歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む13 

●大久保利通文書 万延元年

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

【目次】(ほぼ時系列で掲載)
  万延元年3月から
(日記)万延元年3月・31歳

       一 金子儀ハ 京師江罷登・・
       一 三嶋驛ヲ過候節 掃部頭・・
       一 同十一日之晩 四日市驛江・・
       一 同十二日二伏見迄差越候二付・・
       一 同十九日小倉江着・・
       一 右之趣於 水上委曲承リ候・・
       一 大抵八時過 有村方へ差越候處・・
       一 右之次第 盟中一同承知・・
       一 當日 有川七之助・・
       一 金子孫二郎佐藤武兵衛ヨリ・・
       一 昨年非常之叡慮ヲ以・・
       一 三月廿四日 八後 重邸エ・・
       一 三月二日 雄助ヨリ島津縫殿江・・
       一 右書付 島津壬生へ託し候由・・
       一 雄助次左ヱ門兄弟 二月廿日・・
       一 風説書左之通・・


【本文・意訳】
★(金子 孫二郎、有村 雄助と上京して上奏し、
勅書を申し請けようとする)
一 金子(*孫二郎)の件は、上洛して右の形行
(井伊 直弼を討ち取る決策)を(*朝廷に)
報告して聞いていただきたく、勅諚を申し受け、
四方の有志、諸藩へ告げ、天皇にお護りいただきたく、
もっとも国元の人数(*人たち)も最早、
京都へ出張のはずで、右に示し合わせており、
(*また)幕府の後の処置をもって、
この変で皇室の興復を図りたく、有村 雄助に
是非、同行してくれるようにと頼まれました。
何分、悪者の意図は一途に思い込んでいるので、
これを遮(*さえぎ)ることは、不本意に存じ、
(*たとえ、それを)断とうとも、後の処置が
大事なので、ぜひ、その通り納得してくれるよう
一同より、拠り所なく承り、(*この決挙を)
止めず、同意、致しました。
去る3月3日の晩、
有村 次左衛門 (*薩摩藩士)、
佐藤 武兵衛(*水戸藩士。佐野 竹之介の変名。
桜田十八士の一人。井伊直弼の襲撃に参加後、
重傷。老中・脇坂 安宅の屋敷に自首後、亡くなる。
享年21歳)、
黒澤 忠三郎(*水戸浪士。桜田十八士の一人。
実弟に大関和七郎、甥に広岡子之次郎がいる。)
大関 和七郎(*水戸浪士。桜田十八士の一人。
実兄に大関 和七郎、甥に広岡 子之次郎がいる。)
山口 辰之助 (*水戸浪士。重傷を負い自刃。享年29)、
森 五六郎(*水戸浪士。自訴後、斬首刑。享年24)
杉山 彌一郎(*水戸浪士。自訴後、斬首刑。享年38)
蓮田 市五郎 (*水戸浪士。自訴後、斬首刑。享年29)
斎藤 監物 (*常陸神官。自訴後、負傷して
亡くなる。享年39)
鯉淵 要人(*常陸神官。重傷負い自刃。享年51)
広木 松之助(*水戸浪士。文久2年(1862年)
鎌倉・上行寺墓地で自刃。享年25)
稲田 重蔵(*水戸浪士。闘死。享年47)
増子 金八(*水戸浪士。各地に潜伏後、
明治14年、没。享年59)
関 鉄之助(*水戸浪士。総指揮。襲撃不参加。
 諸国に潜伏後、捕縛され、文久2年(1862年)
 斬罪。享年39)
海後 磋磯之介(*常陸神官。先夫後、維新を
 迎える。)

右の人たち、愛宕山に集合し、3月3日、
井伊 直弼が登城をするのを待ち伏せ、
討ち取る決策とのこと。
有村 雄助は、同日の早朝に金子孫二郎、
佐藤 鉄三郎(水戸藩士。(槍の名手)と同行し、
川崎屋で一報を待っていた。
もっとも、この変の成否を告げるための物見の者を
二人ほど送っていた。

★(水戸藩士 桜田門外で井伊大老を要撃し、
その首を取った。)
(有村 雄助ら、 江戸を出る。)
すると、程なく物見の者が駆け寄り、只今、
桜田門外で井伊直弼を討ち取ったとのことで、
(*井伊の)屋敷の者共もこれを聞きつけ、
駆け付け、(*闘いに) 参入しましたが、
これらの者共は、討ち取りましたが、
(*ただこちら)水戸の方は、2,3人ほど、
手負いの者があったとのこと。
もっとも、井伊 直弼の首を持ち去ることはかなわず、
時期が来れば、(*その)主意を詳細に認め、
書面にするつもりですが、その首尾がどうであれ、
(*井伊の)「みしるし」を見事に討ち取り、
凱歌を唱へ、引き取ったことは間違いないと
届を承りました。
(*その後、)3人(*有村 雄助・金子 孫二郎
佐藤 鉄三郎)は、(*江戸を) 出発したとのこと。


