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zoom RSS 京都史蹟散策124 島原散策 4 輪違屋(わちがいや)ほか

<<   作成日時 : 2018/09/05 20:16   >>

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京都史蹟散策124 島原散策 4 輪違屋(わちがいや)ほか

輪違屋(わちがいや)
【位置】下京区西新屋敷中之町
【交通】IR嵯峨野線・丹波口
    または、市バス・島原口

入口・向かって左側に駒札がある。

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近年、新調された駒札によると・・
輪違屋は太夫や芸妓をかかえていた由緒ある
置屋で元禄年間(1688-1703)の創業と伝える。

現在の建物は安政4年(1857)に再建された
といわれるが、その後増改築がなされて、明治
4年(1871)には現在の姿になっていた。

平面構成は複雑だが大きく分ければ、一階
南半分の居室部分と、一階北半分及び二階を
占める客室部分からなる。
客室は全部で十数室あり、なかでも二階の
傘の間 と紅葉の間が主要な座敷で、
その襖や壁の斬新な意匠には目を見張るもの
がある。
輪違屋は、建築的に質が高く、また古い置屋
の遺構として貴重であり昭和59年6月1日、
京都市指定有形文化財に指定された。
       京都市
          と、ある。

この輪違屋。
現在でも、揚屋と置屋を兼ね備え、営業している。
そして、ここに来るには常連さんの紹介が
必要で、店前には観覧謝絶・すなわち、
一見さんお断りの木札が。
また、屋根を見ると、瓦に「」の文様が。
これは、傘と同様、当主・高橋の文字から
とられているとのこと。

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玄関を入ると突き当り、控えの間。
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 72 IMG_4576 入口・突き当り

この左側の暖簾をくぐり、

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一階の座敷へと向かう。
廊下の左側に、中庭の路地庭園がある。

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廊下の上には庇(ひさし)がなく、
庭が広く見える。
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右側が主座敷。
まず、目につくのが床の間、左手の襖。
何やら書状のようなものが、8枚、貼られている。
これは、昔の太夫のお誘い状の下書き。

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ご無沙汰しておりますなあ〜
秋の日長に、
うちも首をなご〜して〜
  とか、恋の歌が・・

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今も変わらぬ、営業努力の痕跡か・・
時が移り現代。
この太夫も、日本国中探しても
此処だけしかないという揚屋が、
輪違屋である。
貴重かつ、素晴らしい文化遺産である。

床の間・左側の掛軸
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床の間の向い側にも、下書きが8枚、
貼られている。
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そして、
この上に揚がっている額には、
養花楼とあり、これは、置屋時代の店の名
(後述)である。
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また、ふと、さりげなく屏風をみると、
近藤勇の文字が・・
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書状を屏風仕立てにしてある。
婦人、色を好む。年季明け、16年経ち、
白髪が混ざるも、ここで働く
十文字の交差の街道で
内八文字で行く大夫道中を見る。
きらびやかに着飾る様、
恰も男が鎧を着て戦い行くが如く、
これから戦いに行く・・

そして、新選組隊士のお客には、
当時、屯所からも近く、山南敬助、平間重助、
伊東甲子太郎などらが、

京の島原七つの不思議、
這入口をば出口といひ、
何(どう)もないのに道筋(どうすじ)と、
下へ行くのを上ノ町、
上へ行くのを下ノ町、
橋もないのに端女郎(はしじょろう)、
社(やしろ)もないのに天神様、
語りもせぬのに太夫さん・・・と

俗謡【1】などと詠いながら通ったのかも・・
【1】 角屋十一代目、
波娜婀耶女(はなあやめ)より

また、
大正14年3月刊・市島春城 著・
随筆 頼 山陽 によると、
山陽は、屡々(しばしば)同人と共に、
京都の花柳の名区 島原に遊んだ。
彼れが常に通った家は 輪ちかひ屋といひ、
別に養花楼といふ雅名もあるが、恐らく、
山陽が選んだものらしい。
・・・  とある。

