京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 18(紅梅殿と周辺)

京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 18
(紅梅殿と周辺)

史跡・御土居の東南に
●紅梅殿(こうばいどの) が、ある。

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北野天神縁起絵巻は、北野天満宮の由来・霊験を
を描き、菅原道真の栄華と左遷、道真の怨霊による
都における変異と北野天神の利生記で構成され
数多く製作された。
その承久本は、国宝となっている。
それによると、昌泰4年正月25日、左大臣・時平の
議により無実の罪で太宰権氏と配流が決まる。
そして住み慣れた邸宅の紅梅殿も、明け渡すことに
決まり、今を盛りと咲き匂う梅の木を見上げて、
東風吹けば 匂いをこせよ梅の花
あるじなしとて 春な忘れそ
と、詠む。
この道真の邸宅に因み、大正6年に調理所として
建設される。
元は本殿のすぐ西側にあったが、平成39年斉行、
道真没後1125年・半萬燈祭に向けて平成26年夏に、
三光門前広場に移築され、同年10月25日に
紅梅殿こけら落とし・市川海老蔵奉納舞が行われた。
現在、ここで結婚式も行える。
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紅梅殿の、少し南・豊国社前に
●連歌所の井戸 が、ある。

立札の説明板によると・・
文道太祖・風月本主と仰がれる天満宮には
連歌会所があり、宗砌・宗祇をはじめ代々
その会所奉行をつとめ、室町より江戸にかけては
盛んに連歌会が行われ、毎月18日には月次会が
興業せられた。
また、2月25日の御忌日、6月9日の宮渡祭日、
8月4日の例祭日には年中恒例連歌が興業せられた。
連歌を献じて神の御意を慰めることを法楽といい、
当宮の法楽は「聖廟法楽」と称し毎月25日に
催され、朝廷をはじめ広く庶民にも親しまれて
いた。
    と、ある。

この井戸は当初、現状維持であったが、
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2017年頃から、風雨を避けるための木組みの
覆屋の中にある。
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北野天満宮・社報85号によると・・
・・天満宮と連歌の関係は室町時代にさかのぼる。
・・北野天満宮の法楽は「聖廟法楽」と称し
禁中にて和歌連歌の会が催され、さらに毎月25日に
連歌が催され、連歌の席に天神像がかけられる
ようになった。
足利義満は明徳2年(1391)、北野一万句興業をなし、
永享3年(1431)には足利義教も千句興業を催し、
豊臣秀頼も十万句の連歌会を行っている。
連歌会所は連歌堂ともいわれ、永享のころから
会所奉行が置かれ 高山宗砌がこれに当たり、
宗匠の号を許され、
「神に人むすび よるべの しみづかな」と
詠んでいる。
*高山宗砌(そうぜい)
山名時熙・持豊(宗全)父子の家臣。
俗名は、高山民部少輔時重。
室町時代中期の 連歌師。

ついで長享2年(1488)には宗祇(*そうぎ・
室町時代の連歌師)が足利義尚より
奉行に命ぜられ、文明8年(1476)、猪苗代 兼載
(*いなわしろ けんさい・戦国時代の連歌師)も
北野会所 別当に補せられ、いづれも宗匠であった。
そのご 一社中からは梅林坊 能順が最初になった。
また連歌は北野学堂でも行われ、神、歌、儒を
研学したが、中で、連歌道を第一とした。
したがって宗匠の資格は、人格者でなければ
ならなかった。
天保10年(1839)、林 静坊が宗匠に推薦されたが、
行状よろしからず、親不孝に付と除かれている。
また霊元上皇から正徳4年(1714)、連歌に
使用する硯文台を下賜されている。
維新後、連歌所も、学堂もなくなったが、
この井戸の水は今もこんこんと湧きいで、
文道の太祖・風月本主と仰がれ給う天満宮への
硯の水として往時を語ってつきない。
         と、ある。

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また、紅梅殿の前、東面には、
●紅梅殿船出の庭 が、広がる。

