歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む14

●大久保利通日記 万延元年

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

【目次】(ほぼ時系列で掲載)
  万延元年3月から
(日記)万延元年3月・31歳

       一 我々共 國元二月十六日出立・・
       一 大守様 筑後松崎驛ヨリ・・
       一 三月廿四日 町田内膳・・
       一 川上式部書役・・
       一 三月廿四日 郡山一介・・
       一 同比 高崎善兵衛 出立
       一 宮原 甚五兵衛・・
       一 江戸守衛人數御城下・・
       一 閏三月朔日暁田中直之進 着
       一 田直[田中 直之進] 於大坂関東・・
       一 所司代 酒井 [忠義] 若表向・・
       一 只今之處先奉擁主上杯・・
       一 壬(閏)三月二日 大守様・・
       一 同六日 関山 [糺] 出立
       一 同九日 土届(堀仲左衛門)・・
       一 届仲モ大坂二而 變事承知・・
       一 此節變事二付而モ喜入・・
       一 一挙二付 閣老脇坂・・
       一 防公 [島津久光] 江拝謁・・
       一 [有村] 雄助一條二付而ハ・・
       一 有村次左衛門 [兼清]一挙之節・・
       一 次左ヱ門 和歌の贈答も・・
       一 右追々委事探索可・・
       一 岩可ねも砕ケさらめや・・
       一 春風二さそワレテ チる・・
       一 君可たメ つくス・・
       一 又三月十九日・・
       一 井伊家老木俣右京与・・


【本文・意訳】
★(水戸浪士の脇坂候への直訴口上書)
徒党の者ども、脇坂候(*脇坂中務大輔で安宅播州・
龍野藩主)の元へ参り、直訴の口振り、
左記(*以下)の通り、
一 我々は、国元を2月16日に出立し、 一両人ずつ、
方々へ止宿し、今朝、愛宕山で意の者が寄り合い、
桜田御門外・辻番と松平大隅守様の御門の間にて、
お駕籠の左右から討ち掛かりました。
一旦は、多人数が立ち塞がり、闘いに及びましたが、
お駕籠の両方からお駕籠越しに刺し、(*井伊大老を)
引き出し、その首を討ち取りました。

古今英傑 最後の悲劇
伊藤 桃水著 大正6年2月
(著作満了のものより)
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(*襲撃をした)17人のうちの4人
(*斎藤監物・佐野竹之介・黒沢忠三郎・蓮田市五郎。
この内、佐野竹之介は夕刻に死亡した。)
が、滝ノ口のお屋敷の表御門から入り、案内を願い、
お取り次ぎをして頂いたので、(*我々は)水戸家来で、
ただ今、井伊大老様を討ち取りましたので、この段、
お役人様の所へ行き、公義のご裁許を待つ覚悟ですので、
それまでは、かくまって下さるよう(*お願い致します。)
詳細については、ご重役の方とお目にかかり、お話し、
申し上げます、との申し出がありました。
    (*肥後)熊本藩主・細川韶邦(*よしくに
*維新後、明治2年の版籍奉還に伴い、熊本藩知事
となった。)

*桜田門から滝ノ口までは、
桜田御門から堀に沿って、東・日比谷御門へ行き、
そこから又、堀に掘って北へまっすぐに行った
突き当りの右手(東側)に龍野藩脇坂家があった。
この辺りは、滝の口と云われた。

水戸殿の家来、大関和七郎・森五六郎・森山繁之丞
・杉山彌一郎を町奉行へ引き渡すように、先ほど、
通知したところ、すぐに、お預け下さると仰せ付けられ
たのので、及ばず乍ら、引き渡すことを細川越中守の
家来へ通達しました。

   覚
        松平肥後守 [容保・会津藩主]
        酒井左衛門尉 [忠篤・庄内藩主]
        大久保準之介 [忠礼・小田原藩主]
        松平越中守江 [定敬・桑名藩主]

