歴史の流れ 防長回天史を読む18 第十七章 忠正公の初政と当時の大勢 その1

歴史の流れ 防長回天史を読む18 その1

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

●第十七章 忠正公の初政と当時の大勢 その1


外警に対する二種の議論
○モリソン船
○海内の大勢
○村田 清風
○七月の会議
○改革の要点
○各種の改革
○(*村田)正風らの退職
○坪井 正裕
○忠正公 幕府より受賞
○騄尉(*ろくのじょう)公子

忠正公の踏職の始めから海外の警報は、
ようやく頻繁となり、これを処する方法、自論は、
自ら二つに分かれる。
一つは、古い規定によって国を(*封)鎖して、
依然として開港を絶とうとする者である。
幕府および諸藩の有司(ゆうし・*官吏、役人)は、
旧慣習に塗れる者、ならびに愛国志士は、
この論に成る。
二つは、時勢の形勢に通じる者が多く、
臨機(*応変)を成すべきことを説く者である。
(*そして)蘭学者および、やや海外の形勢に
通じる者が多く、これを主張した。
しかし、(*現況では)殊に前者が多かった。
天保9年(*1838年)10月、
当年、参府のオランダ船が主書を幕府に致して
イギリス船・モリソン号が、我国の流民・7人を
伴い、浦賀に来て、互市(ごし・ここでは貿易)を
要請すること、近くにいることを告げる。
幕府の有司(ゆうし・*官吏、役人)が、
議論して云うには、
イギリス船が来れば、よろしく文政8年の令に従って、
無二念打払(むにねんうちはらい・*異国船打払い
のこと。無二念とは、二つの異なった考え無く、の意。)
を決行すべきのみ、と江戸の処士・赤井厳三、
佐藤元海、鈴木春山、岩名昌山らは、蘭学を修め、
あるいは、海外の事を知る者は、その軽挙で事を
誤まらないことを憂い、
私に議する(*個人的な意見を云う。)ところがあった。
特に田原藩年寄格・渡辺 登、江戸の町医・高野長英
のような者は、各々書を著して、その不可を論じ、
当然、大いに活動した。
当寺、水野越前守・忠邦は、老中であった。
町奉行・鳥居忠耀(耀蔵甲斐守)は、忠邦の腹心で、
元より蘭学者を好まない者である。
よって、渡辺 登、高野長英の二人がしきりに書を
著して時事を論じ、人心を扇動する者として、
終に獄を起こして(*裁きを下し)、
渡辺(*登)に、在所・蟄居、
高野(*長英)に、永牢を命じた。
一時(いっとき)、海外の事を説く者が、
口を篏(はさ)む。

天保11年(*1840年)に、イギリス船が果たして、
漂流民を乗せて来る。
陸上の警備兵は、(*大)砲を発してこれを撃つ。
イギリス船は、去って薩摩へ行く。
(*そしてイギリス船は)又、砲撃される。
天保12年(*1841年)5月、
長崎の人・高島 秋帆(四郎太夫)の徳丸練兵
の事があった。
規模は、なお小さいけれども、
泰西節制(たいさいせっせい・*西洋諸国の規律正しく
統制がとれた)の兵式が初めて都人の目前に落ちた
(*現れた)のである。
天保13年(*1842年)10月、
(*町奉行・鳥居)忠耀は、また高島父子の
獄を起こす(*裁きを下す。)。
そして海外のこと、いよいよ急になる。
この年(*天保13年)、(*イギリスの)モリソン船は、
書をオランダ船に託して、その漂流民を還(かえ)し、
貿易を願う、の意を伝えた。
(*町奉行・鳥居)忠耀らは、元来、蘭学を好まない者で
あったが、ここに至って終に、温和な手段が、
やむを得ないことを知り、(*老中・水野)忠邦に
(*温和な手段を執ることを)勧めるところがあった。
かつ、閣老・真田 幸貫(信濃守)も又、温和な手段を
(*執ること)やむを得ないと主張することをもって、
同年(*天保13年)7月【原文ママ】、
幕府は遂に策を決して、異国船打払いの令を止めた。