一 三島駅を過ぎる頃、井伊の家来の者4人が
早駕籠で出発し、2人は国許へ行き、
2人は京都へいく所存であるとのこと。
有村 雄助から慌ただしく届けを承ったとのこと。

★(有村 雄助ら、 四日市に行き、 捕縛される)
一 3月11日の晩、四日市の駅に着き、一宿し、
寝入るところ、夜、午前0時ごろであろうか、
肝煎(きもいり・*江戸時代に名主・庄屋の別名
でもあったが,武家社会でも中心的存在の人や
役目の人を、こう呼んだ)
坂口 勇右衛門 (*薩摩藩・島津家に仕える)の
他に足軽6人が来て、有村雄助をはじめ、
金子 孫二郎、佐藤 鉄三郎の両人にも縄をかけ召し
捕ったので、有村が、どんな訳で、言葉もなく、
無体に縄を掛けるのかと言うと、
このような騒動に乗じて屋敷を出たことにつき、
万一、幕府の手で捕られれば、ただでは済まない
ので、私共が来させられて無事に帰国されるよう
遣わされ、このような次第になるようにと
(*捕縛するようにと)承りました。
それならば、縄をかけるのはどのような訳
なのだ、と申し、(*さらに)、
混雑に紛れ、この通りになり、足軽共の麁忽
(そこつ・軽率さ)か、また、お手前の下知が
行き届かない訳かと、申したところ、
全く私の行き届ないところ、と申したのとこと。
よって有村 雄助が陳述するところでは、
お屋敷においても、憚(はばか)りながら、
天下の形勢に暗いため、このようなことに及び、
私共の件、主意は様々で、天下の大事を奏達
するため上京する訳で、是非、縄を解かれる
ように、と諭し申したところ、坂口 勇右衛門は、
低頭して言葉がなかった。

(*その後)再三申し入れても無益なので、
(*有村 雄助は)私のことは、ともかく、
両人(*金子 孫二郎、佐藤 鉄三郎)へ恥辱をかける
ことは心、忍び難く、容易ならぬ大義の方なので、
これ(*両人)だけでも早々に縛を解かれるよう
申し入れたところ、(*坂口 勇右衛門は)
わたしの一存では決められないので、
汾 陽次郎(*長崎詰め重役)殿が石薬師宿
(*東海道五十三次の44番目の宿場・現、鈴鹿市)
におられるので、そちらへ伺った上で、
指図次第に致す、とのことであった。
(*そこで、有村 雄助は)
そうであれば、金子 孫二郎、佐藤 鉄三郎の両人と
是非、面会したいので、しばらく、縄を解くように、
と申し入れたところ、面会だけであれば承知、と、
坂口から承ったが、それから、坂口は何も
言わなかった。
(*やがて)石薬師の(*汾 陽次郎)が来られて
面会だけであれば苦しからず、と足軽から聞き、
双方、縄付きのまま面会致しました。
金子 孫二郎が申すには、
誠に残念至極この上なく恥辱に会った。
最早、致し方ないので、(*自分の)舌でも
食い切って相、果てようと云うので、
有村 雄助が申すには、
このようなご恥辱をかけて何とも言葉もこれなく、
ご決心のほど、もっともでありますが、
軽率な者共は全く子細も知らず、むやみにこの始末に
及んだので、その故だけで亡くなっては、非常に
遺恨千万でありましょう。
命の限り是非、上京して、主意を果たすまでは、
しばらく、恥辱を忍んでいただきたく、と、
亡くなろうとするのを止めた。
(*それは)ごもっともな事、と金子孫二郎も
その意に同意し、(*その後)坂口 勇右衛門へ
急いで追いつこうと人を遣わしたところ、
土山駅で追いつき、なお又、金子孫二郎、
佐藤 鉄三郎に縄をかける理由はなく、
再び応対し、有村 雄助から坂口 勇右衛門に
理と尽くして説明したところ、ようやく、
(*彼らの)縄を解いたとのこと。

★(有村 雄助ら 伏見に至る)
(*登場人物の整理・
●有川 藤左衛門 伏見・御仮屋守。
●汾 陽次郎   長崎詰め重役。
●坂口 勇右衛門
薩摩藩・島津家に仕え3人を捕縛した。)

