歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む26

●大久保利通日記・文書 文久2年

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、
です。

【目次】(ほぼ時系列で掲載)

(日記)大久保利通日記・上巻・第2巻.
文久2年(1862年)十月朔日 ~十月八日  

(文書)27・文久2年10月8日
岸良 七之丞への書翰

(日記)大久保利通日記・上巻・第2巻.
文久2年(1862年)十月九日 

(文書)28・文久2年10月13日
藤井良節への書翰

(文書)29・文久二年10月29日
小松帯刀への書翰

(文書)30・文久2年10月29日
小松帯刀への書翰・別啓

――――――――――――――――

大久保利通日記・上巻・第2巻.
【大久保利通日記】から 文久2年(1862年)
(本文・意訳)

●10月1日
一 四ツ時(*午前10時頃)出勤。

一 御本丸・二丸で中山(*中左衛門)に隔日、
相、勤める様に仰せ付けられたけれども、
今日は、御本丸へ勤め、 八ツ(*午後2時頃)
から二丸へ行った。
七ツ時分(*午後4時頃)から礼廻りを致した。

●10月2日
四時(*午前10時頃)出勤。
御本丸へ出勤し、 一時、 ニ丸へも出勤した。
七ツ時分(*午後4時頃) 退出してから、
荒田方へ礼廻りを致し、暮時分に帰家した。

●10月3日
四時(*午前10時頃)出勤。
二丸へ七ツ(*午後4時頃)から出勤し退出した。

一 御用取扱を初めて致した。
御家から云い付けられて、老坐へ罷り出た。
●10月4日
一 四時(*午前10時頃)出勤、
八(*午後2時頃)後から退出。

●10月5日
一 四時(*午前10時頃)
八(*午後2時頃)後から退出。

●10月6日
一 四時(*午前10時頃)出勤 、
八(*午後2時頃)後から退出。

●10月7日
一 四時(*午前10時頃)出勤

●10月8日
一 四時(*午前10時頃)、
八(*午後2時頃)後から退出。
郡山(一介)氏へ伺った。

――――――――――――――――

(文書)27・  文久2年10月9日
岸良 七之丞への書翰

(要点)
(*利通は)役職昇進につき、祝い物を贈られた
のを謝し、なお、伊地知 貞聲(*堀 小太郎)へ
安着の祝い物を贈った。

(解説)
岸良は兼養。(*島津久光の小姓。島津忠義父子と
精忠組との連絡役を務めた。)
時に御小納戸である。
利通は、先月晦日(*9月30日)、御小納戸頭取から
御用取次見習いとなる。
この役は、藩の重職で御側役に進む階梯
(かいてい・*出世の階段)で、異数の抜擢で
あった。
書中の堀君は、小太郎を云う。

(本文・意訳)
なお、段々とお話し申し上げたいのですが、とにかく
御直談ならでは申し尽くし難く存じます。
近々の内にお出で下され、幸せに存じ奉ります。
晩は、格別に客来も少なく存じます。
寒冷の日々が迫るところ、御安静に成られ、
珍重(ちんちょう・*もてはやす)に至り存じ
奉ります。
私事も案外(あんがい・*思いがけない)の命を
奉り、ありがたく幸せに存じ奉ります。
就いては美事な御肴、御祝いを下され、御礼
申し上げます。
まさに又、堀君(*堀 小太郎)も御安着のこと、
安堵のことに存じ奉ります。
(*堀は)長々の舟中、さぞ御退屈の筈
(*であった)と親察され、よろしく御伝言の程、
願い奉ります。
些少のものではありますが、肴、
一折を御安着の御祝詞まで、お目汚し、
御笑納下され、多幸を存じ奉ります。
この旨、そちら様から早々、御意を得たく
存じます。以上。
   10月8日
追って、御礼方々、ちょっと参上したいので
ありますが、その後、始終、遅帯出方々にて、
その儀は叶わないので、何卒、御憐察下さりたく
(*存じます。)
  岸良 七之丞様      大久保 一蔵
   上置(うわおき・*ここでは
体裁を繕うもの、の意)

