歴史の流れ 防長回天史を読む32 第二編 嘉永安政萬延記 第六章 安政2年の毛利氏

歴史の流れ 防長回天史を読む32

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

防長回天史 第二編 嘉永安政萬延記
第六章 安政2年の毛利氏

赤間関沿岸の深見上書
○政府の交替
○施政の条目の諭旨
○大震後の節倹令
○松陰の野山獄の投入、ならびに禁固
○諸士の遊学
○西洋学
○洋式軍艦の製造

安政2年正月12日、
明倫館の費用を増して増補し、
高3,500石とする。
[すなわち、現米1,400石である。
内、420石は所帯方から支出し、980石は
撫育方から支出する。]

(*正月)17日、
神器陣の規格を増補し、一手別 銃陣調練を
創始して、これを明倫館に属させる。
[これは、実は従来の神器陣の虚儀に流れて
実用に適さないため、今、その増補をすると
称して一手別稽古に合併する。
神器陣の章に詳細してある。]

2月20日、
重臣を会して又、沿海防禦の法を議論させる。
明倫館頭人 兼 当用掛・井上 与四郎、
当役手元役・清水 新三郎、蔵元役・前田 孫右衛門、
右筆 兼 手当方・三宅 忠蔵、手当方・馬屋原 右兵衛、
藤井 百合吉など、皆、これに列する。
(*2月)25日になって(*議論が)終わる。

3月9日、
左近公が卒する。
君は清徳公の第二子である。
*清徳公は、毛利 斎熙[もうり なりひろ]、
長州藩・10代藩主。
史実では、左近公は、毛利 斎熙の三男で、
信順(のぶゆき)。
卒日は、3月8日で、墓碑には3月9日とある。
(稿本 もりのしげり 参照。)

故に、(*忠正)公は常にこれを待つ。
非常に厚く藩内に令し、音曲を停止すること10日、
初め崇文公の物故により、その後を承るにおいて、
(*忠正)公と君(*左近公)とは、その系統が同じである。
*崇文公は、毛利 斉広[もうり なりとう]
長州藩・12代藩主。

そして(*忠正)公は崇文公の遺志で、その後を
承(う)ける。
*忠正公は、長州藩・13代藩主。

このような境遇にあっては、どうもうすれば藩士の
党争を醸し出すのは諸侯の家に多く見るのを例とする。
毛利氏においては、絶えてこの事がないのは、
重臣がよく力を合わせて公卿の事によることが、
少なくないと云えども、少しも又、
公と君が互いによく、その分を尽くすによることが
多いことによる。

この月(*3月)18日、一手別 調練細則を定め、
この月(*3月)28日、沿海防禦の実習令を布く。

当時、海防の事は、もっぱら力を北海に用い、
その他を顧みず、一朝、大阪湾にロシア艦が来航あるに
及び、幕府は大坂町奉行に、殊に赤間関の沿岸、
港湾の浅深、砲台の有無を問わせることがあった。
毛利氏は又、南海防備の必要を感じ、徳山・岩国の
沿岸の警備を減額にさせ、さらに当局の吏員(*役人)
に命じて、調査をさせるところがあった。
5月10日、
吏員らは書見を具して、藩政府に報じる。
その文に云うに、