★(会津、庄内諸藩ヘ万一の時は、出兵を命じる)
今朝、井伊直弼が登城の折、水戸殿の家来共が
乱暴に及んだことについては、水戸表から,もしかすると、
多人数が出府することもあるので、適当な時期に
沙汰に及ぶので、早々に人数を差し出すよう、
かねてよりの手筈を申し置きます。
三家 家老衆
水戸殿家老衆


★水戸殿家老衆へ
(水戸藩邸の取締を厳重にさせる)
今三日(*3月3日)、水戸殿家来之者が多人数で、
井伊直弼の登城の途中、短銃などを用いて、
乱暴に及び、けが人などもあることについては、
この上、この先、心得違いのものが、
あると思われるので、追って、通達するまで、
昼夜、共に屋敷にいて、下屋敷など、各門に
出入りの者を厳重に改め、重役は屋敷におられる
ように心得ること。 

 ★町奉行 御目付へ
(水戸藩邸の識察を厳重にして
藩士の出府に備えるべし)
今朝、桜田門外において、水戸殿の家来が乱暴におよび、
水戸殿の上屋敷に怪しい者の出入りの有無など、
いずれも組支配向きの者は、昼夜、見回りをして
厳重に注意されるようにして下さい。
もっとも、水戸街道へ多くの人数を出そうと云う
趣もありますので、もし(*あやしい者が)
屋敷を出る模様があれば、その段、月番の老中宅へ早々、
報告して、適当な時期に、召し捕らせるようにすること。
松平讃岐守 [頼胤・高松藩主] 
松平大炊頭 [頼徳・宍戸藩主]
  松平播磨守 [慶憲・明石藩主]
松平大学頭 [頼升・松川藩主]

水戸殿の屋敷の門々に出入りの件でお達しのあった者で
細川様(熊本藩主・細川 斉護(なりもり)邸宅)へ
お預かりの内、
森 五六郎 は、稲葉伊豫守様へ(*お預かり)
森山 繁之丞は、田村賢次郎様へ(*お預かり)

*森 五六郎 は、豊後国・臼杵藩(うすきはん)
稲葉家へ預けられた後、大和小泉藩・片桐家へ
預け替えられた。
稲葉家家臣らへ語った記録には、「森五六三郎物語」
がある。
*森山 繁之丞は、陸奥磐井郡の一関藩
(いちのせきはん)田村家へ預けられた後、
足利藩・戸田家へ預け替えられた。

以上の通り、お預け、相、成りましたとの風聞です。

右の者(*斎藤監物・佐野竹之介・黒沢忠三郎・
蓮田市五郎を指す。)は、
二の腕を斬られていたが丈夫で、趣意書を差し出した上、
一味、名前等の申し立て、間もなく、(*佐野竹之介は)
脇沢中務大輔宅で亡くなり、直ぐに、(*死体を)町奉行に
引き渡しました。

★(井伊大老の遭難の落首)
*落首(らくしゅ)は、平安から江戸時代にかけて、
公共の場所などに立て札を立てて世相を風刺した
狂歌を匿名で公開したもの。

堅からも横から見ても二本棒(にほんぼう・
*二本差しの武士をあざけり、こう云う。)
真向かいに見れば、 井伊のべら棒。
(*べらぼう、は、馬鹿げている、の意。)

後家門の上に立べき井伊様を 辻切らんとは
 余り どう欲。

武士の太刀 風強気のひとしきり 外桜田に
 散らす あけぼの。

申3月3日
松平大隅守の大下水前簾場辻から200間(*約60 m)
程で、30人程が右、残らず着込(きこみ・*上衣の下に
腹巻、鎖帷子などを着て 武装する) を着用して、
死人を釣台(つりだい・*人や物をのせて運ぶ台)で、
井伊様へ引き取った者五人、肩へ抱えた者一人、
四人で釣台に乗った者一人、手傷を負い、刀を抜き、
屋敷へ入った者一人、八代洲河岸(*現在の八重洲)の
弾正様(*邸)と 伯耆様(*邸)との間で死人袴を
着用した二人 、

