歴史の流れ 防長回天史を読む37 第二編 嘉永安政萬延記 第十章 相州警衛(その1)- 2

歴史の流れ 防長回天史を読む37

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

防長回天史 第二編 嘉永安政萬延記
第十章 相州警衛(その1)- 2

続き

当時、守衛の派遣の戦死は、約900人と称する。
(後、安政年[]1855年] 4月、幕府に報告する所の
員数によれば、804人である。
これは惣奉行の手兵を控除したもので、もし、
これを合算すれば、その当初の数と殆ど大差は
ないのである。
後、歳月が経つに従い、ややその数を減じる、
と云う。)

三浦・鎌倉の地域である西浦賀から腰越村に至る延長
10余里、その間に砲台6(千代崎、千駄崎、安房崎、
荒崎、剣崎、大浦山の6所で、箒山、鶴崎、平根山は
この時、すでに廃止の運命に陥り、稲村﨑は数年後の
築造に関わる。)望台、2(安房崎、八王子山)、
これが守衛戦線の要地たるものである。
故に、この監守の兵員は、各所の陣地に分営する。
まず、本営を上宮田に置き、総奉行、預地奉行、
守兵主部、先鋒隊は、全部皆、ここにあり、
千代崎・千駄崎の砲台を監守する。

三浦半島・概略図
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さらに、分遣の陣営を原・三崎に置き、
大浦山、八王子山の守兵は、原に駐屯する。
後、守衛を支藩に分割するに当たり、
原を三支藩に属し、荒崎を吉川家に属する。
(後、長井村を良久保に吉川家陣営を築く。)

陣営の位置は、概(おおむ)ね井伊氏の旧による。
押さえも上宮田の地形である浦賀三崎の中央に
位置し、海陸交通の便があり、下浦の良港を備える
本営を置く。
元よりここに適している原・三崎の如きも又、
陣営を置くのに適している。
ただ、在来の砲台に至っては、遠くは海中の敵艦
を撃破することは出来ず、近くは、上陸地付近を
掃射することが出来なかった。
その砲台地の如きは、浦賀湾港を除く外側の
防衛を覆い護ることさえ、なおかつ、
必要とせず
(側防の必要は元亀・天正時代から兵学者が
認めており、よって聚要とする所で、諸侯の城砦は、
皆、側防の覆い護りを設けることはなかった。
しかも砲台にこの用意がないのは怪しむべきこと
である。)
常に岬の角の高所に孤立していたので、
これを砲台と云うよりは、むしろ望台と称するに
当たると覚える。
毛利氏は、以前からこのように見ており、改築を
企てると云えども、その事実は、未だ果たさず、
止めている。

要するに、砲台築造法の不完全であることは、
毛利氏が以前から看破している所であるが如し
である。
安政元年(*1854年)3月4日、
行相府で警衛地の砲台装置・砲数を立案して、
(*忠正)公 の裁可を請い、
同時に左(*以下)の書面を提出した。
当時にあっては、卓見と云うべきである。
その書に云うに、

【*以下、原文意訳】
別紙、相州の御備場所に当たり、
大小砲を取り合わせて配付したけれども、
右の台場については、山の出鼻で岩石が多く、
高い所にあり、その方向は、傍ら、洋中の通行
の賊船へ打懸けるつもりで、築かれたと
思われます。
台場の主意ならびに利害得失は、追年、開け、
砲家の論は、もっとも適格で、全く、右の様な
場所を築き、必定、打ち払う訳でもなく、
公儀が築立し、なお川越・彦根の御両家が、
受け続けられ、守られたことについては勿論、
一定の高見(*優れた意見。)もあるけれども、
つまり、要害(ようがい・*地形がけわしく守りに
有利なこと)を奪われないことを申すことを
肝要と致すべきであります。