これより先、将軍・家慶は、(*老中)水野忠邦と共に
大いに流(*通貨)幣を改革し、倹約質素の風を養い、
国本を堅くする、意があった。
しかも前将軍・家斉に遠慮して(*令を)発せず、
天保12年(*1841年)正月、
(*徳川)家斉が亡くなって初めて
「享保寛政の制に復するの令」を発して、
大いに士風の贅沢を抑えて、諸侯の献品は、
金を物に替えさせて、
「天下の銅を銅座に献じるの法」を設けて、かつ、
諸侯を5年間に提封(ていほう・*諸侯の領土)
1万石ごとに米、100石を蓄え、不時に備えさせ、
さらに士庶(*武士、庶民)が華美・贅沢の風に
流れることを禁じた。
その意は、質素倹約をもって士民を戒(いまし)め、
勢力を統一して外寇(がいこう*外国の軍勢)に
備えようとすることにあった。
そして、その弊害、あるいは、苛察(かさつ・
*厳しい詮索)は、繁文(はんぶん・*飾りたてた
文章)に陥った。
そのため、下民は、職を失い、
恨み言(*ごと)が増えて優秀な吏の多くは、
意を得ず(*物事をよく理解出来ずに)去り、
軽薄急躁(けいはくきゅうそう・*思慮が浅く
騒ぎ立てる者)、功を競い、誉を得ようとする者、
が多くなってきた。
ここにおいて、人心は、ようやく(*老中の元を)
去り、陰謀が生じて、
天保14年(*1843年)閏9月、
(*老中)水野忠邦が終に退職する。

翌、弘化元年(*1844年)
オランダ国王は、初めて国書を我国に送り、
鎖国すべきないことを忠告する。
寛永の鎖国以来、外国の国書が送られたことは、
これが初めてであった。
幕閣は、大いに驚く。
(*徳川)家慶、よって(*水野)忠邦の苦心を諒解し、
その6月22日に再び召して、老中上座とした。
(*にもかかわらず、)遂に、その職に安泰すること
なく、弘化2年(*1845年)2月22日になり、
再び、退職する。
これにおいてか、幕閣の勤倹尚武(きんけんしょうぶ・
*しっかりと働き、質素に暮らしながら励むこと)
の策は、頓挫する。
そして水戸の徳川斉昭もまた、この間において
責めを負い、退職することになった。
水戸の改革のその急激さは、むしろ水野の政治に
匹敵するものではなかった。
天保7年(*1836年)、長き間、水戸の政治の
弊害の源であった藩士定府国詰めの制(*度)を
変えて、藩士交代の法とし、在江戸と在国との
かけ隔たりを破った。
天保10年(*1839年)、
床几廻(しょうぎまわり・*親衛隊のようなもの)を
置き、国中の才智のある者、100人をこれに充て、
戦時の出陣に備え、
天保11年(*1840年)3月、
諸臣に命じて水戸城・千束原(せんぞくはら)に
召集し、大いに兵を閲して天下の視聴を驚かした。
(*これを)追鳥狩(おいとりがり)と称する。
*水戸市元石川町に千束原追鳥狩本陣跡の社がある。

これ以後、毎年、これを行う。
天保12年(*1841年)、
(*仕上げ)工に命じて、巨砲を神崎に鋳造させて、
水戸城・第三郭士大夫の宅
(*三の丸内の山野辺家などの重臣層の屋敷地で
あったとされる。)を撤収して弘道館を作らせた。
天保13年(*1842年)、
初めて銃陣大極陣(*銃で武装した兵隊から成る陣)
を作る。
当時にあっては、それは非常に
放縦専恣(ほうじゅう せんし・*勝手気まま)の
ものではなかった。
加えて、国内は、又、党派、相、争い、
終に梵鐘を壊して大砲を鋳造し、破戒の僧を罰し、
廃寺を壊して、僧が還俗を願い、髪を蓄えるに
至っては、民衆の口は、(*非難)ごうごうであった。
弘化元年(*1843年)5月、
すなわち、水野忠邦が再び閣老となる前月、
徳川斉昭は、遂に幕府の責めを受け、老いて
国のその子・慶篤に譲り、駒込邸に屏居(へいきょ・
隠居)する。
ここにおいて幕府は果断の政治家を失い、
水戸は、有為の君を失い、天下は再び、
恬熙(てんき・*安らかで楽しいこと)に還ろうと
する。
しかも海外の大勢は潮のように(*迫り)来る。
また、これを防備することが出来ない。
これ(*このような状況)が、嘉永癸丑
(*嘉永6年、1853年)に至るまでの
(*忠正)公の初政間に起こった天下の大勢であると、
する。