――――――――――――――――

(日記)大久保利通日記・上巻・第2巻.
文久2年(1862年)十月九日 
●10月9日
一 四時(*午前10時頃)、
八(*午後2時頃)後から退出。
城山氏へ伺い、今夕、九時(*午前0時頃)
帰った。
――――――――――――――――

(文書)28・文久2年10月13日
藤井良節への書翰

(要点)
在京の藤井(*良節)に答書し、時局を観察し、
なお、朝廷および幕府の事情を問い合わせた
ものである。

(解説)
書中の「長土」は、長州藩主・毛利敬親と
土佐藩主・山内 豊範を云う。
両侯は、当時、京都にいて攘夷を主張し、朝廷の
ために斡旋するところがあったのである。
「上洛云々」は、将軍の上洛で、9月7日に
発令があり、縛fが朝命を遵守したるもので
あるをもって、利通は大いに、これを悦んだ
のである。
「関東も開鎖の論」云々は、当時、幕府に
おいては、開国論者と鎖港論者があり、
議が一致せず、一方、朝廷においては、
長州藩へ攘夷の勅を下させたことをもって利通は、
これらの実情を観察し、時局の紛紏をもって、
将軍の上洛を気遣いしたものである。
「今大路一条」は、不明。
「文吉」は、目明し文吉で、閏8月29日に浪士に
より殺される。

*目明し文吉
(捨札の文、於・三条河原)
右之者 先年より島田左近に致随従 種々
姦謀之致手傳 餘午年以来 姦悪之徒に心を合せ     
諸忠士之面々を為致苦痛非分之賞金を貧、
島田所持致候不正之金子を預り
過分之利足を漁り 近来に至り候而者 亦
様々奸計を相巧 時勢一新之妨に相成候に付属
如是加誅戮死骸引捨に致し候
同人 死後に至り右 金子借用之者は決而不及
返済候
且亦 此以後迚も文吉同様之所業相働者
尚 有之者 身分の高下に不拘 即時に可令
誅伐もの也

昭和14年頃の目明し文吉の住居跡。
写真そのものとしては、
旧状を留めておらず、余り意味をなさない。
(維新の史蹟・著作権満了のものより)
IMG_8846● (1280x960).jpg

「参観一条」云々は、(*薩摩)藩主・忠義公の
参観の期に達したが、出発の期が未だに
決定されないことを云う。
(*小松)帯刀は、(*薩摩藩)家老・小松 清廉で
あり、これより先、出府の命を受け上京した
ものである。
尚々書の「青蓮公」は、尊融法親王・後の
久邇宮 朝彦親王で、以前、久光公の建言により
還俗し、9月3日、政治参与を命じられている。

(本文・意訳)
なお、紙端の青蓮院公の御一条は、
運びましたので、わけても御安心下さい。
三条も、自(おの)ずから御運びになりました。
定式(ていしき・*一定の方式)で、
飛脚便から細い書翰の趣は、逐一、承り、よって、
ご覧に備え置き下さい。
そちら様も格別、相変わらずの向きでありますが、
長州、土佐(*藩)など、種々、周旋の模様で、
何とも結構な御事に存じ奉ります。
その後、どのような都合でありましょうか。
最近の幕勢は、案外の決断で、上洛も来たる2月に
仰せ付けられたとのこと。
これをもって無上の好都合で、恐れながら尊い事に
存じます。
(*その)ご安堵は、さぞ、さぞ、雀躍と存じ
奉ります。
ついては、言外の勢いもあるとの事なので、
容易には申し難いのではありますが、
時世に応じて大小の寛急(かんきゅう・*緩急)
の処置、千古不朽
(せんこふきゅう・*永久に朽ちずに 残ること)
の事態、きっと、そうなることは、如何に
あるべきでありましょうか。

