歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む22

●大久保利通日記・文書 文久2年

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

【目次】(ほぼ時系列で掲載)

(文書)26・参考1 文久2年6月29日
   父 次右衛門より一蔵への書翰

(日記)大久保利通日記・上巻・第2巻.
文久2年(1862年)六月晦日 ~七月七日

(文書)21・  文久2年7月7日
   堀 小太郎への書翰 

(日記)大久保利通日記・上巻・第2巻.
文久2年(1862年)七月八日 ~七月十日

(文書)22・  文久2年7月10日
堀 小太郎への書翰

(日記)大久保利通日記・上巻・第2巻.
文久2年(1862年)七月十一日 ~七月晦日


―――――――――――――――――――――

(文書)26・参考1 文久2年6月29日
   父 次右衛門より一蔵への書翰
          (大久保 家蔵)

(解説)
福は、利通の母。
升は、利通の妻。
彦熊は、後の利和。
伸熊は、牧野 伸顕である。

尚々(なおなお・*ますます)、家来・下人共、
皆々、元気であるので、宿許の武助へよろしく
お伝え下さい。
皆々元気で、折々に消息があります。
善太は未だ到着しておらず、不埒千万
(ふらちせんばん・*非常にけしからん。)の
行状であります。
今日、飛脚が出されたので、一筆、敬達、
致します。
炎暑が甚だしいですが、三郎様(*島津 久光)、
ますます御機嫌よく、先月7日、高輪の御屋敷へ
ご到着遊ばされても大変お元気で、首尾よく、
お供いたしたこと、先々、書状を見て安心致しました。
爰元(ここもと・*私)[小生を始め]家内中は、
大変無事で、流行りの痳疹(はしか)も皆、済んで、
ほっと安心致し、万寿殿(*利通の妻)は、
相応の患いで、両日、妄語でありますが
【*嘘をついていますが】、最早、全快で、
伸房((*利通の次男・伸顕)、乳は一時で
[原文・焼損]彦熊(*利通の長男)、母と下女小二才、
一所[原文・焼損]下女小二才が帰るのではないかと、
大心配でありましたが、当分は物笑いとなりました。
最早、御当地は、(*はしか が)残り少なく、
田舎では最中と聞き及びます。
当時、[原文・焼損]跡下りで市中など、死人が多く
出ております。
武士は、(*はしか が)少ないです。
石原氏も又、母は(*症状が)軽く、済んで、
山田氏も同じく済んだ、と申しています。
親類中、何方(どなた)も残りなく首尾よく済んで
安心致しております。

一 遠州、浜松、駿州、鞠子駅から追々、書状が
届き、見ております。
梅雨中、川々がお差支えなく珍しい御都合で、
殊に晴れた富士山を一覧、殊に梅雨中にかかわらず、
俗に云う「御縁」であるかと存じます。
爰元(ここもと・*私)は珍しい事もなく、
評判は、取々(*様々)と聞き及んでいます。

一 石原 直州(*利通の親類)も安着(*無事到着)
で、書状を彦熊などに下され、私にも品々を送られ、
よろしく、御伝言下さるように。

一 最早、盆祭りも近づき、七夕、などと色々と忙しい
ことで、遠くで察しております。
その地、この節のお供につき、華洛(からく・*京都)、
関東の道中を心配して、すでに、実に火宅(かたく・
*火事に あった家に例えて、三界に平安のないこと。)
中で、[原文・焼損。池田か?]屋で当分は少し
[原文・焼損。]と、のどかだと、遠く察します。
なお、追々、配慮いたし、これからは天下太平の御計画
もあるべきで、殊に将軍が、当秋、致されるべく、
未年に参内されるとの英断は、実に天下の幸いで
あります。
越公(*松平 春嶽)は、毎日、登城とのこと、
かれこれ、好時の節、誠に当分に天下和合の時節が
到来し、徳川の運気は未だ地に落ちず、
又、高[原文・焼損。]上ったので[原文・焼損。]
年、百年も続きと申すべきでしょう、
当節の機会は、実に恐れながら、三郎様(*久光公)の
御英断から事が始まり、第一の関を破り游ばれる大功は、
御家においても、ありがたい事であります。
これから、追々、話も[原文・焼損。]
外方の評判も取々(*様々)であります。
天下の形勢を承る度に、実に老後の思い出になります。
ご遠察下さい。