(*忠正)公、既に藩主の職に就く。
時に三公大故の後を受け、加えるに年に飢餓、多く、
かつ、未曽有の水害があった。
歳入は、その半分に減り、財政は、ますます窮する。
加えるに藩士から徴する馳走米も、また、
多くに上がり、士気は自ら懈怠(けだい・*怠ける)し、
質素倹約の気は消えて、織嗇(せんしょく・*けち。
の情が出て、武備は、いよいよ衰えた。
(*忠正)公は、ここにおいて奮起して、
大いに改革を行う意があった。
まず、身をもって士民の(*模)範となそうと思い、
天保8年(*1837年)、身辺の諸事に一層の心を
もって、倹約すべきことを令し、
天保9年(*1838年)4月、入国の時、
その護衛を減じ、かつ、みずから、木綿の外套を着、
かつ、君意の浹洽(しょうこう・*広く全体に
ゆきわたること)が出来ないと云うことは、
官吏の遵奉(じゅんぽう・*法律・命令・教えなどを
尊重して、 これに従うこと。)に関することが
如何に多いか、と云うことで、
同・天保8年(*1837年)、江戸の役人に粗末な服を
用いることを命じた。

次いで、村田清風らの俊才を用いて、
鋭意、(*国を)治めることを図った。
ここにおいて、一藩の風紀は頓(とみ)に改まり、
駸々(しんしん・*馬の進みの速い様子。)として
中興の(*気)運に向かう。
村田清風は(通称、四郎右衛門松斎と号する)は、
(*忠正)公と共に中興の事業を扶植(ふしょく・
*勢力などを、植えつけ拡大する。)した。
まさしく、(*これは)二州の士気を鼓舞し、
その遊び呆ける慣習を変え、忠孝の大義を明らかにし、
護国の精神を盛んにさせて、将来に大変に備えさせた
のは、もとより(*忠正)公の心から出ていると
云えども、士流の典型として、一藩の興望を負い、
(*忠正)公を助けて改革の要に当たったものは、
すなわち、村田清風に他ならず、
清風の胸懐・洒落・大言・善罵は、殆ど(*彼の)
直情徑行(ちょくじょう けいこう・*感情の赴くに
任せて思い通りに行動 すること)の風があった。
しかし、その天下の大勢を洞察し、事務の要局を知る
才能においては、すなわち、殆ど群れには絶無で
あった。
(*そして、彼は、)常に竹之内宿祢、北条時宗、
林 小平の「人となり」を慕い、武備を厚くして、
外敵を防御するのを志とした。

[(*村田)清風の片言零語[*わずかな言葉] も又、
よくその「人となり」を知るに足りるものがある。
今、その2,3を以下に録する。             ]
云うには、盛大な心で公明な事を行う。
云うには、釈迦も飢えては道も説けず、
云うには、量入為出(りょうにゅう いしゅつ・
*収入を計算し、後に支出を決めること)の他、
富国強兵は、これはないこと、と承る。
云うには、術は西洋を学ぶべきである。
云うには、馬は野馬(*野飼いの馬)が良い。
東西に外敵が来るときにあって、
弓の礼射、馬の庭乗りも流行遅れの士と
云うべきである。
云うには、小人は島の人を集め、
大人の顔色は、誠忠の臣下と云うべきであろう。
云うには、学問の要は虚懐(*すなわち、虚心坦懐、
心に何のわだかまりなく平静に事に望むこと)にあり、
又、外敵の防御を論じて云うには、
都での手当(*用意は)は、外敵が来るときではなく、
平日に必要である。]