★(浪士の切腹と自首)
滝の口 、滝の堀で切腹した者一人 、
遠藤様(*邸)前で何者の首であろうか。
我が前で切腹し、 度々、支度にかかり目の前で
切腹する着込(*を着用した)者一人、
脇坂様の御玄関で刀を抜いたまま、後、八巻(はちまき)、
さらし(*白生地)で罷り出た者四人。
以上の通り、林屋佐吉方から書き出し、もっとも、
自分が見分いたしました。

薩州 有村次左衛門
遠藤但馬守様辻へ掃部様御共頭・服部三郎右ヱ門
(*偽名だろうか。井伊直弼とは書かれていない。)
の首を引き堤げ、亡くなる。

 佐野竹之助[光明]  黒澤忠三郎 [勝算]
 鯉淵要人[鈴陳]   廣木松之助 [有良]
御月番・脇坂中務大輔 [安宅・竜野藩主] 様へ名乗り出て、
同夜、細川越中守様へ御預りの内、一人、亡くなる。
 廣岡子之次郎  森五六郎 [直長]
 関 鉄之助    森山繁之介

★(人相書をもって逃走の浪士の所在を探す)
3月1日 人相書の 御尋者
 大関和七郎  山口辰之助
杉山彌一郎  蓮田市五郎
斎藤監物   稲田茂蔵
増子金八   海後崎之助

★(島津茂久公、松崎駅から病と云って、
国元へ引き返す。)
一 島津茂久公、 筑後・松崎駅から、ご病気にて帰国。
来月(閏3月)2日、 お着きになると仰せられた
とのこと。

一 3月24日、 町田内膳久憲 (*家老) が出立し、
同、25日朝、稲三益(薩摩藩医師)が召され、
島津 久徴が出立する。
皆、その途中までであった。

★(川上式部を出府させる)
一 川上式部(*薩摩島津・川上氏)書役,
岩山八郎太(*西郷隆盛に嫁いだ西郷いと の父)が
出府したとのこと。

★(郡山一介らを派遣して、彦根藩の内情を偵察させる)
一 3月24日、郡山一介(*薩摩藩・下目付)、
町人・波江野休右衛門(*御用聞・鹿児島商人。
幕末期、会社制度導入史の上で重要な人物。)
池田藤太郎が召されて出立した。
他に、他領の天草長崎の御用は名目で、
実は、井伊直弼の挙動を伺う、とのこと。

一 同じ頃、 高崎善兵衛(*たかはし ぜんべえ・
*高崎 五六(ごろく)。薩摩藩士。
維新後、大久保利通に用いられ、元老院議官、
東京府知事などを任じられた。)が出立。
筑前、肥前、その他、ご用あり、とのこと。
これは、米の買い入れか、とのこと。

一 宮原 甚五兵衛(後、山水と改める)、また、
町人の三人が召され出立し、また、
郡山一介(*薩摩藩・下目付)もそうであった、
とのこと。

一 江戸の守衛の人数は、(*薩摩の)ご城下で
66人ぐらいで、諸郷では、48人。
近々、出立を仰せ付けられるとのこと。
(*薩摩藩・京都藩邸) 関山糺(金生) の件は、
総じて、江戸詰 (番頭)を仰せ付けられ、
来月6日ぐらいに(*その任務で)出立、致します。

★(田中 直之進、帰着)
一 閏3月1日の暁、田中 直之進が着いた。

一 田中 直之進(*薩摩藩士。江戸で水戸藩などの
尊攘派と交わる。寺田屋事件の発端となった人物。)、
大坂で、関東の変 (*桜田門外の変) を知り、
上京したところ、下手人の探索が厳重で、
徳田嘉兵衛(*薩摩藩・京都詰)との面会が不調に
終わり、地蔵堂へ入ったところ、ここまで、
幕府の手が廻っており、やむを得ず、
御所を目指したが、中々、踏み入ることが出来ず、
空(むな)しく、大坂へ下ったところ、
木場傳内(こば でんない・*薩摩藩士・西郷隆盛)が
奄美大島に渡った頃は、奄美大島の役人。
後、西郷、大久保利通を支える。維新後は、
大阪府判事などを歴任した。)、田中仲左衛門
などの勧めにより、(*国元)へ下ったとのこと。

