歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む21

●大久保利通日記・文書 文久2年

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

【目次】(ほぼ時系列で掲載)
文久2年・33歳

(日記)大久保利通日記・上巻・第2巻.
文久2年(1862年)六月一日 ~六月十一日

(文書)21・参考1 文久2年6月11日
周布 正之助より大久保への書簡

(日記)大久保利通日記・上巻・第2巻.
文久2年(1862年)六月十二日 ~六月晦日

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大久保利通日記・上巻・第2巻.
【大久保利通日記】から 文久2年(1862年)
(本文・意訳)

◆以下、東海道五十三次の宿場は、(東宿・x)と 
略します。)

6月1日 晴
一 お目覚め、六ツ時(*午前6時頃)
御定刻に、お発ち、 浜松(東宿・29)  
               2里8丁
池田  少しご休憩 上 平野太郎兵衛 2里
          下 市川 伊平次 
目付(東宿・28)  御立場 御本亭 
神谷 三郎左衛門 
               1里半
袋井(東宿・27)  お休み  1里8丁
原川  御立場   伊藤 又左衛門
掛川(東宿・26) 御立場 御本亭 
澤野 彌右衛門
               1里29丁
日坂(東宿・25)  お泊り
右の通り、諸所でお休みされ、七ツ半比
(午後4時頃)到着された。

一 今晩、谷村 愛之助が来た。

東海道五十三次と文学(日坂)
巌松堂書店むらさき編輯部 編
(昭和16年) 著作権満了のものより
10  IMG_0203●日坂(1280x960).jpg


6月2日 晴
六ツ半(*午前7時頃) 日坂 お発ち、     
                1里24丁
金谷(東宿・24)  少しご休憩  
佐野 佐次右衛門 1里
島田(東宿・23)  少しご休憩 
御本亭 沖塩 四郎 
                2里8丁
藤枝(東宿・22)  お休み   1里26丁
岡部(東宿・21)  御立場  内野 九兵衛 
                 4里9丁

★(島津久光の一行、大井川を渡る。)
鞠子(東宿・20)  お泊り
右の通り、 諸所でお休みされ、大井川を首尾よく
越えられて、 七ツ過(*午後4時過ぎ頃) 、
ご機嫌よく到着された。

東海道五十三次と文学(鞠子)
同上
11  IMG_0204 ●鞠子(1280x960).jpg


6月3日 雨
 お発ち、五ツ時(*午前8時頃) 鞠子
府中(東宿・19)  少しご休憩 御本亭 
小倉 平左衛門1里半
小吉田 少しご休憩 稲葉孫右衛門 1里9丁
江尻(東宿・18)  お休み    1里2丁
興津(東宿・17)  少しご休憩 市川 新左衛門 
                 1里12丁
倉澤  御立場 御本亭 川島 勘兵衛
                1里
由井(東宿・16)  お泊り
右の通り、ご通行されて安部川などを
都合良く越えられて、
七ツ半時分(*午後5時頃)ご到着された。

一 今晩、高崎猪太郎[旧名・五六]が来た。
九ツ時分(午前0時頃)帰った。

東海道五十三次と文学(由井)
同上
12  IMG_0205●由井(1280x960).jpg


6月4日 雨。後ち晴
お目覚め、六ツ時(*午前6時頃)
由井(東宿・16) お発ち、
     五ツ時(午前8時頃) 1里
蒲原(東宿・15)  御立場 
御本亭 平田 休兵衛 1里半
岩淵  少しご休憩       1里22丁
吉原(東宿・14)  お休み   1里半6丁
柳原  御立場   波島屋 利左衛門 1里半
原(東宿・13) 少しご休憩 
          植木屋 長左衛門 1里半 
沼津(東宿・12) お泊り

★(沼津に至る)
右の通り、 諸所でお休みされ、 富士川を首尾よく
越えられて、ご到着された。

一 今日、御先番で、六ツ時(*午前6時ごろ)
出発し、中山 仲左衛門、白尾貞斎(侍医職)
が、原辺りから富士嶽の6合目ぐらいから
現われた。 
今朝は、大風雨で富士川
(*日本三大急流のひとつ)を渡る頃は、
厳しかったけれども、ようやく渡れた。 
八ツ時(午後2時頃) 沼津へ着。
七ツ時分前(*午後5時頃前)から出勤し、
 今夕は、泊りである。