文化年間(*1804-1817年)、
清徳公(毛利 斎熙・長州藩第9代藩主。)が、
異国船の手当のため、神器陣を作ろうとするが、
(*村田)清風は、当時、歳、なお若く、
密用方として、その議に参加する。
文政6年(*1823年)、清徳公が国用の費用で
有司(ゆうし・*官吏、役人)を江戸に召して
議論して改革しようとした。
(*村田)清風は、すなわち、当役、当職の
両署の規則に応じて改革すべきものを論じて
これを上げる。
その言は、極めて剴切(がいせつ・非常によく
当てはまる。)であった。
清徳公は、これにおいて、その才を用いるべきこと
を知り、文政7年(*1824年)、(*村田清風を)
抜擢して、当職手元役として、翌年、
郡奉行を兼任させる。
しかも、吏風因楯(*役人の古い習慣や方法。)
の多くが合わず、度々、情を述べて解職を願い、
文政10年(*1827年)、聞き入れられて、
矢倉頭人(*武器庫のかしら)となり、
江戸にいること4年、撫育方に転じた。
天保元年(*1830年)(百姓一揆の前年)、
当役手元役となるが、再び、意を得ず、
辞職する。
清徳公は、老いて葛飾の別邸にいた。
(*そして、清風を)召して、その手元役とする。
清風は常に江戸の地で糧を海上に仰ぎ、
一旦、緩急(かんきゅう・*急ぎなこと)があれば、
運輸の手段がなくなり、食料に窮乏することを憂い、
食料の貯蔵の事を行おうとし、思うに、
清徳公は、既に老いており、元より政治に干渉せず、
しかも米殻のことに至っては、敢えて一例に
論じられないと。
(*そこで、藩内で)議論して、米・五千石を
貯えるべきである、とする。
(だが、)役人、意義を唱える者があり、
(*五千石を)減じて三千石とした。
(*やがて、忠正)公が領土を継ぐことになり、
士人、皆、清風の再出を請う。
常職・益田元宜(越中、後に刑都と称する)も
又、(*忠正)公に清風を用いるべきであること
を言う。
天保9年(*1839年)8月4日、
(*忠正)公は、清風と香川 作兵衛(景長)を
挙げて、地方および江戸の仕組掛とし、
周布 勘解由(兼箆)をこれに参加させて、
財政の改革に従事させる。
清風、時に年58。
天保10年(*1840年)7月13日、
さらに、木原 源右衛門(通貫)、
山田 市郎梅門(龍共)、長屋 藤兵衛(春幸)を
加える。
これより先、(*忠正)公が領土を継ぐと、
益田 元宜、当職であった。
毛利熙頼(熊太郎、後、隠岐と改称する。)、
当役であった。

天保11年(*1841年)、
(*忠正)公が国政整理を急ぐため、幕府に願い、
期を早めて国に帰り(4月に江戸を発するのを
恒例としたが、この時、正月に発し、2月に着いた。)
3月1日、
益田元宜を当役に転じて、毛利 房謙(蔵主)を
当職とした。
衆望の帰するところによるものであった。
5月27日、
清風に命じて当役用談役とし、併せて、
手元役のことを兼務させた。
これは、その権力を重くし、(*益田)元宜を助けて、
もっぱら改革に従事させようとした。
7月7日、
政府は会議を開き、役人の各々の意見を具陳させた。
村田(*清風)、坪井(*正裕)、木原(*源右衛門)など、
各々、論じるところがあり、財政の救済から推察して
時弊の改革すべきものに及んだ
(村田[*清風] が云うには、破格人(*並外れた者)を
用いるべきである。
公金の貸与の弊害をなくすべきである。
高15万石の米と1,500貫の銀とで、入りを計って、
出るを為すの制度を定めるべきである。
坪井[*正裕] が云うには、
下情の通達を期すべきである。
木原[*源右衛門] が云うには、
当役に事務を通さないのは無責任である。
よろしく、重臣にその責任を負担させるべき]
である。)
(*忠正)公の初政の大綱は、実にこの会議によって
定まったと云う。
当時、政府の役人たる者、
(*益田)元宜、村田(*清風)から、
中谷 市左衛門章貞(当役手元役)、
長尾 藤兵衛春当、仁保 彌右衛門慰道、
小川 善右衛門為政、福原 輿左衛門俊直
(以上、御用所役)
坪井 九右衛門正裕(江戸当役御用筆)などに
至るまで、
群才彙進し(*才能ある者たちが群れ進み)、
様々な職は、その人材を得た。
積年の因習の弊害は、ここにおいて、まさに
一洗(いっせん・*すっかり取り除くこと。)
しようとした。
始め(*忠正)公は、領土を継ぐときに、
家臣および百姓の馳走米を徴収することは、
旧来のようにし、かつ、臨時の費用が要るときも
なお、年々の負債を増加し、その利子さえも
償うことが出来る勢いがあった。
(*村田)清風、(*坪井)正裕らは、議して、
以為らく(おもえらく・*考えるには)、
従来、数々の改革を企てるも、遂に、度々、
敗れるのは、藩主の鋭意、あるいは、足らず、
因循(*いんじゅん・*古い習慣に頼り、その場を
しのごうとする)の議論に入りやすいことに
あった。