【*以下、原文意訳】
赤間関ならびに吉田・舟木・小郡辺りの海岸地理の
詮議をしたところ、赤間関辺り(*現在の下関辺り)
の儀は、咽喉輻溱(のどふくそう・*咽喉元に集中する)
要津の(ようしん・*重要な港)なので、
先年、公儀から御沙汰の趣きもあり、この御方、
小倉、筑前の御三領が仰合され(*話し合われ)、
異船の打ち払いの場所は、これまでは引島沖を第一に
御手当を仰せ付けられ、大砲、玉薬などを引島
(*ひくしま・下関市彦島の旧称)に差し出し
置かれました。
もっとも大砲の儀は、
六連(*むつれ・下関市)、
蓋井(*ふたおい・山口県豊浦郡)、
竹子島(*たけのこじま・下関市彦島竹子島町)
などへ配付なされました。
そして引島、六連へは大砲家定詰を仰せ付けられ、
蓋井の儀も遠見番役人を差し出し置かれた事で
ありましたが、
当時、(*忠正)公あたりの御模様で打ち払い儀
と申すのは、容易に仰せ付けられ難い事で、
自然に渡来の節は、決して赤間関地方へ乗り入れると
申すべきで、台場の個所は別紙図面の通り詮議して、
なお、爰元(*ここもと・私)においても
大砲家ならびに巧者の船頭共を集め、海底の浅深、
乗り入れ前の地理などを衆人に評議させたところ、
亀山の端、王子ヶ端の方が、(*その)通りであり、
海底の様子は(*から見て)第一の繋船場所(*である。)
と申し出ました。
右(*上述)につき、先の亀山端・王子ヶ端の
両所へ台場を築く事を仰せ付けられれば、
先だって長府からの(*忠正)公あたりへ御届も
相、成り、手数も少なくて、
王子ヶ端は、以前に長府(*現・下関市)の御手当場所
と申された事もあるので長府へ持たされ、
亀山の端は、こちらの方の持たすようにと、
仰せ付けられました。

赤間関辺り
IMG_0004 ●赤間関 (1280x960).jpg

又、これまで吉田、舟木の両宰判の住宅の諸士は、
引島、六連島、竹の子島などの台場掛を仰せ付けられ
ましたので、右(*上述)の御手組で肝要な住宅は、
宰判の一の手の御手当が欠(*欠如する事)になるので、
右(*上述の)三島の台場掛りをも差し除かれました。
もっとも右の人数の内をもって、亀山台場掛りを
仰せ付けられましたので、残る人数をいずれも
住居宰判の 一の手に仰せ付けられました。

引島、六連の儀は、大砲家定詰の儀につき、
土兵が取り立てられ、農業の隙をもって
大小砲の打方が調練を行い、
防禦方の儀は、およそ土兵で済むように仰せ付けられ、
関(*赤間関)地方の儀は台場筒の他、野戦砲など
数丁を差し出し置かれ、
前述の亀山台場の関わりと兼ねて定詰の物頭二組
・御目xなどで、(*宰判の)一の手の御手当が済み、
御手組に仰せ付けの他は、無いように見受けられます。

一 小郡・舟木・吉田辺りの海岸は、いずれも
入海(いりうみ・入り)江が遠浅などで、
小郡の内(*海)・丸尾崎は、外繋船の場所が無く、
右(*上述)のところは、昨年、台場を築きましたが、
追々、破損して、その上、便利ではないように見える
ので、別紙の図面の場所へ
築替えをするように仰せ付けられました。
なお又、舟木の内(*海)妻崎の儀は、
繋船の場所が無いと云えども、御番所があるので、
大砲を差し出し置かれ、それについての居込みの場所は、
別紙の図面の通り詮議を致します。
その他、浦々の儀は、沖合から大邑(*大きな邑)、
豊饒(ほうじょう・*肥沃な地)を臨み、
態々(わざわざ)舟を寄せるほどの場所もなく、
場広の海岸で、いずれ台場の築立を然るべく(*適当に)
仰せ付けられても、あきらめ難く、先述の海岸、
最寄りの場所・場所へ野戦砲、揺台などを差し出し置かれ、
自然の節は、敵のところへ押し行き、打つように
仰せ付けられること。
            【*原文意訳・以上】


時に(*忠正)公は、東(*江戸)勤務への期限が
既に過ぎ、なお、(*幕府)に暇を請い、国にいた。
(*忠正公は、)海防の準備、財政整理の事があり、
かつ、(*忠正)公は、病となる。
4月25日、諸士の負債返還の延期の令を布く。
[公内債とも(*称する)。
年・5朱の利を付することとし、半知出米中、
元金の返済の義務を延期する法である。]