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この庭は、菅公邸宅の庭を
復元したもの、とされ、平成28年に完成し、
同年、11月3日に
北野天満宮・社報
(季刊v.13新年号・平成29年1月)
によると・・
・・完成に伴い、杮(こけら)落しの催しとして
菅公ゆかりの「曲水の宴」が千百余年ぶりに
再興することになり、これを鑑賞していただくため、
この日(*11月3日)に繰り延べされ執り行われた。
・・・「曲水の宴」は、庭に流れる小川に酒を
入れた杯を流し、飲むとともに題に即した詩を
賦すという宴で、中国から日本に伝えられ、
奈良・平安時代盛んに行われた。
宇多天皇に重用された菅公は、記録で確認できる
だけでも四回、宇多天皇主宰の「曲水の宴」に
招かれており、その際に創られた詩文も幾つか
残されている。・・・
と、ある。

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そして、紅梅殿の左(南側)には、
●豊国神社、一夜松神社、野見宿祢神社
  を合祀した社殿がある。

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○豊国神社(とよくに じんじゃ)

◇豊国神社
祭神・豊臣秀吉公
神徳・開運・立身出世の神

説明板によると・・
豊臣秀吉公は天下統一を達成し豊太閤と
称えられる
安土桃山時代の武将である。
秀吉公は北野天満宮への崇敬がことのほか
篤(あつ)く、天正15年(1587)には
当宮境内地において北野大茶湯を催され、
また天満宮本殿(国宝)の造営を遺命と
されるなど数々の歴史的偉業を残された。

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北野天満宮・社報95号によると・・
・・秀吉は特に菅公を信仰し、大政所の病気平癒を
祈願して、成就の上は壱万石を寄進するとの願文を
天正16年(*1588年)6月20日に捧げ朝鮮征伐の
時にも、木食上人(応其)をして文禄2年(*1593年)
5月25日に書かせ、勝利の暁は、伽藍造畢を誓って
いる。
また秀吉は慶長2年(死去の前年)子の秀頼とともに
金燈籠一対を奉納している。
現在 国宝の八棟造の雄大豪壮な桃山式の社殿も、
慶長12年秀頼により建立されたものであるが、
造営は太閤の遺志を継いだものとされている。
かかる当宮再興の主により、明治元年 相殿に祭祀され、
毎年12月1日の大献茶祭には本殿につづいて、
各家元が輪番で奉仕し、ずいき祭中の10月2日にも
御旅所より、豊国社に向い、献茶が斎行されている。
           と、ある。

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○一夜松神社(いちやまつじんじゃ)

◇一夜松神社(いちやまつじんじゃ)
祭神・一夜千松の霊
神徳・延命長寿の神

説明板によると・・
一夜千松の霊とは、北野天満宮創建に先立ち、
「私の魂を祭るべき地には一夜にして
千本の松を生じさせる」という道真公のお告げに
よって、この一帯に生えた松に宿る神霊をいう。
境内に多い松の樹々は、この一夜千松の名残りと
される。

北野天満宮・社報95号によると・・
・・祭神記に「一夜千松の霊」とあり、
神記には、「御神体、殊に受命を祈り申すなり。」
とあって、鎮座年月は未詳であるが、菅神の託宣に
「君棲(す)まん所は一夜に千本の松生ずべし」と
あり、また「雍州府志」には、
「本殿未申の方にあり、船の宮と称す。
村上天皇天歴9年(955)乙卯3月12日の神託は、
北野 右近馬場に、一夜千本の松を生ずという。
果して、其の言の如し。遂に社を建つ」とあって
故 山田新一郎宮司は、
「草木の霊端を祭ることは、世に例 多くして、
決して珍しいことにあらず、一夜千松の端松は
御祭神の奇魂(くしみたま)ということも
考えられる」と、記していられる。
また一夜松を一名、船の宮という名称の由来は
不明であるが、額の後(*うしろ)に船の彫刻が
あるためかと思われる。
なおこの一夜松については、百錬抄に
建保5年(1217)
「北野一夜松、風無くして折れ倒る」とあり、
社家日記の文政5年(1822)2月22日の項には、
「御前通の松の古木は古えの千本松の残りの1本
にして朽ちて了ったので切り払った」とある。

