京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 6 (北野桜)

京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 6 (北野桜)

本編は、2016年春から2017年初冬までの
期間にわたり、取材したものです。

宝物殿の前の臥牛像の左横に
●一片春痕の碑 がある。

左端、赤の囲み
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【石碑】
一片春痕(いっぺん しゅんこん)
東京菊池市太郎 介可亭羽倉翁 来請曰
隆光以巳通夫長給事官省矣
明治二年三月 今上幸東京也 
九年六月幸函館也
必層従焉 尓来恩庇殊厚 隆光不敏
平生仰菅公之徳 今也辱皇恩至此者 
豈得非菅公威靈所介乎
於是欲獻素梅一株于祠前 且立石以標之 
請誌焉

余曰善
皇恩雖大 豈庇不勤之人乎
神澤雖渥 豈介不誠之人乎
蓋人力盡而神明介之 乃知隆光勤而嫌
是神明所以介之歟 且夫近世人情澆薄
妄自夸大 不知皇恩 神澤之為何物也

余有所感于隆光 乃為識之

明治戌寅十一年一月 藤澤恒撰

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(本文の解明と意訳)
北野天満宮の御厚意により、本文の全文解明、
意訳をしていだき、掲載の運びとなりました。
お世話になった方々に御礼申し上げます。
なお、残念ながら文中の隆光なる人物は不詳です。

(意訳)
東京の菊池市太郎は、可亭羽倉翁(伏見の神官)【1】
【1】羽倉 可亭(はくら かてい)
寛政11年(1799年) – 明治20年(1887年)
8月12日)
幕末・明治の篆刻(てんこく)家・画家。
名は良信、字は子 文。
父は山城伏見稲荷の社司(しゃし)で、父歿後、
同族、信資の嗣となる。
村瀬栲亭に従って学び、
篆刻を僧月峰・細川林谷に、
更に画法を岡本豊彦に学ぶ。

を介して、藤澤恒(藤沢南岳)【2】
【2】藤沢南岳(ふじさわ なんがく)
幕末から明治にかけての儒学者。
字は君成、名は、恒。通称は恒太郎。
醒狂、香翁などと号する。
大坂の泊園書院(はくえんしょいん・父・東畡
(とうがい)が、開いた数千人の門人を擁した
大坂最大の漢学塾。)を継承した。
四国高松藩に仕え、一夜で藩論を佐幕から
朝廷派へと変換した。
現在の大阪・通天閣の命名者でもある。
大阪・道明寺天満宮〆柱の文字、
天下茶屋公園の明治天皇碑の文字も
南岳の書である。

の所に、やって来て、次のように頼んだ。
隆光さんは通夫長の仕事で朝廷に勤め、
明治2年には天皇に従って東京に移り、
同9年(7月)には天皇に従って函館に赴き、
必ずつき従った。【3】
【3】明治天皇の函館上陸を記念し、昭和10年に
建てられた碑明治天皇御上陸記念碑が、函館市大町
にある。

以来、非常な御恩を受けている。
隆光は敏い(聡い・さとい)人物ではないが、
普段、管公の徳を仰いできた。
それ故、天皇の御恩を今のように受けているのは、
管公の威靈にほかならないだろう。
そこで梅一株を祠前に献じ、石を立て、碑誌を
お願いしたいと。 

藤澤氏は、「善し」と答えた。
皇恩は大といっても、不勤の人を介(たす)けること
があろうか。
神澤が潤っていても、不誠実なひとを介(たす)ける
ことがあろうか。いやない。
人力を尽くして初めて神明はその人を助けるのだ。
それ故、隆光が勤勉で謙虚の人であることがわかる。
それこそが神明が人を助ける根拠なのだ。
近世の人は人情が薄く、誇大妄想的で、
皇恩や神澤がいかなるものかを知らないのだ。
自分は隆光に感ずる所があり、ここに碑誌する。



