京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 1 付・ 北野天満宮と出雲の阿国

京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 1
付・ 北野天満宮と出雲の阿国

北野天満宮

【位置】上京区馬喰町
【交通】市バス・北野天満宮前

旧称は北野神社。
神社本庁の別表神社。
通称、天神さん・北野さんとも。
*は、付記。

本編は、2016年春から2017年初冬までの
期間にわたり、取材したものです。

宝物殿前の案内板によると・・
北野天満宮
菅原道真公(西暦845-903年)【1】を御祭神と
する全国天満宮の総本社。【2】
【1】 菅原道真は、延喜元(901)年に
政治的陰謀により大宰権帥(だざいのごんのそち)
に左遷され、2年後、その地で、歿する。
享年59歳。
【2】平安時代の菅原道真公を祀る全国に約一万社
御鎮座する天神社・天満宮の宗祀(総本社)。
牛の像が多くあるが、牛が神使となったのは、
道真の生年、没年の月日が丑の日である。また、
牛に乗り大宰府に下り、牛が刺客から道真を守り、
牛が大宰府天満宮(道真の墓)の場所決めたなどの
伝承がある。
天慶5年(942年)、右京七条の巫女、
多治比文子(たじひあやこ)が道真から北野に
社殿を造り自分を祀るように、との御託宣を
受けたと云う。

天歴元年(西暦947年)御神託により御鎮座。【3】
【3】多治比文子は、当初、自宅の庭に瑞垣を造り
道真の霊を鎮めるために祀っていたが、後、北野・
朝日寺・僧侶・最鎮の裁量により、この地に祀った、
と云う。

歴代天皇、皇室の御尊崇篤く、又朝廷、将軍家の
尊崇を受け、全国に天神信仰が庶民の信仰として、
又学問の神として広まった。
現在の社殿は豊臣秀吉公の遺命により秀頼公が
慶長12年(1607年)に造営。
桃山時代の代表的建物(国宝)。
境内一円は京・随一の梅の名所で約2,000本
約50種の梅木がある。
毎月25日は天神さんの縁日として有名。



●大鳥居 (一の鳥居)
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大正10年10月に建立、平成26年に修復され、
天満宮の文字は、髭の参謀総長と云われた
閑院宮載仁親王(かんいんのみや)によるもの。
左右の狛犬の台座は、梅の木の文様。

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一の鳥居を潜る前に、その右側(東側)に
●右近の馬場 がある。

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ここは、境内の一部で、一の鳥居から東門までの
細長い地域。
説明板によると・・
嵯峨天皇大同2年(807年)に開かれた
右近の馬場は、右近衛大将であった菅原道真公が
好まれた右近衛府の馬場、俗に右近の馬場という。
櫻狩が行われた程の桜の名所で、謡曲
「右近」は此処を舞台として、春の局に
ふさわしい女神を主役として、御代を
寿(*ことほ)ぐ曲である。
道真公死後、京では雷が多く、これも道真公のたたりで
あると信じ、村上帝の天歴元年(947年)に、
御神託により位階を復して、右近の馬場に御鎮座。
一条天皇の行幸もあり、道真公の霊を祈って
「天満大自在天神」の号を贈られた。
その後幾多の兵火を経て大綱秀吉の遺命により
秀頼公が現在の豪壮な御社殿を再興した。
        京都謡曲史跡保存会
             と、ある。

謡曲・右近は、世阿弥作、観世信光
(かんぜ のぶみつ)の改作とされる。
その筋は、鹿島神宮の神職と従者が右近の馬場で、
花見。
すると花車に乗った貴女と侍女と出会い、
神職と貴女が歌を掛け合う・・
この貴女が、実は、桜葉明神で、神神楽を舞い、
天に上っていった、というもの。
なので、北野天満宮には、本殿北側に、
摂社・桜葉社が祀られる。

