京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 14(地主神社の周辺)

京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 14
(地主神社の周辺)

本編は、2016年春から2017年初冬までの
期間にわたり、取材したものです。

●摂社 地主(じぬし)神社

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本殿の北奥、東側、南面にある。

説明板によると・・
祭神 天神地祇(てんじんちぎ)
(相殿)敦美親王(あつみしんのう)
    斎世親王(ときよしんのう)
    源英明朝臣
(みなもとひであきらあそん)
神徳 招福・交通安全・諸願成就
例祭日 4月16日

当宮は、『続(しょく)日本後紀』に
『承和(じょうわ)3年(836管公ご生誕の
9年前)2月1日、
遣唐使のために天神地祇(てんじんちぎ)を
北野に祭る』と記録されている通り、【1】
天満宮創建以前よりこの地に鎮座していた神社
である。
【1】北野天満宮社報34号によると・・
・・一説に天穂日命、また敦美親王、斎世親王、
英明朝臣(三所皇子)を祀るともいわれ・・
とある。

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主祭神の天神地祇(てんじんちぎ)とは、
日本国内60余国に祭られたすべての神々のこと
であり、ともに祭られる3人の皇子はいずれも
道真公のご血縁など、特に公とゆかりの深い方々で
ある。
現在殿は豊臣秀頼公の造営になり、由緒・規模とも
天満宮第一の摂社である。【2】
【2】北野天満宮社報34号によると・・
・・建物は豊臣秀頼公の命により片桐且元
奉行となり再興され、御屋根の勾配は見事で、
参道の正面に位置し、古来より北野神社といえば
地主社をいい、のちに御鎮座になった菅原道真公
を奉祀する北野天満宮は西寄りに造営された
と伝えられる。

紅葉時
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古記によると、「建保6年(1218)9月21日
北野の神輿三基を右衛門の陣に振り奉る」とあれば
大神二基(鳳輦および葱華輦)および三所皇子の
分一基を併せて三基と見られ、建保頃には神輿を
有せられたと思われる。
例祭は4月16日であるが、毎年この霞祀りを
奉仕すると、一陽来福の兆しがあるのも不思議
である。

       と、ある。

地主神社の背後には、大きな銀杏の木がある。
紅葉の季節ともなると、
その銀杏の葉が、まさに屋根に降りかかり、
その勾配の見事さを浮き出させる。

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摂社 地主神社の左隣に
●末社 老松社 が、ある。

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説明板によると・・
末社 老松社(おいまつしゃ)
祭神 島田 忠臣(しまだ ただおき)
神徳 植林・林業の神
例祭日 3月12日

祭神の島田 忠臣は、菅公の家臣と伝えられ、
また一説には公の岳父(がくふ)(夫人の父)
ともいわれる。
忠臣は、菅公が配流先の大宰府で、自らの無実を
天の神々に訴えるため天拝山(てんぱいざん)
に登られた時、公の笏(しゃく)を預かって
お供をした人物で、後に菅公は忠臣に松の種を
持たせ当地に撒くように託された。
道真公のご心霊がこの地に降臨される時、
多数の松が一夜にして生じたという伝説は、
この事績にもとづくものといわれる。
        と、ある。

紅葉時
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末社 老松社の左側に、
●十二社連棟 が、ある。

紅葉時
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西から東を見た十二社
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北野天満宮社報73号によると・・
本殿の北に檜(*ひのき)白木造り、
桁行20m、梁3m余、
屋根は銅板葺の十二社連棟がある。
何れも御祭神は、菅公と同じく異郷で不遇の死を
遂げられた方々で、その御霊をお慰みするため
祀られたいわゆる怨霊信仰のお社である。
          と、ある。

◇寛算社(かんざんしゃ)
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祭神・寛算入寺
神徳・歯痛平癒の神

北野天満宮社報73号によると・・
御祭神は寛算入寺【3】といい、
鎮座年月未詳であるが、筑紫 安楽寺の住僧
にして、当宮を奉敬する御慎属
(*ごしんぞく・怨霊の類の尊称)であり、
寺内宮中を安穏に守り給うを以って祭る
と云う。
【3】寛算入寺(かんざんにゅうじ)
道真を慕う僧侶。
菅原道真の歿後、天変地異の多発により
菅原道真の怨霊=雷説から、寛算が道真の後
を追い自らも雷となり、京の空に飛来し、
岩となって落下したと、云う伝説がある。
後、魔よけ → 病よけ → 歯神となり
祀られたと、される。