宝物殿の左側には、
○神楽殿 がある。
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これは、校倉と同様に、豊臣秀頼の本殿、
再建・慶長12年(1607年)時期と同じ頃に
建立されたもの。
天神の日(毎月25日)に、神楽舞が奉納される
ほか、狂言や、日本舞踊(上七軒の舞妓)も
見られる。
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その左が 
○講社と社務所である。
この棟は、2ヵ所の入口があり、
一つ目の入口前には、
北野天満宮講社・北野天満宮氏子講社・
北野天満宮梅風講社・北野天満宮献茶祭保存会など
の看板が揚っている。

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梅の開花時期には、この右門前の白梅は美しい。

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二つ目の入口は、文字通りの
●社務所 である。
御朱印の受付は、ここである。

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●社務所前の北野桜

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北野天満宮・社報
(季刊v.10春号・平成28年4月)
によると・・
・・この桜の樹齢は、推定百二拾年前。
毎年、ソメイヨシノが散り始めたころから
咲き出す遅咲きで、花弁が白から次第に桃色に
変化していく
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ことから永年、参拝者から不思議がられてきた。
近年、幹の下部が大きくえぐられ、
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樹勢も衰えてきたことから、・・DNA鑑定による
種の確定と、・・苗木の増殖を依頼してきた。
新品種の可能性が高いことに至った理由として、
・・およそ二百種(*正確には215種とのこと)
に及ぶ桜のDNA遺伝子情報に合致せず、その他、
形態観察などからも一致する
ものが存在しなかったという。・・
          と、ある。
このことは、平成28年4月8日、京都新聞にも
掲載された。

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説明板によると・・
北野桜
 樹齢 百二十年 幹回り 二メートル

謡曲「右近」にも謡われる北野右近の馬場は
かつて桜の名所であった。
現在では「もみじ苑」で知られる境内西側に
広がっている豊臣秀吉が築いた史蹟御土居にも、
かつては桜が植わっていた。
 
櫻花ぬしをわすれぬものならば
  吹きこむ風にことづてはせよ

右(上)の歌は、御祭神菅原道真公が
大宰府の地へ配流される折に
「東風吹かば~」と同じく自邸で詠まれた。
          と、ある。

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社務所入口の右側に、
●宋 紫石 竹画碑(そう しせき ちくがひ)
がある。

【石碑】
(正面)(竹の画)宋紫石謹写
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(左側面・北側)
此竹数尺耳而執杭万仭木葉彫蠶金錯屈鉄神飛彩動
不見其墨汚之処所
謂公與此竹倶忘形者也君赫之画得之清人宋嶽々得
之沈詮々得之李用
雲其法尤可喜也嗟乎世称漢画者多不辨八格十門下
筆則曰合天地耳鑑
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(裏面・東側)
者或左其袒則其尊乃在君赫矣君赫姓宋名紫石江都人也
與余善其徒副
殷明勒之石以建北野
菅公祠畔蓋不朽其美也其銘曰
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(右側面・南側)
兎起鶻落不筍而成虚心貞節維神所亨
宝暦癸未秋七月(宝暦13年(1763年)7月)
  平安 源之煕 撰 
             副孟義 建

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【意訳】  
この竹は数尺だが、その木葉は、まるで動いて
いるかの如く彩かで、いわゆるこの竹の姿を
忘れさせるようで見事である。
君赫(宋 紫石こと、本名・楠本幸八郎。
師の名にちなんで改名した)の画は、(来日した)
清国の宋 嶽(宋 紫岩・南蘋派の画家)に学んだ。
また宋 嶽は、沈 詮(沈 南蘋)から学び、
沈 詮はその法を李用雲に学んだ。
(如何に正統派であるか)喜ぶべきものだ。
世に漢画の者 多くも、その筆をわきまえず、
嘆かわしい。
紫石の名は、天下の名声に嘘、偽りはなく、
紫石を尊重している。
君赫。姓は宋,名は紫石。江戸の人である。
余(村瀬栲亭【1】)は、その友人である。
紫石の門人・副殷明が北野菅公祠(天満宮)に
石碑を建立し、紫石の美を不朽のものとせん、
と云うので、その銘を作成した次第である。

