歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む19

●大久保利通日記・文書 文久2年

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

【目次】(ほぼ時系列で掲載)
文久2年・33歳

(日記)大久保利通日記・上巻・第2巻.
文久2年(1862年)四月十二日 ~五月二日

(文書)18・参考3  文久2年5月2日
真木 安臣より大久保への書簡
                (大久保家蔵)

大久保利通・第9巻
(文書)1675・ 文久2年5月2日       
堀 次郎への書簡

―――――――――――――――――――――――――――


大久保利通日記・上巻・第2巻.
【大久保利通日記】から 文久2年(1862年)
(本文・意訳)

4月12日 晴
四前(*午前10時前)、林 休左衛門が来て、又、
橋口 壮助[謙三]が来て、引き続き、
海江田 信義・吉井仁左衛門が来た。

一 九過(*お昼12時過ぎ)、 谷村愛之助と会い、
小松帯刀殿から、いろいろとお達しの趣きがあり
承知して、すぐに出勤し、今夕は泊り番で勤めた。


4月13日 雨のち晴
★(久光公、伏見屋敷に着く)
(*島津久光公)今日、大坂を発たれ。
六ツ過(*午前6時過ぎ)、乗船され、しばらく
雨が強く降ったが、昼頃から晴れ上がり、
暮れ前に都合よく、伏見屋敷に着かれた。

4月14日 晴
四時(*午前10時)に出勤し、
八後(*午後2時過ぎ)退出。
夕方に、林 休左衛門が来て、しばらくして
加藤十兵衛が来て、奈良原 喜八郎
(*有村 雄助の友人)が来た。

4月15日 晴のち雨
(*午前10時)に出勤し、八後(*午後2時過ぎ)
退出。
夕方に、本田 彌右衛門がちょっと来る。

4月16日 晴
★(久光公、入京。 近衛家を訪れる。)
今日、七ツ半(*午前5時頃)、(*久光公の)
お供で、四条綾小路・薩摩藩邸へ立ち寄り、
巳刻(*午前10時ごろ)、近衛家へ参られ、
今晩八ツ過(*午前2時すぎ)お供で発ち、
明け方、伏見屋敷に(*久光公は)
ご帰館なされた。

一 今日、中山忠能様、 正親町三條(実愛)様
にも、しばらくの間ご同席いただき、(*後)
お帰りになられ、ご参内され、またまた、
ご両者様とも、お出でになられた。

一 岩倉具視殿も、お出でになられたとのこと。

一 ご酒、お肴を御前において賜ったとのことで、
いただきました。

一 両び、ごちそうになりました。

一 人形をひとつ、御筆の色紙・二枚をいただきました。

一 今日は、御地廻り、御行列(*の役目)だった
ので、その後に(*連れ添い)相、勤めました。


4月17日 晴
★(久光公、浪士を鎮める勅命を賜った)
浪士共が蜂起すると云う不隠な企てがあるところ、
島津久光公は(*それを)取り押さえるように
との旨、(*その)叡慮、深くするようにとの
思召しであった。
これより以前において、(*天皇の)お膝元で
不容易なことがあっては、宮中では悩まれるので、
島津久光公には当地に留まり、(不隠な企て)を
鎮めて欲しいとの思し召しであった。
これは、昨日、ご両所様(*中山忠能、 正親町三條)
からお達しがあり、お供の奥向表方と会って
仰せ付かったことであります。