一 3月12日に伏見迄送ることについて、
有村雄助の主意は、ぜひ、汾 陽次郎と面会して
大義を説明し、どうにかして難を逃れ、
奏達の事を図りたいので、
面会のことを坂口勇右衛門 と相談したところ、
坂口勇右衛門が言うには、
汾 陽次郎は、もはや大坂へ下った、とのこと。
伏見・御仮屋守・有川藤左衛門へ
汾 陽次郎が申し置いたところによると、
有川 藤左衛門が坂口勇右衛門へ達した
(*伝言) は、早々に大坂へ下るようにとのこと。
有村 雄助は、大いに力を落とし、そうであれば、
有川 藤左衛門に面会したい旨を申したが、
これをもって相、調(ととの)わず、
何分、早々に出立(*旅)を進めているとのこと。
有村 雄助が、坂口 勇右衛門に言うには、
これまで、天下の大事を図り、同行致しました。

(*水戸浪士の) 金子 孫二郎、佐藤 鉄三郎の
安堵を見届けなければ、私ひとりでは下り難いです。
万一、幕府が手を付ければ、私の身は、それっきりと、
坂口 勇右衛門らから聞きましたが、
それは元より覚悟の上で、少しも、いといません、
(*と、有村 雄助が)申し述べ、
翌朝、(*3月)13日、金子孫二郎が言うところの
ひとまず、潜居したいことについては、
同行はできないと聞いたので、
有川(*伏見・御仮屋守)から坂口(*薩摩藩・島津家)
へその件を相談したところ、
坂口(*薩摩藩・島津家)から、京都御留守主居方へ
申し出され、お国元までは難しいけれども、
途中までなら差支えないとのことで、
同行致しますと坂口(*薩摩藩・島津家)から、
(*その)返答を承りました。

★(金子孫二郎幕吏に拉致される)
もっとも、(*水戸浪士の) 金子孫二郎と
佐藤 鉄三郎と一緒に大坂へ下れば、
万一、幕府の手に掛かれば、水戸浪人をこちら
(*薩摩藩) から、お抱えすることになり、
以後、難儀になるので、少し分かれて、前後に
下るべきとのことで、同日(*3月13日)の
7時頃、有村 雄助が伏見から大阪へ下ったところ、
翌朝、坂口(*薩摩藩・島津家)に(*幕府の)京都
御留守居方から問い合わせがあり、
金子 孫二郎の件は、有村 雄助が出立した後に
幕府から手が廻り、(*薩摩の) 伏見御仮屋においても
かえって(*幕府から)嫌疑を受け、
とかく致し方のないことで、水戸の御屋敷へ
引き渡されました。有村 雄助の件は、
早々、大坂を出帆致しました、と申し参った、
とのこと。

汾 陽次郎(長崎詰め重役)の件は、最早、
(*汾 陽次郎は)大阪を出立したと云う、とのこと。
有村 雄助の件は全て計略に落ちてしまい、
残念であり、是非も無い次第で、かつ帰国とは、
夢々、本意ではありません。
しかし、君公は、ご出発であるとのことを 急に承り
ましたので、途中までは是非、命を忍び、
事の成り行きを述べて、速やかに(*君公・茂久公に)
人を繰り出してお守り下さるように図りたく、
決心致しました。
(有村 雄助 大坂から乗船する)
(*有村 雄助は、)これにより、16時ごろ、大坂を
出帆したとのこと。
船中で、初めて縄を解かれたとのこと。

★(有村 雄助、瀬高駅で 茂久公 の上京の一行に
面会する)
一 同(*3月)19日、小倉に着き、20日の晩
瀬高駅(せたか・現在の みやま市)に島津茂久公が
ご宿泊につき、坂口(*薩摩藩・島津家)から
御家老坐書役・岩山 八郎太へ事の成り行きを
申し上げたところ、岩山 八郎太からの達しによると、
誰でも仕方がないことなので、着き次第、
(*島津茂久公へ)子細を申し出るので、
有村 雄介へその旨を伝えよ、と云うことなので、
坂口(*薩摩藩・島津家)は、承知したとのこと。
(奈良原 喜左衛門ら、 有村 雄助に面会を望んだが
聞かれなかった)
だが、奈良原 喜左衛門(*薩摩藩士、精忠組。
後に、生麦事件で、リチャードソンに斬りつけた
ことで知られる)お共に、有村 雄助が通行の
ことを聞き、ぜひ面会したく、
奈良原から児玉・谷村・岸良の三士に
事の成り行き(*を述べ)、および相談をしたところ、
三士が直に(*有村 雄介に)面会し申し上げたい、
とのこと。

(*そこで)奈良原が同道して、その筋に願ったところ、
坂口(*薩摩藩・島津家)は(*それを)押し留め、
(*坂口から)(御家老坐書役)岩山氏から、きっと
承知されると云うことなので、ひとまず、伺うので、
待ってくれるように言われたので、控えていると、
坂口が帰ってきて、
(御家老坐書役)岩山から奈良原へご用談が
あるとのことで行ったところ、(*逆に)次第に
問い詰められ、かつ、有村 雄助らと面会は
出来ないと云うことなので、
(*奈良原は)その詳細、主意を承り、
取次をもって致すようにと、とのことなので、
やむを得ず、奈良原から三士へ、その子細、
成り行きを話したところ、
最早、夜更けなので、明朝早目に、(*その話を)
聞くとのこと。
雄助の件は、お国許では一方次第、
人数を差し出し、決めると云うことなので、
出来るだけ早目に駆け下って、その成り行きは
初めの通りと聞いている。
なので、どこまでも主意を果たしたいので、
夜中早々、出立し、そのまま、お国元へ行きました。


★(利通、有村 雄助から子細を聴取し、
これを家老・新納中三に報告する)
一 以上のことを水上で(*その子細を)承ったが、
坂口(*薩摩藩・島津家)を始め軽率共に付き添い、
およそ12時ごろに引き取り、私目は、
以上の主意を一刻も早く知らせたいので、
家老・新納 中三に面会し、成り行きを説明したところ
「その詳細を聞き届けるので、早速、明日には、
島津 久徴(ひさなる)公へ急いで訪問する」とのこと。

★(利通、有村 雄助の宅に行く)
★(藩庁、雄助を諭して切腹させる)
一 およそ8時過に有村方へ行ったところ、
届の着いた(*有村の)親類の者は帰っておらず、
心元なく会所まで行くと、たった今、
親類の者は、承知して帰ったことを聞き、
直ぐに有村方へ行った(*引き返した)ところ、
予想外の厳命がありました。
最初、本田 弥右衛門、梁瀬 源之進宅へ行ったところ、
大切な御用向きで、ひとりでは聞き難いので、
只今、親類両人へ御用を申し渡されるとのことで、
会所へ行かれたとのこと。(*そこで)会所へ行くと、
児玉 喜藤太(児玉 雄一郎の父)、境田 善助に
御用であったが、病気なので、
児玉 喜藤太の二男・勇之助が出席していた。
(*そこで)両人へ御裁許掛・土師 吉兵衛から
通告された趣は、
「此節、有村 雄助が関東表で一挙(桜田門外の変)
を興し、その主意を果たした件は、潔い次第で、
国家に対しては、不忠と言わざるを得なく、
思召しもないだろうけれども、
不容易に国難を醸し出し、既に、幕府の追手も
踏み入れようとする折、かれこれと(*薩摩藩も又)
黙っておられず、当人、自らは、最初から決心の
はずである。
心苦しくも切腹の裁断を申し上げるが、
(*国元に)着いてすぐに自刃の形(を取りたく)
(*かと言って)どこまでも見て見ぬふりでは済まない。
(*また)慣習では介錯などの習いもあるけれども、
それでは、自身の叶いに沿わず、手助けすることは、
何とも我々から申し上げ難く、よくよく親類の方へ
以上の趣を、お含み置きたい。」 とのことであった。


★(同志ら、有村 雄助のために必死に嘆願しようと
して来る)
★(有村 雄助は従容し、亡くなる)
一 上記のような次第で、(*御裁許掛・土師 吉兵衛
からの通告を)承知し、意外と幸せで、なかなか
情義を忍び難く、一同、必死を決定し、シを共にして
嘆願すべく、いろいろ議論をしている内に、
夜は短く、既に早朝になり、皆、進退窮(きわ)まり、
合わせて、どのように願ったところで、この上の
推察したところで、とても取り計らいは難しく、
もっとも、表向きには監察の前の処置に決定する上は、
(*切腹と決まっている上は)とかく、引き延ばすのは、
かえって、催促することにもなるのは確かである。
一同が嘆願しても取り上られなければ、
罪状の名で処置されるのは明らかなことで、
最初から(*有村 雄助の)一命は、決められたことで、
論じるに及ばないが、
既に大事か眼前に差し掛かり、理由なく事を破っては、
(*事の)重さ、軽さを失うことにもなる。
勿論、有村 雄助の本意にも叶わないことになるので、
とにかく、ここにおいては、(*有村 雄助が)
命を奉じて、後の主意を(*我々が)受け継ぎ、
万死をもって尽くすことが肝要であると心ならずも
決断致しました。
当人(*有村 雄助)においては、初め、帰国のこと
さえも本意ではなかったが、前条の主意をもって、
帰国することになりました。
よって帰国して、すぐに兄・武次へその思いを
告げたところによると、
(*すなわち)この節、帰国の件は、夢々、
私の本意ではないがやむを得ないことです。
(*決起に)もしも人数を差し出され、加わり下されば、
大変、幸せですが、私は、彼らとは変わり、
存命できず、ジサツするようにと決まりました。

(*有村 雄助は、このように)密かに話し、
兄・武次からとくと申し諭されたけれども、
(*有村 雄助が言うには、)
表向きは承知の形であれ、なかなかその心情は、
そうはいかないでしょう。
それ故、以上の厳命を泰然として申し述べれば、
もとより覚悟のことで、私としては、実に
安心のわけであります。
この上、後のことは、この機に人数を差し出し、
主意を達して下さるよう、云々。
(*有村 雄助は、)このように託して、服を改め、
東方を拝して(これは、京都を遥拝する、の意)
父祖の廟に拝礼して、同志、一同に長き別れを
告げて、従容不追として(*後を追ってはいけないと)
亡くなりました。
ああ、(行年26歳)天命かな。
一同、愁傷し、憤激のことばもありませんでした。

一 当日、有川 七之助(*京都藩邸詰)は、
中途で、急いで出立したとのこと。

★(金子 孫二郎から薩藩同志に贈られた書翰)
一 金子 孫二郎・佐藤 武兵衛から有村 雄助に託した
同志への書簡。
一封。
一昨年、非常なる叡慮をもって、幕府ならびに
水戸藩へ勅諚が下されことについて、
私共の主君は、もちろんのこと、開国の有志が、
非常に尽力されたが、(*幕府から)非常に嫌疑が
かけられ、昨年に至っては、幕府から厳重にお咎め
ある時勢で、今もって、勅諚の伝達も出来ず、
勅諚を下賜致す件も行き届かず、上下一統、
恐れ入り、悲痛な思いであります。
よって、その冤罪を洗い流し、勅諚を下賜するように
周旋致したいのが志願であります。
なので、屏居の身、万死を顧みず、2月18日 に、
国元を出発致しました。

そちら薩摩藩におかれては、先公・島津 斉彬公の
ご遺志を継ぎ、勤王に傾倒され御所に精忠を
尽くされておられことを伝え聞き、
かねがね、欣慕されておられるので、(*我らは)
京都・摂津の間に潜伏し、同志の方から、
その内情が伝わり、幾重にも御尽力を尽くす
所存であります。
もっとも、その道中においては、艱難の時節につき、
御家中の有村 雄助氏を頼って同伴し、薩摩藩の
名目で通行致しておりましたが、四日市駅で、
不慮の次第に及びました。
(*このこと)、一身の恥辱、この上なく、
元来、志願を遂げる本懐の筋につき、
事を正否を突き止めるまでは、どのような恥をも
忍び、捕らわれて他郷の鬼となっても、
この先、薩摩藩のご思慮に、おすがりして、
本意を遂げたいところであります。
もちろん、水戸藩にはこのような思慮はなく、
将軍家のご幼年の時節に乗じて、
幕府の権臣どもは、我意に専念して、
正義の宮・公卿方たちを始め貴い方を威圧し、
罪に陥れ、忠義を忘れ、恐れ多くも天朝を
軽蔑するが如く、外敵と親交し交易の条約を定め、
国体を辱める次第で、実に天下の大事であります。

なので、天下の冤罪を晴らし、水戸藩で、
この勅諚を下賜するよう、ご周旋されて奉安され、
叡慮をもって国体を維持されるよう、
ご英断されて、この事業を達成されるように
願うところであります。
世上は、この上なく難しく、老体の志願は空しく、
死地についても測り難いところではありますが、
志願の趣は、諸君らがお汲み取りいただき、
よろしく、島津 茂久へも仰せ立たれ、
ご周旋、ご尽力の程、願い奉ります。頓首
3月12日 金子 孫二郎

君のため 世のため 尽くす真心は
二荒(*ふたら)の神も 
見そなわす(*ご覧になる)らん

真そ鏡(*ますかがみ) 
清き心は玉の緒の
絶(*たえ)てし後そ(*のちぞ)世に知らるべき


★(利通、久光公に謁見し建言する)
一 3月24日、午後2時過ぎ、島津久光邸に行き
この度の関東表の大変(*桜田門外の変)の件を
知り、直に言上せずにはいられない事件ですので、
何卒、お目通り願い奉ります。
無理にお願いするのは不敬ではありますが、非常の時、
大事の場合と思いますので、重罪を恐れず重要な
願いなので書面にて呈しましたところ、暫く
控えるようにとのこと。やがてお会い下さる
とのことで、只今、書面をご覧になられ、
誠に関東表の一件、容易ならず、一大事であります。
どのような趣旨であるかの気持ちについて、
誠に恐れ入りますが、一変、一報あり次第、
関東、京都へ人数を差し出す件は、追々、
内諭で、と云うことは承っております。
この節の一報については、未だご出発なされず、
どのようなご趣意でありましょうか。
国家の大事につき、いやしくも私共が伺っています件は、
如何な件と恐れ入りますが、追々、内諭で、
と云うことは承知しておりますが、恐れず
申し上げますと、成程、この節の一件は、
関東表の変事に相違ないと聞き及んでおります。
しかしながら、表向きとは異なり、坂口 勇右衛門
(*薩摩藩・島津家に仕える)の口頭での失言、
もちろん、水戸の件も、わずか17人の人数で
書付にも水戸浪人とあります。
これは、(*藩に迷惑をかけずに)あとを眩ます考えか
とも推察されます。