また、北野天満宮・社報11号によると・・
右近の馬場は、大同2年(807)開かれた
日本最初の競馬場である。
菅公も右近衛大将として度々来られた。
地域的にいうならば、天満宮東門の外
南北200メートルである。
したがって一見してそれとわかるが、
本来の右近の馬場は、大日本地名辞書では
一条北 大宮通を称し、いまの北野天満宮東南を
南北に通じる巷路を総称したとあり、
規模が違っていた。
したがって大内内裏参候の近衛官人は毎年5月
走馬の行事を催したもので、古くは平清盛も
この地で催された北野馬市で名馬をみたて
愛用したと伝えられている。
さらに天満宮と因縁浅からぬものは、
御所祭神 菅公の霊が多比文子に託宜あり、
右近の馬場に鎮座せよとの霊感があり、
ここにお祀りしたものである。
 そうかと思うと色男の祖家の如く伝えられている
在原業平も、こんな恋歌を詠んでいる。
この地で見初めたらしく古今集しは
 みすもあらず見もせぬ人の恋しくば
 あやなくけふや 眺めくらさん
と詠み、その悶々の情を寄せている。
近世になると、本居宣長も入洛の時にはこの馬場で
乗馬の練習をしたものである。
 明治以降になると有志によって競馬が催され
賑わっている。
さらに弓場ともなり歩射会が毎年開かれ
武技を競ったものである。
       と、ある。



右近の馬場の一番南側に
○露の五郎兵衛碑 がある。

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左横の説明版によると・・
人艸(草)や
 来た野(北野)の
  露乃
   五郎兵衛(ごろびょうえ)
出典 山東京伝「近世奇蹟考」
昔、延宝・天和の頃(1681~84)
露の五郎兵衛という人が、此所、北野天満宮を
はじめ、祇園真葛が原、四条河原、百万遍、その他
諸所の開帳場に場所を占め、自作の笑いばなしを
口演、都の名物男と言われ、日本の落語家第一号
となりました。

元禄16年(1703)61歳で亡くなるまで、
都の人気を一身に集め、数部の咄本を著わし、
遺した咄三百数十話、直接、間接に、現行落語の
原話になっているものが沢山あります。

ゆかりの名前をいただいております私、
落語生活五十年を期に、開祖の碑建立を発願し。
(。は、原文ママ)北野天満宮様の御好意と、
社団法人京都デザイン協会・柴田石材様はじめ
四方諸兄姉の御賛同、御協力によって完成致し
ました。

日本最初の落語家、露の五郎兵衛師の偉業をたたえ、
遺徳に感謝し、ここに顕彰するものであります。
         建立人 二代目 露の五郎
 平成11年3月吉日
        (以下略) と、ある。



右近の馬場の一番北側には、
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●【石碑】
(表面)北野大茶湯之址
     北野天満宮宮司 片桐 勤書
(裏面)昭和五十四年十一月
    創立百周年記念之建
       京都市茶業組合
         (以下略) がある。

北野天満宮・社報277号によると・・
・・・茶は栄西禅師が、宗から建久2(1191)4月
船戴し、茶を栂尾の明恵上人に頒ち、上人が
宇治に種植されたのが、始まりとされているが、
これより376年前、菅公が醍醐天皇の命により、
編纂された類聚国史三、十一、三十三に、
嵯峨天皇弘仁6年(815)4月22日、6月3日に
夫々「茶ヲ煎ル」「茶ヲ殖ウ」とあり、
公の菅家文草巻四にも「茗葉香湯」と茶を讃えて
いる。
横山建堂氏(*よこやま けんどう・評論家。
読売新聞に黒頭巾の名で明治41年から
「新人国記」を連載したことで知られる)は、
「天神様は茶聖である。わが国へお茶を宣伝
したのは天神様である。」と言っている。
北野には古来 連歌奉行と共に、
茶の湯奉行があり、供茶を一日も欠かしては
ならぬ役目があった。・・
そして只今の献茶祭保存会の発足は、・・
明治13年1月13日の表千家十一代碌々斎宗匠の
献茶祭奉仕によるもので、当日 碌々斎は
離宮七種の長次郎写しの茶碗十個を奉納されている。
・・・と、ある。

