歴史の流れ 防長回天史を読む23 第二十二章 弘化嘉永の兵備

歴史の流れ 防長回天史を読む23

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

第二十二章 弘化嘉永年間の兵備

○海防の区画
○武器の検閲
○吉羽 数馬
○武器購入
○嘉永年間の出師の準備
○嘉永6年の武具定
○蘭学者の洋式兵制
○島田・鍋島・真田三氏および江川氏の洋式兵事
○長州藩の一歩を諭した事情

毛利氏の封土(*領土)は、三面、皆、海に背が
あるので外敵を思い、又、最も多く、(*忠正)公は
深くこれを憂い、意を海防に用いることが
切実であった。
弘化元年(*1844年)7月13日、
(*忠正)公は諸老臣を召し、守地を区画して
外郭、赤間関、前大津、先大津、阿武郡、城西の
6沿海地とし砲台を築き、各々総奉行を置き、
八家中からこれ(*総奉行)に任命する。
この年(*弘化元年)12月、
物を賜いて粟屋翁助、郡司 源之允(*いずれも国相府。)
を賞した。(紋付の上下)
これより先、二人(*粟屋翁助、郡司 源之允)、
長崎から帰り、その学ぶ所の大砲発射法を講究し、
並びに洋式巨砲を鋳造して功績があったことによる。
(*弘化)2年(*1845年)5月23日、
さらに萩城および海外防御の部署を定めて、
これを幕府に報告した。

萩城および海岸防禦部署の概略
○萩城守備 9,213人
  内 第一郭4,250余人 第二郭2,980余人
第三郭1,300余人 市街800余人
    大砲162門  小銃2,840丁
○城西瀕海守兵 1,010余人
    哨堡(しょうほう・*遠くを見張る為のとりで)
    1個(番卒4名)  大砲23門(砲台4座)
    小銃265丁
○城東瀕海守兵 2,750余人
    哨堡2個(番卒 各4名)大砲52門(砲台7座)
    小銃721丁
○同 海上水軍 1,420余人
    大小船135隻 大砲10門 小銃124丁
○諸島守兵93人
  内 相島 哨堡1個 大砲3門 小銃10丁
       兵士8人 砲台1座
    見島 哨堡2個 大砲12門 小銃100丁
       兵士55人 砲台3座
    大島 哨堡1個 大砲3門 小銃30丁
       兵士30人 砲台1座
○大津瀕海守兵 1,950余人
    哨堡2個 大砲40門(砲台6座)小銃1,478丁
○豊浦瀕海守兵 1,950余人
    哨堡3個 大砲68門(砲台10座)小銃1,829丁
○赤間関沿海守兵 1,430余人
    哨堡4個 大砲38門(砲台15座)小銃800丁
         船32隻
○阿武瀕海守兵 3,380余人
    哨堡3個 大砲76門(砲台12座)小銃1,593丁

合計 士卒25,000人 大砲487門 小銃9,500余丁
 但し、支藩および岩国は、この他とする。

そして陸軍は、萩城を策源地とし、水軍は三田尻を
根拠地とし、又、予め軍需補給の資源を定めた。

初め内海の防備は北浦と同じく諸所の港湾、岬門は、
皆、平等に守兵を配置したが、ここに至って、
内海の防備を緩め、力を北浦に専(もっぱら)にした。
正確には当時にあっては内海沿岸は、外敵の思いが
少なかったからである。
その後又、火砲を増鋳し、砲台を改築するなどの
事があった。
この年(*弘化元年)7月、各士臣に内諭して
一般に糧秣(りょうまつ・*兵士の食糧と軍馬のまぐさ)
を準備させて、釆地(さいち・*領地)がない者、
又は釆地があっても資力がない者は、5日間の糧秣を
給与して、各々、その配下の兵員に5日間の食料を
貯蓄させた。
翌、弘化3年(*1846年)、
洋艦が朝鮮を侵したことの報が入った。
(アメリカ船一隻が朝鮮海岸で座礁し、土兵のために
破壊されたことがあり、正確には、この時の事である。
但し当時、朝鮮から戦争としてこれを対州に報じ
伝えて長州藩に至ったのである。)
(*忠正)公は、時に江戸にいて、益々、海防の急を
感じ、手元役・宍戸 房寛丹後に書を当局の諸老臣に
与え、火器習熟と隊伍操練の要(かなめ)を論じ、
これを徐々に計画するようにさせた。
正確には、当時(*忠正)公は、既に神器陣が頼みに
足らないことを知ってはいたが、情実の絡みは、
未だに(*忠正)公に快活の英断をすることが
出来なかったので、人心の激しさを知らず、
識らずに、兵制を改革したいと思うようなもので
あった。
(*手元役・宍戸 )房寛の文は、紆余曲折して
非常に苦渋の態度があるが、正確には、
このためである。