そして、士民は、信をこの整理(*令)に置かず、
往々、天保の公内借捌(*公に借金すること)の
寛典(かんてん・*寛大な法的処置)を思い、
罪を当路者(とうろしゃ・*重要な地位の人)に
帰し、誹謗には至らなかった。

5月22日、
村田清風を起こして財務整理の事務に参与させ、
人心を繋ごうとする。
時に(*村田)清風、年、70歳余。
杖をついて城に入ることを許し、処遇するに
家老格をもってした。
[(*村田)清風の発句に云うに、
老枯の 草も芽立つや 春の風]

(*村田)清風、命を拝して後、数日、
この月(*5月)25日夜半、
溘焉(こうえん・急に)として逝く。
[嘉永元年(*1848年)、(*村田)清風が明倫館の
再興用掛であった時に官衛で急に中風となり、
天樹院により療養するも遂に痼疾(こしつ。*持病)
となる。
今、持病が再発して亡くなる。
正確には、(*家老格の処遇に)感激の致すところ、
と云う。]

7月3日、5ヶ年間節倹の令を布く。
7月15日、異国船、萩の海上を過ぎる。
上下、騒然とする。
即日、(*忠正)公は、命を総奉行に下して警戒する。
そして異国船は、事なくして去る。
8月、政府員の大交替がある。
事は、負債の延期令に基づく。
(*8月)8日、仕組方・口羽 善九郎、罷免され、
[(*8月)21日、用談役ならびに裏判役をも罷める。]

(*8月)11日、政務役・周布 政之助、遠近方に
移される。
同日(*8月11日)、椋梨 藤太が代わって政務役となり、
(*8月)17日、坪井 九右衛門が又、出て、
行政府に列する。
[坪井は以前に罪を得て、退隠していた。
今や、その罪を許され隠居雇・江戸方御用掛として
政府に立ったのである。]

(*8月)25日、手元役・清水 新三郎は明倫館・頭人に
移され、小川 七兵衛は用所役から転じてこれに代わる。
用所役 兼 所帯方においては、内藤 万理助、
長井 弥次郎の二人が罷められ、松原 太郎右衛門、
内藤 吉兵衛の二人がこれに代わり、
軍奉行・蜷川 四郎右衛門も又、(*8月)24日をもって
大坂 頭人に移される。
その他、当職以下で辞表を提出した者は非常に
多かった。
[11月下旬になると、口羽、内藤、周布、蜷川などが
逼塞、遠慮などの責罰を受ける。
格差があった。]

この交替の跡を見ると、天保の交替とその轍(わだち・
*あとかた)を同じくしている。
財政計画を立てて失敗する所相は同じで、
村田(*清風)派が退いて、坪井(*九右衛門)が
進むところは同じで、とりわけ、
峻厳(しゅんげん・*けわしく厳しい)な法令に
対する人心の不穏のために、政府員はその地位を
保たれないことになり、反対派はこれに乗じて、
代わって(*その地位を)取ったものと云うべきで、
二政派は、終にここに至って画然たる結界を
生じたのである。

8月晦日、新政府の負債延期の令を撤回し、
藩政の動揺は、ようやくにして静定する。
(*忠正)公は、まさに9月2日を期して
東勤の途に上ろうとする。
出発に先立ち、8月15日、自ら施政の条目を定めて
これを執政に授ける。
それに云うに、
【*以下、原文意訳】
一 人気の事
二 仕組の事
三 地 江戸手当の事
  道中の儀も同じ
四 火薬製造の事
五 農兵の取立ての事
六 総奉行の取立ての事
七 諸役人の賞罰の事
八 不毛の地の詮議の事
九 均田の事
(*均田[きんでん]は、土地を 平等に分けて均等に
すること。)
十 役屋敷、組屋敷の事
十一 女教の事
(*女教[じょきょう]は、婦女を対象とする教育や
教え)
             【*原文意訳・以上】