【1】 村瀬 栲亭(こうてい)
姓は源、名は之煕、字は君績、通称は掃部。
漢学者。後、久保田藩・総奉行。
隠居後、京都で塾を開き、妙法院宮の社交の場・
栲亭で、当代の文人、画人と親しく交わり、
栲亭は京都学会の中心的存在となる。
上田秋成と親交、頼山陽も幾度が訪問していた。
              以上。

紫石は、杉田玄白、平賀源内、司馬江漢らとの親交
があり、江戸の洋風画誕生に大きな影響を与えた、
といわれる。
また、この銘文と拓影は、拾遺都名勝図会・一
北野天満宮 菜種御供の見開き図の次頁左
「竹画碑名中門の東にあり
画は宗紫石  銘文筆跡共、土岐中書 
(以下、銘文、上部に竹画) 」
に所収されている。



社務所北側に石柵で囲われた一画内の
臥牛像の右側に
●石牛縁起碑 がある。
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【石碑】
(表面)
但馬州養父郡大屋谷産温石年鬻于諸州者不可勝数
而概皆片石
耳其巨大者太希偶有一石方丈餘州人皆奇之雖有*斫
之者多中
止未曽達其志也諸豪族相謂曰徒使巨石湮没于谷底捐
而不顧豈
不遺憾耶仮令斫之之難相與竭力労思則可成其功也
明治十三年
五月就谷構屋遍督工夫日夜不倦至明年一月斫鑿竣功
矣衆大悦
曰宜献之于菅祠也則刻為童牛形長七尺有餘精工逼
真光彩耀然
可鑑矣乃輸之于浪華当此時京都某商有欲献石牛於
北野菅祠者
側聞此事曰是天之所賜也自齎数百金馳造于浪華直
就但人而謀
之但人欣然曰是我宿志也今不期而符如此渓知非
神霊所使然哉
其議立成於是輸之于京都終献於本祠云嘱余記因紀
其事之不偶
然者焉其石美而工精可観而知也時明治十五年三月
  京都 鶏堂青地邦撰并書

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【意訳】
但馬国・養父郡(現・兵庫県養父市)大屋谷は、
温石(おんじゃく・平安時代末頃から
江戸時代にかけ、石を温め、真綿や布など
で包んで懐中に入れ、暖を取るために胸や腹に
用いた)を産出し、販路は全国に及んだ。
だが、概して小石ばかりで巨石は稀であった。
偶然に一辺が一丈にも余る巨石が産出。
土地の人は、皆、奇異に思うも、切り出すことは、
多くの者が諦め、中止した。
諸豪族が協議し、こう言った。
この巨石を谷底に没し、使用しないのは遺憾である。
仮に研ぐのが難儀であるとしても、労を尽くせば、
その労は報いられるだろう。

明治13年5月、(大屋)谷近くに工事用の小屋を構え、
日夜厭きずに工事を続けると、明ける年・1月には、
切り出しの工事が終了した。
皆、大喜びで、こう言った。
(そうだ)これを菅公の祠(北野天満宮)に献納しよう。
そこで、長さ7尺余りの仔牛の像を彫ると、
真に光り輝き、精工なものが完成した。
(牛は天満天神の使いであった。)
よって、これを浪華(大阪)へ輸送した。

当時、この時、京都の某商人が北野天満宮へ
石牛を献納したいと要望していた。
この者、これ(石牛のこと)を聞きつけた。
そして、言った。
これぞ天の賜物なり。
そこで、自ら数百金の大金を駆け回って作り、
大坂へ行き、但馬の人に直接、面会した。
但馬の人は驚き、相談して言った。

これは我らの以前から抱いていた志、そのものだ。
今、期せずしてこれと符合した。
これぞ天満天神のお引き合わせと喜び、
その議が成立した。
そこで、これを京都へ輸送し、祠(北野天満宮)
に献納したのである。
この経緯をわたし(筆者・青地鶏堂) に依頼された
次第である。
この経緯は、偶然ではないこと(神意が働いた)を
書いた。
如何にこの石が非常に美しく、細工が精巧かは
それを見ただけで分かるではないか。
時は、明治15年3月
  京都 鶏堂 青地邦・撰 ならびに書


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 (北野天満宮の全貌7 に続く)



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