今、(*忠正)公は、自ら憤慨を発して、為そうとする。
これ、実に千載の好機である。
長らく、まず(*忠正)公が実践射行
(じっせんきゅうこう・自らの意思で実際に行動、
実行すること。)し、士民を率いることを要請した。
かつ、財政のことは。
御密用と称して、政府の役人と云えども、
中枢にいる者でなければ、これを知ることは出来ず、
これは官吏が国財の窮迫を意としないで、往々、
倹約を市内流れになる所以(ゆえん)であった。
しかし、これを開放して財政の現況を士民に告げ、
この国が憂(うれ)う精神を激励し、君臣、
心を合わせて改革に従事するには、このようにして
上下の憂いを同じくし、国論を一和にすれば、
初めて積年の弊害を破るべきである、と。
よって、天保11年(*1841年)7月13日、
(*益田)元宜、(*毛利 )房謙が共に(*忠正)公
に謁見して告げるところがあった。
かつ、今後の改革は、一に(*忠正)公の
親裁を待つべきであるころと稟議した。
(*忠正)公は、これを善しとし、遠慮せずに
事を云わせて、8月7日になり、
広く財政の現況を一藩の士卒に示し、かつ、
これを班次(*はんじ・席順)の高卑を問わず、
いやしくも、時弊を見ることがあれば、ことごとく
忌憚(きたん)なく、これを言うようにさせた。
ここにおいてか、上下、等しく奮い立ち、
改革の業は、いよいよ、その歩みを進めた。
従来、藩のひとつの弊風(へいふう・*悪習)は、
諸局が各々、その慣例を株守(しゅしゅ・
*いたずらに古い習慣を守り、 時に応じた物事の処理が、
出来ないこと。)し、脈絡が相、通じず、そのために
事を固くし、財を滅ぼすのである。
ここにおいて、努めて地方・江戸の仕切りを破り、
両職座をして左輔右粥(さほ ゆうひつ・
*君主の左右にあり、その政治を補佐する臣。)が、
同一心体にさせようとし、諸僚は、各局が
心を合わせて(*忠正)公を助け、
改革の事に従い、財政の現況を公示し、
量入為出(りょうにゅう いしゅつ・
*収入を計算し、その後、支出を決めること。)
の策を講じて、地方、江戸の財官を通同
(つうどう・*なれあいになること。)し、
修補金殻を減じて、越荷方(こしにかた)
の法を設けて、財政の整理を謀った。  
*越荷方とは、
村田清風が下関に設置 した藩営の商社。
大坂での相場が安い時は、越荷を下関に留め置き、
高値になれば、売って利益を得た。

そして、士民の馳走出米を軽減し、かつ、
士の公私債を処置する法を定めた。
この様に、一面に財政の改革を図ると共に、
一面には意を、文武の奨励、人才の教育、
兵制の改革、および辺防(へんぼう・*国境の防備)
に用い、村田清風、赤川喜兵衛(忠通)、
長屋藤兵衛(春幸)に命じると、
神器陣の練習掛を(天保11年8月25日)
日を限って壮年の者を入学させ、(*忠正)公、
自ら、小畑(*現・萩市)の狐島に行って巨砲の
試発を試み、((天保11年9月16日)
徳丸原で催された高島流銃陣のように、
水戸の閲兵のように、あるいは、人を遣わして、
これに従学させて、あるいは、その状態を視察させ、
事に財政困難の間において百方(*ひゃぽう・
あらゆる手段で)、計画するところがあった。
天保14年(*1843年)4月1日になって、
大いに羽賀台に練兵し、長い間、兵革を見なかった
士気をして、その盛観に驚かされた。
この間、内政に関して諸種の改革を行った。
その重要なものを挙げれば、左のようである。