これは、実に投じの大綱を一日も早く行わなければ
ならないところのものである。
(*8月)晦日、さらに諸臣に訓諭を下す。
それに云うに、

【*以下、原文意訳】
近年、異国船が渡来致し、東西をしきりに窺う。
その動静、異心の外敵の謀りごとは計り難く、
実に皇国の艱難の秋であります。
よって、この梵鐘をもって砲銃を鋳造すべき旨、
叡慮をもって、(*朝廷が)お言いつけになり、
朝廷の御苦労の程、深く察し恐れ奉ります。
海防は、少しも猶予ならない事であります。
当家は、皇別(こうべつ・*皇室の一門の中で
臣籍降下した分流)の末裔(まつえい)、
洞春公(*毛利元就)が正親帝
(*106代正親町[おおぎまち]天皇)の御即位料を
献じられ、叡慮を安んじられた。
その御忠孝両全(*忠義・孝行の二つとも完全にすること)
は、基本に報じれられ、御事、我ら不肖ながら、
その御血筋を承り、この御艱難の時に当たり、
防夷・軍政は他家を抜いて速やかに整え、少しの微忠を
尽くし、叡慮を安んじ奉る他、さらに他慮はありません。
家来中の儀は、その先祖、就中(*なかんずく・とりわけ)
天樹公(*毛利 輝元)、大照公(*毛利秀就)の防長安堵の
折柄、当城の営築その他の急務、深く御辛労のところ
であり、生死の戦場に立ち、功賞の領地、居城など
一朝に打ち捨て、分国の人心の反復の中、
只管(ひたすら)恩義を忘れず、御跡を慕い来て、
(*我らは)ことさら、抜きん出て奉公させて尊慮を
慰め奉り、義心鉄石の者のであるので、
その先祖々々、忠仕の次第と200余年の太平の化
(か・*徳により教え導く事)に浴し幸福と深く考え合い、
かつ、公内借捌の節と申し聞き、
海防は、今日、その期になれば、一同、義憤させて、
文武精錬、虚飾に堕す(だす・*良くない状態に陥る)
廉恥、節操を守り、
我らは、素志を遂げようではないか。
報告の奉公を怠らないようにする事(8月晦日)
             【*原文意訳・以上】


9月1日、
毛利 筑前、浦 靭負、蜷川 四郎右衛門の以下は、
功労を持って賞を賜る。
各々、差、あり。
姥倉の開墾工事はすでに、その功を竣工した。
翌(*9月)2日、
(*忠正)公は、萩城を出発して東上の途に上る
中山道に(*道を)取る。
これより先、アメリカ船が沿海の測量を請い、
幕府は、これを許さなかったたが、アメリカ船が
去るに臨み、再航して請うところがあるとする、
との意を述べたので、この月、幕府はこれを諸侯に
告げ、警戒するようにさせた。
これにおいて江戸藩邸では一面、公儀人・有福 弥七
から異国船の待遇の要を幕府に問い、一面、事情を
(*忠正)公に報じる。
(*忠正)公は報告を得て、(*東上の)途上から書を
もって、藩内を戒める。

【*以下、原文意訳】
(公儀人の伺書)   (八月晦日)
当、3月中旬、下田へ渡来のアメリカ船から御国の
海上測量の儀が願い出され、追って御挨拶を承るため
(*再度)渡来致す旨の申し立てがありました。
(*しかし、この)測量の儀は容易に差し許し難いので
追って渡来の節、精々、厳しく諭し申し、御断りに
なるけれども、
もしも承伏致さずとも、なるだけ穏便に
お取り扱われるべきなのが自然の理であるが、
(*それが)出来るかどうかは計り難いので、
銘々、兼ねてそれを心得るように(*存じます)。
先だって久世大和守様(*久世 広之[ひろゆき]・
若年寄・老中)から書付で、松平薩摩守様
(*島津斉彬)へお聞きになられたところ、
大膳大夫(*忠正公・毛利敬親)が、相模国の御預所
ならびに防長領国の近海へ右の(*上述の)アメリカ船が
渡来して測量などを致す様子を見受けられれば、
以前断ったように、お聞きの趣きをもって、
なるだけ穏便に取り扱うべきであります。
しかし、論談を徹底致し難い異情になれば、
押して測量を致すことも計り難く、その節は、
又、精々穏便に取り計らうべきであるけれども、
万一、何よりも手荒な所行を致し、人命にも
関わるほどのことがある節は、よんどころない
儀につき、打ち払うようにも仰せ付けられました。
かつ又、上陸など致し、乱暴でも致した時は、
適切に処理しても然るべきであります。
この段、御内慮の程をお伺い奉ります。
 以上。
           【*原文意訳・以上】