近来、関東も開鎖の論は一定せず、
紛々、擾々の両立の勢い、相、成らない模様
とのこと。
既に長州へ攘夷の勅も下り、ついては、
その実(*情)が(*うまく)行かなくては、
相、済まないことであります。
もし、右辺り(*上述のようなこと)に混雑(*障害)
が生じるようなことがあっては、ご上洛のことも
眼前に大敵を養いながら、空虚になっては、
如何にあるべきでありましょうか。
(*これは)尊王の一大急務であると共に、傍ら、
遠察のみだけでは、愚眼に及び難義に存じます。
何卒、詳細の事情を漏洩下さりたく存じます。

一、 今大路の一条は、その他、お話し申し上げた
件々の詳細、お申し越しは、御安心となりました。
そのようにご納得下さい。

一、(*目明し)文吉の一条は、どのような始末で
ありましょうか。
あってはならぬ趣に見え、万一、事実であれば、
只々、相、済み兼ねない訳で、察し申し上げます。

一.(*忠義公の)参観の一条は、未だ、御日限が
究(きわ)まらず、実情は(*小松)帯刀から
ご承知の筈なので、申し省きます。

右(*上述)、概略、御用命を受け、早々、
このようであります。
なお、追々に御一方をお待ち奉ります。
         匁々、敬白
 10月13日     大久保 一蔵
   藤井 良節 様

――――――――――――――――

(文書)29・文久二年10月29日
小松帯刀への書翰

(要点)
朝廷から久光公へ召命のこと、斉彬公への御贈官
のこと、並びに藩地の近状などを在・江戸の家老・
小松 清廉に報じたものである。

(解説)
当時、朝廷においては、三条実美らが勢力を得て、
形勢が一変し、遂に攘夷の決行を幕府に促す。
そのために大原勅使の帰京と前後して、
(*三条)実美および姉小路 少将がさらに勅使と
なり、東下することになる。
よって、近衛関白[近衛 忠煕(このえ ただひろ)]
は、大いにこれを憂慮したが、会々(たまたま)、
久光公が召され宸翰を関白に賜い、もって関白は
藤井良節に宸翰を写させて帰藩させ、召命に
応じるべきことを促したのである。
小松(*帯刀)を江戸に使わせたのは、
忠義公参観の猶予と、江戸藩邸在住の姫君を
迎えるためである。
藤井良節は、元、井上 出雲と称し、
鹿児島城下諏訪神社の祠官で、嘉永3年、
高崎騒動(斉彬公継嗣問題)に関係したが、
筑前・黒田 斉溥(*長溥) に救われ、後、京都に出て、
近衛家に以前から公卿の間に知られる。
常平倉(じょうへいそう・公廨の稲の一部を
割いて別置して諸国に設けられた倉庫)は、
斉彬公の創設に関わる。
なお、次に掲げる別啓書翰[(文書)30)]中の
「伏見一条人数」云々は、本春、寺田屋事件で
罪を得た藩士は、利通らの尽力により、全て皆、
赦免され、かつ、諸役向も一同、復旧の恩典に浴し、
大いに喜んだのである。

(本文・意訳)
まだまだ、追々、厳寒に向かうと申す折、せっかく
尊体の御保護を専ら要(かなめ)と祈り上げ奉ります。
一筆、拝啓、奉ります。
追日(ついじつ*日一日)、寒気に向かうところ、
御当地においては恐れながら、御両殿様、
ますます御機嫌よろしく遊ばされ、恐悦、御同慶と
存じ奉ります。
その御地の御姫様方は揃って御機嫌よろしく
遊ばされ、大慶に存じ奉ります。
次に尊公様、御道中、つつがなく御安着、
ますます、御機嫌よろしく遊ばされ、御精務、
恐悦に奉り存じ上げます。
したがって私、無異連なり(*変わることなく)、
勤めておりますので、恐れながら、尊旨、易く、
思召されます。