洋中通行の賊船を打ち払うことは、
台場に関わることであります。
砲力の及ぶ所では、これは無く、
殊に高所に築けば、もっとも不覚で、
近年、イギリス人がトルコの台場が高いことを
熟視し、その海岸の近々を乗り廻した事も
翻訳書に見る事が出来て、これまでの在り様の
台場の実用は無い事になり、徒に虚飾となる
だけで、もし、賊から遠眼鏡で明細に窺われれば、
虚飾だけでなく、悔やみを招くことにもなると
存じます。
西浦賀、鳥帽子山のことは、
大砲家の申し出がある通り、浦賀へ打ち入る賊船
を留めるのは、肝要な砲台の場所であるので、
ここへ新規に砲台を築立を仰せ付けられると、
西洋流の大砲の助救の手続きの都合で、
大小、取り合わせの数門を備え置けば、
砲台の現在の効果は、どちらの道でも、
これまでの台場では、例え、どのような大砲を
備えたとしても、決して、効用のある場所では
ないと存じます。
これに加えて、却って賊の悔いる心を開き、
トルコの覆轍(ふくてつ・*失敗の前例。)を
踏むことになると申すべきで、計り難いことに
存じます。
かつ、又、前述の通り、実に無用の所と
存じながら、旧弊を因襲して、
(*古い習慣・制度などの弊害に従い)
虚飾を張れば、武道の本意にも背き、又、
世上の批判にも楯になり難く、
恐れながら、追々、ありがたい文武の
興隆を仰せ付けられる御主意の筋にも叶わぬ
ようになっては、相、済みませんので、
前述の通り、旧築の砲台を廃して、
鳥帽子山へ新規に築立を仰せ付けられ、
堅固に備えたく、そうすれば、却って、
公儀の思召しの筋にも叶い、傍々、
そうであるべきと考えられ、よって、
前文の通り、仰せ付けられるべきであります。
【*原文意訳・以上】

当時の毛利氏の人員配当の諸勤務規定を
要約すると、云うには、

【*以下、原文意訳】
○上宮田陣屋詰    先鋒隊4隊120人
この地の平日の勤務は、千代崎・千駄崎の
両砲台の監守および上宮田陣営の巡避火薬庫、
火消版を任務とし、
各、一伍まで1ヶ月毎に順次に交代して、
これを服する。

○原陣屋詰      遠近附6伍30人
この陣屋詰の者は、鶴崎・大浦山・剣崎・
八王子山、3砲台一遠見番所の監守および
千駄崎の乗止役・原陣営巡避を掌握し、
一伍まで1ヶ月毎に交代し、各勤務に復する。

○三崎陣屋詰
この詰院は、荒崎・安房崎の2砲台の監守および
三崎陣営巡避を受持ち、順次に1組まで交代
する事は、宮田・原仁衛と異ならない。

この他、海上の斥候の特別の勤務があり、
異船来航の警衛の準備に供する。
又、各村に配当した役夫の規定があり、
共に用意周到して実用に適するのを見る。
すなわち、左(*以下)の如し、

海上斥候は、常に岬にあり、軽船1隻ごとに
士分1人を乗せ、屈強な水夫をこれに乗り組み
させた3隻で編成し、常に三崎にあって
異船来航の風説を耳にし、その帆影を認めれば、
3隻中の1隻が馳せて、三崎詰見付および使役に
報告し、再び偵察に行き、残余の2隻は、
なお止まり動静を窺い、情報を探り得れば、
直ちに三崎に報じて前のようにする。
三崎詰見付役がその報を得れば、
又、これを三崎陣営に報じ、下横目が原詰物頭に
伝えさせる。
三崎詰使役がこの報告に接すれば、急いで馳せて
宮田本営に急報し、上宮田は乗馬使役に、
この事を江戸邸に報じ、別に又、御共徒士が
船路で江戸に通報させる。
海上斥候の他、千駄崎・乗留役があり、
遠近附10人
[初め、1伍5人で充当し、安政元年4月に
10人に増加し、物頭1名を付した。]
で編成し、交互に千駄崎に出張し、異船が内海に
入ろうとすれば、すなわち、命令書を示して
停船させて、船が碇泊すれば付近にいて、これを
監視し浦賀奉行が出て来るのに会えば、交代して
帰営する。