【*以下、原文意訳】
(幕府指令)
書面の趣は、平穏に諭し申しても聞き入れず、
何よりも手荒な所行を致し、人命にも関わるほどの
ことがある節は、捕り押さえても、適切に取り計らう
事はもちろんのことではあるけれども、
言語普通の異人の行き違いなどあり、向こうから
こうであると致し、かれこれ申す程に致さない様に
取り計らうべく申すこと。
【*原文意訳・以上】

【*以下、原文意訳】
(公[*忠正公]の諭書)
この度アメリカ応接の趣、御旅中から御到来があり、
ついては委細、別紙をもって内意を御云い付けられた
ので聞き、銘々、その覚悟があるべきである。
器械、兵糧など十分な手当を整えて、武前(ものまえ・
*戦の始まる直前)に臨み、武術、智略が乏しくては
必勝の策が立て難く、文武の稽古、わけても出精して
心力を鍛錬し、筋骨を創建にして、一廉(いっかど・
*ひとかど)、奉行がこれにあるべきである。
自然、不心得で怠慢に遊び、打ち過ぎる輩があれば、
きっと、御沙汰の及ぶところとなる、とのこと。(9月)
    【*原文意訳・以上】

【*以下、原文意訳】
(別紙 )
近来、長崎、下田、函館などへ外国船の繋舶が
差し許され、就中(なかんずく・*とりわけ)
中でもアメリカから海岸測量の儀が願い出された。
測量の儀は容易に差し許し難く、追ってアメリカ船が
下田へ来港の節、なるだけ平穏に諭し申しても、
願いの旨が整わず、ついてはどのような事になるかも
計り難いので、その覚悟をするようにと(*忠正)公の
辺りからお達しの趣があり、従うように。
(*これは、忠正公が)御旅中に到来し、自然、
急変があれば、御道中の御備え振りも改めるべきで、
(*この時)若殿様は御在府で最初から異変の場に
おられた。
相模国の御請場の儀は、江戸面の咽喉元の地につき、
御手当は、一入(ひとしお)手厚く、お言い付けに
なられ、殊に国元の手広い海岸防禦の御駆け引き、
別けても御煩いになられ、御出発の前にお聞きに
なられたこともあり、恐れながら、御両殿様
(*忠正公と若殿)の励志の旨を察し奉り、
実に寝食も安んじられず、その上、長崎でイギリスの
応接の趣も一通りでは無いように噂され、
もしも異議に及べば、江戸表に限らず、沿海の地に、
いずれは襲来致すべきかも計り難く、かれこれ、古来、
これなき御艱難の時節であります。
(*そこで)銘々、素より勘弁して(*許して)
この時を失わず、塁世の御厚恩に酬(むく)いる存念で
あるべきである。
かつ、非常の倹約の中のことにつき、内輪々々の風俗も
もちろん質素にして、武備一途に力を用いるように
申され、数百年の太平の風習で士気は自然と弛んでいる
であろう。
海防のことも、空しく風流の虚談に打ち過ぎ、
今もって覚悟もこれ無い向きも間々あるので、
近来、外敵の状態の反復は測り難いので、
今日の治安は、全く騒乱の始めと心得て、
太平の世の習いを今、脱却して、衣食住の費用も
厳しく減らして武術を磨き、質素簡易の風俗に
する様に厚く心掛けるように、もしこの時節柄、
不相応な所行があれば、一廉(ひとかど)重く、
相、咎めること。
        【*原文意訳・以上】

10月2日、(*忠正)公(*の書翰が)、萩駅に達する。
この夜、地、大いに震える。
(*安政の大地震である。)