一 このことについて、
今日、八時(午後2時頃)、お供揃いで上京するように、
とのことであった。

★(久光公、京都薩邸に入る)
一 八ツ半時(*午後1時頃)御地廻りの御行列で、
御立ちになり、
七ツ過(*午後4時頃、)錦の御邸宅へ到着される。

薩摩藩邸跡(錦の御邸宅)
【交通】地下鉄・烏丸線・四条烏丸
【位置】東洞院入り口・北側
IMG_5102 ●.JPG

一 今日、(*私は、)御先番で九ツ過
(*お昼12時頃過ぎに)出発し、御邸宅に到着。
今夕は、泊番である。

一 昨日の次第 は、今夕、直に承知、賜わりました。

4月18日 晴
一 六ツ半(*午前7時頃)お目覚め。
八ツ後(午後2時過ぎ)退出する。

一 岸良七之丞(*岸良 兼養・島津久光の小姓)
が来られたので、旅宿へ行き、暮れごろ宿に帰る。
今夕 、本田 弥右衛門(本田親雄・*京都留守居役)
が来た。

4月19日
★(利通 大坂へ下る)
一 四時(*午前10時頃)出勤 、
八前(*午後2時前頃) 大坂に下るよう仰せ付かる。
八後(*午後2時過ぎ) 退出し、(*仕事を)終える。
七ツ時(*午後4時頃)、伏見に着く。
高道に宿をとったが、船の都合に手間取り、
暮れ前に出舟した。
淀辺りに夜七ツ時(*午後5時頃か)大坂に着舟し、
加藤(*十兵衛)の屋敷を宿とした。

4月20日
一 早朝、柴山愛次郎、橋口伝蔵と会い、
また、有馬新七、田中謙介(*とも会い)、
その上、田中河内介、小河彌右衛門の両人とも
会い、談論してから数刻で(*両人は)帰られ、
また、橋口伝蔵は控えているなどの首尾で、
およそ大鐘(午後6時) 頃、ここから出舟し
桜の宮あたりで夜になり、伏見には、
暁天(ぎょうてん・明け方)に着いた。

4月21日
★(利通 帰京する)
一 早天(*早朝)、伏見、高道に着く。
朝飯を済ませ、四ツ時(*午前10時頃)
京都(*伏見屋敷)に着く。
早速、(*久光公に大坂の)状況を申し上げる。
今夕は、泊番であった。

一 (*久光公は)物見に行かれ、
今夕、五ツ時(*午後8時頃)ご就寝。

4月22日
一 六ツ半(*午前8時頃) お目覚め。

一 八後(*午後2時過ぎ) 退出する。
今日、お国元へ飛脚を出し、紙包三ツ 書状一通を
送る。
他に税所 篤(通称、喜三左衛門・薩摩閥の重鎮)へ
(*書状)一通、紙包一ツ(*を同封する。)。
本田 弥右衛門(本田親雄・*京都留守居役)が
来る。



4月23日
今日、四時(*午前10時頃)出勤する。
八後(*午後2時過ぎ) 吉井仁左衛門と共に知恩院を
見物し、噲々堂へ立ち寄り、茶菓子を食し、
日の入り前に帰った。

*噲々堂(かいかいどう)は、池大雅の弟子の
佐竹噲々がつくった店で山猫茶屋として知られ、
東山下河原、高台寺、塔頭・圓徳院の西隣辺りに
あった。
当時、土佐藩が、特にひいきにしており、
谷守部(干城、小目付役)は小菊を、
中岡慎太郎はお蘭を、薩摩藩では、
小松帯刀が山猫藝者の小筆を愛人にしていた。
山猫は、元々、その名を山根子、山の子と云い、
秀吉の北政所に奉仕した女芸人らが、その発祥と
される。 

★(激徒が、上京しようとする。
★(*薩摩藩は)藩士を伏見に派遣して上意打を
しょうとする。)
一 今日、変事が到来した。
高崎佐太郎が来たので、すぐに出殿した。
訳は、大坂に滞留中の浪人、並びにお国から江戸へ
亡命した者、守衛方の人数、3,40人が申し合わせ、
(京都)所司代へ斬り入るとの企て
(*関白・九条 尚忠と京都所司代・酒井忠義への
襲撃)で、今朝、大坂を出帆したので、
右の注進(*上申)として、高崎佐太郎が駆けつけられた。
よって、上意打ちに致せとのことで、
以下の人数を(*四条綾小路・薩摩藩邸から)伏見を
目指して差し出された。
鈴木 勇右衛門、 大山 格之進、奈良原喜八郎、
道島 五郎兵衛、江夏 仲左衛門、山口金之助,
森岡 善助、上床 源助、
以上が討手で、すぐに日没前に出立した。