宍戸 房寛が諸老臣に与えた書

【*以下、原文意訳】
朝鮮国から対州公へ書簡の写しが長崎・御屋代から
差し出されたことで、隠岐殿の御手子衆から手子衆へ
行き渡った趣の委細を承知致し、および聞いたところ、
(*忠正公は)深く御案じ遊ばされた。
近年、(*中国の)広東あたりで騒乱があることを聞き、
去々年以来、長崎・琉球へも異船が漕ぎ寄り、
又、この度、朝鮮国をも恐がらせた次第を聞いた。
かれこれ大害が眼前に逼迫している。
すでに朝鮮国に渡ったとの事で、年々、漂流船も
あるほどの海の様子である。
この内、御勘定組頭が気づいた件は、
蔵主殿(*毛利 房謙)、隠岐殿(*毛利 熈頼)の御意の
通り致すと符合する。
もし万一のことがあれば、お計らい方次第では、
(*忠正) 公あたりに対してなされるであろう。
(*これは)大事な件であり、名家の恥辱などを
引き出しては、誠に相、済まず、
一昨年、(*忠正公が)公内借捌きを仰せ付けられ、
その御主意は、的中致した時節であります。
(*そして)お手当の向き、益々取り急ぎ御詮議を
仰せ付けられましたが、近年の御改革、海防などの次第、
とりわけ、公内借捌きの御主意は、諸侯方においては、
いたって御評判であるとのこと、
追々、お聞きになることについては、内輪では厳重に
お手当、かれこれ、万端が不行き届きでは、
相、済みません。

(*そして)海防の一件については、これまで器械、
台場などの取り調べが第一で、
練兵の件は、格別にご詮議など、これ無く、しかしながら、
練兵の件は、肝要でご詮議すべきであります。
例えば、接戦守護の器械は、一つ、一つ備えても
芸術が熟さず、進退が不馴れでは、実地の用便には、
役立ち難く、もっとも異賊の件は、火器で相、敵する他、
手段がありませんので、現在の神器陣周発台の人数では
誠にわずかな事で、御旗本の御備えにも劣らぬほどに
あるべきであります。
ましてや、55里に及ぶ敵を受けようとすれば、
別けても一人でも練兵が入用である件は、
最前、(*忠正)公あたりへお届けの人数、
組々も猟師、社人らをも積み立てのご詮議が
相、成りました。
(*しかし)人数が揃っても、火術が不案内で、
進退は不馴れでは、お役に立ち難く、
ましてや御家来中は、第一に心得るべきである件は、
神器陣周発台などでは意味合いもあり、
混合すれば稽古は調べられないので、
無給通以下は格別に、場所においても定まらず、
砲術者の内に指南を仰せ付け、(*それを)心掛ける者は、
勝手に稽古をしないように迫る御沙汰が成り、
ようやく御引き立てが成り、神器陣と混合せぬよう
仰せ付けられれば害も少ないでありましょう。
もっとも砲術に限り、
無給通り以下のものに立つように引き受けては、
又々、色々の気方もありますが、右は(*それは)
ゆるゆるとお諭しの心もあるでしょう。
その他、北浦の御手当の場所において、
御代官らの計らいで、折々、稽古の内揃いなどを
仰せ付け、兼ねて、物馴れすれば、現場の御用に
役立つべきと申し上げます。
第一、 八組方も一組、限り、限りで、折々、
羽賀台などで勢揃いなどを仰せ付けられれば、
自然に気方は引き立ち、砲術を心掛けるようにも
向かうでしょう。

(*これから)夏の海にも向かう気候になれば、
又々、異船の沙汰がある時節につき、
勢揃いの御沙汰心もあるでしょう。
人の気が競えば、諸芸の稽古も奨励を得て
自然と御政道が立つべきと申し上げます。
何分にも最初は、逼迫せず、ゆるゆると御導き
なされて(*その)意味を引き出されるよう
仰せ付けられれば、練兵の稽古は、
一日も御猶予が無いようなことに見えると存じます。
ともかくも現場の御手ぬかりのないように、
兼々、御用心が第一の事とであります。
もっとも右(*上述)は、御用心にて、過ぎたることで、
万一の節は、少壮(しょうそう・*若くて意気盛ん)
の者は、すぐに血気に乗じて申さぬよう、傍らの赴き、
御手当掛で厚く詮議を仰せ付けられるよう申し進めるべく
仰せ付けのほどを(*願います)。
        (3月23日)【*原文意訳・以上】

(*弘化)4年(*1847年)3月2日、
(*忠正)公が東上の途につく、この時に当たり、
藩の砲術家・郡司 源之允らは、しきりに西洋砲術を
研磨する。
延岡藩士に吉羽 数馬と云う者がいて、
西洋砲術を長崎に学び、非常にその技に達し、
これをもって四方に遊ぶ志があった。
(*忠正)公は東上前二にその事を聞き、
郡司(*源之允)らに彼らと共にその技を演じ、
その益を受けようとして、彼を萩に招いた。
(*吉羽) 数馬、(*弘化4年)3月、萩に着く。
そして郡司(*源之允)および郡司 次郎兵衛が
接待の任に当たり、かつ、演技を助けさせる。
その(*3月)13日に城東・羽賀台で演じる。
当時、用いる所の機具のようなものは、主として
郡司らの用いる所のもので行ったようである。
当時の記録中、この日に演じる所を記すものがあり、
(*それは)左(*下記)のようなものである。