● 一 徴税法の修正
往時、畠地の石高を受け、そして、その地は、
小石などが多くやせた土地で、物を生ぜず、遂に、
荒廃地となったもの、これを受荒畠山成と称する。
そして公租は、依然、その石高に応じて賦課されるもの
が多かった。
これにおいて、その畠地税を廃して、合壁山
(がっぺきやま・*民有の山)に編入し、また、
往時、田地の石高の多いものが少なからず、
よって、休石(*石高があって税がないこと)の法
を拡張して、その弊害を救った。
例えば、高 1石5斗で、5斗が重すぎるため、
5斗を有名無実として、これに対する公租を、
免じることを云う。
検見の法は、また、その実施上、非常に
思いやりのないものが多かった。
よって、密旨を検見の役人に伝え、
大いに、意を用いるようにさせた。
これらのことは従来、小民の最も苦しめるところ
であって、民がこれを感じることは最も深かった。
民間の父老に説があるものがいた。云うには、
四境の戦い(*長州征討)は、小民の末に至ったが、
なお、死をもって国に尽くしたものであった。
まさに、この三者をその要因の大なるものとする、
と見るところがあるようである。
これに加え、農民の馳走の出米は殆ど
高 1石に5升を恒例とするものだが、
(*忠正)公の時になると、次第に軽減して、
遂に3升に下がった。


● 二 司法制度の改正
司法制度の大綱は、万治年間(*1658-1660年)に
おいて、やや整ったと云えども、元より多くの
欠典(*規則・規定などが不完全なこと)があるのを
免れず、弊害の積み重ねがこれに加わり、
天保年間(*1830-1844年)になると、ますます
ひどくなった。
ここにおいて、天保11,12年(1840-41年)の
両年間において、改革するところが非常に多かった。
その著しいものを挙げると、

◆第一には、裁判法の改正であった。
天保11年(*1840年)7月に定めたものである。
司法の職司の専任者がないのは、従来、裁判法の
ひとつの欠典で、士民は、その弊害に堪えられ
なかった。
これより先、諸士間の訴訟は、大究と唱え、
物頭、あるいは大組非役の中から究方を命じて、
これに目附役を添えて、審問のことに当たらせて、
足軽以下の庶人の訴訟は、その時々に、中間頭、
盗賊改め方などに命じて審問し、直ちに諸郡において
判決させた。
しかも聴訟(ちょうしょう・*訴えを聞いて採決すること。)
の役人は、事が無ければ、すなわち置かず、
事があれば、すなわち、班により任じることを例として、
任命の往復の間、日を過ごすことがあった。
聴訟の任に当たる者、あるいは、原被の実情が
分からない者がいた。
あるいは、徒らに事情を詳審して、疎濶(そかつ・
*久しく会わず、間柄が 親しくないこと。)の罪を
免れようとするために、日時を長引かせる
ことがあった。
一(ひと)事あれば、すなわち、一(いっ)官を
命じるので、事、多くして、曲、狭く、
他の裁判を待つ間、空しく日を過ごす者もいた。
獄に滞在すること、往々、数百日にも亘り、
これにおいて、初めて目附役の中から
常任の公事掛を置く制度を始め、その定役が座を開き、
目附役・天野 九郎座衛門濶、小寺 留之助茂直を
これに補して、目附座、月番、その他の出勤を
免じて、もっぱら、訟獄(しょうごく・*訴訟)の事
に当たらせた。
[当時、定評役座の定員は、評定役2人、目附役2人で、
本役の勤務を免じて、もっぱり、訴訟の事に当たらせた。
執筆役2人、接近付けの中、文筆の出来るものをこれに
命じる。          
御徒士目附2人、卒以下庶民の予審に当たる。
下横目6人、打廻り捕手兼6人、荒仕子6人。]
(*そして)聴訟(ちょうしょう・*訴えを聞いて採決する
こと。)の法、初めて、やや備わるようになる。