★(寺田屋騒動が起こる)
一 九ツ時分(*お昼12時頃)であろうか、
山口 金之助が重傷を負いながら帰り
(*史実では軽傷となっている)、今、
有馬新七、田中謙介、柴山愛次郎、森山新五左衛門、
橋口壮助、橋口伝蔵、弟子丸龍助らと斬り合いをした
ことを述べ、その状況を言上したところ、
(*島津久光公は)、それに満足された。

寺田屋
IMG_4164●寺田屋 (1280x960).jpg


一 山口(*金之助)が申すには、
「以上の人数を斬ったが、後、浪人、藩士らを
取り鎮めるとして、奈良原喜左衛門がせっかく働いたが、
(*浪人、藩士らが)それを承知することに覚束ないので、
早々に来て頂きたい」とのことなので、
そのことも(*久光公に)申し上げたところ、
私目(*大久保利通)、奈良原喜左衛門
(*奈良原喜八郎の兄)、海江田信義、吉井友実は
同道して参上する(*寺田屋へ行く)ことを承知しました。
よって、急いでいたところ、途中で、奈良原喜八郎らと
会い、後、差し支えなく、「一同は安心した」とのことで、
すべて(*我等は)同道して(*寺田屋へ)行った。

一 その場(*寺田屋)の次第は、初め、
討手、一列が伏見に着き、彼ら(*浪人、藩士)
の挙動を伺ってから、京橋の近辺の寺田屋(*浜)
へ上陸した。
一同は、既に出陣の用意の連絡があり、
討手は、一列に進んで入り込み、
有馬新七、田中謙介、橋口伝蔵、柴山愛次郎を
呼び出し、二階から降りて上意の趣旨を聞かせ、
自害を勧めたところ、なかなか承知の様子がなく、
「上意!」と呼びかけ、最初に道島 五郎兵衛が
斬りつけ、それから一同が抜刀して戦になった。
(*そして)最後に4人を斬り伏せ、続いて、
弟子丸龍介、森山新五左衛門、西田直五郎、
[原本欠文] らが、走りつけ、抜刀してかかって
きたので、ことごとく斬り伏せた。

一 右(*上述)のほか、(*以上の8名の他の)
浪人らは、全て奈良原喜八郎の神妙な働きにより
取り鎮められた。
(*奈良原らは)各々、二階に行き、刀を投げ捨て、
大肌抜くにて(*和服の袖から腕を抜いて上半身の肌を
表わにして)鞘から抜き取った刀身を持つ者に
立ちふさがり、
「決して騒動されないように、この次第
(*いきさつ)は、このような訳なので、鎮まるように」
と、詳細を述べて含めると、何れも必死を覚悟した者共
であったが、奈良原は遂に(*彼等)を屈服させた次第
(*状況)で、(*その行動には)感心せずには
いられなかった。

一 上記に参加した人名は下記の通り
大山 弥助、是枝万助(柴山矢吉)、
柴山 龍五郎、吉田清右衛門、林 正之進、
深見休蔵、有馬 休八、岩元 勇助、  
谷元 兵右衛門、岸良 三之介、橋口 吉之進、
篠原国幹、吉原 弥二郎、三島 弥兵衛、
西郷真吾、河野 四郎左衛門、
森 新兵衛(森 真兵衛)、
〇町田 六郎左衛門  〇伊集院 直右衛門
〇永山 弥一郎 〇木藤 市助(市之介) 
〇坂元 彦右衛門

以上、丸印(〇)の人名は、
江戸から亡命した人名で、他は守衛方である。
(*帰藩謹慎を命じられた。)

一 浪人の人名は、以下の通り
田中 河内介、青木 頼母、中村 主計
以上は、京都。
(*鹿児島で引き取ると申し渡された。
これは、月照の時と同様に日向への道中での
切り捨てを暗に意味し、後、斬殺された。)

海賀 宮門(直求)
以上は、秋月。

眞木 和泉守(保臣)  同 菊四郎(道武)  
酒井 傳次郎(重威) 鶴田 陶司(道徳)  
原 道太(盾雄)  荒巻 兵太郎
以上は、筑後久留米(*藩に引き取られた)。