安政の大地震・古今災害写真大観
玉井清文堂編輯部 編 (昭和10年) 
著作権満了のものより。
IMG_0042●安政の大地震(1280x960).jpg

同上
IMG_0044 ◎安政の大地震(1280x960).jpg

明日、江戸に到着すると桜田邸は震蓋を蒙り、
大破して入ることが出来ず、よって麻生邸入る。
(*その震動は)数日を経て、なお未だ止まず。
諸士は旅装をして皆、露宿する。
[(*10月)7日の激震には、(*忠正)公は出でて、
内に和の桜樹木の下に避難した。]

(*10月)15日、
初めて当役を召し、入邸の略儀を行わせる。
江戸諸邸および相州陣営が震災のために破損するものは
非常に多く、死傷者、また少なからず。
[江戸邸、死者29人。負傷者50余人。
相州陣営、死者2人。負傷者70余人。]

(*忠正公は)内外多事の日に際し、遽然(きょぜん・
*突然)として、この不測の災いに遇(あ)う。
これの善後の朔を講じようとすれば、さらに倹政を
布かなければならず、(*忠正公は)は、すなわち、
11月1日、毛利隠岐(*毛利熈頼[ひろより・
相州浦賀警護総奉行])を藩地に下し、国老に
命じるに、10万石以下の経済(*生産活動)を行う
ことを。

吉田松陰は野山獄に在ること1年有余。
今年12月15日に出獄して、その父の家に
禁固される。
金子重之助は、資性衰弱し、伝馬町の獄中から
既に病があった。
今年1月11日、遂に獄中で病死した。
松陰は野山獄中に在る間、孜々(しし・怠けず励む)
として怠らず書を読み、文を書き、諸友と音信を絶たず、
そしてその間、須臾(しゅゆ・*一時)も当世の事を
忘れず、もっぱら、慷慨気節(こうがいきせつ・
*怒り嘆き意気盛んで)をもって同志の士を激励し、
隠然として、すでに藩中の一勢力をつくった。
この時に当たり、(*忠正)公の文武奨励のため
学館、もしくは武器製造場に臨むの類は記述しない。
そして又、藩士の、あるいは公務を帯び、
あるいは、もっぱら修行のため、あるいは官費をもって、
あるいは、私費をもって智識を四方に求める者が
次第に多くなった。
正確には、(*これは)(*忠正)公の奨励に基づくもので
ある。

河野 右衛門、財満 新三郎などは、以前、久しく剣術を
斉藤 弥九郎、その子・新太郎、同・鑑之助の門に学ぶ。
よって去年2月15日、3人を藩邸に招いてこれを饗し、
かつ金を賜う事があった。
(*以下、◆のようなことである。)
[河野 右衛門、財満 新三郎、佐久間 卯吉、林 乙熊、
永田 健吉、桂 小五郎、井上 壮太郎、等しく斉藤の塾に
あって、弥九郎父子の厚遇を受ける。
アメリカ艦来航の時に当たり、彼らは皆、藩邸に入り、
警備の列に参加させる。
(*忠正)公は、弥九郎父子の功を思い、特に召して
この事があった。
斉藤父子と毛利氏との関係は、非常に深いことは、
別章で示す所のようである。
(*安政)元年2月5日には、一旦、緩急があり、
(*忠正)公にもし、出軍の事があれば、戦死の列に
加わると請い、そして、その意を容れた事があった。
(*去年2月)15日の饗は、あるいは、この義侠心を
賞する意をも含んでいたのかも知れない。