【原文ママ】(*文中、■の語句、写真参照。)
○忽熕(ホィッスル)  
 装二十六封度鉄弾者(26ポンド エイスルゴール装者)
第1回 石榴弾(ジャクロタマ)(カラナーデン ゴーグル)
     但し、試放発薬なし
第2回  同弾
第3回 蒲桃弾(ブトウ タマ)(ドロスウ ゴーグル)
第4回  同弾
第5回 石榴滾射弾(トべリ タマ)(ロルスコリー)
第6回  同弾
第7回 鐡盒弾(ブリツキダマ)(ブリツキトチス)
     但 鉄屑ダマ
第8回  同弾
第9回 鏡板(スピーゲル)石榴弾 但 遠町うち
第10回  同弾

モルチール 天■(モルチール)
 装十六封度石弾者(16ポンド ステエンゴーグル)
第11回 盆貌弾(ボンベン)
     但し、試す放発薬なし
第12回  同弾
第13回  同弾
第14回 鉄欞焼夷弾(テツカゴ ヤキウチタマ)
(エイスルケラームラント ゴーグル)
         但 小石榴弾発し入り
第15回  同弾
第16回 以下三発 早放
     煙弾(ケムリダマ) 一名5里霧
    (ダンブゴーグル)
第17回  同弾 
第18回  盆貌弾
(以上)
          【*原文ママ・以上】

(文中の漢字)天■(モルチール)
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その技は、非常に精妙で、皆の目を驚かす。
これにおいてか、有識の士は、益々、西洋砲術の
奨励の急を感じ、(*郡司)源之允らは(*吉羽)数馬と
謀り、益々、砲術を研究させた。

[ 山田 公章が江戸在の坪井 正裕にこの演習の事を
報じた書中で云うには、
【原文意訳】
諸事の都合よろしき業も、これまでと違い、
便利が多く発明されました。
事、廉々、これにあります。
殊に番組の内、早放の三発は驚きました。
煙玉二発が連放致した所、大煙が出て、敵、味方の
見分けが難しくなるほどで発玉は打出でて、
目印の幡の下へ着弾しました。
右(*以上)で、(*吉羽)数馬の逗留中、
右(*上述の)両人(*郡司源之允、郡司 次郎兵衛)
には、追々、伝授する事もあり、
野戦筒の早放手、天砲台人の働きと早放などは、
非常に便利に見えて、何度も教習すれば、
一廉のお役にも立つと思いますので、早速、
クウボールを鋳造し、これ又、過ぎる(*4月)4日
に試放を致しました。
(*これは)小砲のため4、5町までも届かないだろう
と思っていた所、案外の玉で、7町4、5反から8町
も届きました。
非常に軽便の品で、余程の品、余程の利器と
存じます。
追々、(*この)攻器を修練、致すべきと存じます。
         【原文意訳・以上】 ]

(*弘化4年)5月、
士卒に武器検閲の予告を発し、かつ、弓銃卒の
笠容漆色を定める。
(*弘化4年)9月、
(*忠正)公は命じて石打銃などを少し買わさせる。
長州藩は、これより石打剣付のゲペール銃がある。
これより先、吉羽 数馬らは羽賀台演技の事があると
山田 公章は小銃も又、洋式石打銃を用いる便を感じ、
演技の成績を、江戸にいる坪井 正裕らに報じ、
これと共に石打銃200丁を買うことを請うた。

[ (*山田)公章の書で云うには、
【原文意訳】
小銃の儀もこれまで普通の10匁玉筒などよりは
西洋火石筒の方が、風雨の恐れも無く、
火縄の捌きの煩いもないので、馬上、又は、
多人数の込み合いの内でも、火用の心の傍ら、
廉々、便利であります。
右(*上)につき、わが国において(*これを)
打ち立つために支度をしたいのですが、
未熟の事につき、高直(*こうじき・高値)の上、
火打ち具合なども安心ではなく、段々、
承ったところ、長崎御奉行へ御依頼がなったので、
1丁・金5両で手に入るとの事であります。
(*なので)100丁、御注文なさってはいかがでしょうか。
御様子を仰せ付けられれば、長崎の聞き役に出る役の節、
如何用とも取り計らうべきと存じます。
何分、ご様子を仰ぎ、仰せ付けられますよう存じます。
【原文意訳・以上】 ]

藩邸の儀は、未だ決定されず、間もなく、
海岸防備局から具申する所があった。
防備用の銃の数は、なお600丁の不足があった。
そして又、郡司 源之允らは、石打銃の用法を
伝授し、熱心に習練を欲する者があったが、
未だ、石打銃を得られなかった。
(*これは)一つは銃の数の不足を補い、
一つは新銃の実物をえようとの意を述べ、
同時にヤーガラ銃の馬上砲を少し購入しようと
する事を請うた(*ためであった。)
(*この)事が江戸に聞こえ、(*忠正)公は命じて、
これを許した。
当時、防備局が購入を請うたものは左(*以下)の
ようである。
一、剣付鉄砲 200丁
一、ヤーガラ筒 50丁
一、馬上砲3丁揃い 10具
   右(*上)いずれも諸器具とも。
一、玉鋳型 5具
一、火打石 100個