古賀 管次  中垣 健太郎(幸雄)  
吉武 助左衛門(信義)淵上 謙三(祐利)
以上は、同(*筑後久留米)。

宮地 誼蔵(正覺)
以上は、土州(*土佐藩に引き取られた)。

富田 猛十郎(通信)  池之上 隼之介
以上は、佐土原

以上は、大坂から暴発した人名。
――――――――――-

河内介の息子 田中 佐馬介(嘉猷)、  
河内介の甥の甥 千葉 郁太郎(徳胤)

土州(*土佐藩)。
重松緑太郎 と従人、ひとり。

以上は、追って参加した人名。
――――――――――-

★(利通 寺田屋に行く)
一 山口(*金之進)の一報で、何分にも、
(*その)足取りを追うのは、むつかしいので、
誰かが出かけて、(*騒乱を)鎮めるべきであると、
その状況を細かく述べたところ、早速、
奈良原喜左衛門(*奈良原喜八郎の兄)、
海江田信義が同道して、私(*利通)のところに来て、
(*来るようにとのことで)、すぐに駆けつけたところ、
上述の人たちと出会い、もっとも、
奈良原喜八郎から細かく状況を聞いていたので、
また、出殿して、細かく申し上げたところ、
まず、長屋(*屋敷内の家臣の家)に捕らえて
留め置くようにと仰せ付けられ、よって、
七番長屋に捕らえて留め置いた。
(*騒動後、)
以上に同意して、(*騒動の)一味の国守衛方の者たち
(*志士たち)、江戸亡命の者たちを一緒に捕らえて
留め置いたが、別に(*分けて)長屋へも移させた。

一 今夕は、終夜まで大混雑で夜明になりました。

一 この晩は、上記の人たち(*騒乱を鎮めた者たち)
は、御切米(*支給の米)10石を(*その功労に報い)
賜りました。



4月24日
★(利通、田中 河内介、海賀 宮門を説得する)

一 今朝、浪人と面接するようにとの仰せで、
田中 河内介と会い、議論をした。
返答は、眞木和泉などと相談すべきとのこと。

一 本日、また秋月藩・海賀 宮門から
堀 仲左衛門と吉井友実が私(*利通)と
面会したいとのことで同道し、
海賀 宮門と面会し議論した、など。

一 今日も終日を通して、宵まで詰め通しでした。

4月25日
一 今日、海賀 宮門から私(*利通)と
吉井友実に面会したいと、来たので面会した。
あちら、田中 河内介、真木和泉守らは、
相談の趣きがあるとのことなどを承知し、
詳細、曲折、弁論に及んだが、大方、
安心の様子であった。

4月26日
一 今日も、又、詰め通しであった。

★(上意打ちのために来た人々)
一 (*4月)23日 上意打ちの人たち

即死 道島五郎兵衛
薄手(*軽傷) 奈良原 喜八郎
少し深(*やや重傷) 山口 金之進
上記の者は、御殿で養生方に仰せ付けられた。

少し深 薄手(*やや重傷)
 江夏 仲左衛門
上記の者は、長屋で養生方、足軽に召された。

重創(*重症) 森岡 善助
薄手(*軽傷) 鈴木 勇右衛門
上記の者は、伏見(*屋敷)で養生することに。
森岡 善助の件は、既に危篤であったが
次第に快方しており良かった。

大山 格之助
鈴木 昌之助
上床 源助
上記の者は、無疵(*無傷)であった。


4月27日
一 今日は浪人の処置であるが、浪人の一味、
お国の人達(*志士)は、全て移動させること
になった。

★(志士、浪人等を帰藩させる)
一 浪人たち・田中 河内ら、海賀 宮門らは、
二つに分けられて、お国の人たち(*志士)も
二つに分けられて、今晩、移動させられた。
(*そして、それは)いざこざ無く済まされた。
今晩も又、詰め通しでした。

4月28日 晴
一 今日、真木 和泉守らは、大坂へ移動させ
られた。
全て、浪人らは引き払われ、さしあたっては、
静かに落ち着いた。
今晩は、久し振りに、退出できた。