大久保利通旧邸
(上京区石薬師通 寺町東入南側)

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成程、変事には違いませんが、兵乱とは申さず、
変後の動静も大きくなく、すぐに兵を差し出す件、
この後の難題をどのように思われるでしょうか。
変事の報せもあり、兵隊(*を出すこと)は、
国家の大事であります。

★(久光公は、出兵は早計であると言い、
利通は、早計でない、と言う。)
よって、人民は、国家の前後のことも考え尽くす
ことは、大切なことであります。
よって、兵隊を差し出すことを認める訳にはいけないとは、
どのような心得でありましょうか。
これは、(*久光公の)思いなので、その気持ちは、
ごもっともでありますが、この節の一挙については、
ただ今のところ、その動静は難題で、天下の閣老
(*井伊 直弼のこと)を征伐したことについては、
古今、未曾有(*かつてなかったこと)で、
大事なことであります。
ついては、とても、その行為はただでは済まず、
朝廷の眼前には難題が控えており、なお、又、
関東には、お姫様方もおられ、島津 茂久公も(*上洛の)
途中のことでありますが、これを傍観されれば、
決して相、済まず、また、(*家臣)一同、人民の
至情に忍び難い訳であります。
よって、これまでの決定のとおり、早速、(*兵隊を)
差し出して頂きたく(*お願い申し上げます。)
これにおいては、京都に差し出される者は、正々堂々と
大義を唱え、(*天皇を)奉護して頂きたいのですが、
憚りながら、その後の難儀(嫌疑)を受けられることに
ついては、その名目に根拠がないので、そのように
(*正々堂々と大義を唱え、天皇を奉護する)
して頂きたく存じます。
これにおいては、京都に差し出される者は、正々堂々と
大義を唱え、(*天皇を)奉護して頂きたいのですが、
憚りながら、その後の難儀(嫌疑)を受けられることに
ついては、その名目に根拠がないので、そのように
(*正々堂々と大義を唱え、天皇を奉護する)
して頂きたく存じます。

大久保 利通旧邸
(上京区石薬師通寺町東入南側)

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この節の件、関東表の変事なので関東守衛の名目で、
表向きのお届けを出して、京都へ繰り出す人数も
同様の名目で、京都、摂津の間に滞在すると申して、
実のところは、(*天皇の)奉護なのであります。
たとえ、この節の件が無事に済んだとしても、到底、
難題は降りかかり、併せて、嫌疑がかからないとは申せず、
このような非常の時節に臨み、憚(はばかり)りながら
多少の嫌疑がかかったとしても、(*幕府)は、
何事も出来ないので、右の所、ご決断していただきたく
(*お願い申し上げます)。
そして、併せて危険な目に会うような難題は、
全くないと存じますので、ぜひ兵をお出し願いたく、
(*お願い申し上げます)
もちろん、これは、(*その決断を)遅らせては、
名目上、済まされないことは、一般的に言えるところで、
成程、これについては、もっともなことであります。
併せて、今ひとつ、難題があるのをご存知でしょうか。

★(利通、有村兄弟のために述べる。)
この度の有村 雄助兄弟のことであります。
全て(実に、不忠不幸と)難しいことは承知であります。
手前なども同意のことなのであります。
又は、以前より相談できないことでありましょうか。
如何と、至極、ご機嫌を損なうことでありますが、
この件につきましては、何とも言上申し上げる言葉も
ございません。
されど、只今のところ、難しいことを申しましたのは、
これ(*決起の)全体は、止められない訳があり、
同志の盟約云々にも、これがあるところであります。

大久保 利通旧邸
(上京区石薬師通寺町東入南側)

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去年(*安政6年)10月5日、(*我らの主旨を)
聞かれた通り、島津 茂久公に難儀あり、書面で
その内諭を仰せ付けられ、一同、感動して請書を
差し出しました。
(*しかしながら、今回は決起の)時機が良く、
(*我らは) その決心を翻しました。
(*かつては)この上はどこまでも、主旨を貫こうと、
一同、決心致したのですが、お国元と江戸の差別があり、
お国元のひとには、追々、親しくお伺いすると、
約束を反故にすることは、ほんの少しもありません。
関東の変についいては、意見の隔たりがありますが、
親しく事情が異ならない訳もあります。
もっとも、眼前に水戸藩との結合の信義(*約束、の意)
もあり、かつ、第一の主意は、天皇のため、
悪者どもを一途に思い込み、お国元は変事については、
その決定も趣意も、失言したと申しました。
これは、(*茂久公の)難題を知っていながら、
決心したものと存じます。
しかし元より同志の訳と同様の思し召しがあれば、
相、離れることはないので、同罪を仰せ付けられても
少しも申し上げることはなく、平伏致します。
しかしながら、何故、同罪となるのかというわけには、
いけません。
しっかりと考えて見るべきであります。
とかく主君を持つ者は、どこまでも国家のために
尽くすのは当然であります。

大久保 利通旧邸
(上京区石薬師通寺町東入南側)
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成程、悪者が初志を遂げる件については潔いですが、
有村 雄助が帰国するについては、現在、(*幕府は)
薩摩藩の人間であることを知り、よって、幕府が手を付け、
追々、(*薩摩)に踏み込むと聞き及んでいます。
これは実に無上の難題であります。
このように云うと、一同を捨てこのように受け取られ、
同罪を申し出るべきでありますが、そのような心底はなく、
大事な時には、一同、ひとかどのもので、役立つ者と
思っておりますので、主意を良く終わらせたいとの
愚かな考えであります。
(*出兵の)人数を差し出す件は、変事の一報があり次第、
そう致しますが、慌ただしさに紛れて申したことで
あります。
只今、このように申しては、嘘をつくようではありますが、
有村雄助らの一件がなければ、出兵しても別に難題は
ありませんが、この一件で、なお難しくなり、
もちろん、事後は、徳川 斉昭公が正々堂々と、兵を揚げ、
出馬すると申されれば異議もなく、関東表の争乱と
云えば、これにより(*出兵を)猶予すべきことは、
ありません。

★(内勅があれば、ともかく、急に出される兵は、
その後の難儀は恐ろしい)
御内勅でもあれば、とりわけ難しくはないけれども
何分、只今のところ、急に(*兵を)差し出されては、
難題があるに違いなく、併せて、一報で、その動静に
よっては、兵を差し出す考えがないように申せば、
天朝を次にして、幕府を恐れているのではないかと、
全く、そうではないのですが、叡慮するところも
幕府を助ける本来の趣旨でもあるので、
とかく幕府の命令には背き難く、どこまでも、
勤王の事をしのぎたいとの考えから、このように
申す訳であります。
こう申しても、義侠心で奮発しようとする者は、
承知し難いですが、(*このような)愚考の程を
申し聞きました。
非常に自論ではありますが、とくと一同にも申し
諭せば、不承知であれば、とかく致し方のないことで
あります、云々。
以上のことは、まだ些細なことで、事、長く、
かつ、その前後もありますので、概略の主意を
記すところであります。
何分、非常な時節に臨み、このような所論を押して
お諌(いさ)め致したく、主意は幾重にもありますが、
その後は、一報の動静によって、(*兵を) 差し出すこと
になる主意なので、今日、明日も一報がない故、
今回は、ぜひ、拝謁出来なければ、相、済みませんので、
この節、極めて逼迫、必死の建白を申し上げたく、
先にその形状を承服して頂きたく、退出致します。


一 3月2日、有村 雄助から島津 縫殿へ 江戸の形勢などを
話し、翌朝、御屋敷を出る折、この節、幕府の悪者を
討ったことの主意を書き認め、島津 忠義公へ、
一封(*封書)を差し上げるについて、ご披露願う趣意で、
これは、以下の通りであります。

★(有村兄弟から藩候への言上の趣意書)
謹んで言上申し上げます。
お聞き及びのように、昨年、10月6日の御書取を
もって、御内諭の趣、同盟の者から申し越し、
謹んで、拝誦致し、ご内諭の趣、有り難く、恐れ
奉ります。
これについて、一同から御請書を差し上げるについて、
いついつまでも尊命を受けて尽くすよう、
微力を尽くすつもりでありますが、
幕府の執権は、天朝を侮蔑するがごとく、この頃、
勅書を奪い、暴計を図ること、黙止できず、
水戸有志の面々と申し合わせ、悪者を斬る決心を
致し、受書をいただくとて、天朝のご危急の時勢を
傍観することは道理に叶わず、よって、
この如く、恐れながら、謹んで言上申し上げます。
申三月三日    兄弟連名
(有村 雄助・次左衛門)


一 右の書き付け、島津 壬生へ託しましたので、
もっとも、前の便りで、江戸の形勢を述べており、
相、添える書き付けは、以下の通りであります。

昨晩、申し上げた一件について、この書き付けを
達し、お聞き致したいので、その筋々に、
ご披露して頂きたく願います。
天朝のご危急の時勢の故、急にお屋敷を出ましたので
右の趣ながら、恐れながら、書き付けをもって願い
奉ります。
申三月三日    連名