★(京都・大坂の間は、 浪士の譏察(しきさつ
・*細かく、とがめ調べること)は最も厳重である。)
一 (*京都)所司代 酒井忠義(さかい ただあき・
*若狭小浜藩、12・14代藩主。この頃、
安政5年(1858年)から文久2年(1862年)の 間、
京都所司代を務めた。)は、表向きは、厳重であるが、
国元からの多くの人たちを派遣させているとのこと。
高松は、京都の人数を引き受け、関東の方から
多くの人たちを派遣させているとのこと。
江州(ごうしゅう・* 近江(おうみ) 国の異称。)は、
勿論で、日々、50人位ずつ、毎日、上京し、
とりわけ、騒動になっているとのこと。
もっとも、大坂・伏見の間は、浪人風の者は、勿論、
通行は非常に難しく、水戸(*の浪人)は、切り捨て、
薩摩(*の浪人)は、お屋敷へ引き合わせて、
相違なければ通過させる、と云われる程のことで、
あるとのこと。

★(幕府の威勢、ようやく傾く)
一 只今のところ、擁し奉る天皇などのご危難は、
ないであろうとのこと。
何分にも悪者を打倒しましたので、
よほど(*幕府の)勢いは少し挫(くじ)け、
この点では安心とのことでありますが、何分にも
後の処置をどうするべきか、この機に、
(*各藩などが) 大挙を調べないということは、
長年の (*幕府への) 恨みと云うことでしょう。

★(島津茂久公 、鹿児島に帰国される)
一 (*万延元年)閏3月2日、
島津茂久公 、無事に帰国されました。
今晩、すぐに、谷村昌武(島津忠義の側近)は、
大山三左衛門(*大山綱良のこと。精忠組所属。
久光公の上洛に随行。大山は、この頃、
三左衛門と改名していた。)宅において面談し、
いろいろな考えを述べたとのこと。
同、(閏3月)4日ごろ、(*谷村昌武は)
児玉雄一郎(*島津茂久公の目付)と念を入れて
談合、打ち合わせをしたとのこと。

一 同(*万延元年)閏3月6日、 関山 糺が、
(*予定通り、京都藩邸から江戸へ) 出立しました。

★(堀仲左衛門 帰藩し、江戸の状況を報じる)
一 同(*万延元年閏3月)9日、
堀仲左衛門、閏3月18日に江戸に着き、
閏3月22日に、出立とのこと。

★(喜入 久高、正論に帰す)
一 届仲
(*【原文ママ】堀 仲左衛門と推察される)も
大坂で変事を知り、 金子孫二郎(*水戸藩を
脱藩した尊王攘夷派志士で、桜田門外の変の
首謀者。)の件について、汾 陽次郎
(*長崎詰め重役)、松本十兵衛などいろいろな
訳があり、早々に関東へ駆け下リました。
すわわち、喜入 久高(きいれ ひさたか・
*通称、主水、摂津。島津久光の元で、
首席家老となり、精忠組を登用した。) へ
急いで駆けつけ、当時の天下の形勢、お国元の事情
などを受けて、内命で出府した件、かつ、
島津斉彬公が、天皇・国家のことを深く考えられ、
終世、ご配慮なされる件を念入りに、その事実を
説明しましたところ 、(*喜入 久高は)意外と
感服致され、この上は、疑心なく、志を見抜き、
これは正論に相違ないとのこと。