●【石碑】
太閤井戸
天正15年(1587年)10月1日、
豊臣秀吉の九州の平定と聚楽第完成を記念し、
秀吉主催の大茶会が、千利休ら堺の茶人他、
全国から招いた数寄者(本業とは別に茶の湯に
熱心な人たち)が集まり、催された。
又、その際、使用の井戸である。

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また、北野天満宮は、浮田一蕙
(*宇喜田、宇喜多とも)の絵画を所蔵している。
北野天満宮・社報273号によると・・
これは復古やまと絵の画家浮田一蕙(註)が、
天生15年(1587)の大茶会を絵画化し紙本に
着色で描いたもので、幅広は縦58.2cm、
横138.4cmの掛福で、上部には触書と、秀吉の
名物目録を茶席を描き、所有者と各人の名物道具名を
書き連ねている。
(註)寛政7年(1795)生れ、安政6年(1859) 歿、
京都を中心に幕末期に活躍し、安政の大獄に連座
した勤王の画家、画材も仏画、南画、イソップ物語等
広範囲に亘る。

左下に「天保十四年(一八四三)秋九月
一蕙斎豊臣可為勘旧記製之」とあり、
一蕙が48歳の作で、落款の左側には、
「豊臣可為」と、「一蕙主人」の朱文印が押されている。
この書き込まれている会記は、天正15年の大茶会とは
なんら関係のない天正5年の「茶道具名寄」が付記
されている。
これは久田宗悦 自筆本にも記載されていることから、
同じ記録を典拠としていることがわかるが、
同一でないことは、秀吉、利休、宗久 及び
宗久茶席の飾道具の目録がない。
これは画中の限られたスペース故、画家が意図的に
省略したと思う。
即ち 親本は一緒で何段階か経た転写の間で
生じたとおもわれる。
さて図の構成は、画面の三分の一高札、御定書と
御床の道具名、その右半分には、
北野天満宮の松原と、無数の茶席、
左側中央部には、鳥居、多宝塔につづき神楽所の
屋根が見える。
その向うのなだらかな山並みは、衣笠、松ヶ崎、
山端と書き添えられ、その先には大徳寺の所在が
示されている。
前景には天満宮を流れる紙屋川が描かれている。
全体は上部から挑えた鳥瞰図になっている。
そして一蕙はすやり霞を効果的に使っている。
彼は厳島図絵でも全巻を通じて五図挿画を担当
している。
即ち第一巻の「剣弾御誓」等 何れも歴史的画題
である。
この北野大茶湯図には、茶席で関白殿、利休、
宗久などの点茶姿、裃(*かみしも)着用の
加藤清正が門番の図、山科ノ貫が朱傘を立てゝ
参会の図の風景も克明に描かれている。
ともあれ、この大茶会は高札にあるように、
天正15年10月朔日より北野松原に於て、
秀吉の豪壮な意図の下、千利休の演出による
大規模なもので、北野の森にはその数八百とも
一千ともいわれる茶会が設けられ、秀吉が庶民と
楽しんだ名護屋の踊り、醍醐の花見と共に、
三大行事の一つである。
これは秀吉が九州征伐の勝利のあと
聚楽第も9月に完成、豊臣政権確立の祝賀の意も
こめられて、芸術を学問の神である菅原道真公に
奉納の大茶会であったことは、神前に秀吉や離宮が
参篭したことからも伺える。
         と、ある。



また、北野大茶湯之址の傍らに、
国歌 君が代に詠まれている
○さざれ石 
がある。

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学術的には、石灰質角礫岩(かくれきがん)
で、君が代の歌詞中のさざれ石(細石)は、
文字通り、細かい石・小石の意。
そして、巌(いわお)となりて・・である。



付・ 北野天満宮と出雲の阿国と、その伝説

出雲の阿国の史跡は、京都・四条鴨川の傍らに
像がある。

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【位置】東山区四条川端上る
【交通】京阪電鉄・祇園 四条

説明板によると・・
出雲の阿国(おくに)
1603年(慶長8年)、出雲の阿国はこの四条河原で
先鋭的な伊達男風の扮装で「かぶきをどり」を
披露、関ヶ原合戦後のすさんだ世に都人を驚かせ
絶大な喝采を浴びました。【1】
【1】 同年5月6日には、后の御所・女院御所
で踊ったと、いう記録がある。
(国立劇場・日本の伝統芸能講座舞踊・演劇より)