◆桂 小五郎の関東武者酒豪、赤川 淡水の水戸への遊学。
[(*安政)元年10月、(*桂)小五郎の請いにより、
剣技を都より東に修めることを許す。
(*桂)小五郎は、以前に関東地方に武者修行をする。
正確には、この時の事である。
(*桂)小五郎は、その前、嘉永年間から江戸に在りて
剣を斉藤 弥九郎に学ぶ。
この頃、土屋 恭平は羽倉 外記に、白井 小助は伊藤 玄
などに、秋良 雄太郎は斎藤 弥九郎に就き学ぶ。
赤川 淡水は、この年8月10日に常州(*常陸国の異称)
辺りへ遊学を命じられて水戸に行き、会沢 正志、
豊田 天功に学ぶこと3年、帰藩の後、明倫館都講となり、
大いに水戸の学風を鼓舞する。
同年8月晦日、河内 駒之助、馬来 宗次郎、小倉 幾之進、
寺内 弥三郎ら24人に命じ、剣槍修行のために江戸に
行かせたことがあった。
又、赤川 又太郎は古賀 謹一郎の門に、
口羽 徳祐(*口羽杷山[くちば はざん。吉田松陰の
親友])は羽倉 外記の門に、
斎藤 市郎兵衛は藍谷 宏蔵の門に、
中村 誠一は安井 忠蔵の門に、等は、皆、この頃の事
である。]

◆来原 良蔵、松島 瑞益などを名が無きに遊学させる。
[(*安政)2年7月18日、福原 清助、來原 良蔵を九州に
遣り、次いで、田上 宇平太を遣り、共に西洋軍学を
修めさせる。
同日、又、砲術家・湯浅 祥之助、郡司 熊次郎を江戸に
遣り、西洋砲術を修めさせる。
この秋、松島 瑞益を長崎に遣り、オランダ人に就き、
兵学を修めさせる。
(*松島)瑞益は、オランダ館の出入りの許可を請う。
書類は11月20日の日付であるが、瑞益の受命の日は
未だ、詳しく明らかではない。
この他、楊井 裕二、氏家 鈴助、北条 源蔵など、又、
長崎に行く。
なお、(*その他)長崎直伝習の章を参照。
(*又)山縣 半蔵に命じ長崎に行き、清国通俗文を
学ばせるのも又、この時である。

(*これら◆は、)殊に著しいものである。

(*忠正)公は、又、深く心を西洋の機器に傾け、
好生館中に、別に洋学所の一局を置き、砲台の築造、
銃砲の製法、その他、新製品の発明の事に努めて
博渉(はくしょう・*関わる)し、研究させて、
諸臣の中で篤い志のものは随意に就学させる。
当時、洋学所の教官に師範人、師範掛、用掛などの
称があり、田上 宇平太、青木 研蔵、能美 隆庵、
松島 瑞益、田原 玄周、氏家 彦十郎、山本 宇平太、
井上 弥平次、馬屋原 右兵衛、氏家 鈴助らを、その任に
当てる。
そして洋式船艦の製法および操法は、(*忠正)公の
もっとも知りたいと思う所のものである。
去年3月には幕吏に託して、スループ形船[単桅小軍艦]
を浦賀に造り、今年になって成り、これを相州守兵の
練習用に供し、今年、初夏、桂 小五郎が技手2人を従え、
浦賀に行き、大船製造の法を学ばせた。

[この秋、中島 三郎助は、まさに長崎に行き、蒸気船の
操縦に従事しようと(*桂)小五郎、又、工匠を従え、
(*中島) 三郎助と共に長崎に行くことを請い、許される。
8月31日、(*桂)小五郎が浦賀から藩邸に致す書に
云うに、

「私儀、関東辺りに剣術修行の御願いを申し出て、
修業したところ、去る4月、病気につき一応、萩へ帰り、
再度、出かける節、大船製造の御用につき
大工・藤井 勝之進、船大工・藤蔵を相州・浦賀へ
連れて行きましたので、その節、一件、差し引かれ
ますよう(*ここでは、ご了承されますよう)、かつ、
剣術の修行中、西洋軍学を心掛けるよう仰せ付けられ
ましたので、先だってより浦賀与力・中島 三郎助方へ
寄食致します。
かつ、又、(*大工)藤井 勝之進、船大工・藤蔵の儀は、
(*中島)三郎助の口入れで、当地の棟梁・勘右衛門方へ
入り込み、追々、稽古をしましたところ、この度、
(*中島)三郎助が長崎へ行かれて、オランダから献上
される蒸気船取扱方、その他、その地から航海術、砲術、
造船などの巧者の者が来る様子であり、
(*又)質問されるとのことで、今度、(*中島)三郎助の
一建に加わって行けば、かれこれ得益の事もあるべきと
存じ奉ります。なので、
私ならびに(*中島)三郎助の儀、行かせて頂きますよう
願い奉ります。
(*中島)三郎助の助手を離れては、眼前の修行の行方の
目途も無いので、この段、よろしぐ、御詮議仰せ付けられ
ますように存じます。以上。」と。