一 この節の変事についても、喜入 久高は、
非常に関わり、お屋敷中の手当は、勿論のこと、
有村雄助の件でも非常に入念で、坂口勇右衛門
(*薩摩藩・島津家)へ直接、言い含め、みだりに
縄をかけぬようとの事まで述べて、
どこまでも、(*その)趣意は汲み取っており、
内々の処置にしようとする考えであったとのこと。

★(老中・脇坂安宅、島津茂久公の参府の延期を諭す)
一 一挙につき、老中・脇坂安宅
(わきさか やすおり、竜野藩9代藩主。
*安政4年、老中。安政6年、この頃、
外国事務主管となり井伊直弼の幕政を支えていた。)
から 西筑右ヱ門(*薩摩藩・江戸留守居役)への
内諭の趣は、この節、ご参府の延期になったのは、
決して都合良くなく、
もっとも薩摩藩は武名を隠すことなく、
この節の件についての御延期については、
御卑怯に当たるので、ぜひ、ご参府されるように
との お達しがあったとのこと。

もちろん、井伊家の件は幕府から厳重に
当たることになり、
万一、水戸家が恨みごとを起こせば、
井伊家は、それ限りで断絶になるので、
静まるように、とのことで、もしも (*水戸家が)
押し寄せて来るような時があれば、打ち滅ぼすのに、
その手当の人数を手配しなければなりません。
これにより、お国の(防衛の)件は、難題はない、
とのこと。

このような次第で、飛脚便では申し上げ難いので、
堀仲左衛門が急ぎ帰国し、
喜入久高(*薩摩藩・首席家老)の考えでは、
ご参府は宜しい、とも申されず、
また、ご参府されなければ、(*難儀な)ことは
ないので、
これにより、宜しいとも申されず、何分、
ご裁断次第とのお考えである、とのこと。

★((*島津)久光公の意は、関東に変があれば、堂々と、
勤王の兵を出そうとすることである。)
一 島津久光に拝謁し、関東の一挙の事態、かつ、
閣老(*老中・脇坂安宅)への内達の趣を詳しく、
全てを言上したところ、ご参府の件は、お控えなされる
とのこと。
万一、ご参府されれば、
人数2,300も、引き連れなければ いけないことになる
ご趣意であるけれども、当分は、お控えなされて、
幕府へは、嫌疑を避けて随従の姿を見せて、
変の状況によっては、堂々と勤王のご忠誠を尽くされ、
その内には、沈静するとの事、当分は、平穏な様子だが、
詰まるところ、乱になるのは相違なく、只今の通りでは、
何分、ご道中は勿論、ご登城も非常に懸念である、
とのこと。
ご沙汰があったとしても、乱になるのであれば、
一国のご裁断を為すことが出来るので、
実は、(*島津久光公は、)乱をお好みの意もある、
とのこと。
その他は、略します。

★(有村雄助、大坂から帰藩の内情。)
一 有村雄助の一件については、汾 陽次郎
(*長崎詰め重役) なども、ぜひ無事に相、働き、
大坂で亡命し、その行方も分からないので、
お届けとのこと。
お留守居役の3人で相談なされ、
その通りであり、書付も出来ております。
汾 陽次郎(*長崎詰め重役)が出立後、
大坂お留守居役・徳尾 藤左衛門は、自分に
難題が降りかかると臆病になり、書面を認め、
替わりに、(*幕府の )ある筋に行き、
届けを出したことにより、(*幕府から )
追手が掛かった訳であるとのこと。
これについては、木場伝内(*西郷、大久保利通を
支える薩摩藩士)が、田中徳尾と激論を
交わしたが、中々、聞き入れられず、しばらく、
特別に不和の仲とのこと。
有村雄助が出立後、このように追手が掛かり、
木場伝内は、船を仕立て下りました。
このような趣、有村雄助などが無事に帰国する
ように取り計らいたく、(*木場伝内は)
田中徳尾へ相談に及びましたが、かえって、
難事を到来致すことになり承知されず、
木場伝内は、一身の決心をもって
どうしても(*田中徳尾に)お断り申し上げたい
ので、又々、論議したが、受け入れらなかった、
とのこと。
田中直之進(*薩摩藩士。江戸で水戸藩などの
尊攘派と交わる。)が、大坂に行く節も、
万一、幕府から追手が掛かれば切腹させて、
差し出すとの件。お留守居役が申すことなので、
(*この件で)木場伝内、田中徳尾の両人が、
激論に及んだとのこと。