◇大門社(だいもんしゃ)
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祭神・大門内供奉(だいもんないぐぶ)
神徳・災難除け・難問解決の神

北野天満宮社報73号によると・・
祭神は、大門内供奉(註1)
筑紫の国 武蔵寺の住僧という。
(註1)禁中の内道場に奉仕し、
智徳兼備の僧(定員10人)

鎮座年月未詳なるも、長亨2年(1488)
法眼禅予の神記によれば、聖武天皇の御代、
大宰府の近く天拝山の麓に武蔵寺あり、
ここに温泉が湧き、温室を造ろうとして
掘っていると、見返った金の猫がいた。
これを捕らえて太宰大弐(藤原広嗣)に奉ると、
この猫を追いかけた猫がいたはずと、
詰問されて死んでしまった。
やがて大怨霊となって太宰大弐 一家に祟り、
さらに玄肪僧正(註2)の説法の最中、
その顎を、ち切って興福寺の大門に
梟(さらし)たという。
(註2)奈良時代の興福寺の僧、
716年入唐、735年帰朝、竈遇を蒙ったが、
藤原広嗣と隙あり、後 大宰府に逐われ、
筑紫観世音寺に寂。

菅公が天拝山に登り、無実の罪を帝釈天に
中された時、一番に味方して御慎属となられた
感応速疾の霊神である。
彼の因縁と成った追いかけの猫の里は、
見返猫の里から二町ばかり離れた処にあり、
今も温泉宿があるという。
この神は謀反逆進の輩を降伏することを
祈るとよい。
すべて強剛難化の類を伏すお徳があると
伝えられる。
         と、ある。

◇橘逸勢社(たちばなの はやなりしゃ)
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祭神・橘逸勢
神徳・病気平癒の神

北野天満宮社報73号によると・・
・・祭神は従四位下但馬権守 橘逸勢朝臣と申し、
蚊松殿ともいい、姉小路西洞院に御座所があった
といわれている。
すなわち橘 清友の子、奈良麻呂の孫で
書道の名人として三筆の一に数えられ、
延暦23年(804)、遣唐使に従って入唐、
空海の「三十帖策子」の書写を助け、
「伊都親王願文」(御物)その筆跡という。
承和の変(註)(842)の首謀者の一人として
捕らえられ、伊豆に流される途中 遠江で
なくなった。
(註)平安初期の政変、承和9年、
伴建岑、橘逸勢らを謀叛を企てたとして、
流罪にし、無実の皇太子 恒貞親王をも廃した事件、
事件後、藤原良房の妹が生んだ道康親王
(文徳天皇)が東宮となった。
藤原氏は旧豪族伴氏(大伴氏の子孫ら)の勢力を
倒し、道康親王をたてようとした陰謀とみられる。

ちなみに この神は行疫神なれば、
人の疫、また疾病におかされた人が祈ると
験ありと云う。
なお伝記に、橘 以政著の「橘逸勢伝一巻」
がある。
仁安元年(1166)に成立、逸勢の幼年から
没までが記されている。
             と、ある。

◇藤太夫社(とうだゆうしゃ)
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祭神・藤太夫社吉子(とうだゆうきっし)
神徳・大願成就の神

北野天満宮社報74号によると・・
・・祭神は藤原是公(南家の娘)藤原吉子、
桓武天皇の第三皇子 伊予親王の母で、
大同2年(807)藤原仲成(武家)の陰謀の
犠牲となって、親王と共に川原寺に幽閉され
薬を飲んで自殺される。
弘仁10年(811)親王の号を復し、
承和6年(839)仁明天皇 一品を贈られる。
この神には摂政関白の望をば祈ると伝えられる。

◇文太夫社(ぶんたゆうしゃ)
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祭神・文屋宮田麿(ぶんやのみやたまろ)
神徳・延命長寿の神

