京都史蹟散策 91 天王山 史蹟巡り 4

京都史蹟散策 91 天王山 史蹟巡り 4

禁門の変 十七烈士之墓

【交通】JR山崎、阪急京都線・大山崎
【位置】京都府乙訓郡大山崎町

禁門の変 十七烈士之墓
烈士墓表
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烈士墓表の右側面
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烈士墓表の裏面
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南筑水天詞々官眞木和泉守平保臣號紫灘 
紫灘等同志十七名 不食前言
從容割腹干斯地而死 實元治元年甲子秋
七月廿一日也 紫灘享年五十二 有辞世歌
於保也萬乃 美禰乃伊波保爾宇免爾計算里
和加登志津幾乃 養徳太満之比 
賊等始合理于寶寺塔前之地 世人假立其墓
知與不知 來拝以奉花香 賊等悪其來拝仆其墓
改理之于天王山下竹林中 今茲王政一新戊辰年
朝廷許建殉難士之墓表 
長藩既建十七名之墓於始理之知我邦命保臣之子
眞木主馬平文臣 使建墓表 於是文臣更受朝廷之許 
謀諸筑肥土 別改葬于割腹之地 以安其神云
 筑後 葛軍 池尻 始 謹撰
    明治元年戊辰九月建焉
 頃日劇務揮毫拙劣 難以應需 
 而感激之餘倫閑馳禿筆
       正二位権中納言 藤原季知


烈士墓表の左側面
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長州側からの資料としては、
その最期を見届けた訳でなく、
自刃の直前までに居合わせた士らの
証言などによるものだが、
子母澤 寛・新選組始末記の小説ではないが、
10数年の調査、努力の逸本がある。
昭和9年・筑後史談会・宇高 浩【8】・
【真木和泉守】 である。

【8】旧久留米藩主・伯爵有馬家修史所員。
本書公刊の計画中に病没。
筑後史談会が故人の遺志を継承し、
70年大祭を記念して出版されたことが
凡例にある。

よって、上記の書の 天王山の最後 の編を
現代語訳(一部略)し、紹介します。

・・この日の戦いは、堺町門内が最も
激しかった。
長州藩の敗因は、福原越後の軍が
大垣兵に拒まれ、入洛できず、また、
国司・来島・児玉の軍と和泉守の清側義軍が
同時に入洛できず、ために、
各軍、単独行動にならざるを得ず、以て、
多勢に無勢であったからである。

長州藩総括・益田右衛門は、19日、
天王山に陣を構えて頂きに登り、
京の都の空を望み、戦いの成行きを窺っていた。
巳の刻過ぎ、京の敗兵が帰って来て報じた。
 三方の進軍、悉く敗れ、国司・児玉の二将は
生死のほどもわからず、
来島、久坂、入江、寺島の諸将、および
勇兵の若干は陣没を遂げました。
福原勢は、伏見街道、藤の社に敗戦し、
福原越後は西に向かって走りました。
伏見藩邸には火をかけらました。
益田は、愕然とし、
 しからば、敵兵は時を移さずこの地に
 攻め来るであろう。
 わずかな兵ではとても防戦はできぬ。
 速やかに軍を徹するに及びぬ。
と言って、午後、天王山の営を解き本国へ
引き揚げた。

和泉守が堺町門より天王山へ退いたのは、
この日の未の刻頃であった。
益田は既におらず、宍戸九郎兵衛
(萩藩の重臣・萩藩、大坂屋敷の留守居役)
がひとり踏み止まっていた。
やがて敗兵、20から30人ずつ、次第にその数
が増えてきて、200名にもなったであろうか
和泉守の弟・外記が宍戸に問う。
 今後の御決心は
宍戸、憮然とし、
 福原、国司、益田の三家老は、全て
 国に引き揚げてしまった。
 それがしとしても兵を収めて
 帰国するよりほかはない。
 われら天王山で抗戦すれば、2・3日は
 保つことができよう。
 そうすれば三條(実美)卿をはじめ長州は、
 大軍を率い、来着されるので、これを待って
 一挙に勝敗を決し、きょうの雪辱を果たす。
すると、和泉守は、皆に諭し始める。

わが軍、ことごとく敗れ、三将、既に逃れ、
今、わずかな残兵で要害を守るも敵に対し
2・3日はおろか1日も保つまい。
五卿・世子の大軍、既に国を発した報はあれど、
途中、敗報を聞けば、おそらく進軍はないであろう。
かつ、数隻の敵船が近く本国・長門を窺い、
昨年の夏の敵をとらんとの急報があった。
諸君は本国危機に際し、これをかえりみず、
むなしくこの地に死せんとするはよろしくない。
この場合、急ぎ本国に帰り、攘夷の功を奏し、
後、再挙を計り、この恥辱を晴らすようにありたい。
吾はこのたび、防長二国の藩士、諸国有志の士を
率いて東上し、血を以て禁門を汚したのみならず、
三條(実美)公、長門宰相父子に、さらに罪を
重ねさせたので長州に帰り、会わす面目がない。
故にこの地に踏み止まり、九泉の下より罪を
謝することにする。
諸君は、あくまで攘夷を以て目的となし、
一敗を以て志を挫いてはならぬ。
なお奮発して皇国のため忠義をつくして
もらいたい。
躊躇せず速やかに引き揚げて下され。