★(有村次左衛門についての哀話)
一 有村次左衛門兼清の一挙の節、
(*その)比類なき勇功は、前条のような次第で、
分けても、哀しき一巻は、
日下部裕之進の亡父・伊三次の理由により、
流罪を仰せ付けられ、入牢されたとのこと。
ついては、裕之進の母君ならびに妹は、
共に貞節ある女性で、かねてより、
(*日下部)伊三次の志を受け継ぎ、限りない
災難に際しても、普通の婦女子の顔をせず、
ひとつの志、確固として動かず、
祐之進が右の次第(*流罪となったこと)について
是非、志のある人を養子として、娘を嫁にと願い、
同志の堀 仲左衛門へ、この事を相談する。
堀 (*仲左衛門)は、これを(*有村)次左衛門に
告げたのであったのだが、
決死の自分(*次左衛門)が他家を継ぐ事は、
(*その)本意ではないと云うことで承諾せず、
堀 (*仲左衛門)は、事実を(*裕之進の母君・娘に)
告げることは出来なかった。
(*日下部 )祐之進は、未だに落着しないので
(*次左衛門が)その意に応じられないことを
母君に話した。
その後、(*日下部 )祐之進は、叔父の某(なにがし)
に要請したが、同じこと(*その意に応じられない)
を答える。
だが、(*母君は) 何月何日ごろ、突然、非常に
これ(*その意に応じること)を願う。
その訳は、娘が、ある夜に、亡父・伊三次が、
厳然として枕元に来て、次左衛門を養子として
お前は嫁になれ、と云う夢を見た
(*と云うのである)。

★(日下部氏から、(*次左衛門)を養子にと、
求められる。)
(*娘が)これを母に語ると、母君は、
これを聞いて、その願いは、ますます切実な
ものとなった。
とは云え、次左衛門は、さらに承諾せず、
事を周りの者に託して固辞する。
娘は、又、再び、同じ夢を見る、母君はどうすることも
出来ず、既に、一挙の期日は定まり、(*その)前夜、
諸同志が会って、日下部氏、時に3月2日であった。
評議、すでに熟し、散会となる時、母君は、
有村兄弟に用があると、帰るのを留めた。
(*有村)兄弟は、再び席につき、その訳を聞くと、
母君は以前の事を云い、次左衛門は、にこりと云う。
「未熟な私目を養子にされようとすること。
身に余り、かたじけないと存じる、と云えども、
この件については、さらに承諾し難く、もちろん、
明日は一挙であるので、再び帰ることが出来ない
身なので、お断り申し上げます」と。
母君が云うには、
「私は、婦人の身ではありますが、およそ、その訳を
知っており、そうであったとしても、
亡き父の霊夢の訳もあり、ぜひその主意を達する
(*養子に来てもらうこと)だけで、
そうかと云って、その(*一挙の)志を汲み取らない
とは云わず、この席に立たれて申されることは、
(*再び帰ることが出来ない身であることは)
相、なりませんと、
涙を流して泣いて迫ったので、
次左衛門は、情において黙止できず快(こころよ)く、
「それほどの思召しであれば、その意に答えましょう」
と、答えた。
母君は、ひとかたならず喜んで、娘を読んで盃を
成さしめる(*盃を交わして)仮に夫婦の契を
結んだとのこと。