この年(*弘化4年)12月、
再び武具検閲の予告を発し、甲冑、得武具、下着、
人員(100石毎に2人)、馬具銃器の保存を厳達した。
嘉永2年(*1849年)3月、
アメリカ船が長崎に来る、の知らせが来た。
(漂流人の受取人のために来た。
オランダ人を介してこれを請うことがあった。)

よって山縣 吉之介、児玉 伝票を見島軍用方とし、
別に島内の三砲台に各、2人の砲台掛を置き、
軍用方および砲台掛は、各々、90日で輪番交替して
守衛に任じさせ、又、農民、漁民らの強健な者
100数十人を選び編成して警備隊とした。

(見島は萩の海上18里の所にある一小海島で、
北浦手当の一部分である。
これより先、寛政年中(*1789-1801年)
白川閣老の「諸国沿岸に船見番取建の令」があり、
三島の守備は、ここに始まる。
天保の末年(*1844年)、2座の砲台を設け、
砲2門を置く。
弘化2年(*1845年)5月、
幕府に報じる手当の中に守兵55人、遠見番所2座、
大砲12門、砲台3座、小銃100丁とあるが、
未だ実施に至らなかった。
弘化4年(*1847年)
山田 公章を遣り実地の施設をさせようとしたが、
(*山田)公章は故あって行を果たさず、かつ、
南海防備などの事があり費用などのため、
未だ、大いに為す事が出来なかった。
(*そして)仮に漁人30人を編成して警備兵として
砲台3座を置くことの議を決した。
ここに至り、初めて本文の施設を為すことに
至ったのである。)

この年(*嘉永2年)3月、
(*忠正)公が国に帰ると大津海岸の防備を巡検し、
士卒の勤怠、防備の整否を按察(あんさつ・*調べて
ただす。)した。
(*嘉永2年)6月、さらに豊浦郡神田岬の砲台を
増設し、大砲3門を備えた。

同(*嘉永)3年5月22日、
これより先、試しに三田尻の造船師・尾崎 某
(小右衛門)に小早船の大砲を装置すべきものを
新造させて、命じて大砲小早と云う。
ここに至りて成り、その試運転をして、
これを水軍手当の一部に加えた。
この時、内海の粟津・妻崎浦、丸尾崎、
三田尻の大浜、問屋口および室積、上ノ関、室津、
地家室などに巨砲を構え、防州沿岸の警備を厳格にし、
かつ、各所の守兵に時々、発火演習を行わせ、その技に
慣れさせた。

この年(*嘉永3年)10月10日、
調査の防禦手当員数は、士卒33,970余人、
大砲558門、小銃11,569丁の多くに達した。
思うに、この数、あるいは、誇張がないことを
保つものである。
又、その兵制の銃器は、欧州の日、新たな具に
及ばないであろう。
(*それは)もとより論外であるけれども、例え、
これらの暇瑾(かきん・*短所)を除くとしても
当時にあっては、盛んであると云わざるを得ない。
ましてや財政困難の間において、よくこの事を
行えるであろうか。
当時、三支藩および岩国も又、海防を修めて怠らず、
この年(*嘉永3年)、
郡司 覚之進を長崎に遣り、西洋砲術を修めさせる。
(後、嘉永6年2月、覚之進は自ら請うて、再び、
長崎に赴き、その未だ学んでいない所を学ぶ。)
(*嘉永)5年(1852年)、
(*忠正)公、又、北浦防備を巡視する。
すでに、公、又、出師準備が不完全で、外敵に対する
沿岸防備が周到でないことを察し、
嘉永6年(1852年)1月20日になると、
一門、老臣および寄席組、士分を一同に会して、
海防の部署を定め、警衛区域を分けて
(一) 萩城二の郭の西海手
(二) 萩城二の郭の東海手
(三) 赤間関海辺
(四) 前大津海辺
(五) 先大津海辺
(六) 萩城三の郭および萩城西海辺
(七) 奥阿武郡海辺
(八) 萩城東海辺
 の八区とし、各々、警衛海防総奉行を置き、
一門家老、もしくは高禄名望の士をこれに充て、
寄組の士を分けて、これに附属し、
治世において、あらかじめ有事の日に処する
警衛方面を指定し、各方面の将に各々、その指揮、
随従する所を知らしめた。
このために益するところは、守兵を迅速にその守地方面
に集中させることが出来るのと、士卒が、あらかじめ、
よくその将師を知り、地理を察し、敏速な動作が出来る
ことにあった。
長州藩の兵制は、ここにおいてか、やや建制隊の赴きを
現わすようになった。
(*嘉永6年)2月13日、
又、人張定 武具定の令を発する。
もって当時、毛利氏出師の準備が如何であるかを
概見すべきである。