各村役夫の配当
異船の来航を知る時は、
○第一の合図を待たずに直ちに集合すべきもの。
八王子山5人(川名村2人、手広村2人、津村1人)
大浦山5人(谷合4ヶ村で1人、小塚村2日、
弥勒村1人)
○第一の合図で集合すべきもの。
(片瀬村 渡海船1、水主6人、
腰越村郷夫15人、押送船1、水主27人、
松輪村焚出夫5人、押送船1、水主27人)

○第二の合図で集合すべきもの。
(松輪村送船1、水主6人、
腰越村 押送船3、水主36人,
中瀬村 郷夫22人)

○第三の合図で集合すべきもの。
(松輪村送船2、水主8人、
腰越村 小押送船8、伝当船2、水主20人,
郷夫15人、
片瀬村20人
 但し、第一、第二、第三の合図で集合する
ものは、皆、本営にあつまるものである。
[井伊氏の時にあっては、各村人民15才以上、
60才以下は、挙げて出役させるため、
異船渡来の日に際し、警報を聞いて集合する
船舶の人員は、一時に上宮田海浜下浦に蟻集し、
混雑名状するために、大いに人民の怨声を聞くに
至った、と云う。]
【*以下、原文意訳】

相州警衛は、三支藩・吉川氏が、又、これを
分担した。
初め警衛の任を蒙る時に当たり、藩庁は、出兵
のことを議論すると、吉川氏の他、支藩の力に
頼らない説を取ったが、後、一変して、
共に分割の警衛の議を定め、
[支藩にあっては、却って分担を希望した。
これは本藩の諸衛地を分担すれば、却って、
幕府の課役を免じられるなどの利益があった
ためである。]

まず、衛地の授受を終わり、地形を検分し、
後、これの配当区域を定めることを希望し、
総奉行に地理を検案させて、
安政元年(1854年)4月、全く、その調査を
終わり、(*4月)19日、分割を定め、
八王子山は長府侯、稲村ヶ崎は清末侯、
大浦山は徳山侯、荒川は吉川氏をこれに
当たらせる。

(*安政)2年3月13日、
備場目付役・三浦 輿右衛門、
長府邸留守居役・村野 勝右衛門などが行って
八王子山の授受を終わり、
(*安政2年3月)13日、
三浦輿右衛門、徳山邸留守居役・松野 幹右衛門
が行って大浦山の授受を終える。

荒崎は、長井村 以良久保に陣営を増設し、
後、安政4年(1857年)2月に至り、
白井 小平太、目賀田 喜助が行ってその授受を
終わり、
[陣営は吉川氏において工事を起こし、
敷地は本藩からこれを渡した。]

稲村ヶ崎は、(*安政)元年9月に砲台築造の
許可を幕府に求め、
(*安政)2年(*1855年) 6月に許可を得たが、
土地紅梅、築造工事などのため歳月を費やし、
後、(*安政)4年(*1857年) 12月に至り、
栗谷 刑馬を遣り、長府藩主、両家の家臣と
共に行って、その授受を終わった。
[領地奉行・天野 九郎右衛門は、
安政3年(*1856年)正月中、
警衛地の準備諸器具に比べ人員が不足で
あることを説き、農兵・約200名を組織して、
その欠を補おうと欲し、これを藩邸に建議し、
藩邸も又、これを是認したけれども、
遂に決行に至らず、地方人民の言によれば、
農兵組織の事は、後、堀田侯がこの地を警衛
した時に至り、これを実行したと云う。
天野の警衛地では、常に農民に剣法奨励して
止まず、三浦地方には、今、なおその余風が
あり、民間憲法を弄するものが多い。]

相州警衛に関し最も困難を感じたのは、
軍需品の輸送の方法にあるようで、
当時、幕府の制陸には今切の関所があり、
海に浦賀の番所があり、交通を押さえて
査竅(さきょう・*細かく検査)する。
苟(いやしく)も量目数の送り状に照らして
差異あるものは通貨を許さず、故に期日を
約(*束)して輸送をする者は、予め、
この煩(わずら)いの途を講じる
(*実行に移す)しかなかった。
[嘉永6年(*1853年)10月、
三田尻から送付した小銃・弾薬などに、
差札の証文面と少差の違いがあったため、
浦賀海関において通過を許さず、わずかに
江戸公儀人の弁解を費やしたことにより、
無事である事を得たけれども、このため
数10日を空費したことがあった。]