◆第二には、裁判法の改正であった。
刑律の不備は、長く既に刑事裁判の一つの欠典
(*規則・規定などが不完全なこと)であった。
ここにおいてか、天保12年(*1841年)5月11日、
明倫館学頭および評定所に令して、笞刑(ちけい・
*律の五刑のうち最も 軽い刑。むちで打つもの。)
を行うことを議論で決めさせて、その6月11日、
江戸当役が、書を地方当職に送り、律の改正
すべきものを挙げた。
云うには、
一、御国民と他国者の旅籠屋を別にすること
二、賭博、喧嘩、そのた諸士、足軽、陪臣らの処置、
ばらばらでまとまりのない。
今後、格律を相、定めて一定の仕置きを仰せ付きたく、
三、死罪に及ばない他国者は、打擲(ちょうちゃく・
*なぐること、)の上、入れ墨をして国外退去、
四、全てのごたごたの罪状にこれ無く、
一通りの件で決まった上は、入牢に及ばず、
その刑は、同日に執行すること、
五、国民は、再犯までは入れ墨に及ばず、
六、村退、郡退、川越などの刑法は差し止める、
七、徒刑(*島送り)、贖刑(*留置)は、早々に
詮議仰せ付きたく、当時、既に刑律改正の議論が
あることを知るべきである。

天保13年(*1842年)8月10日、
律を定めず、先例によって事を決めつけるのは、
滞獄が長きに亘る欠点があるので、
律を定める役人を選ばせて、まず、その大綱を
定めた。

百姓、町人のお仕置きの概要

一 磔(はりつけ)
主人の殺害。
親の殺害。
火付け、贋金、銀を拵えるの。
密夫(みっぷ・*ひそかに人妻と情を通じる男)
をして、実夫を殺害する類、その他、重悪のもの。

一 獄門
人を殺害する。
強盗。
追い剥ぎ。
公的な物を盗み取るもの。
神具、仏具 並びに武器を盗み取るもの。
入れ墨が三度に及ぶもの、旅人の荷物を
盗んで逃げるもの、人足、贋の切手を致すもの。
贋金の銀を知りながら使用するもの。
牢を抜けるもの。
毒薬を使用するもの。
主や親に手傷を負わせるもの。

一 斬首
死罪で首、討ち捨て申された件、
普通、これはないが、御家人に、たまたま
その例がある。
罪科は前条の内、軽い方に相当する類。

一 牢舎
窃盗の類。
軽い悪事を巧みにするもの。
人を誑惑(きょうわく・*だまし惑わすこと。)し、
世の害になるもの。
狼藉致すもの。
盗人の宿。
博奕(ばくち)の宿。
密夫、その他、倫理を破るものの類。
越訴(おっそ・*江戸期以降、直訴の意)するもの。
人を傷つけるもの。
軽い謀書(*文書偽造)、謀り班の類。
ねだり事、かたり事をするもの。
公事の裁許(さいきょ・裁可)を受けていない類。

一 遠島
死罪、一等を破り、減じるもの。
誤まって、軽いひとを殺害する類。
徒党を組むものの類
不行(ふこう・*素行が修まらない、)の跡が
現われたものの類。

一 追放
他国から来る悪人。
盗人が出牢、叩きのうえ、入れ墨をして追放。
死罪には至らず、国中に難儀が起こりそうなものの類。

一 所退
小盗人。その品格により入れ墨をして所払い。
軽い悪事をしたもの。
村所の妨げになるもんの。
喧嘩、争論したものの類。

一 閉戸ならびに追込
衣服、その他、軽い法度を犯したもの。
軽重により閉戸、あるいは追い込みの上、過料。
無断で他国へ行く類。右と同じ。
無礼、無念、緩怠の類、その他一切の
小過(*しょうか・わずかな過失)、 
委敷(くわし)くは、記し難い。

当時、また、未決囚の監禁場の新設があった。
これより先、農商の罪があった。
萩に拘引(こういん・捕られて連行する)して、
鞠問(きくもん・*罪を問いただす)するものは、
親戚たちも同じく護送させて、その郡の問屋に
宿をとり、監守を厳重にさせて、審問するごとに
相、携えて出させt。
(*これは)非常に民を煩わし、かつ、農時を妨げ、
ここに至り、評定所の(*ある)地別に一舎を築き、
未決の罪人を捕虜する所とした。
その他、なお数々改革する所があり、
癸丑の年(*嘉永6年、1853年)に及んだ。


次回、
「歴史の流れ 防長回天史を読む18 その2」
に続きます。


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