【原文意訳】
嘉永6年2月13日の人張定および武具定

人張定
軍役人張高100石に付き2人のこと。
 但し、根知行高をもって務めるべし。
過上の人数は苦しからざる事。
付、又、者でも右(*上述)に準じ、人数を
差し出すべき事。

○400石から560石まで
  小銃2丁 槍1本 乗馬1頭
○600石から660石まで
  小銃2丁 弓1張 槍1本 乗馬1頭
○700石から750石まで
  小銃3丁 弓1張 槍2本 乗馬1頭
○800石から950石まで
  小銃3丁 弓1張 槍2本 乗馬2頭
但し、自身、騎馬共
○1,000石から1,200石まで
  小銃4丁 弓1張 槍2本 乗馬2頭
              但し、同上
○1,300石から1,700石まで
  大砲1門 小銃5丁 弓1張 槍3本 乗馬2頭
              但し、同上
○1,800石から2,200石まで
  大砲1門 小銃8丁 弓1張 槍4本 乗馬3頭
              但し、同上
○2,300石から2,700石まで
  大砲1門 小銃9丁 弓1張 槍5本 乗馬4頭
              但し、同上
○2,800石から3,200石まで
  大砲2門 小銃12丁 弓1張 槍6本 乗馬4頭 
              但し、同上
○3,300石から3,700石まで
  大砲2門 小銃13丁 弓1張 槍7本 乗馬5頭
              但し、同上
○3,800石から4,200石まで
  大砲2門 小銃16丁 弓1張 槍7本 乗馬6頭
              但し、同上
○4,300石から4,700石まで
  大砲2門 小銃16丁 弓2張 槍9本 乗馬6頭
              但し、同上
○4,800石から5,200石まで
  大砲3門 小銃19丁 弓2張 槍10本 乗馬7頭
              但し、同上
○5,300石から5,700石まで
  大砲3門 小銃20丁 弓2張 槍11本 乗馬8頭
              但し、同上
○5,800石から6,200石まで
  大砲4門 小銃23丁 弓2張 槍12本 乗馬8頭
              但し、同上
○6,300石から6,700石まで
  大砲4門 小銃24丁 弓2張 槍13本 乗馬9頭
              但し、同上
○6,800石から7,200石まで
  大砲4門 小銃27丁 弓2張 槍14本 乗馬10頭
              但し、同上
○7,300石から7,700石まで
  大砲5門 小銃27丁 弓3張 槍15本 乗馬10頭
              但し、同上
○7,800石から8,200石まで
  大砲5門 小銃30丁 弓3張 槍16本 乗馬11頭
              但し、同上
○8,300石から8,700石まで
  大砲5門 小銃31丁 弓3張 槍17本 乗馬12頭
              但し、同上
○8,800石から9,200石まで
  大砲6門 小銃34丁 弓3張 槍18本 乗馬12頭
              但し、同上
○9,300石から9,700石まで
  大砲6門 小銃35丁 弓3張 槍19本 乗馬13頭
              但し、同上
○9,800石から10,200石まで
  大砲6門 小銃38丁 弓3張 槍20本 乗馬14頭
              但し、同上
○10,300石から10,700石まで
  大砲7門 小銃39丁 弓4張 槍21本 乗馬14頭
              但し、同上
○10,800石から11,200石まで
  大砲7門 小銃41丁 弓4張 槍22本 乗馬15頭
              但し、同上
○11,300石から11,700石まで
  大砲7門 小銃42丁 弓4張 槍23本 乗馬16頭
              但し、同上
○11,800石から12,200石まで
  大砲8門 小銃45丁 弓4張 槍24本 乗馬16頭
              但し、同上
○12,300石から12,700石まで
  大砲8門 小銃46丁 弓4張 槍25本 乗馬17頭
              但し、同上
○12,800石から13,200石まで
  大砲8門 小銃49丁 弓4張 槍26本 乗馬18頭
              但し、同上
○13,300石から13,700石まで
  大砲9門 小銃49丁 弓5張 槍27本 乗馬18頭
              但し、同上
○13,800石から14,200石まで
  大砲9門 小銃52丁 弓5張 槍28本 乗馬19頭
              但し、同上
○14,300石から14,700石まで
  大砲9門 小銃53丁 弓5張 槍29本 乗馬20頭
              但し、同上
○14,800石から15,200石まで
  大砲10門 小銃56丁 弓5張 槍30本 乗馬20頭
              但し、同上
○15,300石から15,700石まで
  大砲10門 小銃57丁 弓5張 槍31本 乗馬21頭
              但し、同上
○15,800石から16,200石まで
  大砲10門 小銃60丁 弓5張 槍32本 乗馬22頭
              但し、同上

右(*上記)士分中、2,000石分限りのものは、
幟(*のぼり)1本、2,000石以上は、その比例で
幟数を加える。
             【*原文意訳・以上】