一、 京都からの御手紙、ありがたく拝見しました。
彼の地(*江戸)の御都合も十分な御首尾で
御出立とのこと、
ことごとくお教え頂き私共に至り、わけても
ありがたく存じ奉ります。
この節は、行かれることに御難問は、これなく、
さて、御元(*そちら様)の御都合はいかがで
しょうか。
既に御姫様方は、芝の御邸宅へお移られ、
御日限のお決まりのことで、なお、もって
むつかしく、御参府(*江戸へ行くこと)の御猶予の
一件もなされ、次に御女性様の御事で諸事が
運び兼ねるのみで、併せて、どちらの方へも
御治定(じじょう・*決定すること)は成ると、
せっかく、御一報を待たれる時宜によっては、
早、御道中も計り難い状況(*ではないか)と
途中で振り向き(*考え直し)、この一書を呈し
奉ります。

一、藤井良節も早目に到着し、差し立たれました。
この件については、誠に叡慮の程、容易ならず、
三郎様(*久光公)、冥加(*みょうが・幸運)は、
もちろん、千載(*せんざい・*長い年月)の下、
御家の美目(みめ・*面目)は、前代未聞のことで
あります。
とかく、ここに至られては、かれこれ、相済まずに
存じ奉ります。
この節、上洛のところは、実にもって一大重事で、
治乱(ちらん・*世の中が治まることと乱れること)
は、隣り合わせで、場合によっては、
三郎様(*久光公)が御上洛され、
大尾(たいび・*最後)を成就され、
そのうえで、太守様(*島津 忠義公)が御出駕
なされば、万全の御策と、恐れながら存じ奉ります。
この節は、すぐさま、取る物も取り敢えず、
ご上洛なされ、御相当の御義に思召され、幸い、
一橋公も上洛され、わけても勅使に差し立たれる
につき、御延引(えんいん・*遅らせること)を
お言い付けになられ、まず、お急ぎもなされると
及び聞きます。
かつ、御国の義も、何もお手付きの半ばの事、
殊に太守様(*島津 忠義公)が、
御参府(*江戸に行く)をお言い付けになられば、
御両殿様(久光公と忠義公)とも、
御迦衆(おとぎしゅう・将軍や大名の 側近に
侍して相手をする職名)は、とても成されない
ので、藤井(*良節)をもって、御異議なく、
請けられるように、お言い付けになられ、
少々、緩急のところ、細大の御内情を
御認(したた)め、御直書をもって関白様へ
御陳述、御願いをお勧められますように
存じます。
ついては、いずれ、太守様(*島津 忠義公)
の御参府を御差し留め、別段の叡慮をもって、
三郎様(*久光公)の御上洛の勅命を下され、
大樹家(*征夷大将軍の唐名、すなわち、
徳川家)へ表向き、御手数を運び申さなくては、
御都合がよろしからず、その筋を藤井に相、含め、
早々、上京致しましたので、この義は、
迅速に運ぶものと存じます。
(*そして)一橋公の上洛の日限の一報を期して、
そちら様は、御駕を促される内決を願います。
とにかく正月には、御発駕の御都合に成るように
仰せ付けられ、その通りに3月に将軍が
上洛すると、お言い付けられることは、内分に
お願い致しますので、その通りに運ぶようにと、
御都合、この上なく、存じ上げ奉ります。
そのあたり、差し含め、諸事、御尽力の程、
伏してお願い奉ります。

一、 別けても、勅使は、いよいよ去る
(*10月)12日、御出立とのこと。
追々、ご下向が成ると申し、この一条は、
誠に難問で、とりわけ、長州・土佐の建白から
朝議のご決定がなるとのことで、(*その)勢いは
致し方なく、この上は、勅意を通さなくても
済むと存じますが、多分、一橋公が上洛され、
勅答を出されれば仕方なく、
いよいよもって、勅使は無用の者になると
存じます。
何分にも一報を承るたびの事でございます。