北野天満宮社報74号によると・・
・・祭神は従五位 筑前守 文屋宮田麿朝臣、
淡海公不比等の四男、仁明天皇 承和7年4月
筑前守、後に官を辞して京にあったときに、
同10年12月、朝臣が謀叛をおこしたと、
告げる者があり、朝臣を捕らえ左衛門府に禁じ、
ついに同月29日 伊豆に配流された。
橘逸勢が流された翌年のことである。
十二社のうちでも、この神さまはとくに寿命長遠の
御利益が篤いといわれるところから健康長寿を
願う参拝者が多い。
と、ある。

◇淳仁天皇社(じゅんにんてんのうしゃ)
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祭神・淳仁天皇
神徳・心願成就の神

北野天満宮社報75号によると・・
御祭神は天武天皇の御子一品舎人親王の第七皇子
であって、母は當麻山背、幼名を大炊王といい、
天平宝字元年(753)4月に東宮に立つ。
御年25、同2年8月1日即位。
(47代)藤原仲麻呂を重用して、官名を改める
などした。
のち先代 孝謙天皇は、菩提心を発して出家を
されたが、太后として、世の政の常の小事は、
天皇が行い、国の大事の賞罰等は、太后が万事
行われた。

かくて太后と道教が政治を左右するようになると、
仲麻呂は反乱を起こし、かえって滅された。
そして孝謙太后は兵を発して内裏を囲まれると、
宮中には一人もいなくなり、天皇は図書寮の傍らに
忍びかくれられたが、退位を迫られ、淡路国に
遷され、やがて崩御される。御寿33。
世に淡路の廃帝という。
この御憤にて旱魃(*かんばつ)大風おこり、
世間が騒然となる。
ついに当宮の眷属(けんぞく・ここでは
神の使者、の意)となり、国家を守られること
となる。
故に旱魃 大風及び呪咀をば この神に祈ると
早速に成就するという。

なお、この社は鎌倉期にあり(社頭古図)、
御鎮座の時期は不明であるが、他の御霊諸神と
共に、余程古くから奉祀されたと考えられ、
白峯神宮へ淡路よりの合祀は明治6年であるから、
同天皇を祀った最初の社ではなかろうか。
(註)旧淡路帝社と称したが明治3年
淳仁天皇社と改正
            と、ある。

◇太宰少貳社(だざいのしょうにしゃ)
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祭神・藤原広嗣(ぶじわらのひろつぐ)
神徳・武道上達の守護神 恵雨の神

北野天満宮社報75号によると・・
祭神は太宰少貳従四位藤原広嗣、初めは太宰少貳
と いったが大門内供奉(*大門社を参照)の
ことがあって官を下げられて少貳という。
淡海公 藤原不比等の三男 宇合の子で、
天正10年(738)大養徳(やまと)国守 兼
式部少輔となったが、玄昉(日+方、の漢字)、
吉備真備らの専権を非難し、天平12年 北九州で
一万人の軍兵を率いて叛を起したが、朝廷は
大野東人という人を大将軍とし、紀飯麻呂を副将軍とし、
国々の兵 一万七千人を従え、八幡宮に祈念して戦う。
さらに聖武天皇は11月 伊勢皇太神宮に行幸され、
戦勝を祈願されたところ、ついに11月1日、
広嗣は敗れ、肥前国松浦郡において、その弟
綱手と共に斬られる。
同11日 その地に鎮座、鏡の宮とも、松浦の明神
とも申す。
弓箭兵杖、武芸の道、枯樹大雨を祈るとよいと
いわれる。 
     と、ある。


◇老松社(おいまつしゃ)
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祭神・島田忠臣翁(しまだただおき)
神徳・植林・林業の神
 前述、参照。


◇白太夫社(しらだゆうしゃ)
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祭神・度会春彦翁(わたらいはるひこ)
神徳・子授け・安産の神
前述、摂社、白太夫社を参照。

◇櫻葉社(さくらばしゃ)
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祭神・伊予親王(いよしんのう)
神徳・喉の病気平癒
音楽・声楽・謡曲上達の守護神