(*この)令、慶長年間(*1596-1614年)の武具定と
比較すると、大砲、小銃は、順にその数を加え、
そして弓、槍は、非常にこれを減少させた。
長州藩の兵器は、この時において鉄砲をその主用の具
とする意となったのが明らかである。
但し、この令は果たして実行に至ったのか否かは、
非常に疑わしい。
この年(*嘉永6年)3月2日、
(*忠正)公は、又、剣、槍の一術に達し兼ねて、
砲術に長けた者20名を選び、陸軍先鋒隊とし、
水軍に長けた者17名を選び、水軍先鋒隊とし、
辺海に事あれば、星行露宿(せいこう ろしゅく・
*朝早く家を出て野宿をする。)し、
その地に行かせる用に供し、

又、別に17人を選び、馬廻警衛隊を置き、
麾下(きか・*直の家中)に属させた。
これらの士は、皆、20歳以上35歳以下の手廻士
および八組士中の身体、志気ともに雄壮な者を
取り入れた。
当時にあっては、隊固より微々見るに足りないと
云えども、後に至り、ようやく、その数を増し、
その態が変わった。
諸隊の組織の源は、実にこの形である。

当時、江戸藩邸は、又、しきりに兵備を講じて
緩急に備えた。
これより先、天保の末年(*1844年)から
有司(*役人)に武器を調整させて、
弘化元年(*1844年)4月27日、
国友 源十郎に命じて小銃100丁を造らせ、同年7月、
この試射を終え、麻布の武庫に納めさせた。
これ以後、麻布武庫の武器および糧食は、ようやく、
充実する。

翌(*弘化)2年(*1845年)8月23日、
麻布武庫の武器を検閲する。
その調書によれば、纏2流、鍵幟10流、具足2,408領、
弓265張、矢箱9荷、大砲6門、同 玉箱4荷、
小銃240丁、同玉箱5荷、胴乱および口薬入300通、
長柄槍100本、電機器1個、望遠鏡2個、磁石1個、
革羽織130枚、晒布柿色羽織77枚、法被58枚、
三ツ道具1通、陣鍋5組、米93石、水4石2斗、
玄蕃桶3組、馬糧少し およびその他の雑具 少し、
とあり、又、同時に桜田邸内にも多少の武器を
貯蔵し、藩主の在府中に事あれば、すなわち、
命に応じて直ちに出兵出来る準備とした。

この時に当たり、蘭学者の勤勉は、益々、兵制改革の
促した。
これより忠正公は、青木 周弼(あおき しゅうすけ
*坪井 信道の門下生。)らから西洋の事情を聞き、
西洋機器の鋭利を知る他、特に兵事を講じ、
兵書を訳させて、当事者と共にその耳目を啓発する
ことに務めた。
今、もっとも著しいものを挙げれば、
弘化元年(*1844年)、坪井 信道(*長州藩・蘭医)
に内用掛を命じ、海防の時宜に関し、進言するところが
あった。
弘化2年(*1845年)、又、青木 研蔵(あおき けんぞう
・*青木 周弼の弟。後、藩内で初めて種痘を実施する。)
に内用掛を命じる。

(この年[弘化2年]4月、江戸の口羽 衛士から
藩地の老職に寄せた書中で云うには、
【原文意訳】
海防一件、肥前候は、殊の外、ご詮索され、
お聞き繕うなどされ、流行医・伊藤 玄朴
(いとう げんぼく・*蘭方医。近代医学の祖。
後、蘭方医として初めて幕府の奥医師になる)の事、
去年、召し抱えられ、右のご内用を仰せ付けられた
追々、(*伊藤)玄朴が申し合わせ、その筋に
申し出られました、と。
又、この年12月、江戸・長州藩邸・赤川 喜兵衛から
松村 太仲の事に関し、在藩・小寺 留之介に遣わした
書面は、当時、諸侯は蘭学者を重んじる状況の一班を
見ること。
云うには、異船渡来については、(*忠正)公あたりは、
もちろん、薩州様、鍋島様などは、もっぱら蘭学を
用いられている御様子で、右(*上述)のような
蘭学者を召し抱えられた御様子と聞いております。
ついては、当時、毛利 彛次郎殿の家来
・医 松村 玄機の倅が蘭学を心掛け、余るほど
その道に長じる様子と聞いております。
右(*上述)のような御方は、自然、他国から御所望と
あっては、せっかくお国産まれの御方。
残念な事なので、御手当については、
右(*上述)などの御方は召し出したい件でもあります。
定めて、そちらでも右(*上述)のような御詮議も
あるべきとお気付くようにとの御意であります。
          【原文意訳】以上。)