この部屋の奥にも、庭がある。
右の灯籠はキリシタン灯籠。
反対側を向いているのは、
ご禁制時代のなごりとか。
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二階への階段は、13段。
お客同士が鉢合わせしないように配慮され、
2階への階段は、5箇所ある。

【傘の間】 
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      (掲示板より)

この間の襖は、本物の唐笠の紙を張り付けてあり
凹凸がある珍しいもの。
女紋と男紋。
女紋は杏葉牡丹(ぎょうようぼたん)と呼ばれ、
男紋は、角たて四ツ目で、台所の提灯箱に置いてある
紋がそれである。
(床の間)  
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       (在置きのものより)
松・竹・梅の材を使用し、
天井は屋久杉の天井張り。
扁額は、近衛文麿の祖父か父による筆で、
花実双美 とあり、花=太夫、実=禿、で
双方ともに、美しいの意。
さらに、【松菊正・桂小五郎】の掛軸がある。
説明の方に、お願いしての読み下し・・
春水二三尺に澄み 清く渓成に流れる
夕日なく 辺線に人ありて 釣りをする

【紅葉の間】
紅葉の葉を乾燥後、顔料を混ぜて着色された
壁が、蝋燭の光に映し出されて幻想的。
床板も紅葉の一枚板で、框(かまち・床板などの
断面を隠すために取り付けられた横木)も
楓(かえで)の木で、まさに紅葉づくしの風情。

【太夫の間】 
二間続きで太夫の寝起きする部屋。
打掛は、サテン(本繻子)を使用している。



歌舞練場跡記念碑
【位置】下京区西新屋敷中之町
【交通】IR嵯峨野線・丹波口
    または、市バス・島原口

さて、輪違屋を後にして
北へ少し歩いて行くと左手にお寺がある。
日蓮宗、成就山・法華寺(ほっけじ)である。
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東寺内の塔頭・法華堂が前身で、東寺北門から
昭和38年、新幹線の建設に伴い現在地へ。

そして、このすぐ先の右手に
デイケア・センターがあり、道路に沿って、
石碑の記念碑がある。

記念碑の前は、石畳の道
(南・輪違屋方面を見る)
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歌舞練場跡記念碑
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碑文によると・・・
歌舞練場跡記念碑
島原歌舞練場は、明治6年(1873)上之町に
島原女紅場(ニヨコウバ)として開設され、
青柳踊(アオヤギオドリ)や温習会が
上演されていたが、同14年頃には衰微を極め、
青柳踊等も頓挫した。
その後景気の回復により、太夫道中が再興され、
歌舞練場が常にその巡行の拠点としての
役割を果していた。
しかし、当初の歌舞練場は狭隘にして、
かつ貸座敷組合事務所との共用であったため、
昭和2年(1927)に中之町の現在地に移転し、
本格的な劇場施設として新築された。
それ以来、この歌舞練場は、歌舞会にあたる養柳会が
運営にあたり、歌舞音曲の練習発表の場として
毎年温習会が開催された。
戦後の同22年以後は島原貸席お茶屋業組合の
事務所としても使用されてきたが、
平成8年(1996)同組合の解散に伴い、
歌舞練場を解体し、歌舞練場百二十余年の歴史を
閉じることとなった。【2】
【2】この付近一帯の石畳の道は、
残余・清算金を使用し、改修したもの。
平成22年11月に完成した。

また天保年間の島原鳥瞰図によると、
当地はもと稲荷社が鎮座していたことから、
この大榎(オオエノキ)には、
歌舞練場解体時までその根元に祠が祀られていた。
百年の樹齢を誇るがごとく、
樹高は十五米幹周りも二米となり、今なお
神木としての威厳を留めている。

神木の大榎
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ここに記念碑を建立し、花街の象徴であった
歌舞練場と古木の由来を刻するものである。
平成13年11月吉日 島原伝統保存会

宝暦の むかしの夢は見は見つれ 勇
夜半の投節 聴くよしもなし
吉井勇(歌人 (1886〜1960)
             と、ある。

これで、
「島原周辺の散策」を閉じることとします。
           (この編・了)



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