一 御方(*利通)の昇進の祝いも[原文・焼損。]
致したので、いずれは忌明(きめい・*きあけ)の上、
家内中、快気祝いを混ぜて[原文・焼損。]
内々に申し置きます。
当分、どこも「はしか」中で申し遣わし、出る人も
少なく存じます。
いずれ、盆過ぎのことであります。

一 煙草 五巻
右は煙草入れの他[原文・焼損。]を給わり、
懐からぜひ、何か[原文・焼損。]
との事で、軽少(けいしょう・*わずか)ながら
進呈しますので、ご賞味下さい。
実に老母の志の他で、当然、一包み。
これも懐の志なので、右の趣で、先方へ
お届け下されたく。
先々、一報まで。 あらあら、めでたく かしこ
  6月29日
        次右衛門
        福  升
        彦熊  伸熊
   一蔵  殿

―――――――――――――――――――――

大久保利通日記・上巻・第2巻.
【大久保利通日記】から 文久2年(1862年)
(本文・意訳)

6月30日
一 今日、四時(*午前10時頃)出勤。
京都へ飛脚を出して、本田親雄へ問い合わせを
出した。

一 八後(*午後2時過ぎ) 汐留へ行き、
(*そこへは)船(*で行く。)とし、中山次左衛門と
同道し、伝奏(*板倉勝静)邸へ伺った。
又々、舟で隅田川に出て、もっとも小松帯刀、
谷村愛之助と一緒であった。
(*後)早馬で帰邸した。


7月1日
四時(*午前10時頃)出勤。
今夕は、泊まり番であった。

★(将軍の勅答があった。)
一 今日、勅使(*大原重徳)が登城し、
勅答があった。


7月2日
一 泊まり明けであった。

★(幕府、久光公に刀を与える)
一 今日、島津久光公は、自ら、公儀・片山正真
の御腰物を拝領し、(*また、その書付によると)
島津久光、用事があり上京のところ、
浪人を鎮める命を出して(*これを)取り押さえ、
(*その行為は)行き届き、骨を折られた
(*寺田屋騒動を指している)との趣きであった。

一 (*久光公は) 亀子茶屋の庭で、相撲をご覧に
なり、逆鉾と記された。かつ、千とせ川と
改名を仰せ付けになり、逆鉾と改名するのは、
特別な都合であるとのこと。


7月3日
四時(*午前10時頃)出勤。
八時(*午後2時頃)帰邸.
八後(*午後2時過ぎ)大原 重徳様のお使いが
凝られて暮れ頃、帰られた。
今夕、奈良原喜八郎が来た。

7月4日 晴
四時(*午前10時頃)出勤。

★(皆吉家の祖母の訃報に接する。)
一 昨夜、飛脚が着き、
父・大久保 利世(通称・次右衛門)からの
書簡で、税所 喜三左衛門からの一報であった。
(*6月)16日のものであった。
皆吉家の祖母が6月6日に亡くなられたとの
訃報が着いた。
(*なので)直ぐにお暇を頂き、退出した。
*大久保 利通の母は、(旧姓)皆吉福
(みなよし ふく)なので、皆吉家の祖母は、
利通の母方の祖母である。


7月5日 晴
一 祖母の訃報の一報により、出勤を遠慮した。

7月6日 
一 今日も当然(*喪中で出勤せず)である。

一 八後(*午後2時過ぎ)、
山科(吉井友美)が来て、堀(伊地知 貞聲)も
来た。

★(一橋慶喜が将軍後見職となる。)
一 一橋慶喜公・後見、今日、お出でなされること
   7月6日 御使 脇坂安宅
           松平信義 (亀山藩主)
   一橋慶喜殿
右を以って 思召しがあり、再度お出でになり、
一橋領・10万石となる旨、今朝、お出でのこと。
         御座間
             御同人
右の如く、ご登城されて面会され、
この度、叡慮をもって使いを遣って、
お言葉をお伝えになり、
(*将軍の)後見職になられ、当然のことながら、
芙蓉の間において同じ 所に出勤している位
の方々と、老中が列席し、
若年寄の豊前守(*松平信義)が演達を行い、
再び一橋領の10万石を相続する旨を
お使いをもって知らされ、ご登城の上、
(*将軍の)後見職となられたとのこと。
数10年の苦心を思うと、今更のことながら、
夢のような心地で、皇国の大慶、
言葉で尽くし難い次第である。