北野天満宮社報76号によると・・
・・御祭神は伊予親王とも、天照大神とも
いわれる。
伊予親王は桓武天皇の第三皇子であって
母は藤原是公(藤太夫社)の娘 吉子である。
中務仲成(式家)の陰謀により、謀叛の罪で
母と共に、川原寺に幽閉され、毒を仰いで
自殺された。
崩御の後 凶事相つぎ大嘗会(天皇即位後
最初の新嘗祭(*にいなめさい))等も
止められた。
親王は管絃に長じ給いしにより、管絃等の能芸を
この神に祈るとよいといわれ、今も百日咳、
咽喉(のど)の祈願者があり、転じて音声に
ご利益があるというところから謡曲を習う人の
参拝者が絶えない。
因みに桜皮または葉が咽喉の病の薬であると
いわれる。

さて天照大神については、謡曲右近の中に、
「久方の天照大神にては、桜の宮とあらわれ、
ここにきたの桜葉の、神のゆふべの空晴れて、」
とあり、「扶桑京華志」【4】「莬芸泥赴」【5】
それぞれに、「桜宮、右近馬場にあり、
延喜帝10年5月5日騎射の時、
天照大神 降臨し給う。
故に日降の神明といい 後に出水千本東に遷座」
とあり、
【4】扶桑京華志(ふそうけいかし)
松生元敬 著(寛文5年・1665)の地誌。
【5】莬芸泥赴(つぎねふ)
貞享元年(1684年)北村季吟が著した
神社 などの由来、来歴を記した名所、名勝記。

現在、桜宮日降神明社があり、数々の霊験、
延喜が伝えられている。
・・・また別名を「煙の宮」ともいわれ、
昔は本社より三丁余 東南にあったのを、
ここに遷座し、連歌師 梵燈庵(*ぼんとうあん)
祀るという。
氏は出雲国 八束郡池平山の城主であり、
名を朝山師網または昌時といい、佐陀大社の神主
でもあった。
足利吉満に仕え、歌は二条良基の門に入り、
名をなし、剃髪して梵燈と号した。
応永31年(1424)76歳で歿す。
ある日 北野に詣り、連歌堂での会に、連歌を
献じた時、「人をおくりて かへる野のすゑ」と
いう句に梵燈が「身はいつの煙になりて残るらむ」
と詠んだところ、煙という附句が秀逸であると、
菅神 感応ましまし「立水の巻」「臥龍の巻」を
授け給うと、「山城名勝志」「京都坊目誌」
「都名所図会拾遺」に見える。
他に「天満宮利生」には、桜宮は火之御子社で、
火雷神であるともいわれ、この社については
いろいろの説があり、今後の調査が俟たれる。
 と、ある。  
*連歌について。
連歌は、上の句(五七五)と下の句(七七)に
分けたものを別人がそれぞれ詠んで
唱和すること(短連歌)から始まり、
戦国時代には戦勝を祈願し連歌を寺社に奉納し、
世の階級を問わず、連歌を案じている。
          と、ある。

◇吉備大臣社(きびのおおかみしゃ)
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祭神・吉備真備公(きびのまきび)
神徳・家内安全の神

北野天満宮社報77号によると・・
吉備真備、父は右衛士少尉 (*うえじのしょうい)
下道国勝(*しもつみちくにかつ)、
母は楊貴氏(*八木氏) 持統天皇9年(695)の
誕生である。
元正天皇 霊亀2年(716)(*22,3歳)に入唐して、
文学 世に秀れ給い、聖武天皇 天平7年
(735)の時、帰朝された。
これについては、「吉備大尽入唐絵馬」
「吉備大臣物語」に詳しく記されている。
・・・さて帰朝した真備は、儒学、天文、
兵学など各種の学芸に通じ、玄■(日+方、の漢字)
と共に橘諸兄(たちばな の もろえ)の下で活躍、
藤原仲麻呂(*ふじわら の なかまろ)政権下で、
一時左遷され、再度入唐したが、帰朝後、
太宰大貳【6】となり、怡土(いと)城【7】を
築いた。
【6】大貳(だいに)は、帥、権帥の下の四等官。
貳(すけ)、大貳(だいに)、小貳(しょうに)の
序列であった。
【7】福岡県糸島市と福岡市との境にある高祖山
(標高416m)の西斜面一帯に築かれた
古代山城(中国式)。城跡は国の史跡に指定。