母子とも、誠に無双(むそう・*世の中に肩を
並べるものがないほど優れている人物)の貞節の故、
かねて大義の訳も関わり知り、一挙の前日
(28日のこと)、敵の登城を伺い、
かつ、(*閏3月)3日の登城の有無、時刻などの
探索の間者(かんじゃ)を務められたとのこと。
娘は、17日前から【欠文】へ誠願を込め、大志を
遂げられるようと日参致され、そうすると、
一挙を容易に果たして、次左衛門は、戦死したので、
母子の悲哀は計ることが出来ないが、
義において、決断することは普通ではなく、この上は、
娘の心底は、一生、再び嫁に出ない決心で、母子とも
その志操(しそう・自分の主義・主張などを固く
守り変えない心)は、動くことはなかった。

一 次左衛門、 和歌の贈答もあったとのこと。
娘は、何時も書を好み、大抵、あらゆる書は、
見通したけれども、草紙本などは好まないとのこと。

一 以上、追々、詳細は、探索して記しておくべきで
あるが、承った様子を記しておきます。
実に大事に臨み、次左衛門は鬼神を動かす勇烈の士で、
このような優しい振る舞いは、普通のことではなかった。
堀部安兵衛(*赤穂義士のひとり)の古事と云えども、
恐らくは、(*このことは)その上に立つことであろう。

一 岩金(いわかね)も 砕けざらめや 
武士(もののふ) の
国のためにと 思い切る太刀
 
この一首は、有村次左衛門 が腰に提げていた巾着に
入れられていたとのこと。

★(有村次左衛門と日下部氏・娘との贈答の和歌)
一 春風に 誘われて散る 桜花(さくらはな)
止めて 止まらぬ  わが想い哉 
兼清(*有村 次左衛門兼清)

一 君がため  尽くす真心 天津日(あまつひ)の
雲の上まで 匂い行くらん
       日下氏・娘

上の二首は、一挙の前夜の日下氏の 贈答の歌である。
追って、日下氏から有村氏に送られた短冊の内にあった。

わが袖の  乾く間もなし春雨の 
降るたびごとに 故郷(ふるさと)恋しき
兼清

この一首は、かねてより詠み置いた歌と思われる。
上述の同じ(日下氏から有村氏に送られた短冊)内に
あった。

★(佐野竹之助の辞世)
大君の 憂い御心を 休みつつ
鬼住む国に 桜 狩りせん
  水府(水戸)
    佐野 竹之助

この佐野 竹之助は、日下氏に潜居していた、
とのこと。
生年21歳。その器量は抜群で、かねてより
(*有村) 次左衛門と親しい友で、
我・悪者の首を得る、彼・得ると、
争い云ったとのこと。
佐野(*竹之助)は、重傷を負いながら、
老中・脇坂安宅に出て、一人で申し開きをして、
その晩、亡くなったとのこと。


幕末、明治、大正回顧八十年史.
第1輯(著作権満了のものより)
佐野 竹之助 筆 題しらす

 思ひきや 今のうき身は 敷島の
   大和心の 露の魁

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★((*幕府) 井伊直弼の大老を罷免する。)
一 閏3月19日、定期の飛脚が着き、
関東の形勢は、以後、平穏であるけれども、
井伊直弼へ思召しがあり、御役御免と、
仰せ付けられたとのこと。
○久世広周(くぜ ひろちか・*下総関宿藩・
七代藩主。)が、ご老中に再職された、とのこと。

一 井伊家・家老・木俣 右京と申すもの、近日、
出府し、これまで、岡本半助らの説は、
生温いと、非常に急迫の論の持ち主であるとのこと。
よって、井伊家の仲は、両説に分かれる傾向で、
不穏の向きであるとのこと。
○勢揃いなどする、とのうわさ、あり。


●大久保利通日記は、これで、
上巻・第1~6巻のうち、上巻・第1巻が終了。
第2巻の日記の始まりは、
文久元年 (1861年) 12月です。


次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む15
大久保利通文書 巻1
大久保利通日記・上巻・第2巻  に続きます。


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