歌舞伎の元祖といわれている阿国の出生は不詳ですが、
出雲大社の巫女で一座を率いて勧進のため入洛、
北野天満宮の定舞台で名声を得て各地を巡業し
その人気が広まりました。

江戸時代に入り、風紀を乱すと女歌舞伎禁止令が出て、
男が女形を演じるようになり今日の歌舞伎に
発展しました。

阿国は晩年出雲に帰り、尼僧となって生涯を終えたと
伝えられ、その墓は島根県大社町【2】と
京都の大徳寺高桐院にも存在しますが、
伝説の域を出ません。 
   歌舞伎発祥400年 2003年11月
    京都洛中ライオンズクラブ
    寄贈 結成30周年記念
             と、ある。

【2】 出雲大社の駐車場、すぐ左手にある。
また、奉納山公園の入口に阿国終焉地の碑が、
公園内に出雲の阿国の塔がある。

この出雲の阿国像からは、南座が目の前である。
この南座の西側(川端通り)に、
●阿国歌舞伎発祥地  の石碑がある。

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【石標】
(表面)
阿国歌舞伎発祥地
(裏面)
文化財保護委員会委員長
日本芸術院長
高橋誠一郎書
(台座)
昭和廿八年十月
 松竹株式会社建之

説明板によると・・
阿国歌舞伎発祥地
慶長8年(1603) この辺り鴨河原において
歌舞伎の始祖出雲の阿国が初めてかぶきをどり
を披露しました。

この碑は昭和28年11月吉例顔見世興行を前に
歌舞伎発祥350年を記念して松竹株式会社により
建設されたものです。
我が国が世界に誇る文化財歌舞伎を日本の至宝
として末永く後世に伝えたいという願いが
込められております。

碑の文字は元日本芸術院長高橋誠一郎氏の
筆によります。
  歌舞伎発祥四百年を記念して
  平成14年11月吉日
         南座 敬白

また、京都市勧業館・みやこめっせ
左京区岡崎成勝寺町
(神宮道二条通り交差点、西入る)
の西側入口・左側に出雲の阿国の絵が
揚がっている。
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●北野天満宮と出雲の阿国

天正19年(1591年)、出雲の阿国は北野神社境内で
京都で初めて「ややこ踊り」を行ったと云われる。
(ややこ踊りは、稚児踊りのことで、
1582年、奈良・春日大社で上演されたもの)

後、慶長8年(1603年)、阿国の「歌舞伎踊」が
五条河原でも披露されたが、
実は、同年に、北野神社(当時)でも男装した
阿国の「歌舞伎踊」が披露されていた。

そして、この年以降、2年間、北野社を拠点とし
慶長17年(1612年)頃にも北野神社で興行し、
その後は、北野社社家・北野松梅院の者に囲われ
余生を送った、とも云われている。

阿国の歿後、阿国の墓は、島根県大社町にある。
京都の大徳寺塔頭・高桐院にも存在するが、
伝説の域を出ない。

では、この伝説とは。
大徳寺の塔頭・高桐院には、
名古屋 山三郎【3】が出家時代にいたところで、
彼は、阿国の愛人であったと言われるからである。
【3】名古屋 山三郎(さんざぶろう)
阿国と共に歌舞伎の始祖された伝説的人物。
史実では、加賀藩名越家の出で、
名越山三郎と称する。
剃髪して、宗円と号して大徳寺に入るも、後、
還俗し、織田九右衛門と称する。
かぶき者として知られ、
名古屋山三郎殿、御かたち美男にて之れ有り。
と、森家家臣各務氏・覚書にある。
当世で云うところのイケメンで、当時、
出雲の阿国と通じていると噂されていた。

そして、高桐院の細川家墓地から藪を挟んだ
裏手の非公開の墓地に山三郎と阿国の墓が
ある。
伝説は抜きにしても、
美男・美女の踊る姿は、多くの人々を魅了した
ことは、事実なのであろう。

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北野天満宮の全貌2 に続く)

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