歴史の流れ 防長回天史を読む35 第二編 嘉永安政萬延記 第九章 江戸湾防備の概要

歴史の流れ 防長回天史を読む35

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

防長回天史 第二編 嘉永安政萬延記
第九章 江戸湾防備の概要

白河閣老の計画
○文化年中の防備
○弘化年中の防備
○嘉永年間の防備
○毛利氏の相州警衛

毛利氏の相州警衛は、江戸湾防備の要部である。
始め、寛政中(*1789-1801)、
ロシア船が西海北峡に出没し、江戸湾のへの
来航の説が、ようやく伝わると、
閣老・松平越中守定信は、自ら武相沿海を巡視し、
さらに勘定奉行・久世但馬守 中川 勘三郎に
武、相、豆、駿、房、総、常の沿海を遍歴し、
防備を講じさせる。
文化5年(*1808年)、
幕府は、浦賀奉行・岩本 正倫(石見守)、
代官・大貫 次郎左衛門、砲術家・井上 左太夫に
伊豆・相模・房総の海岸を巡察させ、地勢を相し
(そうし・*物事の姿・ありさま などを見て、
そのよしあし・吉凶などを判断する。)
砲台を築かせる。
すなわち、伊豆の下田、相模の城ケ島、走水、
安房の州ノ崎、上総の百首(*後世、竹ヶ岡と呼ぶ)
の五ヶ所を選び、工事を起こす。
これは、実に江戸湾の防禦工事の第一着である。
次いで、会津候・松平 容衆(肥後守)は、
白河候・松平 定信に命じ、特に房総、相模の
警衛に当たらせる。
一つは、走水から城ケ島に至る海岸線を守り、
一つは、富津から州ノ崎に至る海岸線を守る。
会津候は、浦賀・走水・城ヶ島の三所に砲台を
修繕し、浦賀の平根山、走水の観音崎、
三崎の北条山に屯営を分置し、白河候は冨津、
竹ヶ丘、州ノ崎の三所に砲台を修繕し、
竹ヶ岡北条に屯営を分置し、時々、水陸の演習を
行う。
文政3年(*1820年)12月、
幕府は、会津候の守衛を解き、その平根山、観音崎
の二砲台を浦賀奉行・内藤 外記の所管に移し、
さらに、中川飛騨守・遠山 左衛門尉らを各々、
要害の地を守らせ、事あれば小田原、川越の二藩が
趣き、授けさせる。
(*そこに)居ること3年、幕府は白河候の封(*領土)
を桑名に転じるに及び、その総房の守衛を解き、
富津、竹ヶ丘、州ノ崎の三砲台を代官・森 覚蔵の所管
に移し、事あれば、佐倉、久留米の二藩が赴き、
授けさせる。
天保9年(*1838年)11月、
(*幕府は)鳥井 忠耀、江川 英龍に豆相房総の
沿海を巡視させ、試しに兵備を講じさせる。
二人は実測を終わり、復命(*報告)する。

*江戸湾は、意外ではあるが、近世(江戸後期)の
東京湾を示す明治以降の造語で、明治以前に
この名があったわけではない。

天保12年(*1841年)6月、
幕府は、新たに真田 幸貫を挙げて閣老とし、
もっぱら海防の事を管理させる。
次いで、勘定吟味役・川村 修就に近海を巡検させ、
遂に江戸防禦の第二線である羽田砲台を新設し、
羽田奉行を置く。

天保13年(*1842年)8月、
松平 斎典(川越)、松平 忠国(忍藩)に
相房辺海の守備を命じる。

弘化年間に及び、外警は、ますます(
*それに)至る。
その(*弘化)4年2月、
幕府は、初めて目付・松平 式部少輔(近照)に
近海を巡視させ、
遂に走水 観音崎を松平斎典(川越)に、
栗浜 野比松輪三崎を井伊 直亮(彦根)に、
大房 州ノ崎を松平忠国(忍候)に、
冨津 竹ヶ岡を松平 容敬(会津)に属し、
各々、その要害に備えさせる。

嘉永4年(*1851年)、
幕府は、川越侯に命じ、浦賀 観音崎の砲台を
鳶巣に移し、又、新たに鳥ヶ崎 亀甲崎の砲台を
を増築し、勘定組頭・竹内 清太郎らに命じて
工事を監督させた。