(*青木 )研蔵は、伊藤 玄朴の家塾にいた。
(*忠正)公は(*青木 )研蔵に命じて、広く
泰西(たいせい・*西洋諸国)の書籍を閲覧し、
いやしくも、海防に有益なものがあれば、
腹蔵なく、その説を進めさせる。
時に、(*伊藤) 玄朴は佐賀公の招聘により、
佐賀邸に出入りする。
佐賀公は、最も海防術の研究に意(*欲)があり、
(*伊藤) 玄朴は、進言するところが多かった。
(*青木 )研蔵、すでに(*忠正)公の命を受ける。
よって(*伊藤) 玄朴と謀るところあり、これにおいて、
(*坪井) 信道、(*青木 )研蔵らは、オランダ書の海防、
兵術に関して珍奇は記事・諭説に遇えば、これを妙記して
上がり、挿画の書、もしくは図巻のような、時として
原本、もしくは謄写を献じ、他藩の人の手になる珍奇の
訳書のような(*書物を)、又、努めてこれを蒐集して
献じ、兵備の参考に供した。
弘化4年(*1847年)2月、
(*青木 )研蔵、東條 英庵(とうじょう えいあん・
*蘭方医、兵学者。安政6年1月、幕臣となる。)、
松村 太仲(*毛利房謙の家臣)らが洋書翻訳係を
命じられると、(*青木 )研蔵は万国地誌について、
まず日本の部を訳し、(*これを)
輶軒外誌(*ゆうけん がいし)と云い、次いで英京の部
に着手した。
(*松村) 太仲は、その歩兵学校の部を訳した。
この年、久坂 玄機が官遊(かんゆう・*官命で遠地に
行くこと。)して大阪にいた。
(*久坂 玄機は)命を受けて、オランダ書・ヘロトン
(銃弾書)の6冊中、2冊を訳した。
銘じて演砲法律と云う。
長州藩は、これより洋式砲術の書がある。
後ち、その残余を訳した。
嘉永3年(*1850年)、田上 宇平太(たがみ うへいた・
*蘭学者、砲術家。高杉晋作の大叔父 に当たる。)に
「ヘウセル」(砲術書)を訳させる。
この他、当時、珍書と称せられる兵用蘭書を藩庫に
購入し、蘭学者に、これを研究させた。
海防の参考に供するものは非常に多かった。

[田上 宇平太が翻訳掛を命じられたのは
嘉永3年(*1850年)2月13日である。
この時、(*田上) 宇平太は、伊藤 玄朴の塾にいて、
鍋島候の珍蔵 ヘウセル砲術書を借覧し、        
その総目録の訳稿を提出したこが、同年3月中の
記録に見られる。
これ以後、本編の翻訳を継続し、題して砲学新編と云う。
時に東條 英庵は、又、(*伊藤) 玄朴の塾にいた。
二人共に学力は既に大いに進み、
(*田上) 宇平太は、鍋島家の委嘱を受け、
(*東條) 英庵は、真田家の委嘱を受け、
有用な人物であった。
かつ、(*東條) 英庵も又、(*田上) 宇平太と等しく、
ヘウセル通じていることが、当時の記録に見られる。
そして鍋島候は、この年春、忠正公が帰藩し、発途の前、
(*忠正)公に嘱するので、特に(*田上) 宇平太に
暫く、(*伊藤) 玄朴の塾に留めさせようとした。
しかしながら、藩地から江戸邸に報じて、
(*田上) 宇平太の父・平兵衛の労病を名目として
(*田上) 宇平太に一応の帰国を請うたので、
鍋島家の嘱に対しては、これを謝絶し、(*田上)宇平太に
帰藩させるべきことを知照(ちしょう・*知らせる)した。
又、真田家では当時、家臣に(*東條) 英庵について
ヘウセル砲術書の講義を聞かせて、事が半途にあった。
その他にも所蔵の蘭書の講読などを委嘱し、かつ、
銃砲試し打ちをもさせようとする、との理由で、
(*東條)英庵に当分、在府させることを照会し、
滞在中の扶持をも給付するとの意を述べ来りて、
一旦、これを承諾し、翌、嘉永4年(*1851年)4月、
さらに、やむを得ないこと故があるので、
帰藩させたい、との意を真田家に通じると、
真田家では理由を陳述し、来年の末になるまで、
在府の事を切に請求することをもって、やむを得ず、
その事を承諾し、(*東條)英庵に命じると、
翌、嘉永5年中は真田候の用務に従うべき事とした。]

翻(ひるがえ)って、海内兵事を通観すると、
諸藩は営々と、講武の事に随うと云えども、
その天下の耳目に上がるものは毛利氏の他に
水戸・薩摩・佐賀の三藩があり、
水戸藩は天保の初年(*1830年)から兵備講習の事に
おいて海内に率先し、その末年、和洋折衷の大極陣を
組織し、一時、諸藩の翹楚(ぎょうそ・*高く抜きん出て
優れていること。)であり、しかも一藩の気風は、
西洋の日新の長所を取るのに適せず、加えるに
党派の軋轢(あつれき)と(*徳川)斉昭の失脚は、
非常に障礎を実地の施設に及ぼし、このため
弘化以来は、殆どその進歩を見なかった。

これに反して佐賀(*藩)は、その地、長崎に近く、
長崎の守衛の任に当たり、他藩に比べると、
自ら西洋の感化を受けやすい地位にあり、
かつ、(*鍋島) 斉正(後、直正に改名。)は、
以前から心を西洋諸国の技術に傾け、
嘉永3年(*1850年)には反射炉を築造して盛んに
大砲を鋳造するに至った。
(*これは)軍隊組織の規模において、未だ、
見るべき(*姿)の盛隆ではないと云えども
西洋技術の輸入に至っては非常に進歩するところが
あった。