すなわち、度々、幕府に請い、
相模の警衛中は、在府・重臣の証明書を
関所に申し出し、現物の通過の日、
その目録に対して過不及なければ、強いて
現物の査閲を行わない特許を得たのであった。
[幕府は当時、その指令中に、なお時として、
差し添え人の中で、重きなるものの証書を
出させることもある、と付記されている。]

陸上にあっては、当時、
東海道の各駅の人馬は、自ら使用の制限があり、
もし、多額の輸送をしようとすれば、勢い、
この制限を緩やかにしなければならない。
故に又、幕府に請い、継人足・50人、
馬疋・50頭を使役する許可を得た。
[初め、継人足・200人、馬疋・100頭を請求
したが、幕府は上文のように節減した。]

ここにおいてか、海陸運輸のその便利を増し、
兵器・糧食の供給多く、期を誤ることになった。
安政元年(*1860年)3月以降は、
海上の運輸は、さらに簡便を加え、毛利氏の
旗幟がある船舶は、査察を経ずに通過する自由
を得たのであった。
まさしく他藩の類例のない所である。
[周布(*政之助)の帰藩により大体の輸送計画
を立てたのは、安政元年(*1860年)1月上旬
で、第一着の運送船が浦賀に到着したのは、
3月下旬である。
これは、当時、交通の不便な世にあっては、
もっとも迅速な処置であると云うべきもの
である。]

その発送の方法の様子は、
糧食・大砲の重量の物件は、海路により、
小銃・弾丸軽量の具は、陸路によった。
守衛地・諸砲台の砲類装置に関しては、
(*安政)元年(*1860年)3月初旬、
藩邸において議定し、かつ、幕府に清国した
ものは、左(*以下)のようである。

〇千代ヶ崎
12貫目白砲・2   6貫目忽砲・6 
3貫目忽砲・1
1貫300目筒・1  1貫200目筒・1
1貫目筒・4

〇鶴崎
12貫目筒・1

〇千駄崎
12貫目白砲・2   6貫目忽砲・4 
1貫100匁筒・1   1貫目筒・3

〇箒山
1貫目筒・3

〇安房岬
12貫目忽砲・1   6貫目忽砲・6 
1貫目筒・1

〇剣崎
6貫目忽砲・2
1貫目筒・3

〇荒崎
6貫目忽砲・1   3貫目忽砲・1
1貫目筒・1

〇八王子山
6貫目忽砲・1   3貫目忽砲・1
1貫目筒・1

合計
12貫目砲・3   6貫目砲・9
12貫目砲・2
1貫目(1貫100目と1貫200目を合算)砲・
12

この内、千代ヶ崎・鶴崎の二砲台は、
初め、浦賀奉行の官吏に属し、
嘉永5年(*1852年)5月、井伊氏に属し、
その備砲は、井伊氏が幕府の備砲を借り、
鶴崎は、その後、幕吏の意見により、これを
廃棄したので毛利氏の官吏に移る際に
至っては、その実、既にその物がなかった。
そして千代ヶ崎の備砲は、毛利氏は又、
守衛の初めには、依然、幕府の備砲を借用した。
その他、備砲の数は、あるいは多少の変更が
あったか否かは、未だ知ることは出来ないが、
当時、毛利氏が既に幾多の砲類を有し、なお
盛んに鋳造して止まない形跡に徴すれば、
増えても減ることはなかったことを知るべき
である。
(*安政)元年3月13日の毛利家記録に
云うには、

【*以下、原文意訳】
新らしく鋳造を命じる砲は、
左(*以下)の如し
得帽子山砲台に備える
180斤加修砲
内二門、急に鋳造させる
120斤加修砲
内六門、急に鋳造させる
118斤加修砲
右 新築砲台に備える
115斤加修砲
112斤加修砲
162斤加修砲
右 陸戦の用に充てる
【*原文意訳・以上】