東海道五十三次と文学(沼津)
同上
13 IMG_0206●沼津(1280x960).jpg


6月5日 曇り
六時(*午前6時頃) 沼津(東宿・12)
 お発ち
三島(東宿・11)  少しご休憩 御本亭 
樋口 伝左衛門
               1里半
三ツ谷 御立場 松雲寺    28丁
山中  少しご休憩 宗閑寺  1里半
箱根(東宿・10)  お休み  1里8丁
畑   少しご休憩   茗荷屋 畑右衛門
               1里
湯本  御立場     米屋 紋右衛門
               2里
小田原(東宿・9)

★(程ヶ谷に至り、利通は大原卿に謁見する)
一 今日は、六時(*午前6時頃)
大原 重徳様へ、ご使者を相、勤め、程ヶ谷駅で
お泊り。
急ぎ来るようにと、仰せ付けられ、急いで、
五ツ(*午後8時頃)到着した。
大原 重徳様へ罷り出て、お目見え仰せ付けられ、
ご口上の要件を申し述べられた。
少しの時間、お話などがあり、八ツ時(*午前2時頃)
退出した。
今晩は、御本陣へ、お泊りになった。

東海道五十三次と文学(程ヶ谷駅)
同上
14  IMG_0207 ●保土ヶ谷(1280x960).jpg


東海道五十三次と文学(小田原)
同上
15  IMG_0208 ●小田原(1280x962).jpg


6月6日 晴
六ツ時(*午前6時頃) お供が揃い次第、
お発ち。
小田原  お発ち       2里
梅澤   少しご休憩 松屋 作右衛門 3里
               
大磯(東宿・8) 御立場 
      御本亭 小島 三郎 26丁
平塚(東宿・7)   お休み  1里10丁
南郷   少しご休憩      2里餘
藤澤(東宿・6) 御立場
      御本亭 藤田 源右衛門
                1里30丁
戸塚(東宿・5)   お泊り
七ツ時(*午後4時頃)  ご到着された。

★(程ガ谷駅に着き、 利通、大原卿に謁見する。)
一 今朝、六ツ時(*午前6時頃)
程ヶ谷を出発。
戸塚まで着かれると待たれた。
堀 仲左衛門も江戸から来て着き,吉井友実も
後から来た。
今晩、吉井友実は、直ぐに出発した。

一 (*戸塚に)着かれると、直ぐに
大原 重徳様のご口上があり、 且、
御書を差し上げると、又々、ご返書を下され、
吉井友実へ渡された。

東海道五十三次と文学(戸塚)
同上
16  IMG_0209●戸塚 (1280x960).jpg


6月7日 晴
六ツ時(*午前6時頃)提灯を用意され、お発ち。
一 戸塚(東宿・5) お発ち   2里余り
程ヶ谷(東宿・4)  御立場 
苅部 清兵衛  1里9丁
神奈川(東宿・3)  お休み   2里半
川崎(東宿・2)   御立場 万年屋 半七
                 1里9丁
大森   御小休 山本 休三郎  1里ほど
品川(東宿・1)大佛前 少しご休憩  

東海道五十三次と文学(品川)
同上
17  IMG_0210●品川(1280x960).jpg

半里余り
お屋敷

★(久光公一行、江戸に着く。)
右の通り、お休みされて、七ツ時(*午後4時頃)
ご機嫌よく、(*高輪別邸)へ到着された。
今晩、五ツ時(*午後8時頃)退出した。

一 山科兵部(吉井友実)が、来た。    
岸良 兼養(きしら かねやす・*島津久光の奥小姓)
が来た。             
白尾貞斎(侍医職)氏も、しばらくして来た。


6月8日 曇り
四時(*午前10時頃)出勤。

★(島津久光公、松平慶永を訪問する。)
一 今日、五時(午前10時頃)
(*久光公は、 お供連れで松平春嶽(*松平慶永・
越前福井藩主)様の邸宅へお出でになった。
八時(*午後2時頃) ご帰殿された。