一、 恐れながら、順聖公(*島津斉彬公)の
御贈官の一条も、いよいよ、お言い付けられる段、
昨日、京都から飛脚が付き、殊に御書付の趣きは、
御在世中の御忠誠の御褒章で、御臨終に
実弟・三郎様(*久光公)へ遺託云々と、
これあり、実に拝見奉り、頭も上がるだけに
これなく落涙し、数行(*を読むと)感嘆交わり、
一言も無きに存じます。
ここに至り、先君(*島津斉彬公)の御威烈は、
赫々(かくかく・*光り輝くさま)となり、
三郎様(*久光公)の御功勲も明らかに現われ、
幾重にもありがたい次第であり、ついては、
偏(ひとえ)に御尽力をもって迅速に相、運び、
万々、厚謝、奉ります。
恐れながら、御両殿様(*久光公と忠義公)が
揃って拝覧されて、御満足(*であることは)申す
までも無く、尊敬顔に御涙を垂らせられ、
何とも申し上げようもなく、御遠察遊ばされます
よう存じます。
最早、その御地(*京都)へ達せられる筈に
存じます。

一、 御当地(*薩摩)の事も、海防の術、
水軍兵士、その他、両館の文武の磨励の道を
もって、士を究め、御救助の道、集成館、
琉球通室[田中 七右衛門の邸、ならびに全てを
御取入りがなり、せっかく御造立で、
大抵、相、運ぶと申すべきもの。]、
市中の諸色(しょしき・*物価)の一条
[米価が沸騰し、物価は、なおもって
常平倉(じょうへいそう・公廨の稲の一部を
割いて別置して諸国に設けられた倉庫)を
開かせ給い、下直(げじき・かちょく・
*値段が安いこと)に申し受け、お言い付けられ、
米価を下げられました。
追々、(*米価は)下直に向かい、人気は悦服
(えっぷく・心から喜んで服従すること)の
形状に存じます。]
銅山の取り起き(*保管の意、か)の一条
[国分、阿久根などの御手相について]
その他、段々、御手を召され、何分、御案内通り、
人(*人材)がなく、御趣意の十分の一も下方に
充実致さず、実に臣子の重罪で溜息、この上なく、
私共、第一、その責めを免れず、大変申し訳なく
ございます。
ならびに、愚にも一盃だけは、申すまでも無く、
相、尽くし、非常の大恩の万分の一を報じ奉り、
微志がありますだけに、(*これを)用いたく、
人(*人材)もありますので、緩急、その時を得ず、
却って、よろしくないこともあります。
とかく、当分の所は、摂老(*代行の老中)が
なくては済まないと存じます。
その他、細大の事件も申し上げたいのですが、
筆に尽くし難く、国事は内外、多事の次第は、
御遠察下さりたく存じます。

一、 日々の幕府の変革は、先月(*9月)15日の
返事を拝見、(*その)次第の決断、
殊に越前公(*松平 春嶽)の振舞いは、容易ならず、
誠に結構な次第であります。
尊公様の御拝謁は、如何な都合でありましょうか。
その後の形行を承知致したく奉ります、ここに至り。

 三郎様(*久光公)の御功勲がますます輝き、
ありがたい次第に存じます。

右(*以上)御機嫌を伺い、かつ、御一報、
申したく奉り、概略、このような次第で
あります。
恐惶、謹言。
   10月29日
           大久保 一蔵

小松 帯刀様
    御近習衆

小松 帯刀
(京都維新史蹟・著作権満了のものより)
IMG_9437● (960x1280).jpg

――――――――――――――――

(文書)30・文久2年10月29日
小松帯刀への書翰

(本文・意訳)
別啓
一、 伏見の一条は、人数も別段の思召しをもって
御赦免されるようお言い付けられた上、
勤方も元の通り、お構いなくとのお言い付けとの
ことで、一同、再びの活動の恩を蒙むり奉り、
私共に至り、ありがたく存じます。
まして当人共に至っては、感泣の他ないことに
存じます。

一、 岸良も御納戸見習いを仰せ付けられ、
ありがたい次第に存じます。
堀も良き方向に運んでいると申すべきで、
御内慮なされております。
右、御礼、申し奉ります。 謹言
    10月29日 一蔵
 帯刀様
    尊下


次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む28
大久保利通文書 巻2 に続きます。

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