4月29日
一 今朝、高崎猪太郎[旧名・五六]、
吉井中助(友実)が来た
四時(*午前10時)に出勤し、
八ツ後(*午後2時過ぎ)退出。


4月30日 晴
四時(*午前10時)に出勤し、
八後(*午後2時過ぎ)退出。

一 関東において、
一橋慶喜公、徳川慶勝公、松平慶永公、
徳川慶勝公、山内豊信侯が謹慎を解かれた
とのこと、一報で承知した。

★(尊融親王以下の謹慎が解かれる)
一 粟田宮・(*久邇宮朝彦親王)様 、
近衛忠熙様、 鷹司輔熙様 らは謹慎が解かれ
今日、(*そのように)仰せ付けられたとのこと。
実に今日は、千載一隅の一日で、
長年の苦労が一時、分かるようなもので、
言葉では言い現わすことが出来ない。

一 今夕、吉井中助(友実)、
本弥(本田親雄)、伊地知 龍右衛門が来て、
心より祝った。


5月1日 雨
一 四時(*午前10時)に出勤し、
今日は、泊まり番である。

5月2日 曇り
一 今日八ツ後(*午後2時過ぎ)退出。
大鐘(午後6時) 頃、堀 仲左衛門のところへ
行き、同道して四条辺りをゆっくり歩き、
*池大雅の弟子の(かいかいどう・佐竹噲々が
つくった店で山猫茶屋として知られた。)
へ行き、後から本田親雄が来た。
今晩、堀 仲左衛門のところへ行った。

―――――――――――――――――――――――――――

(文書)18・参考3  文久2年5月2日
真木 安臣より大久保への書簡
                (大久保家蔵)

(本文・意訳)
謹啓 
時下、不順のところ、いよいよ御万福あらせられ、
大賀に存じ奉ります。
次に野生(やせい・*男子が自分をへりくだって云う語。
近世に多用された。)、つつが無く居りますが、
憚(はばか)りながら、心底から承知致しております。
そうは申せど、私儀、3月晦日、鹿児島を出発し、
日州路(*日向路)を耐えて、豊後・佐賀関(さがのせき)
から小舟で、4月21日、ようやく浪速(大坂)に到着し、
同(*4月)23日深更(*深夜)、京のお屋敷に行き、
お忙しい最中に、人方ならぬ御厄介になりました。
その内、急いでご寓居に罷り出て、これまでの御礼など
申し上げるべきところ、一夜の騒がしさにつき、
控えておりますと、この節、大坂国屋敷へ引き渡される
私共の身柄の儀についての叡慮ならびに(*忠正)公)の
御仁恵の思召しなど、詳しく仰せ遣わされた(*使いを
やって言葉を伝えさせた)とのこと。
同役人から申し聞き、どこまでも手厚い御事、深々、
感じ入り奉ります。
この節、御依頼の浪人共の一枚の義にはありますが、
私義は、殊更の儀であり、実に謝辞もありませんが、
憚(はばか)りながら、貴公様(*大久保 利通)から
御序(おついで)の節は、よろしく仰せ遣わされるよう
お願い申し上げます。
さて、国方へ行くことについては、天の一涯(*一生懸命)
耐えて、どのようになるかも測り難くはありますが、
事業の始末は承知して頂きたく、その節は、必ず、
お越し下されますよう願いたく、上書を(*小松)帯刀殿
へ差し出させて頂きます。
(*よって)貴公様(*大久保 利通)がお口添えをなされ、
私共の義が叶うようにお取り就きたく存じます。
右(*上述)は、春が来て、ご寵愛を顧みるに、
御礼申し上げたく、傍ら、寸楮(すんちょ・
自分の手紙を へりくだって云う語。)。を呈し
奉ります。
恐れながら。頓首(とんしゅ・*頭を地面に
すりつけるように拝礼すること。)
    5月2日  真木 前司
             安臣
 大久保 一蔵 様

―――――――――――――――――――――――――――

大久保利通・第9巻
(文書)1675・ 文久2年5月2日       
堀 次郎への書簡

(要点)
同行の約束につき、都合を問い合わせたものである。

(本文・意訳)
今日は、如何なされようや。
いささか遅れたので、少しお伺い申し上げます。
遠方であれば、明日にても致すべく申し上げます。
          以上。
     5月2日     大久保 一蔵
 堀 次郎様
       内用



次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む20
大久保利通日記・上巻・第2巻  に続きます。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント