歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む15

●大久保利通文書・日記 文久元年

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

【目次】(ほぼ時系列で掲載)
文久元年・32歳

(文書)13・   文久元年6月19日
         堀 仲左衛門への書翰
(文書)14・   文久元年10月   (大久保家蔵)
         御納戸昇進祝賀案内の名前書

(文書)15・   文久元年11月 18日
         堀 次郎への書翰 (大久保家蔵)

(文書)16・   文久元年12月 5日  (牧野家蔵)
         堀 次郎への書翰

(日記)大久保利通日記・上巻・第2巻.
        文久元年(1861年)12月
       (十二月朔日)
        一 覆載萬安方 五拾九冊・・
       (十二月九日)
一 今四時 泉公(久光公)御登城・・
        一 七ツ後 御馬御式日二而・・
        一 島津壬生馬宜敷 御用見合・・
       (同 十日)
        一 八ツ退出懸念小家・・

追記 ●平野国臣・薩摩入りの背景と経緯

       (同 十一日)
        一 今日四時出勤後 重邸・・
       (同 十二日)
        一 今日谷山御所遠馬 昨日・・
       (同 十三日)
        一 善積一條取方之首尾相成・・
       (同 十四日)
        一 四時出殿 島津壬生馬 一
        一 今日江戸ヨリ急飛脚着・・

(文書)18・参考1
       平野国臣より大久保への書翰
        文久元年十二月十四日(大久保家蔵)

(日記)大久保利通日記・上巻・第2巻.
       文久元年(1861年)12月
       (同 十五日)
        一 八ツ後 摂州(喜入摂津)江差越・・
       (同 十六日)
        一 八ツ後 重邸江参上・・
       (同)
        一 四ツ時 出勤 今晩宿衛

(文書)17・  同志姓名録 文久元年


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この頃(年表より)
5月28日 水戸浪士ら、東禅寺を襲い、イギリス人を
      負傷させる。
      (第一次東禅寺事件)

文久元年 1861年 利通・32歳

(文書)13・    文久元年6月19日
堀 仲左衛門への書翰

(要点)白石正一郎より提出された書のことに
ついて依頼したものである。

(解説)
書中の高崎は、猪太郎、後の五六・白石正一郎は
馬関の人、勤王の志士と交わり、よく、その名を
知られる。
白石の一書は、薩摩藩に何事かの申出のことがあり、
兼ねて高崎らに斡旋を願っていたことである。
高崎の書は、どこかに散逸している。

【表題】
堀 仲左衛門 様    大久保正助
 別帋入(*別紙に入っている、の意)

(本文・意訳)
両日は、お目にかかれませんでしたが、
益々のご多幸、奉賀の至りに存じます。
さて、昨朝、高崎五六(たかさき ごろく・
*薩摩藩士。維新後、大久保利通に用いられ、
元老院議官、東京府知事などを任じられた。)
が来られ別紙が残され、
これは白石の一書で必要なものであり、
ついては、この一書は、貴兄へ差し上げる
所存でありますので、お手元へ(お置き下さい。)
別紙の通りながら、ご面倒でもお取り計らいたく、
政府の方などへお出でになる時は、
現況をもって、何卒、早々になされる件、
相、叶うよう申し上げて下さるでしょうか。
何か急用の様子と察し致します。
今朝、お傍にお伺いして申し上げたく
思いましたが、些細な向きがありますので、
明日にでも、お目にかかり、詳細に
申し上げます。
その内、そのことをもって、書中で、
願い置き申し上げます。 以上。
(*文久元年)6月19日


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この頃(年表より)
10月4日 島津忠義、有司に諭して、藩政に関する
意見を聞く。
10月20日 和宮内親王、徳川将軍・家茂に降嫁される。
桂御所、出発、11月25日 江戸到着。

(文書)14・ 文久元年10月   (大久保家蔵)
御納戸昇進祝賀案内の名前書

(要点)
破格の昇進を忝くし(かたじけなくし・
*もったいなく思い)、諸方からの喜びを受けたので、
利通は父と相談し、自家に祝宴を設け、
在藩の同志、知友および親戚を招いたことがあり、
本書は、その際における書き付けである。

(本文・原文ママ)
        壹人 ○・上田 源七 外二
        六人  ・山田 十介
            ・友野 市助
        [焼損] ・山口 矢太郎
           ○・早崎 七左衛門
        三人 ○・皆吉 五郎右衛門
        壹人 ○・八木 源七
        [焼損] ○ ・佐々木 新之丞
        壹人 ○・兒玉 軍兵衛
        貮人 ○・山本 勘兵衛
        四人  ・皆吉 氏
        四人  ・藤井 氏
       [焼損]人  ・石原 氏
        壹人  ・牧野 氏
        壹人 ○・白濱 氏
       △  ・・新納 嘉
        貮人・・樺山 氏

     右類中
        壹人ツヽ○ 猪俣 伊右衛門
        壹人ツヽ○ 大久保 金四郎
              奈良原 喜左衛門
              吉井(仁左衛門)
              有村(武二)
千田 杢右衛門        高崎(猪太郎)
              田中(謙之進)
[焼損]            江島(仲左衛門)
伊地知 十郎左衛門     
          山口(彦五郎)道島(五郎兵衛)
          伊地知(龍右衛門) 有馬(新七)
            本田(彌右衛門)
          柴山(愛次郎) 橋口(傳蔵)
          森岡(春助)森山(新蔵)
          西郷(信吾) 吉田(清右衛門)
          有馬 ○岩下(佐次右衛門)
          町田(民部) 郡山(一弁)
          川畑 鈴木(勇右衛門)
          松方(助左衛門) 谷村(小吉)
          是枝 野津(七左衛門)
   右人数不及吹聴
      拾五

(本文・意訳)
右の類の件、言い広めだけで、祝儀の趣(おもむき)は、
口頭で伝えられただけで、よろしくは、この通りで
あるでしょうか。何卒、調べて頂きたく存じます。

(*その後の薩摩藩・幕末を動かして行く当時の
精忠組の面々の名前が列記され、興味深い内容
となっている。
また、西郷信吾こと、西郷従道、
通称・有村(武二)こと、海江田信義の名も
見受けられる。


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*11月* 利通、破格を以て、御小納戸(*こなんど
小姓に次ぐ側近の職。才智に長ける者なら昇進の
機会が多い役職。)に抜擢され、一代だけの
新番(しんばん・警備・軍事部門(番方)の役職
のひとつ。)となり、初めて藩政の枢機(中枢)に
参与する。(*大久保利通文書では、10月になって
いる。)

(文書)15・ 文久元年11月 18日(大久保家蔵)
堀 次郎への書翰

(要点)
この書は、江戸にいる伊地知貞聲に秘策の打ち合わせ
をしたものである。

(解説)
利通は、この年11月、貞聲と共に小納戸に抜擢
され、君公の近侍となる。
これより先、利通は、側役・小松清簾、
小納戸・中山実善らにより、時事について度々、
建言するところがあった。
久光公も又、斉彬公の遺志を紹述し、一藩を挙げて
国事に尽力しようとする志があったが、これにおいて、
利通らの意見の受け入れ、意を決して、いよいよ、
明年春をもって上京の時期とした。
よって、まず貞聲を京都および江戸に遣わし、
出府の準備をさせようとし、同時に
忠義公の参観の時期がくるのに際し、
重ねて幕府に、この猶予を要請した。
すなわち、当時、この事は非常に至難の事情があり、
利通らはさらに合議して、止むを得ない最後の策
として、江戸・三田藩邸を焼き、これを名目として
参観の延期を出願することに決し、急便でこれを
貞聲に報告することに尽力した。
書中、一奇策 云々、とあるのは、すなわち、
藩邸の焼失の秘策を云ったのである。
宛名の(*堀) 次郎とあるのは、(*堀) 仲左衛門の
改名であり、翌年、又、(*堀) 小太郎と改め、後、
さらに伊地知壮之丞と称している。

(本文・意訳)
一筆、手紙を書かせていただきます。
少し寒さに向かうのが気になる季節柄、既に
落ち着かれ精勤せられ、恐悦、至極に存じます。
小生は、相変わらず無事に勤めており、憚りながら、
ご安心下さい。
そちら様の状況は、いかがでしょうか。
ふと、良き一報もあるのではないかと、
待たせていただいております。
先月24日、去る13,4日頃、再び、急ぎ飛脚を
出しましたので、追々、着くものと存じます。

段々と状況も相、変わり、難しくなりますが、
お互いに天下の為に大慶で、至極、この上ないのは、
そちら様のご周旋と追々のご趣意に基づくものと
(*思っており、)ぜひ、(大慶の)*ご成就の程、
ひとえに、お頼り申し上げます。
(*先月)24日から急ぎ飛脚が来て、
関わっています一奇策(*江戸藩邸の焼失の秘策)は、
(*順調に)運んでいますので、とりわけ、
大幸に存じ上げます。
何分にも、この一挙は大事の成否がかかっている
ことは、明らかに分かることで、その機会が
あるべきと存じます。
自然と、岸良兼養
(きしら かねやす。*島津忠義父子と精忠組との
連絡役を務めた島津久光の小姓)も出府する
ことになるので、今ひとつ、策も替わり、
ご尽力なされずには、相、済まないので、
充分な謀り事の書、万々、祈り願い奉ります。
さて、この節、田中太郎左衛門殿の出立に
付き、そちら様において柴田藤五郎へ
色々と手筈を致していただきたく、(*願います。)
併せて、上(*岸良兼養)のご都合、
いかがでしょうか。
もし、不都合になれば、小生の件も相談致したい
ので、何分、そのお考えを承りたいとの事に
存じます。

よって、小生が返答するに、幸い、貴殿が出府との
ことで、その趣意の程を篤(とく)と相談し、
貴殿の考え次第で、お手数をかけるので、
然るべく書面をもって申し置くとのことになるで、
申し上げます。(*なので)
自ずから、お引き合わせることになりますので、
何分とも、思し召しをもって、よろしく、諭して
下されますよう願い奉ります。
また、仕える場面もあると思いますので、傍ら、
お考え、次第で、お取り計らい下さい。
その後、格別に変わったこともないようですので、
まだまだ動かず、無理せず諸事の地盤を固める
ことが重要と思いますので、ここは、尽力するは、
周旋(*当事者間の世話)である時期と存じます。
一々(*各々について)何も申し上げ難く、
ご親察下さるよう願います。
(*小生は)今日、出立につき、殿中にて
慌ただしき文面で、かつ慌ただしい有様なので、
細事は申し上げられませんので、邸宅にて、
ご推読下さるよう願います。
(*以上)要件まで、早々、この如くであります。
         頓首 敬白
  11月18日 堀 次郎様

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この頃(年表より)
●12月5日 薩摩浪士ら、アメリカ通訳官・
ヒュースケンを赤羽で殺害。

文久元年 1861年 利通・32歳

(文書)16・ 文久元年12月 5日  (牧野家蔵)
堀 次郎への書翰

(要点)
江戸におけるその後の状況を尋ねたもの。

(解説)
書中に「白石一條カとも」云々とあるのは、馬関の
志士、白石正一郎から何事か願い出たものであろう。
中山は、尚之助実善で、これより先、
朝廷にご剣の献上のこと、及び、近衛家との縁談に
関する用向きを兼ね、かつ、島津久光・忠義公、両公の
精神を近衛 忠煕(このえ ただひろ)に通すために
京都に遣わしたものである。
岸良は、奥小姓・彦七のことで、中山と共に
上京していた。

(本文・意訳)
書簡をお送り致します。
追々、寒気の季節に向かうところ、いよいよ
ご安泰で精務を成されお祝い申し上げます。
次に、小生、相変わらずお勤め致しておりますので、
憚りながら、ご安慮の程を。
そちら様はご都合、如何でしょうか。
最早、ご一報を来る時分と、折角の吉報を待ち望んで
いるところであります。
再度、急飛脚を差し向けましたので、早目にその趣意、
達するものと思います、傍(かたわ)ら、ご奔走、
周旋下さるはずで、これで難問の件も安心して見られ、
併せて、最初から(*私に)任せて頂いておりますので、
私共としては安心の至りであります。
これまでの模様、考え違いも何かとあり、これについても、
計画し易い場合もあり、実に、その機会もあると
云うものです。
そちらの形勢は、追々、申されるように、
いよいよ急迫の時宜になるとのこと、
日々の首尾は良く、なお又、現実を承れば、
長州藩は、上下とも、奮い立っているとのこと、
感服の次第であります。
仙台藩のご参府の御免、肥後藩の姫君のお里帰りか、
との件は、大方、賄賂で、その成り行きとなっていると
聞いており、ご参府の一件のことも、こんなに簡単で
(参府しなくても良い)場合もあるのかと存じます。
なお当地も、日々、盛大なご処置に相、成り、
白石正一郎からの願い出も相、運び、三木も掛から
出関を仰せ付けられました。
軍役方も、およそ、その勢力が整う状況になり、
その他、長州のことは、紙面に尽くし難く、ご察し
下さるよう願います。
当分の間、ご一報をひとえに、お待ち致します。
未だ、中山尚之助(*中山中左衛門
(なかやま ちゅうざえもん・島津久光に
見出され、堀次郎、大久保利通らと共に、
御小納戸役に任じられていた。
この翌年、久光の上洛に随行する。)、
岸良 兼養(きしら かねやす・*島津久光の奥小姓。
彦七。島津忠義父子と精忠組との連絡役を務めた。)
の両士の一報も無く、もう少しすれば(一報がある)
と思いますが、何とも、長船の途中でありますので、
遠からず、何かと分かると申し上げます。
  (文久元年)12月5日 大久保 正助(*利通)
 堀 次郎 様


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大久保利通日記・上巻・第2巻.
【大久保利通日記】から 文久元年(1861年)

(本文・意訳)
文久元年 辛酉
12月1日

12月8日 写本

★(覆載万安方)
一 覆載万安方 59冊
 但し、黒塗箱入り、錠前・添え
(*「覆載万安方」は、
台北 故宮珍蔵の中医薬典籍の古代文献.で、
第1巻は、日本・梶原性全撰『覆載万安方』
(上・下)を収録。)

右、島津斉彬様が御代・平川玄斎へ
誤脱(*ごだつ・誤字脱字)などを糺して差し
上げるように堅山利武(かしやま としたけ・
*通称は武兵衛。島津斉興、斉彬、忠義の3代に仕え、
側役、側用人、当番頭、勘定奉行 を務める。)

へ書き付けを仰せ付けられたところ、程なく、
(*島津斉彬公が)ご逝去され、生前は深く
気にかけてこだわらず、島津茂久公の代に至り、
そのご趣旨の通り、手を付けようと考えたところ、
ご薬園掛を仰せ付けられました。
なので、(*その答えの)返上の旨を、方亢太郎左衛門
(*ほうが たろうざえもん・玉里島津家の家扶)
を取り次いで、お聞き致しました云々の旨があり、
法亢から私へ引き合いがありましたので、
同席して相談し、御用部屋へ申し出をしました
ところ、医学院の講釈医師へ行くようにとのご沙汰が
ありました。
そこで、今日、御用を申し渡したところ、
講釈医師・木原道一が出所するとのことで、
この文の通り、相、渡り、確かに、
(*覆載万安方の)誤脱などを糺して差し出すようにと、
申し置きました、のこと。

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大久保利通日記・上巻・第2巻.
【大久保利通日記】から 文久元年(1861年)

(本文・意訳)

★(田中(謙介)の一件)
12月9日
一 きょう、午前9時頃、 島津久光公、ご登城なされ、
田中謙介の一件(*寺田屋事件のこと)、
その他を申し上げる。
田中の一件は、お許しがあり、 御前で申し上げるとの
ご沙汰につき申し上げることになった。
【*田中謙介。本姓は池田。名は盛明。
通称は別に直之進。薩摩藩士。
江戸で水戸藩などの尊攘派と交わる。
有馬新七らと関白・九条尚忠
[この時の大老は、井伊直弼]の襲撃を謀り、
伏見・寺田屋に集結。[寺田屋事件]
だが、この挙の中止を伝える島津久光派遣の鎮撫使と
激論となり、眉間斬られて昏倒、負傷し、
文久2年4月24日、切腹となる。
寺田屋事件の発端となった人物。】

一 島津壬生馬、午後3時頃、御馬の御式日で、
馬と遊ばされ、暮れ時分に、引き下がられた。

一 島津久光公、馬(*の選別のため)よろしく、
きょう、ご覧遊ばされました。
御馬預・伊集院彌右衛門が乗馬して、ご用が、
相、成りました。
なおまた、努力して(*馬を)揃え、吟味するようにと
申し出られたので、厩へお預けになり、
その通りにすること(*吟味すること)と
伺いましたので、吟味すべきであると云うことで、
彌右衛門へ、そのことを申し置きました。
今晩は、お泊りで、大奥にお入りになられるので、
御前へ罷り出て、いろいろとお話などを申し上げ、
午後9時頃、下城し、就寝しました。

12月10日
一 午後2時頃、退出し、小松帯刀家へ行き、
今日、柴山愛次郎(*宅)へ。
今晩、鈴木武五郎(*宅)へ。




追記
●平野国臣・薩摩入りの背景と経緯
「大久保利通と平野国臣」

○安政5年(1858年) 11月に、西郷隆盛。
僧月照が薩摩入りした折、大久保利通らは、
二人に随行していた平野国臣との面会を望んだが、
藩庁は固くこれを辞した。

○その後、
平野国臣は、尊攘英断録(自ら執筆した倒幕論策
とも云えるもの)を、島津久光
(当時、兵と共に上京を計画の頃。)に提出する
ことを計画。
文久元年(1861年) 12月10日に、
薩摩の旅宿に、脱藩した元薩摩藩士・伊牟田尚平と
共に入る。
そして、藩から2日間、他人の接見と外出を禁じられ、
建白書の返答を待つ。
その折に、下記の歌ができる。(他説あり)

我胸の 燃ゆる思にくらふれは
 煙りはうすし櫻島由  

*久光公に上った「建白書」・自筆の校本と云える
本文、は、惜しいことに、散逸して、僅かに
結末の一葉が残っているだけである。
追加文は、平野国臣の友・岡部 諶が書き写したもの。
だが、その建白の趣旨を推測するための
一助になっていることは、確かである。

(*原文・読みやすくしました。)
悲憤に堪へずして亡命 突出仕候者も数十人
御座あるべく、若(も)し 一度(ひとたび)
其(その)機に発するときは、追々 、
其(その)轍(てつ)を軋ること必然の勢にて、
水戸家の挙動を以て御英察あらせられたく候。
御大藩の御こと故、縦ひ夫等(たとえそれら)の
得失には御頓着遊ばされ候譯も御座あるまじく
候えども、竟に天下の人心をも失はせられんこと、
此 御一決に可有(あるべく)御座、恐ながら
篤と(とくと)御熟慮在(あ)らせられ度(たく)
御場合歟(ばあいか)と奉存候。
書は言を盡(つく)さず、言は意を盡(つく)さず、
俯(ふ)して請。
公子宜(よろし)く英察を加え賜わるべく候。
   競々 業々 稽首 失敬 死罪
文久革令復陽浹 東西南北人 平野二郎國臣

 春ならて 先咲く梅の一朶(ひとえだ)の
  深き色香は 知る人そしる

だが、残念なことに、当時、平野国臣の尊攘英断録。
正副の建白書、真和泉の手による論策などは、
喜入久高(主席家老)、小松帯刀などには、
披露されたが、久光には進達されなかった。
久光は、後に、これを知り、遺憾の情を
抱いたと云う。
喜入、小松らが、その進達を抑留していた
のであった。

上記、以降、平野国臣顕彰会編・平野国臣伝記及遺稿
を参照。         (博文社書店, 1916)




12月11日
★(島津斉彬 言行録)
一 今日、午前9時頃、 島津久光公へ罷り出て、
少しずつ、伺いました。
午後2時過ぎ退出し、(*久光公は)小松帯刀家へ
行かれ、島津斉彬様の言行録を伊集院仁左衛門に、
碑銘著述を造士館助教・今藤新左衛門に仰せ付け
られました。
以上は、また、 御記録奉行・伊藤彦助、
伊地知小十郎へも仰せ付けられました。

★(平野国臣、薩摩に入る。)
★(伊牟田尚平 帰藩する。)
12月12日
一 今日、谷山御所(*鹿児島県の名所・桜島と錦江湾を
一望できる谷山菊池城跡地。)へ遠馬(えんば・遠乗り)。
昨日、山本五郎左衛門が、島津久光邸に御用があり、
午前11時頃、罷り出て、 筑前使者・藤井五兵衛
(平野国臣の変名)云々の旨がありました。
(*平野国臣。福岡藩士。攘夷派志士として奔走し、
西郷隆盛や真木泉ら志士と親交があり、討幕論
を広めた。
その要件は承知していましたので、出殿し、
小松帯刀家から、早々に書簡が来たので、
向かうと、伊牟田尚平(いむだ しょうへい・
薩摩藩郷士。万延元年、米公使館通訳・
ヒュースケン暗殺などに参加。後、喜界島に
流罪後、許される。)のあれこれの一件でした。
また、谷元作之助とあれこれと、用談し、
また、樺山休兵衛(*小荷駄奉行)宅へ行き面会
しました。
夜になり、この二人は、島津久光公へ罷り出た、
などとのこと。
又、樺山休兵衛と会い、小松帯刀家へ行き、
今夕 、(*この二人は、)筑前使者・藤井五兵衛
(平野国臣の変名)を呼んだとの趣きを承りました。




京都霊山護国神社、平野国臣 顕彰碑。
IMG_3097 ●.JPG

この夜、大久保利通からの消息により、
平野国臣は、大久保利通邸宅を訪れ、
初めて会談し、この時、利通は僧月照、西郷の
いきさつを知った。
そして伊牟田尚平も、この夜、内旨を受け、
谷元作之助から小松帯刀の邸宅に移って留まった。
(一説では、)
この夜、利通、小松帯刀家へ行くも平野、伊牟田は、
出立していたので大久保利通と有村 俊斎後の海江田)
の二人は、後を追い、天明重富駅で追いつき、
旅舎で初めて、相、語った、とも。



12月13日
一 伊牟田尚平の一件、
(*伊牟田は、前述のように喜界島に流罪後、許され、
後、脱藩し12月10日、平野国臣と共に薩摩
に入っていた。)
(*二人の) )取り方の首尾が出来たので、
お昼12時頃、退出し、伊牟田へ、あれこれと引き合う。
午後2時頃、島津久光公へ罷り出て、首尾の具合を
申し上げました。
又、小松帯刀家へ行き、伊牟田へ面会の旨、
その趣旨を承りました。

一 今晩、京都から飛脚が着く、
11月27日付けであった。


12月14日
一 午前9時頃、出殿して、島津壬生馬の一件、
あれこれと、ご沙汰につき、御馬預・伊十院彌右衛門
へ達し置きました。
午後3時頃、(*久光公の) 御前へ召され、
伊牟田尚平・平野国臣の一件について、
あれこれと申し上げました。
今晩は宿衛であった。
一 今日、江戸から急飛脚が着いた。
11月26日付けであった。

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(文書)18・参考1
平野国臣より大久保への書翰
文久元年12月14日(大久保家蔵)

         略封、お許しの程を
大久保 正助 様  藤井 五兵衛
         (平野国臣の変名)
  貴酬(*ご返事)
お手紙、拝読、致しました。
早速、(*私どもの)意見を君主に知らせていただき
大慶至極であります、かつ、念入りに、
一両日を待つようにとの仰せ付け、ありがたく存じます。
お含みおき通り、余人との面会、文通などは、
一切、慎しみ、ただただ、ご決着のご沙汰を謹んで、
お祈り申し上げます。
決して、ご懸念下さらないように願います。
ご返事、迄。  匁々 頓首 

*頓首は、はじめての手紙に使われる。
*この時、平野国臣は、前述のように、
島津久光が平野国臣の尊攘英断録。
正副の建白書、真和泉の手による論策などが、
久光の許に届いていないことを知る由も
なかった。


――――――――――――――――――――――

12月15日
★(平野・伊牟田の一件、決着。)
一 午後3時頃、
喜入摂津(*喜入久高、薩摩藩・主席家老)へ行き、
小松帯刀家へ。
今晩、伊牟田尚平の一件、決着。
伊牟田尚平と、とくと議論し、ようやく安堵。
明後日、(*平野国臣、伊牟田尚平は、
薩摩に入らず、)出立することで、決着した。
(*また、利通は平野国臣を訪ね、薩摩の藩論は、
確定し、主君を奉じて上京し朝廷の為に勤める、
と機密に及び、憂いている、とも言った。)