(*嘉永)5年(*1852年)、
大森に砲台を築き、さらに西浦賀 千代ヶ崎の
砲台を井伊氏の官下に移す。
当時、浦賀港の内外の砲台要地は、概ね、
奉行の所管に帰し、民政は、又、その支配する
所であった。
そして奉行らは、度々、海防を不備を鳴らして
止まず、ここにおいてか、幕府は港外の一切を
挙げて井伊氏の所管とし、文武の政一に
その行う所に任じ、港内の地を奉行の管下とする。
(*嘉永5年)6月、
アメリカ艦が浦賀に入ると、守衛の四藩の与力、
同心らは、四面蟻集、近境の諸候は、各々、
兵を派して応援し、国王、諸侯は、又、急使を
江戸に行かせて、その状(*状況)を偵察する。
故に、海上、陸地の人馬来往を知るようになる。
その(*嘉永5年6月)9日、
林 大学頭らは、アメリカ人を久里浜に引見する。
当時、我が陸上に備えるものは、彦根・川越の
守衛、浦賀の与力、同心の下、曽根の銃隊で、
海上を守るものは、会津・忍の二藩の雄送船で
ある。
(*アメリカと幕府の)会見は、既に終わり、
アメリカ艦が去るに及んで、平穏はようやく、
旧(*以前)のようであった。
しかしながら、なお再来の(*憂)慮があり、
幕府は、すなわち、新たに明神崎、魚見崎の砲台
を築き、又、亀甲の砲台を増修する。
(*そして)品川砲台の新設の議が又、起こり、
この年(*嘉永5年)8月、
幕府は、松平 河内守、川路 聖謨、堀 利熙、
竹内 清太郎、江川 英龍を砲台建築薫督とし、
特に高島 秋帆の罪を免じ、江川(*英龍)に
属して、共に築砦(ちくさい)の経始(けいし・
*工事などを始めること)を試みる。
一・二・三砲台が工事を起こすと、江戸湾付近の
守備の諸侯を定め、
その(*嘉永5年)11月14日、
警衛部暑を公(おおやけ)にする。
すなわち、彦根藩の相州警衛を解いて、羽田大森に
転守させて会津藩の房総の警衛を免じ、
品川第二砲台を守らせ、忍藩の房州の守衛を解き、
第一砲台に備えさせ、岡山藩、柳川藩を房総警衛に
任じさせ、因州に武州本牧の警衛に当たらせて、
そして、我が長州藩と肥後・細川氏とに委ねるのを
相模警衛をもってする。
顧みるに、幕府が房相の第一線の警衛を外様の
大諸侯・毛利・細川・岡山などに命じたのは
ますます警衛の任務を重んじ、かつ、これらの
数諸侯の兵を依頼するに足ることを察知させるが
ためである。

安政元年(*1854年)1月14日、
アメリカ艦が、又、来る
幕府は、すなわち、在府の諸侯に命じ、急いで出て
江戸付近の要地を分衛させる。
因州の本牧における、明石の生麦における、
阿波の羽田における、宇和島の大森における、
越前の御殿山における、津山の高輪における、
加賀の増上寺における、姫路の佃島における、
桑名の州崎における、高松の濱御殿における
ようなものが、これである。
時に、品川砲台の工事は未だその半分を竣工せず、
彦根・会津・川越・忍の兵は、すなわち房相の
諸砦を守る。
我が長州藩および肥後、備前、柳川は空しく
授受を待って士卒を藩邸に留める。

(*安政元年[1854年])2月13日、
幕府は、内命を我が長州藩および肥後に伝え、
船軍を品川の海上を警衛させようとする。
二藩は、その益なきを悟り、船隻の備えがない
ことをもって、これを謝する。
(*そして日米間は)既にして、和親の約が成り、
アメリカ艦は去る。
たまたま、品川砲台の工事はその大半を竣工し、
備砲は又、次いで到る。

(*安政元年[1854年])3月15日、
幕府は、我が藩および肥後・備前・柳川を以前に
定める所の部署に従い、新陳交代させて、次いで
新たに川越を第一砲台、会津を第二砲台、
忍を第三砲台の守備に任じる。
ただ彦根は、京畿の警衛兼ねるので、力をその地に
もっぱらにさせるため、阿波を彦根に代え、
羽田大森の守備に任じさせ、彦根の江戸近海守衛を
免除する。

その(*3月)16日、
幕府は、因州の武州本牧の警衛を解き、御殿山下
海岸砲台に転守させ、松江に、その後を踏襲させて
庄内に第五砲台を守らせ、松代に同第六台砲台を
備えさせる。
後年、兵庫開港の要求が起こり、大阪湾の守備が
急を告げる時に及び、松江藩の本牧守衛を免じて、
大阪方面に転じ、松山藩にこれを代わらせる。

(*安政)5年6月、
兵庫開港仮条約の締結があり、そのために
大坂湾および京都の警衛の増加が(*大)要で
あるに及び、因州の御殿山下、備前の房総海岸、
柳川の富津警衛を解き、共に大坂方面に転じ、
そして、我が長州藩の相州警衛を解き、
兵庫警衛を命じる。
又、越前に神奈川、横浜の警衛を命じ、
二本松を柳川に代え富津を守り、肥後および
浦賀奉行と相、謀って殊に従わせる。
但し、肥後、二本松の観音崎・富津の出守は、
敵艦の遮欄(しゃらん・*さえぎる)の実力を
有する事ではない。
これに加えるに、浦賀海関(かいかん・*関税機関)
の関鍵(かんけん・*かぎ)は、又、横浜に移り、
越前の武州警衛は、殆ど海関警衛に過ぎないものに
なった。


*次回からは、第十章 相州警衛1 です。

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