
相談し、雄助もこれまで、天下のこと、及び示談、
殊に有志の情義は黙っていられず、(*雄助の)御長屋へ
(*金子を)潜め置いたとのこと。

★((*金子孫二郎は)大老 暗殺の決策を告げ、
(*有村雄助に)薩藩有志の奮起を促す)
一 3月2日、野村 彝之助 (つねのすけ) の件。
(*野村 彝之助が)江戸へ出府。
この者は、井伊大老を打ち取った上、四方有志の諸藩へ
布告し、江戸の処置(*井伊大老の暗殺)を携えて
いました。
もっとも、布告の文面も持ち待っていたので、
状況が切迫し、同、3月3日に井伊大老
(*伊掃部頭は、官位)の登城を待ち伏せ、
討ち取る決策については、金子 孫二郎から
有村 雄助へ面会したとのこと。
(*有村 雄助としては)もっとも、お国元(*薩摩藩)は、
間違いなくなく応じると分けて承り、
当時、先君・斉彬公の遺志を引き継ぎ、勤王の志があり、
上下(*共に)相違はありません、と答えたところ、
(*金子 孫二郎は)とりわけ、これを喜んで決心した、
とのこと。


次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む13
大久保利通日記 上巻 に続きます。


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