仲麻呂没落後、従二位右大臣に曻(*のぼ)った。
神護景雲3年(769)2月、称徳天皇は吉備の
第に幸(*さいわい)した。
(*良い結果をもたらした、の意。)
そして正二位に叙せられた。
翌8月4日、称徳天皇が崩じられる(*亡くなる)
と、吉備は天武天皇の孫 文屋浄三を皇位に
立てんとしたが、藤原良継、百川の擁した
天智天皇の孫 白壁王、すなわち光仁天皇が位を
継がれ、憮然たる気持ちであった。
かくて宝亀2年(771)3月長い官吏生活に別れ、
故郷において花鳥風月を友として同6年
10月2日 81の天寿を全うした。

吉備の生涯は、まさに波乱万丈であったが、
その後した仕事の大きさは類がない。
その著作に「私教類聚」(50巻)【8】がある。
【8】私教類聚(しきょうるいじゅう)
中国南斉の『顔氏家訓』に倣って書いた
家の存続と繁栄を願って親が子孫に残した
我が国初の訓誡書(家訓)とされる。
(50巻)とあるが、1巻で40数項目あるも、
現存せず、逸文のみが伝わる。全1巻。

以上 超能力の保持者たる吉備には さまざまな
説話が生まれたが、何故 怨霊の神の中に、
吉備大臣の名がみえるのかは いまだに
不明である。

◇崇道天皇社 (すどうてんのうしゃ)
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祭神・崇道天皇
神徳・五穀豊穣の神

北野天満宮社報78号によると・・
光仁天皇の第二皇子、諱(いみな)は
早良(さわら)親王という。
御母は藤原乙継の御 高野新笠、天応元年(781)
4月 桓武天皇の皇太子となる。
天皇 政治を太子に委ね、常に遊降し、
太子 佐伯今毛人を参議とするが、中納言 藤原種継
が参議を奪った。
太子はこれを怨み、種継をコロそうと請うたが、
天皇は許されなかった。
かえって太子を疎遠にして、政治をまかされなく
なった。
太子はいよいよ種継を恨まれた。

たまたま延暦4年(785)8月、天皇が平城京に
行幸された留守に乗じて、人に命じて種継を
射殺させた。
ここにおいて天皇は急を聞き、ただちに還御され、
射ったものを探し出し、捕らえてコロした。
また太子を廃して乙訓寺に幽閉した。

太子は十日余り絶食されたが、死ぬことが出来ず、
淡路島に流され、途中で崩御された。
11年経ってから皇太子 安殿(あて)親王
(平城天皇)に御悩があり、世人は早良親王の
祟(*たたり)であると噂 し合った。
そこで諸陵頭、諸使等を淡路島に遣わしてお謝び
をされた。
その他 多くの人々が病死したので、天皇はいよいよ
おそれられ、僧を淡路に遣わし読経をして、
その冥福を祈られた。
さらにその遺骸を都に迎えようとされたが、
再度にわたって暴風雨となり、使者が海に溺れた。
延暦17年 ようやく遺骸を迎えて、大和国 添上郡
八島に蔵(*おさ)め、さらに19年7月、
崇道天皇と追尊【9】し、その墓もまた山陵と
称した。
【9】追尊(ついそん)
帝位に就かなかった親王に、死後 贈られる
天皇の称号。

当宮「神記」には、伝教大師が早良親王を神と
祝い給い、西坂本の鷺の森に祀られたとあり、
そこの不動堂の上にある石塔は親王の御墓である。
と記され、比叡山の三千衆徒が往き還りに法施
する事より、成仏し給えと、祈ったとある。
・・
ともあれ清和天皇 貞観5年(863)5月20日、
御霊会を神泉苑に修し、疫疾を攘(*はら)い
御霊すなわち崇道天皇、伊予親王、橘逸勢、
文屋宮田麻呂等の怨霊を鎮め、祀られた。
中でも崇道天皇を第一座とされた。
        と、ある。

東から西を見た十二社
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 (北野天満宮の全貌15 に続く)



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