12月16日
★(利通 久光公に謁見する。)
一  午後3時頃、久光公宅へ参上し、両人
(*平野国臣、伊牟田尚平) の首尾を申し上げた。
今日は、島津斉彬様の御忌日のため、ご廟所へ
参詣した。
心祈丹誠(しんき たんせい・心を込めて祈り、
行う)を疑う大事、あれこれ。
島津久光公へ願ったところ、 とりわけ、
ご都合、ご深意を少しずつ承知頂き、
感激、落涙。ああ、言語に尽くし難し。
今夕、御式で夜に罷り出て、小松帯刀へ行き、
大事を相談した。



一 午前9時頃、出勤で、今晩は宿衛である。
小松帯刀家、今日、久光公が参閣あれこれ、
ああ、ああ。
[以上、 文久元年12月16迄で、以降、
記事原書を欠く。
以下、文久2年3月16日以後には原書がある。]


●平野国臣のその日。
12月16日
前述・午後3時より前のこと。
利通は、平野国臣に云う。
建白の趣旨はまさに慎重な詮議を
加えて取捨します。ここは、よろしく去って、
力を国事に致すべきで、もし、我が藩に
補益ありと思うことがあれば、更に来て、
(*それと)告げて下さい。と。
そして、遠来の労を謝して金・10両を
贈って道途の資金に充てさせた。
伊牟田も同様であった。
この日、平野国臣は、特に要望して、
月照の墓を南林寺に弔い、下記の二首を詠んだ。
○なからへば かに斯く命あるものを 
 過きにし入の 心みしかさ 
○しからずも 死ぬるも同じ大王(おおきみ)の 
 御國のために つくす心は


――――――――――――――――――――――

文久元年 1861年 利通・32歳

(文書)17・ 文久元年
同志姓名録

(要点)
姓名の下に記入されている年令から算定すれば、
文久元年に相当する。
何のために列記されているのか、明らかではない。
あるいは、久光公の東上につき、随従の士を
同志の中から推薦の際のものであるかも知れない。
*掲載は、二段組み
* ○印は、文久元年10月、利通の御納戸昇進
祝賀案内の名前書にある人物。
(資料の調査による)

有馬 (新七正義)○
谷村 (愛之助昌武)

伊地知 助勤 三十七 (龍衛門正治)○
松方 (助左衛門正義)○

吉井 無役 三十四 (仁左衛門友實)○
森岡 (善助昌純)

江夏 産物方書役 三十(仲左衛門榮享)
永田 (佐一郎)

有村 無役 三十 (俊斎信義)
神宮司 (助左衛門)

鈴木 四十三 (勇右衛門重高)○
柴山 (龍五郎景綱)

税所 三十五 (喜三左衛門篤)
大山 (十郎)

奈良原 喜八 二十八 (喜八郎繁)
伊地知 (源右衛門)

野津 二十七八 (七左衛門鎭雄)○
柴山 (愛次郎道隆)○

仁禮 三十位 (平助景範)
橋口 (傳蔵兼備)○

道島 二十七 (五郎兵衛正邦)○
高嶋三 (一次)

森山棠 (棠園永賀)
中島 (健彦)

田中 謙 二十七八 (謙之助盛明)
房村 (亥之助)

高島 清 廿位
田代 (稲麿義徳)

西郷 廿位 (信吾従道)○
深見 休八(有幸)

村田 二十七八 (新八経満)
木藤 彦次郎

山口 二十三四 (彦五郎)○
大野 四郎助

平山 二十七八 (新助)
高崎 善次郎

本田 三十四 (彌右衛門親雄)○
竹内 三十郎

大山彦 三十七八 (彦八盛美)
木田 謙

坂元 二十六七 (彦右衛門)
三島 (彌兵衛通庸)

鈴木 源 廿位
川井田

森山 新 十九 (新五左衛門永沼)
坂元 城

野津 七次 十八九 (道貫)
吉田 (清右衛門)

鈴木 昌 十九 (昌之助)
大山 (粥助麿)

有村 廿位 (幸蔵國彦)
楠田 助

坂元 (六耶)
赤塚 (源六眞成)
山之内 (作次郎貞奇)
上 五大 東一郎
 *掲載は、二段組み


次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む16
大久保利通文書 巻1 に続きます。

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