一 七時(*午後2時頃) 退出した。
岸良 兼養(きしら かねやす・*島津久光の奥小姓)・
谷村 愛之助が参られ、堀 仲左衛門も、
しばらくして来た。
山科兵部 [吉井 友実] が来た。
今夕、奈良原喜八郎も来た。


6月9日 晴
四時(*午前10時頃)出勤。

★(島津 忠寛、来邸)
一 四時(*午前10時頃)過ぎから
佐土原(島津忠寛)公がお出でになり、
大奥からお入りになり、錠口(じょうぐち・
*表と奥との境にあった出入り口)をお通りに
なり、お控え所から、お座敷へ通られて
(*そこで久光公と)お話になった。
*島津忠寛は、日向国佐土原藩の最後の藩主。
戊辰戦争では本家の薩摩藩に従い、
新政府側として参戦した。

八後(*午後2時過ぎ)表へ控えられて、
お料理が上がり、又々お座敷へお出でになり、
お吸物・お銚子を差し上げる。
七ツ半(*午後5時頃)ご退殿された。

一 (*私は)七ツ後(*午後5時頃)
退出し、岸良 兼養としばらく話をした。

一 中山次左衛門(中左衛門の父)が、
お側役へ御役替りになった。

一 大鐘時分(午後6時頃)から中山次左衛門へ
伺い、夜入過ぎに、山科兵部から出勤するようにと
申し来られたので、出勤し退出しようとした。
(*しかし)又々、山科兵部が来た。
岸良 兼養も来て、谷村 愛之助も帰りがけに来た。


6月10日 晴
一 今日、四時(*午前10時頃) 出勤。

一 木藤角太夫・谷村愛之助 、小納戸へ御役替わり。
肝付万之進・和田郷右衛門 ・中島健彦・
田中八郎左衛門は、奥小姓へまとまって
仰せ付けられた。

★(利通、周布 正之助らと面会する。)
一 今日、八後(*午後2時過ぎ)から、
堀と同道して西向の邸宅へ立ち寄り、
酸月楼へ出張し、長州藩・周布正之助、
小幡彦七と面会し、種々、論談の後 、俗に興じた。
夜、九ツ時分(*午前0時頃)邸宅へ帰った。

一 愛宕山に登リ 、しばらく眺望した。
絶景であった。
*愛宕山は、現在の東京都港区にある標高26mの丘陵。


6月11日 晴
一 四時(*午前10時頃) 出勤。

(昨日。 勅使が登営 [*とうえい・幕府に出仕
すること。] した。)
一 昨日、大原様が、ご登城され、
(*将軍と) 対面され、ご都合の向きは、とりわけ、
よろしく、大慶である。

一 今日は、泊まり番である。

――――――――――――――――――――――

(文書)21・参考1 文久2年6月11日
周布 正之助より大久保への書簡

(本文・意訳)
昨夜は、高楼(*酸月楼)に遊び御厚誼の程、
万々、感謝に堪えません。
田舎じみた歌に酔い、座に堪えかね、
酒に夢中になり不敬の至りで勇退し、
ひとえにご容赦願い奉ります。
と、など、前略申し上げます通りで、
明日、12日、お手すきであれば、
数寄屋橋河岸・船宿「萬年屋」で小舟を手配して
御来臨をお待ち致します。
必ず、両君、(堀 仲左衛門と大久保 利通)御一同で
お越し下さいますように。
私目も天皇との拝謁を済ませて、
来たる16、17日頃、出発のつもりでございます。
最早、緩々と拝芝(はいし・*面会すること)
出来るか、おぼつかなく存じ奉ります。
今日、ご繁忙ながら、妨げになるかも知れませんが、
御光臨のほどをお願い申し上げます。
九郎兵衛(*宍戸 真澂[ししど ますみ]。
通称は、山三郎、九郎兵衛、左 馬之介。
萩藩の重臣。萩藩大坂屋敷の留守居役。)も、その節、
拝謁、致します。
御礼、御答え、方々、寸簡(すんかん・短い手紙。)
を差し上げます。   
頓首(*頭を地面にすりつけるように拝礼すること。)
   6月11日
 再白(*追伸)
昨夜、楼上にて玉礎を汚し(*座興に現を抜かし)
酒気が進み、筆を採れないのですが、(*序を)
左記に録した上、まさに、このようにお祈り致します。