薩摩(*藩)も又、琉球との関係があるため、
外国貿易の利を見る事の勢いは、自(おの)ずから
他藩より早かった。
これに加えて、(*島津)斉彬は、以前から西洋の
長所を取り(*入れ)、富強を謀る意があった。
一面では唐物売買の名に託し、琉球において西洋人と
貿易を行い、一面では洋式の兵備を講じ、
嘉永5年(*1853年)には、洋式三桅(*3本マストの)
帆船を製造するに至った。
[当時、琉球の通航の危険のため大砲を備えることを
名目として、軍艦とは称しなかった。]

その他、松代の真田氏があった。
(*松代は)雄藩ではないと云えども、
上に藩主の幸貫(*真田 幸貫・さなだ ゆきつら)、
下に佐久間 象山がいた。
共に西洋砲術の精鋭に感じて、以前から高島流の砲術を
奨励し、弘化年間に至っては、非常に蘭学者の説を聞き、
原書に照らして加農天砲(カノン モルチ―ル)諸砲を
鋳造し、殊に我が藩(*長州藩)の東條 英庵に嘱託して
西洋諸国の兵術を講じ、ヘウセルの兵書を訳して
藩士に頒布し、藩にひとつに集まるようにして、
(*西洋砲術の方へ)向かわせた。

幕府は兵備の事においては、非常に諸侯に指揮する所が
あったが、自ら施設する所はかえって、未だ見るべきもの
はなかった。
その間、独り、江川 担庵がいた。
(*江川 担庵)身は、幕府の隷属であり、
以前から(*高島)秋帆の新陣法に服し、群議に抗して
その術を伝え、釆地(さいち・*領地)伊豆の韮山
(にらやま)にいて、子弟と共に、これを一家の事業
として山間の僻地に習練し、一意、その術の研磨改善に
勉め、天保の末年(*1844年)になると、西洋諸国に
小銃爆帽の発明があったのを聞き、これを模造しようと
して、幾度か失敗し、遂に弘化年間(*1844-48)に
なると、精製の硝石をドロドロに混ぜた雷管を発明し、
又、高島流大砲のシュントン、あるいは火縄打ちを
不便とし、試しに砲に付けると、燧石(ひうちいし)で
大いにその操法を便利にした。

次いで、嘉永2年(*1849年)にはスラフベーフを用いて
砲に発火する術を発見し、操練の方においても、
三列式を二列式とするように研鑽する所、一にして足らず、
それ故、嘉永の末年(*1854年)になると、幕府も又、
これ(*この操練の方)を抜擢して、房総海岸の防備の事に
関与させるようになった。
防長も又、兵備の事においては、諸藩中、
もとより錚々(そうそう)たるものであった。
その様式の研究の様子は、又、人後に落ちず、
しかしながら弘化以後は、その以前に比べると進歩は、
やや遅い観が免れなかった。
弘化年間の兵備を見ると隊伍の編成は、なお旧風を守り、
小銃は、まだ和式十匁の筒の旧制であった。
(*藩は)蘭学者を尊重して、盛んに洋式兵書を
講じさせたが、その実地の施設に顕われたものは、
すなわち、未だに顕著ではなかった。
今、その原因を探ると、
第一は、弘化2年(*1845年)、
長州藩の重臣の交替があり、村田清風らがその職を
去ってから、敢為(かんい・*敢行。)勇進の政策は、
一つの頓挫を来した。

第二は、高島 秀帆 の疑獄があり、その術を伝える
便利を減じさせたからである。
顧みるに天保12年(*1841年)において、
招聘の藩議会を決した(*高島 )秀帆の高弟・
山本 清太郎も、それ以後、彼を招聘することは
なかった。
そして(*高島 )秀帆の疑獄は、秀帆が砲台を築き、
兵隊を組織するのは不軌の陰謀あり、と詠いたる類に
あった。
その事は国事に関することなので、長州藩の如きは
特に幕府の嫌忌を避けるためには秀帆との関係を
盛んに人の耳目に触れさせないようすることである。

第三は、長州藩は元来、諸藩に先立ち神器陣の編成
があった。
神器陣は旧式に比べれば、一頭、地を出た兵制である
ことは論じることはないが、そのことは反って、
鋭意して洋式に進む障礎(*障壁の元)となること
がある。

第四は、当時、長州藩の財政は殊に困難であり、
盛んに洋砲・洋銃を購入するようなことは、
力の及ばない所であり、そして撫育貯金は未だ、容易に
手を着けるべき時期に達していなかった。

およそ、この類の原因は西洋技術の輸入において、
長州藩が、(*その)一歩を他の2、3の藩に
遅れている感がないと云うことでもある。

次回、
歴史の流れ 防長回天史を読む22
第二十三章 米艦 渡来前の外警  に続きます。


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