毛利氏も又、警衛の初めにあっては、
独り千代ヶ崎備付砲を借用するのみならず、
その他なお6貫目以上の砲、30門を
借り入れることを幕府に申請したが、
その後、自ら鋳造する所の砲が次第に
竣工したので、
安政2年(*1855年)4月5日になって、
6貫目以上の砲は、すでにこれの借り入れを
謝絶し、
その(*安政2年)の12月3日になり、
千代ヶ崎台場には、自ら新鋳する所の
24ポンド砲・5門、18ポンド砲・2門を
装置したため、先に借り入れの砲は不用に
属する意を幕府に報じ、幕命によって、
これを浦賀奉行に引き渡すことになった。
砲類の装置は、井伊氏の時と云えども、
時勢に比して非常に用意が至っているのを見た。
何となれば、千代崎・鶴崎を除き、
その他について毛利氏と井伊氏との諸砲を
比較すると
[井伊氏の砲数・砲種は勝伯(*勝 海舟)の
陸軍史による。]
門数においては、両家、伯仲の間にあるが、
ただ、毛利氏にあっては、大口径のものは、
その数が井伊氏の上にあり、
試みに貫目以上、ならびに5貫目以上の砲数
を挙げ、その優劣を考えると、
貫目以上は、毛利氏26門、井伊氏21門で、
わずかに5門の差がある。
5貫目以上に至っては、
毛利氏12門、井伊氏5門に過ぎず、かつ、
井伊氏の砲は、かねがね古風な和流封であり
毛利氏の砲は、洋式火砲である。
それ以後、千代崎に24ポンド以下の新式砲、
荒崎に22貫目の大口経砲を装置するに至り、
毛利氏の大口経砲の数はさらに加わる。

後、安政4年(*1857年)9月、
幕府が江戸湾口の諸砲台の備府を洋式砲に
交換するに際し、
独り毛利氏は、狠烟筒の他、一切幕府の砲を
借り入れせず、かつ既に洋式砲を装置していた
ことにより少しも大砲を移動することを
必要としなかった。
まさしく毛利氏の意を銃砲の注ぐことは、
日、既に久しく悟るところは小さくなかった。
徒に小口の経口の多さを求めず、かえって
少数の大口の経口に頼る利を知得したようで
あるのは、この事である。
千代ヶ崎砲台の備砲の沿革をみれば、
ますます明らかである。
千代ヶ崎の砲台は、井伊氏の時より大砲15門
を装置したが、地が狭く隣砲に密接し、
射界がなく、斜めの射が便利でなく、
照準発射の動作も又、非常に困難であったので、
毛利氏(*の時代)になり、
安政元年(*1854年)5月、幕府に申請し、
その5門を返還して10門とし、さらに、
安政2年(*1855年)5月になり、
自ら鋳造する所の新式巨砲7門
[24封土砲5門、24封土砲2門]をもって
これに換えることを幕府に請い、
その(*安政2年)12月に及び初めて認可を
得て、これに変換したのであった。
当時、幕吏と云えども、もとから巨砲の利を
知らない理屈ではない。
そして毛利氏の申請に対し、半年の光陰を
費やし、わずかにこれを允許するものの
やや怪しむも、まさに当時の人情で、
当初の15門を漸次に減じて、わずかに、
その半分に足らない数になると、すなわち、
遂にこれを決裁せざるを得ないようで
但し、毛利氏がこの変換を成したのは、
独り口径の大きいことを欲するのみならず、
旧砲は、既に老朽し、用を為すのに耐えざる
ものがあったためである。

思うに、安政2年(*1855年)5月12日、
相府政吏・楢崎 弥次兵衛から木原 源右衛門
に与えた千代ヶ崎の台場備付砲に関する
幕府の意向を漏らした書中の一節に云うに、
【*以下、原文意訳】
早速、三井 善右衛門の御内用先に
罷り越し入り内見すると、格別の気付の筋が
ないので、表方御書面を差し出された。
もっとも差し出され、とても急速に
お伺い済みに成るようにも見え申さず、
右は(*以下は)これまで10挺を据え付けた。
その場所へ7挺で済んだことについては、
公儀においても右(*上の)趣を得ると
御詮議の上ならでは、御伺い済みになると
申す事の由と存じる云々、
       【*原文意訳・以上】

又、思うに、同年(*安政2年)6月7日、
木原 源右衛門などから、さらに藩邸に回答した
書中に云うに
【*以下、原文意訳】
かつ又、三郎右衛門様 [中山 三郎右衛門 ]
から玉木氏 [玉木 文之進] への御伝言には
前断、御台場下地拝借の分、
10挺の所、7挺に減少の詮議の筋が申し出た
ようにとの御事の由、右(*上)の段は、
この御書面には見えず、この段、追って別段に
仰せ出たる儀は、共にあるであろうか。
ともかくも、右(*上)の減少の詮議の筋と
申すのは、これまでの御筒は、
1貫目玉筒6挺、5貫目玉1挺、2貫目玉筒1挺、
800匁玉筒、500匁玉筒のいずれも1挺、
都合10挺の辻であります。
右(*上)の御筒は、いずれも余程、古いもので、
発砲の節、非常に心なく、元中には銃の耳の
辺りから煙を吹き出し、あるいは、火門から
火気を漏らし、先だって致した火を通した節、
少々手を焼いた部分もあり、傍ら、難渋の次第に
付き、この御方、御新造の巨大の大砲と据え替え
が然るべきとの詮議で、
素の小の分、10挺よりも、大の分、7,8挺の効能
が各々、既に増やす儀につき、減少致す訳で
あります。
     【*原文意訳・以上】

安政元年(*1854年)正月、
三田尻から海路、浦賀に廻送する弾薬・弾丸・
銃砲の数を挙げれば左(*下)のようである。

12貫目白砲   5挺  弾丸750
6貫目白砲    7挺  弾丸1,050
300目砲    10挺   弾丸1,500
200目砲    10挺   弾丸1,500
100目砲    20挺   弾丸3,000
1貫100目砲   1 挺  弾丸150
1貫300目砲   1 挺  弾丸150
1貫目砲    18 挺  弾丸1,700
10匁筒     50挺   弾丸 15,000
6匁筒      50挺   弾丸 15,000
3匁筒     350挺   弾丸100,000

すなわち、
1貫目以上、1 挺毎に150発、
1貫目筒、1 挺毎に150発弱、
10匁6匁両者、各、150発、
3匁285発に当たった。
当時にあっては準備は、非常に至っていたと
云うべきである。

これより先、幕府が千代ヶ崎砲台に貯蔵する
弾丸の数は、
○5貫目砲、1 挺に対して鉄空丸9、
○2貫目砲、1 挺に鉛玉28、唐玉2鉄、
2貫目玉12、
○1貫目砲、6 挺に鉛1貫目玉80鉄、
1貫目玉225、
○800目砲、1 挺に鉄玉12 であった。
そして、これをも毛利氏の弾丸貯蔵の数に
比較すると、幕府は、なお遜色を歪めないもの
であった。

相州警衛は、その実用を試みるに至らなかった
が、防長のなお武の気象は、自らその錬磨、
演習の間に現われる。
当時、最もその隆盛を極めるものは、剣槍で
水練射撃、これに次ぎ乗馬演習が又、これに
次ぐ。
顧みるに剣槍は、防長の人が久しく錬磨して
怠らない所、殊に先鋒隊に至っては、
その粋を抜くものである。
これに加えるに警衛の初めから常に剣槍は、
師範家の若干を陣中に派遣せて訓練に
勉めさせる。
故に、警衛地の練習は、時に藩地に優れるもの
があった。
これをもって、諸国歴遊の剣客は、たまたま
浦賀に来る者が多く、その技を比較して去る。
その練習の法に至っては、毎、ただし、朝、
剣槍の両技を試みる時に、又、一時二分の練習
を行い、脚力を養う。
[一時二分の練習とは、上宮田陣営を発し、
急行、三崎陣営に到り、直ちに試合を行い、
再び、宮田に帰る。
この一里を往復するのに一時二分、
殆ど当たるのは、今の二時間半に限ることを
云う。]

水練は、すなわち城ヶ島・下浦・水瀬に高台を
築き、海中に投下してこれを演じる。
その壮は、今なお地方古老の鑑賞する所である。
銃陣演習は、その方法、回数など詳細を知ること
は出来ないが、又、時あって、施工されるものの
ようである。
大小砲の実弾射撃は、度数が非常に少なく、
大砲にあっては、1ヶ年、両3回、
小銃にあっては、1ヶ月、1回の規定である。

安政元年(*1854年)4月、
木原 源右衛門、山田 宇右衛門などが藩邸に
寄せた書中の一節に云うに、

【*以下、原文意訳】
御備場詰居の面々、砲術稽古方の儀
小砲玉打備打 1ヶ月、1度 まで、
大砲、1挺につき1ヶ年、1,2発まで請い、
払い稽古打、傍らとして干時において
詮議を致し遂げての その沙汰である。
但し、足軽中の儀は、小銃稽古につき、
玉薬を立て下されるが、近来、御国において、
大砲の稽古を仰せ付けられ、
玉薬を立て下されること故、前文の
大砲、1挺につき1ヶ年、1,2発まで
打ち捨ての内をもって、干時において
立て下し、大小銃へ配合し、
打方の警護の儀は、物頭約に任せるように
仰せ付けられるように致すべく、
その沙汰の通りである。
この段、御意を得られ置くように弾正殿
(*弾正台の役人の総称。)が申し付けられ、
この如くであります。
御陣屋内外の稽古打ちの儀は、
公辺りの御用隅の上ならでは、本文の稽古も
調わないので、この段、早々に運ぶようにと
仰され、御沙汰が下された。
【*原文意訳・以上】

これ(*上述のように)その大要を知るべきで
ある。

乗馬に至っては、上宮田から江戸に急報する
使役の主として試みたところのものである。
安政4年(*1858年)、
遠乗りの一表で、云うには、

【*以下、原文意訳】
安政4年(*1858年)3月24日
騎手   厚母 源四郎
乗馬   鹿毛7歳 丈4尺6寸3分
3月24日寅上刻(*午前3時頃)宮田陣営発
同月同日 午上刻(*午前5時頃)江戸藩邸着
同月同日 申上刻(*午後3時頃)江戸藩邸発
上宮田帰着 時刻不明
【*原文意訳・以上】

これは、上宮田から江戸邸に到る17里の行程
は方今(ほうこん・*まさに今)、8時間で
到達し、さらに出発して帰路に向かうもの
である。
当時、別に武技演習の一つの法として行われた
ものは、大番士の交代、これである。
時、あたかも非常の節約の際にあり、故に
相州の出衛の先鋒隊中、武技に抜群の士を
選抜して、5人交代で、江戸邸に帰らせる。
これの一つは、武技を奨励し、一つは藩邸の
人員の減少を補う一挙両得の便法なのである。

安政5年(*1858年)2月、
警衛地奉行・井上 与四郎は、藩邸に建議し、
異船の襲来に模して時々、実地演習を試みよう
としたが、藩邸は、その事が少しずつ、
上下の耳目を驚かすことを恐れてこれを
許さなかった。

なお、武の練習の法は、大体、このようである。
これを要するに長州藩は、当時、防備の具として
巨砲の利を重んじたが、その守兵の各個の練習
に至っては、むしろ、短兵を先にして、
遠戦を後にして、もっぱら士気の振興に務めた
もののようである。

衛生設備に関しては、警衛の受命の初めに当たり、
田原 玄周、永田 意三、重美 宗庵、東条 英庵が
書を藩邸に上り、洋風に倣い、軍事病院を警衛地に
設置することを請う。
それ以後、衛生の事略は、田原などの意見に
依準してこれを施行した。
[(*田原)玄周など、
嘉永6年(*1853年)12月20日上書の
要所、要所で陣中に疾疫(しつえき・*疫病)が
流行するのは、和漢・西洋ともに論じる所で、
これを軍病と称する。
軍中、衆人が雑居するときは、この症状は、
必ず発し、遂に衆人に感染して一人も逃れる者
がないようになる。
ただし、その症状は、極めて猛烈にして多く
生命を損害する。
故に西洋諸国にあっては、別に関大の病院を
設けて、医をいさせて、その治療を施し、
我が陣中は、又、請う病院を建設させる
のである。]


次回からは、第十一章 相州警衛 2 です。

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