7月7日 
一 四時(*午前10時頃)出勤。

一 今日は、泊まり番である。


―――――――――――――――――――――


(文書)21・  文久2年7月7日
           堀 小太郎への書翰

(要点)
この書翰は、利通が勅使・大原重徳の補佐である
久光公に随従して、江戸・在任中に堀に送った
ものである。

(解説)
久光公は、この年3月、大兵を率いて上京し、
朝廷に建言されるところがあり、
朝廷は、久光公の意見を受け入れ、
勅使を関東に下して、久光公に補佐させるように
した。
当時、利通らは、島津斉彬公の遺志に基づき、
久光公が建言された一橋慶喜を将軍の後見に
松平春嶽を政事総裁とする勅命を幕府に奉らせる
ことに極力、斡旋したが、一橋慶喜は、遂に
この月(*7月の)6日をもって、
松平春嶽は9日をもって、共に勅命を奉ることに
なり、村田は越前藩の重臣・巳三郎に勅使に
要請して非常に説得に当たった。
又、当時、利通は度々、各藩の有力者と会見し、
国事を談じて親交に努めるところがあった。

(意訳)
堀 小太郎様
           大久保 一蔵
貴答
今朝は、貴方の書簡をありがたく拝見しました。
ご沙汰の通り、昨夜からの潤いの雨で、
心持ちは清涼で、殊に一橋慶喜公は、いよいよ、
昨日、ご要請の向きが相、成り、まずまず、
お互いに大慶の至りですが、村田氏の方の
模様は如何であるか承りたく、かつ、また、
土佐の一件につき、お口合わせ申し上げたく
存じますので、明日は、ご出殿されたく願います。
この旨、ご苦労とは存じますが、
よろしく、お願い申し上げます。以上。
  七月七日
追伸  大原様には、お骨折りと存じます。
明日は、国元へ急飛脚を差し上げますので、
お知らせの程、申し上げます。

―――――――――――――――――――――

大久保利通日記・上巻・第2巻.
【大久保利通日記】から 文久2年(1862年)
(本文・意訳)

7月8日 晴
一 泊まり明けであった。
お目覚め、 お仕舞は、平日の通り。

一 お国元へ飛脚を出し、
父君、税所 喜三左衛門へ手紙を出す。
今日、谷村 愛之助と同道し、両国辺りへ買い物に
出かける。
夜に入り、帰った。

7月9日 晴
一 四時(*午前10時頃)出勤。
八後(*午後2時過ぎ)退出。
堀 仲左衛門が来て、同道して神明前辺りで
買物をして、暮ごろに、ノ家[料理屋]へ立ち寄り、
食事をして帰る。

★(松平春嶽 [松平慶永・越前福井藩主] 、
政事総裁職となる。)
一今日、松平春嶽公、政事総裁職となる。
以下の通り。
今度をもって、天子のご意向につき、
松平春嶽を政事職との仰せに付け、
言い渡します。


7月10日 晴
四時(*午前10時頃)出勤。
八後(*午後2時過ぎ)退出。

一 小松家江参上

一 小松帯刀家へ参上した。

―――――――――――――――――――――

(文書)21・参考1 文久2年7月10日
堀 小太郎への書翰 

(要点)
江戸において堀から来談を求められたのに
対し、答えたものである。

(解説)
書中の兵部は、吉井友実であり、
大原重徳 勅使の護衛となり、山科兵部と
変名していたのである。


(本文・意訳)

堀 小太郎様    大久保 一蔵
  内用

先刻、貴殿の書簡を拝見致しましたが、
故障があり、出掛けられず、残念ながら
お断り申し上げます。
吉井友実様には、そのように申し上げたく、
お願い致します。
此の地から、お断り申し上げます。
七月十日

―――――――――――――――――――――

大久保利通日記・上巻・第2巻.
【大久保利通日記】から 文久2年(1862年)
(本文・意訳)

7月11日
一 四ツ時(*午前10時頃) 出勤。
四ツ過(*午前10時過ぎ頃)退出する。

一 松平春嶽公へ、この節の御祝儀として
(*私・利通は) お使いを相、勤めた。

★(祝宴を催す)
一 今日は、両公(一橋慶喜・松平春嶽)の
出職のご祝儀、お祝いとして小松帯刀家、
御出職之御祝儀 御祝として小松家
中山中左衛門、谷村愛之助、堀 仲左衛門と
同道して、汐留の山崎屋から隅田川を登り、
大七楼へ伺い、(*そこの)景色は奇妙で、
天下の祝莚(しゅくえん・*祝宴の座席)で、
歓びを尽くした。
夕方の景色・月は東に登り、涼風は颯々
(さつさつ・*風の吹くさま)、絃歌(げんか・
*弦楽器を弾きながらうたう歌)、舞踏、大いに
愉快であった。
五ツ時分(*午後8時頃)であろうか、
船は汐留に着き、
九ツ(*午前0時頃)邸宅へ帰った。