この一夜松については、前参議 菅原為長【1】
(古人13世の孫)は「寄松述懐」と題して
「一夜松 千代の末葉の老木まで
   木 たかくなりぬ 年も位も」と詠み、
後水尾院の御製にも
「ただ願ふ 北野の宮の一夜松
   二つの道の為かは」と歌われ、
薩天鋳の詩に、「千里飛梅 一夜松」とあり、
歌人 有賀長千鄰(ながちか)も、
「松延齢友」の歌に、
「ひとよとの 名の生ぬれど 北野なる
  松をぞ千代の 友垣にせむ」と、
数限りなく詩に歌に、愛誦されている。

なお以前は絵図によると、八社の南にあったが、
明治元年 連歌所廃止により、明治6年8月6日
許可され、今のところに移転、後方に引き下げ
現在にいたり・・・
           と、ある。

【1】 菅原為長(すがわら の ためなが)
平安末期から鎌倉初期の公卿。
元久元年(1204年)に菅原氏が補任される文章博士
になり、後、土御門以降、5代に亘り、侍読を務めた。


○野見宿祢神社(のみのすくねじんじゃ)

◇野見宿祢神社(のみのすくねじんじゃ)
祭神・野見宿祢命(のみのすくねのみこと)
神徳・スポーツ上達

説明板によると・・
野見宿祢命は道真公の十九代前の先祖・
文武両道に優れた勇士で、垂仁天皇の午前試合
において、最強力士を豪語する当麻蹶早
(たいまの けはや)を打ち破り相撲の祖と
仰がれた。
大相撲京都場所の際は、力士の参拝も多い。
のち宿祢は朝廷に仕え、古いしきたりを改めた
功績により土師(はじ)の姓を賜った。

北野天満宮・社報94号によると・・
・・元 一ノ保社に鎮座されていたが、明治元年に
遷座され今日に至っている。
御祭神は、天照大神の御子、天忍穂耳尊
(*あめのおしほみみ)の御弟、
天穂日命(*あまのほひのみこと)の御末にして、
天穂日命は、天孫降臨のさい、
天照大神の命により、出雲の大国主大神につき、
順逆の理を説き、出雲の国に祭られた。
その十四世の孫が、野見宿祢であって、文武両道に
優れた。
典型的な偉人であった。
垂仁天皇7年(638年)天皇の御召を畏み、
都に上って当代第一の力士と豪語している当麻蹶早を
打ち破って、相撲道の祖となったのは余りにも
有名な話である。
天皇は当麻蹶早の所有していた土地を没収して、
野見宿祢に賜わったので、宿祢は大和に定住して
朝廷に忠勤を励むことになり、今に腰折れ田の
地名が残っている。
また32年秋7月6日、皇后 日葉酢媛命
(*ひばすひめのみこと)が薨去 遊ばされた時、
以前より殉死の風が行われていたのを、
天皇は かねがね その不仁を憎まれていたので、
葬儀につき群臣に相談されたところ、宿祢が進み出て、
人形をもって殉死に代えんと、出雲国に使を遣わして、
土部壱百人を召し上らせ、自ら埴輪(はにわ)で、
人馬および種々の物の形を造って、これを献り、
「今より後は、この土物を以って生ける人に代えて、
陵墓にお埋め下さい」と、奏上したので天皇は
大いに悦ばれて、この議をうけ容れられ、
この土物を称して埴輪(はにわ)といった。
天皇はその功労をお賞めになって、旧姓の氏を改めて、
土部臣(はじべのおみ)の姓氏を賜わられた。
それ以後この土部連(はじべのむらじ)らが、
大喪の事をつかさどり、菅原伏見の地に住まわれた。
この16世の孫が古人であり、光仁天皇天応元年6月、
古人は土師(はじ)の姓を菅原と改めることを
朝廷に願い出て、勅許された。
実に垂仁天皇33年、野見宿祢土師姓を賜わってから、
728年の後である。
この古人の曽孫が菅原道真公に当られる。
なお菅原道真公の後裔である五条家が代々家業として
相撲の事を司った。
   ・・と、ある。

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 (北野天満宮の全貌19 に続く)


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