歴史の流れ 防長回天史を読む31 第二編 嘉永安政萬延記 第五章 安政2年の大勢

歴史の流れ 防長回天史を読む31

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

防長回天史 第二編 嘉永安政萬延記
第五章 安政2年の大勢

アメリカ艦の測量請求
○幕閣の内情
○堀田 正篤の登任

日米条約が既に提携される。
ここにおいてか、安政2年2月、
アメリカ艦が又、下田に来た。
(*幕府に)沿海測量の許可を請いて止まず、
その(*安政2年)3月27日、
幕府はこれを諸侯に諮詢(しじゅん・*諮問)し、
(*安政2年)4月、
アメリカ艦に告げることが、遂に回答し難いことになる。
この時に当たり、阿部閣老は、ようやく畑下・士人の
嘱望を失する。
(*阿部)正弘、よく人材を登用するが、
この一事(*人材の登用)が、正確には、その主因で
あると云う。
(*阿部)正弘が抜擢した筒井、川路、岩瀬の輩は、
当時、能力のある役人の聞こえがあった。
そして旗下の士の門閥、任用に慣れた者からこれを
見れば、 甕牅(おうしょう)寒族跋扈(ばっこ)
の[*奸賊が横行する]観があるのを免れず、
彼が、すなわち云うには、
「譜代恩顧の臣を棄てて、彼(*阿部)の卑しい輩を
選択し、食禄、序列を我らの上に加えるとは
何と云うことか」と、嫉妬心を駆り立て、
騒がしくする者が、ようやく多くなり、そして、
講武の一事について、彼が云うには、
「銃器を担いで炎暑に喘ぐことは非常に野蛮である。
士は、既に窮している。
今、まとめて甲冑を買い、また、思うにこれに加えて
ゲペール(*銃)を買うべきが、買わないか、
これは、愚なることである。
云うに、昔は位列の区分あり。
今は練兵の際、袴・服の上下の別がない。
これは如何なることか。
我らをして徒卒と伍を(*一緒に)させることでは、
ないか。」と。
衆は、謗(そし)り、(*その任に)当たらなかった。
これに加えて、溜間の諸侯は、又、徳川斉昭と、
相、善からざる者が多く、延(ひ)いては
(*阿部)正弘に及ぶ。
(*安政2年)8月4日、
松平 忠固(ただかた・*老中。信濃国上田藩6代藩主)、
松平 乗全(のりやす・*老中。三河国西尾藩4代藩主)、
急にその閣老の職を罷免される。
あるいは、云うには、
溜間の諸侯中は、(*徳川)斉昭を排し、
(*阿部)正弘を退ける陰謀があった。
(*松平 )忠固らが、これに与(あずか)った為であると。

(*安政2年)8月14日、
海岸防禦の軍制改正の故、(*幕府は徳川)斉昭に命じ、
毎月、3回の登城を増して、隔日とし、増石・五千苕を
賜う。
(*徳川)斉昭は、先に鎖国主戦の説を持ち、
アメリカ使の要求を退けることを主張し、
言行が晴れないため、一旦、勇退したが、さらに
登城の命を受け、今や隔日に登営し、事に任じるに
至ったのではあるが、すでにやや、前説(*鎖国主戦)
を改めるところがあることを察すべきである。
ペリー渡航以降、国論は、紛々恐慌、憤激が交わり
ことになり、それが、やや静定するに及んでは、
識者は、ようやく宇内(*うだい・世界の)交通は
やむを得ず、鎖国が遂に行い難いことを覚り、
その固執の説を一変して、自分から進んで外交を試み、
地境を開くのを可とする者がいた。
幕府も又、ようやく、開国のやむを得ないことを知る。
しかも、公然とこれを示すものは、当時の政略に
おいて深く怪しむに足りた。
(*徳川)斉昭は、又、軍制改正の事に任じるに及び、
岩瀬 震[肥後守]らの誘導により、やや鎖国の不利を
覚えたようである。[栗本 本鋤雲の所論など参照。]
(*そして)アメリカ人が沿海測量を請い、
幕府が度々、拒んだが、聞かず、よって
勘定奉行・松平 近直[河内守]をアメリカに
渡航させて協商させようとする幕議があると、
(*徳川)斉昭は、(*阿部)正弘と謀り、
藤田 彪(*藤田 東湖)を従わせようとして、
あらかじめ、(*この)内意があるところを伝えたと、
と云う者もいる、に至った。
彪(*藤田 東湖)は、(*徳川)斉昭の股肱(ここう・
*忠義な家来、腹心)で補佐の功績は、浅くはない者
である。
たまたま10月2日、江戸地は大いに震える。
いわゆる安政の大地震、これである。

*安政の大地震
古今災害写真大観・
玉井清文堂編輯部 編 (昭和10年) 
著作権満了のものより。
IMG_0214 ●安政の大地震 (1280x960).jpg

同上
IMG_0047 ◎安政の大地震 (1280x960).jpg

彪(*藤田 東湖)、このために圧死する。

*藤田 東湖、地震後、
邸内を脱出し、再度、老いた母を追い、
落下してきた鴨居を肩で受け止め、母は助かるが
東湖は、後、圧死した、とされる。
東湖、時に50歳であった。
「藤田 東湖・近世立志伝」
富本長洲 (桃李園主人) 著(明治41年)
著作権満了のものより。
IMG_0212 ●藤田東湖(1280x960).jpg

同月(*10月)9日、
溜間詰・堀田 正篤[備中守](*幕閣に)入り、
老中となる。
班・阿部 正弘の上にあり。
堀田 正篤は、天保年中に、かつて老中であった。
水野 忠邦と(*ソリが)合わず職を辞し、
閑地にいること14年。
ここに至り、再び、出る。(*幕閣に入る。)
初めから蘭学を愛し、早く開国の説を唱える。
当時、列藩の医術は兵制洋式を倣う者は、
佐倉(*地名)をもって嚆矢(こうし・*最初)とする。
故に鎖国攘夷を主張する者は、これを、そしって
蘭癖先生と云うに至る。
(*堀田 )正篤の入閣は、(*阿部)正弘の推薦
による。
そして(*阿部)正弘が急に(*堀田 )正篤を推薦
した事情は、未だに、これを詳細にせずと云えども、
島津 斉彬が当時の事情を揣摩(しま・*推量)して
云うには、
(*阿部)正弘が、(*堀田 )正篤を推薦して
自分の上に置いたその意は、溜間詰・井伊氏らの
非難を押さえようとし、(*堀田 )正篤に攻撃の
衝突に当たらせるものであり、政権は依然として
(*阿部)正弘にあるのである、と、これを言い、
正確に、事実に遠くないことを観察すべきである。
そして当時、閣老中には、(*堀田 )正篤が出たために
苦心が減ったと説明するものが多かったとの説があり、
よって、これを見ても、この推挙たるは、まさに、
(*阿部)正弘が、当時の時勢に処し、その声望の
薄弱を感じた事に起こった事に他ならない。
しかしながら、幕府と水戸氏とは、正睦(まさよし、
*堀田正篤のこと。正篤は初名。)の登用の時から
やや隔離の情を呈するものの如くであった。


次回、
歴史の流れ 防長回天史を読む32
第二編 嘉永安政萬延記
第四章 安政2年の毛利氏
に続きます。



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