隅田川の葉桜
浮世絵板画傑作集 第2集
一幽齋廣重
浮世絵研究会 編 (浮世絵研究会, 1920)
著作権満了のものより
IMG_0421 ●(1280x960).jpg

7月12日
一 四ツ時(*午前10時頃) 出勤。
八後(*午後2時頃過ぎ)退出。
高崎猪太郎(旧名・五六)が来た。
今晩、谷村愛之助と話した。

7月13日
一 四ツ時(*午前10時頃) 出勤。
八後(*午後2時頃過ぎ)退出。

一 八ツ後(*午後2時頃過ぎ)
奈良原喜八郎、海江田 信義らが来た。
堀 仲左衛門が来た。

★(利通、大円寺の曽祖父の墓に詣でる)
一 大鐘時分(午後六時頃)から谷村愛之助、
堀 仲左衛門と同道し、大円寺へ参詣した。
(*泉谷山 大円寺は、曹洞宗の寺院。
当時、伊皿子(港区三田高輪辺)にあり、
島津家の江戸菩提寺でもあった。
維新後、現在地・杉並区和泉に移転した。)
曽祖父(大久保 利廣)君の御墓を参詣致したく
場所が分からず尋ねたところ、不思議に
見つけることが出来て、線香をあげた。

7月14日 曇り
一 四ツ時(*午前10時頃) 出勤。
九ツ過(*お昼12時頃)退出。
晩景(ばんけい・*夕方)から大円寺へ参詣。
「堅道廊心居士」お墓へ参詣し、
燈籠を灯し、暮れ過ぎ、帰った。
今晩、木藤角太夫(*小納戸役)、奈良原喜八郎
が来た。
千とせ川(*元・逆矛。相撲取り)も来た。

7月15日
一 四時(*午前10時頃) 出勤。
終日風雨で、泊まり番であった。

7月16日
泊まり番であった。
八後(*午後2時頃過ぎ)退出。
大原重富様へのお使い、相、勤めた。

★( [徳川]慶喜、勅使へ訪問して断る)
一 明日、大原重徳様へ、一橋慶喜公、
松平春嶽公がご訪問になり、島津久光公も
お出でになられ、一橋慶喜公から
お断りの趣き、いろいろ高家(こうけ・
*江戸幕府の職名。)から申し上げたとのこと、
よって非常に(*久光公から)責められた
とのこと。
そして再び、(*大原様から)高家へ書を
出されることになり、堀 仲左衛門も呼ばれて、
もしこの上、(*高家が)故障を申し立てれば、
それっきり(*となるので)、
両公が訪問された、(*場合)断わることの御書を
草稿と共に書き認めて、(*大原様へ)
差し上げました。

六ツ過(*午後6時過ぎ)、
早馬で帰って出殿し、この状況を
(*屋敷へ)報告しました。

一 九ツ時(*午前0時頃)、吉井友実が来る。 
高家の返事は、明日では難しいと申している
ので、この事について
明日は、当座、ご苦労ですが断わり、
(*その後)返事次第では、
すぐに断るべきものであるとの
思召しに決まったとのこと。


7月17日
一 早朝、吉井友実の一件につき出殿した。
吉井友実、五ツ過(*午前8時頃)帰る。
四時(*午前10時頃)小松帯刀家へ立ち寄り、
出殿し、八後(*午後2時頃過ぎ)退出した。

一 八ツ後(*午後2時頃過ぎ)
大原重富様へ お使い、相、勤めた。
中山中左衛門へも又、木藤角太夫(*小納戸役)
へも伺い、帰りがけにノ家[料理屋]へ立ち寄り、
食事をして帰った。