「西来意気転乾坤 一世雄風十字幡 京摂春残花下巷
遠参夏浅緑陰邨 皇州今日網維挙古路千秋神聖存
我亦聊懐憂国念 向君咄々吐和魂
 堀老台所示 近製佳什 次基瑤 却奉呈併乞教正 」
(*意訳)
「西の方から意気乾坤に転じる当代に吹く雄風は、
十字の旗(*薩摩氏の家紋を示す)。
京都・摂津の春、残花、巷(ちまた)に下る。
遠くへ行き、夏は浅緑に曇る村。
京都一帯、古道(*こどう・仏教,儒教などの
外来思想を排斥する日本古代の神話的世界)
を繋ぎ止め、長年、これを、おかし難し。
我、又、少し憂国の念を抱き
向かいの君に和魂(*神道の概念)の話を
迸(ほとばし)る。

堀・老台が示された最近作られた優れた詩歌。
それに次ぐ詩として、逆にこの詩を呈し、
併せて正しく教えを請うところに存じます。」
                  拝具

       大久保
       堀   老台
            凾丈(かんじょう・
*目上の人に出す書状の脇付 [わきづけ ]とする語。)

――――――――――――――――――――――

大久保利通日記・上巻・第2巻.
【大久保利通日記】から 文久2年(1862年)
(本文・意訳)

6月12日 晴
一 泊まり番である。

一 八ツ(午前2時頃)、退出した。

(周布正之助らと隅田川で遊ぶ。)
一 今日、又々、西向へ伺い、堀 仲左衛門と
同道し、万年屋と云う船問屋へ伺った。
長州藩・ 周布正之助が、先に来ていて、
船の用意がしてあり乗船した。
隅田川を登り、風景を愛でて、ある亭へ上陸した。
そこに宍戸 九郎兵衛(*宍戸 真澂)、
小幡彦七、他に一人、先に来ていて非常に
暴論に至った。
*小幡高政(おばた たかまさ)は、萩藩士。
通称は、彦七、蔵人。
萩町奉行、江戸留守居役などを勤める。
維新後は小倉県権令にまでになり、退官後、
第百十銀行頭取となる。

今夜は、九ツ(午前0時頃)前に邸宅に帰った。


6月13日 晴
一 四ツ時(*午前10時頃) 出勤。

6月14日 晴
一 四ツ時(*午前10時頃) 出勤。

★(久光公、脇坂閣老を訪問する。)
一 今日、(*久光公は)脇坂 安宅候へ
お出でになり、八前(午後2時頃前)、ご帰殿された。
*脇坂 安宅(わきさか やすおり)は、大名・老中。
播磨国・龍野藩9代藩主 。龍野藩脇坂家11代。
外国掛を担当するが、桜田門外の変後、
老中を辞任したが、隠居ながら再び老中になる。
脇坂 安宅は薩摩藩と姻戚で、それによる起用とも
云われる。

一 (*私は、)小松帯刀殿・中山 助左衛門・
伊集院 吉左衛門と同道して、村田屋古道具へ見に
伺った。
もっとも、舟で行った。
私は、大原 重徳様へ参上して、徐々に頂戴物を
頂き、ありがたく、暮れ過ぎに邸宅に帰り、
出殿して、(*久光公に)この状況を述べた。


6月15日 晴
一 四ツ時(*午前10時頃) 出勤。 
八ツ後(*午後2時頃過ぎ) 退出。 
堀 仲左衛門が来る。

一 今夕、小松帯刀家へ行く。
中山 助左衛門、堀 仲左衛門、海江田 信義が来る。
段々と議論になった。


6月16日 晴
一 四ツ時(*午前10時頃) 出勤。

一 飛脚が京都から着く。

一 大原 重徳様から書が来て、(*久光公へ)
差し上げる。
ご返書を持参するように(*久光公から)仰せ付け
られ、又々、大原 重徳家へ参上した。
明日、ご出立の件、云々。
五ツ(*午後8時頃)過ぎ、帰って来て、その状況を
(*久光公に)申し上げた。


