歴史の流れ 防長回天史を読む39 第二編 嘉永安政萬延記 第十一章 相州警衛(その2)- 2

歴史の流れ 防長回天史を読む39

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

防長回天史 第二編 嘉永安政萬延記
第十一章 相州警衛(その2)- 2

(続き)

(預地奉行役・井上 与四郎が民情の真偽を探り、
江戸に報じ書中の一節)

【*以下、原文意訳】
下方の心底の真偽などを聞き繕うことを申すに
おいて、付属の者に聞くだけでは信用も薄い故、
かれこれと及び詮議して聞き繕う書に見られる
ように、目前、幸せで、小型の諸事も厳重と
悦び申し上げる。
委細を申せば、役人の出張などにつけ、
検見事など、なおさら料理屋が引き受けたものは、
一汁一茶、200文、昼飯に漬物ぐらいで64文、
直に払い方・手子中に至るまで、地下から私への
引受物は、露、一厘もこれなく、
第一、 手子に至るまで請料と申しても、
役所で御用を申し聞き、村々へ出る事は、
竈(かまど)事共から外へは無く、かたわら、
厄害は、少し遠村から願い事に出て定宿に
控えさせて数日、滞在させてことも前々には
多きことでありましたが、その日に聞き住んで、
名主の役座も出る用が少なく、右(*上述)などの事を
記して、浦賀においては、もっぱら某(それがし)
は、これは善政であり、風評、滞ることは無しと
存じます、云々。
     【*原文意訳・以上】

これより先2年、
(*忠正)公が、まさに東勤の途に上ろうとすると、
かねて警衛地の巡視の計画があったが、
病があることの故で、上途、その期に遅れること
数か月、10月に直行、江戸に入る。
あたかも、農事に瀕する。
(*忠正)公は、その疾苦を思い、遂に巡視のこと
を止める。
この年、又、安政の大震災があり、
(*安政)3年、上宮田陣営の火災があり、
次いで、8月、大風雨あり、災害が、しきりに
起こる。

[安政2年の震災では、
○上宮田陣営の潰家28棟、半潰・大破損12棟、
門柵はことごとく皆倒れ、土手・石垣の破壊70間、
○千代崎台場は、大小・土手崩れ13間余り、
○平根山台場は、切土手崩れ2ヶ所、
○千駄崎台場は、土手、所々崩壊、土手下道筋は
山の腰が潰れ、火薬庫・大破損、破損家2棟、
○安房崎台場は、切土手崩れ1ヶ所、
番所・大破損1棟、火薬庫・大破損1棟、
○剣崎台場は、土手崩れ3ヶ所、番所・大破損1棟、
火薬庫・大破損1棟、
○荒崎台場は、柵・破損6間、火薬庫・大破損1棟、
○三崎陣営は、土蔵・大破損1棟、
ここの武器類、けが人75人、倒れた馬6匹、
ここの復旧工事は、安政2年12月、概ね成就した。
又、その翌年、正月、
上宮田火災は、一小事ではあるが、その類焼の分は、
船倉4棟、大砲・小早船3隻、御書船倉押送船1隻、
船道具8隻分(錠19丁残)、器械固屋2棟、
その他、前段に記する所の大砲・小銃数10丁である。

又、8月の大風雨は、一大災害であった。
上宮田陣営は、破壊8棟、堀38間、
平根山、破壊6棟、千代崎 3棟、千駄崎 9棟、
三崎 22棟、安房 36棟、剣崎 8棟、荒崎2棟、
八王子山火薬庫ならび番所 破壊、
大浦山火薬庫および柵 破損、
原陣営ことごとく皆、潰れ、即死1人、
この際、最も残酷なのは原陣営で、同所の詰居の
徳山人員は、やむを得ず一時、諸磯村民家に
舎営することはなく、陣営修繕のことは藩庁の
命により、古材木で殆ど、雨露を凌ぐ仮陣営を
建築し、後、撤兵に至るまでこれに宿営した、
と云う。]

毛利氏は、このために蒙る損害は又、甚大であった。
もっとも相州警衛のその初め、緊要視された所以の
ものは、浦賀海関の外交上、重要な地点に位置し、
その地は、江戸湾の咽喉であるのであるが、
外交の要衝は下田に移り、沿海の砲台は、また
実力かないのを覚えるに及び、警衛の度合いは、
ようやく低下し、配備の人員も又、やや減退する。
すなわち、安政元年(*1854年)4月には、
既に番頭訳を省き、
[安政元年4月4日、
木原 源右衛門などから政務役に宛てた書簡の
一節に、云うに、
当表、御手元の儀については、なるだけ堅固に
備えられるようにされても、
アメリカ、ロシア船などの様子は、前段の通りに
矢庭に(*急に)戦争の勢いが現われことも
あるので、出張の人数の内、番頭役については
お引きされて、先鋒筆頭の衆の人柄を見られた
上で、異変の節は、仮番頭役を仰せ付けられては
如何かと存じます、云々 ]

(*安政) 2年には、
砲家2名の内、その1(*名) を減じ、御供徒士を
半減させた。
(*安政) 3年以後は、すわわち、
遠近付番手10名を減じ、大番士30人を減じた。
後、(*安政) 3年7月、
毛利筑前が総奉行を拝命した時から、異変があれば、
任地に赴くこととし、巡視もせず、身は藩地に居て
他職を奉じ、小事はおおむね、用談役、手元役などが
これを処理し、事がやや重大なものは、
世子附 益田 源兵衛が江戸にいて、代わってこれを
処理させた。
故に、総奉行は徒らに、その名を存して(*残して)、
その実を有しないものになった。

安政4年(*1857年)12月になると、
(*忠正)公の陞位(しょうい・*位が上がる。)の
事があり、主として相州警衛の功によるもので
ある。
当時、2,3年以来、警衛地は非常に無事な状況で
あるけれども、警戒の意は、未だ揺るがすことは
出来ない。
よって、(*安政)5年になると論示を発して、
守衛の諸臣を戒める。
その文に、云うに、

【*以下、原文意訳】
去年、在名家使節の拝礼、その後、度々の談判の
次第、旧臘(きゅうろう・*去年の12月)
29日、晦日、諸侯方、不時(藤・*思いがけない時)
急に登城の節、御目見後、
海防掛に御談義の趣を伺い、かつ、
堀田 備中守様の御上京もあり、
後来の形勢が如何に成り行くようであるか。
(*政)治にも忘れず乱れていることは、
御条目にも見られ、片時も等閑(とうかん・
*いい加減にしておくこと。)今日を送るべき時に
なくて、ついては、
旧臘(*忠正公の)御昇進の節も、
御備場の向きの件で仰せられるかどもあり、
詰め居る面々の儀は、ことさら安佚(あんいつ・
*気楽に楽しむこと。)の念なく、
文武錬磨は申すまでもなく、自然、事あれば、
士道に恥じずに遂げて、御奉公をしたく、
心掛けは、平常の志にあるべく、この段、
申し聞くよう仰せられました。
委細は、井上 与四郎に申し含めるので、
申し合わせる事。
           【*原文意訳・以上】

同年(*安政5年)6月20日
[アメリカ使ハリスが
井上 信濃守、岩瀬 修理などと仮条約に調印
する翌日 ]

幕府は、諸藩を部署して摂海(*大坂湾)の
警衛を命じ、我が毛利氏は相州警衛を免じ、
さらに兵庫警衛の任を受ける。
時に、(*忠正)公および警衛地総奉行共に
萩に在り、江戸在邸の益田 源兵衛が、
衆心が緩慢に陥ることを思うばかり、
諭告を発する。
その文に、云うに、

【*以下、原文意訳】
今般、相模国の御備場を御免じられ、
摂州、兵庫表の御警衛を仰せ付けられ、
恐悦の御事に存じます。
当御陣詰めの面々、かねて仰せ付けられた旨を
奉じられ、守備の心掛け厚く、夜白(やはく・
*昼夜)、文武出精の段、感心致し、そうすれば、
滞陣の日数も今、わずかになり、自然と戒慎が
弛み、飲食、遊惰、その他の嗜好の欲に流れ、
汚名を残すところ、ここに行きつくところ、
これは武士道の瑕瑾(かきん・*きず)のみならず、
かつ、従来の御美名にも関わるように存じます。
万事、終始はもっとも戒めるべき事であります。
条項は、ひときわ義気を主張し、士風を廉潔にして
御徳威を長くこの土に輝き、人民が欣慕(きんぼ・
*よろこび慕う)すべきように堅固に遂げられるは、
終末の度(たび)事に存じます。
 但し、本文の趣意は、小者に至るまで、
きっと守るよう、主人、主人から手堅く、
申し聞かせようにする事。
【*原文意訳・以上】


これより先、幕府は、すでに警衛地の変換の内命
を伝え、(*その)報せは、萩に達する。
[公儀人・三井 善右衛門の書中に
6月19日、江戸において、原 弥十郎殿より
申し聞くには、この度、異国船の防禦の趣につき、
公儀 御繰り合わせの儀があり、この御方の儀、
大坂、兵庫の間を御固めるべきとのお云い付けと
御決定につき、云々。]

(*忠正)公、すなわち、(*安政5年)7月13日、
木原 源右衛門を警衛地 引渡事務取扱掛とし、
直ちに江戸に向かわせ、三井 善右衛門と共に
その事に任じさせる。
[三井(*善右衛門) は江戸御用、
木原(* 源右衛門) は地元御用。]

まさしく木原(* 源右衛門) は、当初、預地奉行
として久しく任地に居り、事情に精通し、
事務に練達していた、ことによる。
[この時、預地奉行は、井上 与四郎であるが、
木原(* 源右衛門) は別に役名を帯びず出発し、
さらに同年、9月、正式な任命で交代の辞令を
受けた。
又、井上(*与四郎) は、人員引揚げの警衛地の
引き渡しを終えると、領地・民政上に関すること
は一切、木原(* 源右衛門)に任せ、
急速に帰国すべきことを命じられた。
その後、井上(*与四郎) は、藩地の公用
(7月1日、井上を郡奉行に転任させることが
詮議により決まった。)が繁忙なることで、
もし、警衛地の引継ぎが遅延の状況であれば、
その事務は他人にゆずり、直ちに帰国すべし、
との命に接し、8月下旬に出発、国に帰る。]

すでに、7月中旬、
(*警衛地の)変換の公法が萩に達する時に、
総奉行・毛利 筑前は、すでにその職を辞し、
福原 左近允がこれに代わる。
よって直ちに(*福原) を兵庫警衛総奉行に
転じる。
(*安政5年)8月15日、
さらに粟屋 隼太を江戸留守居役 兼 領地奉行
とし、又、行って三井 善右衛門と共に
撤退の事に任じ、かつ、途中、兵庫を過ぎ、
新警衛地の施設に関し小幡 蔵人などと
協議させる。
そして、(*忠正)公は又、親書を
益田 源兵衛・宍戸 播磨・三井 善右衛門・
小倉 源五右衛門・楢崎 弥二兵衛・
中山 三郎右衛門・桂 与市右衛門・井上 与四郎・
松岡 三郎兵衛・小川 兵衛などの諸臣に下し、
相州警衛撤退の事を管掌させる。
警衛地の変換を命じられた後、毛利氏は
速やかに相州警衛地の引渡しを終了しようと
するが、幕府は後任者の選定に苦しみ、
容易に決定しなかった。
ただ武器の運搬、守兵の減員を許しただけで
あった。
まさしく後任者の選択は、これを旗下の士に
命じようとすれば、その力はもとより足らず、
これを諸侯に命じようとすれば、他に雄藩の
適任者を得なかったためである。
毛利氏は、又、これを知り、漸次、撤退の手段を
とり、まず大番の人員を半減し、余りは、
序を逐次、帰国の途に上らせた。
(*安政5年)11月になると、
全部の撤兵の允許を得て、領地および砲台などは
代官・小林 藤之助とその日限を協定して、
これを引き渡すことを命じられた。
ここに至って砲台の授受[井伊氏の古例による]、
支藩、ならびに岩国の退営と着々、その歩を進め
[荒崎・以良久保の陣営は吉川家の構造に関わる
ので任意に処分させる。]

(*安政5年)12月14日に始まって、17日に
至り、残務結了のため引渡掛の吏員の少しを
留め、引渡掛の吏員など、又、皆、
翌、安政6年正月になり、全く授受の残務を
終わり帰途に就いた。
[台場引渡しは、初め預所事務と格 別に引き継ぐ
考案であったが、後、同時に引継ぐべきとし、
翌、安政6年1月28日から3日間で預所事務・
台場器械授受を終わった。
この時、本藩からは、粟屋 刑馬・大塚 七郎・
大多和 惣兵衛・田坂 君右衛門・石津 儀平・
友近 弥四郎・弘中 甚之助・近藤 十蔵が、
各、砲台地に出張し、
受領者は、小林 藤之助、
手附本締役・秋山 太郎右衛門などが出張した。
これにおいて、先に幕府から受領した砲台は、
一切、小林 藤之助に引継ぎ、その他、各々、
便宜の処分をしたのである。



相州警衛中の職員の一覧表

○総奉行
益田 越中 安政元年3月 ~ 同2年1月
毛利 隠岐 安政2年1月 ~ 安政2年10月
浦 靱負  安政2年10月 ~ 安政2年12月
臨時代理
毛利 主計 安政2年12月 ~ 安政3年7月
毛利 筑前 安政3年7月 ~ 安政5年7月
福原 左近允 自 安政5年7月、同月 転任

○総奉行 事務扱
益田 源兵衛 安政3年7月 ~ 安政5年9月
宍戸 播磨 安政5年9月 ~ 備場事務 結了

○預所奉行
木原 源右衛門 安政元年3月 ~ 安政3年正月
天野 九郎右衛門 安政3年正月 ~安政4年5月
木原 源右衛門 安政4年5月 ~ 同月
         出発せず役儀御免
井上 与四郎  安政4年5月~ 安政5年9月
木原 源右衛門 安政5年9月 ~ 預所引渡 結了

○八組頭
粟屋 帯刀 安政元年3月 ~ 同2年1月
乃美 織部 安政3年(月不明)~ 安政3年10月
児玉 主税 安政3年10月 ~ 安政4年11月
福原 相模 安政4年11月 ~ 安政4年11月
                 備場引揚             
○総奉行 手元役
山田 宇右衛門 安政元年3月 ~ 安政元年11月
玉木 文之進  安政元年12月 ~ 安政3年1月
田北 太中   安政3年1月 ~ 安政3年12月
藤井 庄兵衛  安政3年12月 ~ 安政4年11月
松岡 三郎兵衛 安政4年11月 ~ 備場事務結了


次回からは、第十二章 安政4年の大勢 です。

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