すると、(宍戸ほか)皆、感激し涙を拭い
和泉守と最後の訣別をした。
弟・外記も教えを守り決意すると、
程なく、菊四郎(和泉守の四男)が来る。
外記、その次第を菊四郎に語り、
相携えて離宮の小院に入り、
和泉守と最後の訣別をし、
長州藩数十人と宍戸に従い、山崎を出発した。
時、すでに黄昏、高槻・尼崎を経て
玖津港に達し、ここから乗船し、翌20日、出港した。

和泉守は皆を諭し長州に帰らせたが、彼と生死を
ともにせんとする者もあった。 
和泉守、これら決死の士に向い、
再び令を下す。

 敵兵は襲い来るであろう。
 ここは足場が悪い。
 天王山、二の華表(酒解神社二の鳥居)下に
 陣替えをする。

と云い、急に陣を移した。

敵来れば山の半腹に一手を伏せて、
敵の中堅を衝き、
と同時に切り込んで敵を追い下せ。
我兵、討死あり見つければ、その首を山上
に持ち来たれ、かくして決戦の後、
二の華表の陣所で諸君と潔く自刃せん。
後、遺体を敵陣に持ち帰えられては遺憾の故、
陣後に枯れ木を積み、最後の場合は陣所に
火を放つことにしよう。

と、天王山の絶頂には大きな焚火をたき、
戦闘の士気を示した。

墓表に向かって左列
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墓表に向かって中央列
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墓表に向かって右列
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20日朝、
郡山藩より2名の使者あり、

 我等、諸君の忠義により兵を派し攻めぬ。
 速やかに陣を撤し退散されるよう。

すると和泉守、
 
 陣中、まだ多くの米穀と兵器の蓄えがある。
 これらの処分を終えて退却する。

と答えるに、2名の使は去った。
程なくまた郡山藩の家老3名が天王山に上り来る。
 
 当所はわが郡山藩の守衛線内で、御身等がここに
 居られるとやむを得ず兵を交えねばならぬ。
 これまで我藩と尊藩とは親藩の関係もあり、
 また正義の御身らの不幸に乗じて攻める
 ことは好まぬ。
 もし手負いがあれば担架を差し上げる故、
 即時に退去されたい。

と望んでやまなかった。
和泉守はその好意を謝し酒を勧め彼らもまた、
これを受けて前言を繰り返し、
しばらく滞在するも去った。
和泉守、さらに数杯を傾け、

 われ乱髪、白頭のままで逝くのは末代までの
 恥である。
 だれか髪を結うてはくれまいか

髪が整うと和泉守は再び命じて、
髪を斬って埋め、辞世の和歌を詠じて
短冊にしたためた。

 大山の峰の岩根に埋めにけり
  わが年月の大和魂

そして、

 だれか長州に入って、われら最後の
 ありさまを三條公に奉じてもらいたいものだ。

と左右を見まわし肥後のひと加屋四郎に

 汝、われらの為にこの使命を果たして
 くれまいか。
 長州へ行ってくれてはどうだ、

加屋は、年わずかに21、天王山に踏み留まる
十八烈士中の最年少者で、和泉守はこれを
惜しんだ。
だが加屋は自刃せんとし、和泉守はこれを制した。
そして、大和五條のひと・大澤逸平【9】
に長州行きを命じ、三條卿へ辞世の短冊を
手渡した。
【9】大澤逸平.
別名・和田義亮。長州藩邸・賄い方で、
池田屋事変の際には、池田屋の屋内にあった
大釜に隠れて難を逃れ、逃亡した。

さらに白羽二重・一巻を取り出し、

 これは、かつて三條公より賜れた品である。
 遺物として御身に進呈する。
 敵に捕らわれぬように心して行け。

と言い、同志らも同じく辞世の詩歌・書簡等を
大澤に託した。
大澤が天王山を去ったのは七つ(午後4時)で
翌朝、天王山を顧みれば、煙が高く昇り、
天を焦がすのを見た。
大澤は、
 今が和泉守はじめ同志最期の時である
と思い、合掌し拝んだ。
大澤は、これより備中に至り倉敷の薬舗・
森田源介(号・節斎)【10】方に潜伏して
傷を癒し、12月、源介は、井上文都
(詳細不明)にこれを長州に送らせたので、
大澤は、和泉守の辞世を三條実美に捧げ、
かつ天王山の同志最後の状を述べた。

【10】頼山陽に学び、後、京都に塾を開き、
吉田松陰ら尊攘派志士を輩出した。

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             続く。

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