6月17日 晴
一 吉井中助が来た。
 出勤早々、出殿して、(*久光公に)状況、云々を
申し上げた。

★(久光公 、大原重徳卿を訪問する。)
一 七ツ時(*午後4時頃)、(*久光公は)
お供を連れて、大原重徳に傳奏(でんそう・
*武家の奏請を朝廷に取り次ぐ)のため家敷を
出られた。

一 中山次左衛門が同道し、御先番(せんばん・
*先に順番になること。)であった。

今日は、末席に両人が出席するようにとの
ご沙汰で、出席した。
ご酒を下さり、七ツ半(*午後5時頃)、
(*久光公と共に)帰った。


6月18日 晴
一 今日、四ツ時(*午前10時頃) 出勤。  
泊り番であった。

(勅使(*大原重徳)が登営する。)
一 今夕、五ツ(*午後8時頃)過ぎ、
大原重徳様から、書簡が届き、
北川大膳(*大原徳の家人)が使者であった。
今日、(*大原重徳様の)ご登城の都合が良く、
松平春嶽様が政事総裁職を要請され、
そう(*政事総裁職に)なったとのこと。
一橋(一橋慶喜)の一件は、少し差し障りがある、
とのこと。


6月19日 晴
一 泊り番であった。

一 四(*午前10時頃)後、
大原重徳様へ御書を進められ、ご使者を相、勤めた
こと云々、委細を(*相手方へ)申し上げた。
七時(*午後4時頃)、邸宅へ帰り、ご一報を
(*久光公へ)申し上げた。
今夕、谷村愛之助、川上助八郎、
岸良 兼養(きしら かねやす・*島津久光の奥小姓)
が来られる。
明日、岸良 兼養は、御用である。
*川上助八郎は、薩摩藩士。
禁門の変で長州藩国司・信濃隊・篠原秀太郎と
斬り合いになり、川路利良の助成により篠原を
討ち果たした。


6月20日
★(利通、表小姓役として新番勤めを命じられる。)
一 四時(*午前10時頃) 出勤。
八後(*午後2時過ぎ)、退出。
岸良 兼養へご祝儀のため(*とのことで)伺った。
(*私は)表小姓役で、新番勤めを仰せ付かった。
*新番(しんばん)とは、警備・軍事部門(番方)
の役職のひとつで、
平時の外出用の警備隊として新設された性格と
常備兵力 としての性格を持つ番方(武官)のこと。

一 今日、飛脚が京都へ発つことについて、
本田親雄へ問い合わせを出した。

一 今夕、高崎猪太郎(旧名・五六)が来た。


6月21日
一 四ツ時(*午前10時頃) 出勤。
八ツ後(*午後2時頃過ぎ) 退出。

6月22日
一 四時(*午前10時頃) 出勤。
八時(*午後2時頃)から大原 重徳様への
お使いを相、勤めた。
もっとも、いろいろ、であった。
今夕、吉井友実が来た。

6月23日
一 四時(*午前10時頃) 出勤。
大原 重徳様から書が届き、
八時(*午後2時頃)後から使者を相、勤め、
帰りがけに堀 仲左衛門へ立ち寄り、
同道して邸宅へ帰り、(*久光公の)御前で
状況を申し上げ、堀 仲左衛門は宿に泊まった。

6月24日
一 四時(*午前10時頃) 出勤。
大原 重徳様について書付を認めることがあった。
八時(*午後2時頃)後から
堀 仲左衛門が、お使いを相、勤められた。
今夕は、泊まりであった。

6月25日
一 八後(*午後2時頃過ぎ)、退出。
堀 仲左衛門が来た。
大原 重徳様に状況を承る。
晩頃から堀 仲左衛門、谷村愛之助と同道して
歩いて海月(*不詳)へ伺い、五時(*午後8時頃)、
邸宅へ帰った。

6月26日
一 四時(*午前10時頃) 出勤。
 八後(*午後2時過ぎ)退出。

★(板倉勝静、脇坂安宅の両閣老が、
勅使を訪問する。)
一 早朝、吉井中助(*山科兵部)が来た。
昨日、閣老・板倉勝静、脇坂安宅から取り次ぎが
来て、屋敷へ行った。
*板倉勝静(いたくら かつきよ)
奏者番・寺社奉行・老中首座(筆頭)。
備中松山藩の第7代藩主。板倉家宗家13代。
後、鳥羽伏見の戦いの敗戦の際は、
徳川慶喜と大坂にいて、景気、老中らと共に、
開陽丸で江戸に退却した。

一橋慶喜公は、一条家からのお達しのところ、
何も将軍様からは不承知の訳はなく、
又、家中など、人気などのことで、
一橋慶喜公が後見で権力をつければ、将軍の威勢は
衰えるので外様大名から一橋公を(*推挙するように)
申し立てたとのこと。
なお、今のところ一応、考慮の上、
返答すべきであろうと云うことで済んだ。
早速、この状況を(*久光公に)申し上げた。
(*すると久光公から)今日、参上して、
その状況は承知しており、臨機応変に
(*対処するように)との旨、仰せ付かった。

★(利通、大原 重徳卿に謁見し、閣老が、もしも、
奉命[ほうめい・*貴人から命令を承ること。]
しなければ、[*彼らを]刺殺すべきであることを
告げる。)
一 八後(*午後2時過ぎ) 
中山次左衛門と同道して、伝奏屋敷(*板倉勝静)へ
参殿した。
そして、今日は、両閣老はお召しがあることは
承知していることについて、大幸であると尊慮致します。
さて、申し上げたいのは、今日は幸いな折柄で、
万一、ご要請を受けられないのであれば、
閣老を返上して頂きたく、と、決心して申し上げ、
さて、余るほどのその振舞いは、それほどの
ことと思い、私はきっと、そのように行います、
と言っていると、やがて閣老が来て、
「充分な決心のお達し、この要請はよろしく
承りました。」とのこと。
(そこで私は)
もっとも、この要請を受け至らなければ、
今すぐにでも、ここで、変に及ぶ(*刺殺します)
ことも告げた。
(*これには、閣楼も)顔色が変わりました。
(*そして)「ご要請は考えることにします。」
とのことであった。

一 明日、(*久光公に)申し上げるところである。

★(利通、山田 安五郎と議論する。)
一 帰りがけに、板倉勝静の用人、山田 安五郎へ
伺い、大議論に及んだ。


6月27日
一 四時(*午前10時頃)出勤。
昨日の状況を(*久光公に)申し上げた。

一 山科(*吉井友美)へ今日の都合を伺ったところ、
「明日の登城は、お断り申し上げる」と
お召しがあり、呼ばれていると、申し述べに来た。

6月28日
一 四時(*午前10時頃)出勤。
八後(*午後2時過ぎ)伝奏屋敷(*板倉勝静)
へ参殿した。
今日、両閣老が参上され、(*両閣老が登城を)
お断りになったことについて、
明日、登城されるようにと申し来られた。
(*すなわち)目前で(*その旨の)書翰を見せられたので、
帰ることにした。


6月29日
★(勅使(*大原重徳)が登営、すなわち幕府に
出仕し、幕府は、その勅旨を遵守し奉った。)
一 四時(*午前10時頃)出勤。
八後(*午後2時過ぎ)から堀 仲左衛門、
中山次左衛門と同道し、伝奏屋敷(*板倉勝静)
へ参殿した。
実にきょうの勅使のご登城は大事なので、
その一報で罷り出たところ、早々に下城された
ので御前に罷り出たところ、
いよいよ一橋慶喜公が(*将軍)後見職の
要請を申し上げるので、とくとご安心下さるよう、
との旨であり、その(*ご沙汰を)聞いて
実にありがたく、皇国の大慶はこの上なく、
昔からの憂鬱な年月を晴らす心持ちであった。
早々に立ち去り、早馬で邸宅に帰り、その状況を
(*久光公に)申し上げ、小松帯刀家へ三人で
伺った。

*文久の改革。
非常時の体制のために、江戸幕府が行った
一連の人事・職制・諸制度の改革。
だが、これは幕府・幕閣の主導で行われたのでは
なく、島津久光・公武合体派公卿らの主導で、
勅使の圧力の下で、やむを得ず行ったものであった。
また、このときの三事策(幕府への要求事項)は、
将軍・家茂の上洛、五大老の設置、
「一橋慶喜の将軍後見職」、松平春嶽の大老職就任
であった。


次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む22
大久保利通日記・上巻・第2巻  に続きます。



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