7月18日
一 今日、四ツ時(*午前10時頃) 出勤。
八後(*午後2時頃過ぎ)退出。

7月19日
一 今日、四ツ時(*午前10時頃) 出勤。
八後(*午後2時頃過ぎ)退出。

7月20日
一 今日、四時(*午前10時頃) 出勤。
八後(*午後2時頃過ぎ)退出。
七ツ後(*午後4時頃過ぎ) 中山 中左衛門と
同道し、大円寺へ参詣した。

7月21日
四時(*午前10時頃) 出勤。
八後(*午後2時頃過ぎ)退出。
八後(*午後2時頃過ぎ)川崎へ乗り廻した。

7月22日
一 今日、四時(*午前10時頃) 出勤。
八後(*午後2時頃過ぎ)退出。
大原重富様へ お使い、相、勤めた。
七ツ前(*午後4時頃前) 帰殿し、
泊まり番であった。

7月23日
★(島津久光公、勅使の宿館へ行き、
一橋慶喜、松平春嶽と会議する。)

一 今日は、伝奏(*板倉勝静)邸へ、
一橋慶喜公、松平春嶽公がお出でになり、
島津久光も会議なされ、
四時(*午前10時頃)、お供である。
御先番のため中山 中左衛門が同道し、
五ツ過(*午前8時頃)から伺い、
四時(*午前10時頃)(久光公が)
おいでになり対面し、ゆっくりと話し、
お控所へ移った。
九ツ半(午後1時頃)両公がお出でになり、
やがて、(*久光公は)ご一緒に会議なされた。
夕方に、退散した。


7月24日 雨
一 四ツ時(*午前10時頃) 出勤。
八後(*午後2時頃過ぎ)退出。
大原重富様へのお使い、相、勤めた。
帰りがけに中村屋へ伺う。
谷村 愛之助との約束である。
よって舟で(*行くこと)とし、
両国柳橋まで伺い、二人を乗せて中村屋まで
行き、五ツ過(*午後8時頃)と思しき頃、
出立して、四ツ前(*午後10時頃前)帰った。

一 今日、京都から飛脚が着き、
本田親雄への問い合わせが着いた。


7月25日 雨
四時(*午前10時頃) 出勤。
八後(*午後2時頃過ぎ)退出。
堀 仲左衛門が来た。
今日は松平春嶽様と面会のお役目のところ、
暴風雨のためお断りの申し越しがあった。
堀 仲左衛門は、七ツ過(*午後4時頃過ぎ)、
帰った。

一 今夕、吉井友実が来た。
奈良原喜八郎、海江田 信義が来た。

一 今日、お国元から飛脚が着いた。

7月26日 晴
一 今日、四ツ時(*午前10時頃) 出勤。
八ヨリ(*午後2時頃)退出。
八ツ後(*午後2時頃過ぎ)から堀 仲左衛門へ
立寄り、同道し、大原重富様へお伺いし、
夜入過ぎに帰邸した。

7月27日
一 今日、四時(*午前10時頃) 出勤。
八(*午後2時頃)から退出。

7月28日
一 今日、四時(*午前10時頃) 出勤。
八(*午後2時頃)から退出。
堀 仲左衛門が来た。

7月29日
★(利通、中根雪江を訪ねる。)
*中根雪江(なかね ゆきえ [せっこう] )
福井藩士。
名は師質(もろかた)、後に通称、栄太郎、
靱負(ゆきえ)。
松平春嶽の教育係から片腕となる。
藩政改革に参加し、藩経済を立て直す。
坂本龍馬は、暗殺5日前に中根に手紙を出している。
2006年に神明神社(福井城近く)に像が設置
されている。
著書に「昨夢記事」、『丁卯(ていぼう)日記』、
『戊辰日記』などがある。

中根雪江翁肖像
友人・勝海舟と親交を深め釣りを楽しみとした。
朔夢紀事 第二
(日本史籍協会叢書) 中根雪江 著
(日本史籍協会, 1921) 著作権満了のものより
IMG_0422 ●(960x1280).jpg

一 今日、四時(*午前10時頃) 出勤。
八前(*午後2時頃前)から堀 仲左衛門が
同道して霊厳島(*れいがんじま・
*東京都中央区東部, 隅田川河口右岸の旧町名。
現在の新川1,2丁目に該当。)の中根雪江の
所へ伺い、議論した。
もっとも他に村田氏寿(*福井藩士)、
酒井十之丞(*福井藩士。側用人から中老となる。)
井上権平(*福井藩士・しっかりと分からず。)
大石彌十郎(*福井藩士と推察される。)がいて、
段々と議論になった。
帰りがけ、そこから舟で汐留に着き、帰った。
堀 仲左衛門も高輪へ同伴した。



次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む23
大久保利通日記・上巻・第2巻  に続きます。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント