歴史の流れ 防長回天史を読む24 第二十三章 米艦 渡来前の外警

歴史の流れ 防長回天史を読む24

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

第二十三章 米艦 渡来前の外警

○オランダ王からの来書
○英仏 両国船の出没
○幕閣
○オランダの献策

弘化元年(*1844年)7月
オランダ国王ウィレム第2世が軍艦を長崎に送致し、
船長・コープスに国書を将軍に呈示させた。
ここに至って、寛永(*1849—54年)以来絶えていた
外交の事が再び、その端緒を発した。
当時、幕府は切に人心が挙動することを憂い、
この書を秘して公示せず、だが世間はこれを伝聞する
事態を非常に重く推量した。

[(*弘化元年)6月、長崎の報が江戸に達すると、
会々(たまたま)(*忠正公は)在府であった。
その月の24日、(*忠正公は)北浦、その他海岸に
手当の令を布くことを幕府に報告し、7月1日、
撫育方において便利な地であるので米7,000石を
他国船から買い入れることを命じた。
藩にあっては城の内外に大砲を配置して出師の準備をし、
7月17日、大組・鉄砲頭・山田 長さ衛門を長崎に遣わし
事情を探聞し、かつ、長崎奉行の指揮を受けさせた。]

オランダ国王の書いた通商貿易が仕方がないことを論じ、
外船の打攘が不穏であることを忠告し、
幕閣は、この書を受けて大いに驚き、遂に議を決して、
打ち払いの令を止め、
「異国船が来れば、来意を尋問の上、処置すべし。」と
命じ、翌、弘化2年(*1844年)6月1日、
老中・阿部 正弘(伊勢守)、牧野 正雅(備前守)らの
名で、書をオランダ国政府・大臣に送り、
元来、通商があり通信がないのに国書を受けるのは、
我が(*国の)祖法の許されないところで、今後、又、
これを授受することはない、ことを告げる。
当時、水野 忠邦(越中守)が再び老中に任じられ、
一瞬にして失脚した(*阿部)正弘は老中の上座勝手掛と
なり、もっぱら(*政)事を用いた。

これより先、昨、弘化元年3月、フランス国軍艦が
琉球・運天港に来て、貿易・通信・布教を求め、
フランス人、志那人の各一名を留め日本語を修めさせた。
そして本年(*弘化2年)5月、イギリス船一隻が
那覇の河口にきて、食料を求め、かつ、7月になると
別にイギリス船一隻がくることを告げた。

薩摩藩は、数年来の外警に驚き、これを幕府に報告し
会々(たまたま)その7月4日、
イギリス船一隻が長崎に来るとの報があり、
事、符節を合わせるようであった。
幕府は大いに驚き、そして未だ閣議を決していなかった。
にもかかわらず、同(*弘化)3年(*1844年)4月5日、
イギリス船一隻が那覇港にきて土地を買って国人を
住ませたいことを請う。
よって医者夫婦、その子女、各一人、清国人一人を
留めて去った。
同月(*弘化3年4月)、又、フランス船3隻が来て
琉球に来泊し、(*これは)互市修交(*交易と国交)を
求めるためであった。
琉球の役人は大いに苦しみ、要領を得るのに至らなかった。
(*弘化3年)5月23日、
フランス船3隻と共に在留のフランス人を堂上させて去り、
重ねて国命を果たす日に有便にするため、フランス人1名を
留めて通訳とさせた。
薩摩藩は、よって警衛がある毎に幕府に報告した。
幕府は数々、薩摩藩に諮問するところがあった。
(*この頃、薩摩)藩主・島津 斎興は江戸にいて、
世子・斉彬と(*その)処分を議した。
(*島津)斉彬は、以前から海外の形勢を聞き、みだりに
外交を絶ってはならないことを知る。
よって、(*その)旨を老臣・調所 広鄕(ずしょ ひろさと)
(笑左衛門)に授け、閣老・阿部 正弘に伝達させて、
特に通商を許して、その他はこれを斥(しりぞ)けること
を謀り、さらに(*調所) 広鄕を大目付 兼 外国奉行・
筒井 政憲法(紀伊守)の邸に遣り、(*それを)説くところ
があった。
(*阿部)正弘、表向きには通商を許す物議を起こそうとする
ことを恐れるも、又、(*島津)斉彬のひととなり、
事を託するに足るところがあるのを知る。
よって、書を(*調所) 広鄕に遣り、内諭するところが
あった。
(*島津) 斎興は、すなわち、書を幕府に呈示し、
(*島津)斉彬が(*幕府に)代わって琉球の事を
処理させようと請う。

島津 斉彬
(京都維新史蹟による。著作権満了)
IMG_0231  ●島津 斉彬(960x1280).jpg

かつ琉球は遥か遠くの洋中にあり、必ずしも内地と
一例に見ることはないので、事を便宜に行いたい、
と云う。
幕府は、これを許す。
(*弘化3年)6月、(*島津)斉彬が、まさに国に就こうと
すると将軍・(*徳川)家慶はこれに諭して云うには、
「琉球の事、ひとつを卿に任じる。
寛猛(*かんもう・緩やかな事と厳しい事。)
よろしきを得て、異日の憂いを残すことなかれ。」と。

当時、幕府・薩摩の間は、すでに琉球における外交の
やむを得ないことを黙認し、ただ、その影響が内地に
波及するのを防ごうとしたのに過ぎず、
これ以前、英米仏の船は数々琉球に来て、貿易・布教の
事に従うものがあった。
そして江戸近海においても、弘化2年(*1845年)の春、
アメリカ船が来て浦賀に入り、貿易を請う。
浦賀奉行は、これを斥(しりぞ)けて許さず、
翌(*弘化)3年閏5月27日、
アメリカ船2隻、又、浦賀にきて貿易を請う。
薪・水・食料を給し、(*貿易を)請うが斥けるが、
事態は、すでにこのように時勢に応じる施設が
なかった。
幕府は、よって、さらに諸国の海外防御を厳格にし、
国力を充実し、松前、薩摩においては特に大船を
造ることを許し、幕府も又、自ら大船を作る議を定めた。
これより先、弘化2年(*1845年)7月、
従来、老中一人を任じていた海岸防禦手当を、さらに
さらに老中二人とし、阿部 正弘、牧野 忠雅(備前)を
これに任じ、若年寄・大久保 忠固(主膳正)、
本多 忠篤(越中守)を、これに参加させ、
弘化4年(*1847年)2月、
従来、忍(松平 下総守忠固)、川越(松平 大和守斎典)
の二藩に委任していた房相の警衛を、改めて、
井伊、細川、川越、忍の四藩に命じ、江戸の喉元の防備
を厳格にした。
嘉永3年(*1850年)3月、
アメリカ船「プレブル」号が長崎に来て、去年、松前に
漂着した国人を接受して帰帆しなかった。

嘉永5年(*1852年)6月、
長崎在留のオランダ・カピタン(*オランダ商館長)が、
まさに交替しようとする。
新カピタン・カルパ(オランダ領ジャワ)都督が
オランダ国王の命を奉じ、長崎奉行に寄せる書を呈する
ことを請う。
長崎奉行、その(*日本の)国法に背くので、これを
斥けようとする。
しかしながら、カピタンの書中の事項は非常に重要である
ことを告げる。
(*なので)すなわち、その意を江戸に達し、かつ、
カピタンが出す風説書(ふうせつがき・海外事情に関する
情報書類。オランダ風説書。)を添えて送る。
風説書が掲載するところは、
アメリカ大統領の国書を日本の大臣に送り、漂民を送還し
互市場の開放、貯炭所の設置を上実、アメリカ軍艦の
シナ海にあるものに日本行を命じ、提督・ペリーが、
まさに来るとして、上陸兵が準備中なので、
4月下旬、必ず日本に渡来すべし、と云うことであった。
幕閣の役人が議して云うには、

イギリスは近年、近年勢いが非常に強い。
オランダ人風説書のいわゆる使船渡来も、まさに
イギリス属国のなすところである。
そうであれば、すなわち事態は極めて重いものが
ある。
弘化元年(*1844年)、
すでにオランダ人を諭して通信を絶つと云えども
今般の来簡は奉行書に出したものに過ぎず、
これを国書と比較すべきではない。
オランダ人が、もし風説書と一様のものとして
敢えて返簡を求めれば、これを受けることも出来る。
但し、オランダ人の意を測ることは出来ない。
(*これは)弘化元年(*1844年)の書と云えども、
要するに貿易を勧めるに過ぎず、当時、もし
彼の意に従い国港を開けば、その弊(*害)は、
挙げて云うべきではない。
かつ、寛政中からその国の政令は多く、イギリスの
指揮を受ける流伝もある。
これは、あるいはイギリスのために遊説する者では
ないのではなかろうか。 と。

(嘉永5年)7月、
閣老は命を長崎奉行に伝え、
カルパ(*オランダ領ジャワ都督)の来書が、もし、
風説書の類であり返簡を要するものでなければ、
これを受けさせることにした。
(嘉永5年)8月、
カルパ都督の書簡の訳(*文)が成る。
その意は、すなわち、アメリカ人が、まさに来ようと
することを報じ、日本と外国との葛藤を避けるために
日本政府がその国宝に背かない限りにおいて
新任・カピタンがもたらす訓令を聞かせるべき官吏を
任じることを請うことにあった。
(嘉永5年)9月になると、
長崎奉行が通訳を通じて新カピタンに対し、
そのもたらし来る訓令の意を問わさせた。
カピタンは、よって書面で要領を答える。

その意は、北米合衆国から要求があれば、全然、
これを斥けるのは不可能である。
かつ、薪・水・食料・船舶修繕のことをこれを与え、
病人は、これを治療させるのを可とし、
又、古来、日本国に敵でない我国(*オランダ)に
通商を請えば、長崎に限り、これを許し、
その国(*日本)の役人をここに駐屯させて、
その国人(*日本人)がここに留住して、そして
外国人と交易を行う者は、これを江戸・京都・大坂・
堺・長崎の商売に限り通商の法規を定めて、
番所を長崎に置き、
互市は、相、互いに長崎会所、あるいは大阪会所の
手形でこれを弁じ、
又、外商で相当の運上金を納めさせる法を定め、
もし内外の商売の確執が生じたる時は、
長崎奉行と外国の役人で、これを裁決し、
日本の国法律を犯す外国人は、その国の管轄で、
これを処断し、又、日本の官府は貯炭所を指定して
外国人の用に供することで、(*この)策が得られる
ものにすることにある。

まさしくオランダは、日米の間に介在し、
日蘭両国の利益を害さない条約を締結し、あらかじめ
アメリカの来航にそなえようとした節がある。
幕閣は、これにより倍々、外交の切迫を感じた
と云えども、しかしながら海外に関する知識は、
未だに開けず、役人の聡明な者と云えども、
ただ西洋諸国の旺盛を伝聞するに過ぎず、かつ、
オランダを疑い、イギリスのために遊説するものと
することをもって、ただ、管人は心を慌惑させることを
努めて秘密を主とし、天下にこれを知らせようとした。
すでにして、翌、嘉永6年(*1853年)、
果たしてアメリカ艦隊の来航があった。
毛利氏の活動は、又、ここに始まる。
           (第二十三章 完。)

これをもって、防長回天史 第一篇は終了しました。


次回は、いよいよ、ペリー来航・幕末の始まり、

防長回天史 第二編 嘉永安政萬延記
第一章 嘉永六年の大勢
             です。

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