一 有村 雄助、次左衛門の兄弟は、2月20日に
出立し、この書状が宿元に届き、短冊、2枚と
二つの歌が書き記されていました。

 大君の憂御心をやスめスハ
   ふたヽひ國に帰らさらめや  雄助

 皇祖乃御為と思ふ壮夫の
   矢竹こヽろの通らさらめや  次左衛門


★(有村次左衛門の潔き最後)
一 一挙の折、有村 治左衛門は勇ましい働きを致し、
悪者の首を討ち取り、これを掲げて、独り、
皆に遅れ、辰の口の方へ向ったところ、
井伊の屋敷から、又々、二人が打ち掛かかって来たが、
容易に(*これを)討ちました。
しかしながら、腕に重傷を負ったので首を風呂敷に
包み、三上藩・遠藤 鳳統様の辻番所へ上り、
血に染まったものを清潔にして、この包みを膝元に
置いて、凛として割腹したとのこと。
(*史実では、自害を図るも、救出されて運ばれ、
間もなく絶命した。享年22歳。)
誠に、前代未聞の勇功で、聞く人は感嘆せざるを
得ない。
ましてや、その首を打ち取ったこと。
その誠心には、感動すべきものであった。
井伊の家中が討ち死にをしたなか、
見事に(*井伊直弼を) 斬ったことは、皆、
この士(*有村 次左衛門)の功績である。
ああ、惜しむべきかな。

有村 次左衛門兼清(辞世の句)
くろ金も とほらざらめや武士(もののふ)の
 國のためとて おもひきる太刀

近世正義人名像伝. 巻1
(明治7年4月)
   (著作権満了のものより)
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★(桜田事変 風説書) *風説は、風評のこと。
★(井伊家への届書)
一 風説書は、以下の通りであります。
今朝、登城の折、桜田門外にて、松平大隅守の門前
から、米沢藩主・上杉 弾正大弻(斎憲)様の辻番所
までの間で、狼藉者が鉄砲を打ち、およそ20人余りが
刀を抜いて、急に駕籠を目がけて切り込んで来たので、
お供の方々は、防戦し、狼藉者の一人を討ち取り、
(*狼藉者の)その他の者は重傷を負い、ことごとく
逃げ去りました。
私が取り押さえ方を指揮しましたが怪我をしましたので、
一足先に帰宅致しました。
もっとも、お供の方は、即死を始め、手負いの者は、
別紙の通りでありますので、申し上げます。以上。
 三月三日   井伊 掃部頭 [直弼]

深疵 日下部 三郎右衛門
即死 河西 忠右衛門
手疵 櫻井 猪三郎
同  柏原 徳之丞
即死 加田 九郎太
手疵 松居 貞之丞
同  越名 源次郎
薄手 渡邊 泰太
   岩崎 徳之進
手疵 片畑 権之丞
即死 澤村 軍太
手疵 小河原 秀之丞
即死 永田 太兵衛
手疵 薬師 鉄五郎
同  萩原 吉五郎
薄手 取持 甚兵衛
同  水谷 求馬
薄手 (草履取) 吉田太助
   陸尺手疵 彌右衛門
        勝次郎
右(*上述)の通りであります。

*深疵は、重傷。 手疵は、負傷。薄手は、軽傷。
*草履取は、草履取り、
陸尺(ろくしゃく)は、駕籠かき。)
●三月三日   
井伊掃部頭 [直弼] とあるのは、幕府に対し、
混乱(井伊家断絶と水戸藩への敵討ち等)を
避けるため、さも生きているように記したものです。
当時の公式記録としては、
「井伊 直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを
提出、受理されたのちに病死した」とされています。
また、幕府が公表したのは、事変の約2ヶ月後でした。


★(若年寄・遠藤 但馬守の届け書)
若年寄・三上藩主・遠藤 但馬守様のお届けは、
以下の通りであります。
滝の口の但馬守頭取・組合辻番所の近辺の場所内で、
この3日、午前9時に「侍風の男が、
首を突き殺害いたした者(*井伊直弼)の首を
持ち来りました」と、辻番人が申し届けましたので、
早速、係のものが見届けましたところ、
(*井伊 直弼に)相違ございませんでした。
主人の名前を聞いたところ、松平 修理大夫
(*島津 忠義)の家来(*有村 次左衛門とのこと)
でしたが、その物言いが確かにそうであるか
どうかは、分かりませんでしたが、手当を致しました。
この段、とりあえず、お届け申し上げます。  
 三月三日  遠藤但馬守・家来  
        木本 七左衛門


次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む14
大久保利通日記 上巻 に続きます。



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