但し、(*大工・藤井) 勝之進は、後、長崎に行った証は
あるが、(*桂)小五郎は、遂に行かなかったようである。
すでに桂などの事があり、又、松島 瑞益を長崎に遣ろうと
する事があった。
この二事のため、11月、藩政府から金品を(*中島)三郎助
に贈り、謝意を表した。]

次いで来航のオランダ蒸気船に就き、その操法を
伝習させるために郡司 千左衛門、正木 市太郎、
山田 七兵衛、戸田 亀之助、藤井 百合吉ら15人を
長崎に遣り、
9月11日、
蒸気船の製法ならびに操法を学ばせるために
竹内 卯吉、佐々木 門次郎、池辺 龍右衛門、
安井 茂太郎の4人を長崎に遣り、
11月20日、
桂 小五郎を戸田村に遣り、幕府の着手中の軍艦製造法の
実況を視察し、急いで、これを江戸邸に報告させた如く
皆、この目的(*軍艦の製造法と操法)に出る者は
なかった。(*この目的のためであった、の意。)
(*又)大船ならびに鉄張筒の製法を伝習するために、
岡 儀右衛門、山田 右衛門、藤井 百合吉、
工匠・小沢 忠右衛門を佐賀、長崎、鹿児島に遣ったのも
又、この年である。

安政2年間 要職一覧

安政2年間 要路(*要職)一覧
【行相府】
●当役
浦 靭負

●御用掛
(8月17日、任命)
坪井 九郎右衛門

●手元役
(12月11日、罷免)
周布 政之助

(8月26日、罷免)
清水 新三郎 信篤

(8月20日、兼任)
椋梨 藤太

(8月25日、任命)
小川 七兵衛

●用所役
(江戸方)中川 宇右衛門 以徳

(8月23日、罷免)
長井 弥次郎 実充

(8月25日、罷免)
小川 七兵衛 為政

(8月26日、転任)
清水 新三郎 信篤

(8月23日、罷免)
内藤 万里助 忞

(8月28日、任命)
松原 太郎右衛門

(8月23日、任命)
内藤 吉兵衛

現職除外(名誉職)
兼重 新右衛門 定穀

●右筆
(8月11日、転任)
周布 政之助

(8月11日、任命)
椋梨 藤太

(10月14日、本役)
赤川 太郎右衛門

●相州総奉行
(1月、免職)
益田 越中

(1月、免職)(10月任命)
毛利 隠岐

(10月、任命)(12月、免職)
浦 靭負

(12月、任命)
毛利 主計

●x目付
八木 甚兵衛 景一
梨羽 直衛 俊章
阿部 六郎
佐伯 丹下


【国相府】
●当職
毛利 筑前

●用談役
(8月8日、罷免)
口羽 善九郎 元寔

●裏判役
(8月20日、罷免)
口羽 善九郎

(8月20日、任命)
山内 新右衛門

●手元役
内藤 兵衛

●蔵元 両人役
現職除外(名誉職)
三須 市郎兵衛 守襄

前田 孫右衛門 利忠

●遠近方
中島 市郎兵衛 正章

中川 宇右衛門

(8月11日、任命)(12月11日、罷免)
周布 政之助

●所帯方(用所役 同)

●右筆
三宅 忠蔵
山縣 右平 直行

(添役)
伊藤 市右衛門 信寛
渡邊 伊兵衛 清



*次回からは、第七章 安政三年の大勢 です。



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