歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む24

●大久保利通日記・文書 文久2年

本編は、
大久保利通文書(全10巻)、
大久保利通日記(全2巻)を
(日本史籍協会 昭和2年)を底本として、
これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風(意訳)に読んでいくものとします。
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

【目次】(ほぼ時系列で掲載)

(日記)大久保利通日記・上巻・第2巻.
文久2年(1862年)閏八月朔日 ~閏八月廿二日

(文書)24・   文久2年閏8月22日
小河 一敏への書簡

―――――――――――――――――――――

大久保利通日記・上巻・第2巻.
【大久保利通日記】から 文久2年(1862年)
(本文・意訳)

閏8月1日
定刻 岡崎(東宿・38) (*を出発) 2里
大濱   少しご休憩 高井 善兵衛 1里30丁
池鯉鮒(東宿・39)ご休憩     1里16丁
前後   御立場 辰巳屋 忠二郎  1里半
鳴海(東宿・40)少しご休憩 御本亭 
下郷 良之助   1里半

★(宮に到着。)
宮(東宿・41)    ご宿泊

七ツ時分(*午後4時頃) ご到着。

一 今日 お供で、
七ツ時分(*午後4時頃)着。
今晩、山科(*吉井友実) が来た。
旅日記(宮)
光峨飯島明 [画] (光峨飯島明、明治9年)
著作権満了のものより
10 IMG_0036 ★宮 (1280x960).jpg


閏8月2日
佐屋川(さやがわ・かつて存在した木曽川の
支流。江戸期に佐屋街道が開かれて交通の要所と
して栄えた。)で 御滞在。

一 今番、泊まりにつき、
四ツ過(*午前10時頃)から出勤。

一 藤井良節(*奥医師)が着き、
陽明家(*近衛家)へご参殿の件などにつき、
(*話され)帰られた。
すぐに、(*藤井良節)は発つようにと、
(*久光公は)仰せ付けられた。


閏8月3日
一 お目覚め、 七ツ半 (*午前5時頃)
宮(東宿・41) 六ツ時(*午前5時頃) 
ご出発 2里9丁
岩塚  少しご休憩 御本亭 武藤 平八郎 2里
神守  少しご休憩 御本亭 猪岡 文蔵 
1里半9丁
佐屋  ご休憩        3里 川御下リ

★(久光公、桑名に到着する。)
桑名(東宿・42)  ご宿泊

右の通り、諸所でご休憩され、
大鐘時分(*午前0時)ご到着される。

一 高崎(*猪太郎・異人の挙動の探索方)、
奈良原 喜八郎、森岡善助などが来た。

一 今夕、本田親雄の問い合わせ(*の手紙)が
来た。

旅日記(桑名)
同上
11  IMG_0040 ★桑名(1280x960).jpg


閏8月4日
一 六ツ時(*午前6時頃)提灯ご用意。
桑名(東宿・42)  ご出発  2里8丁
富田  御立場 酒屋 五郎兵衛 1里
四日市(東宿・43) 少しご休憩 御本亭
 清水太郎兵衛   1里
追分  御立場 鍵屋 趙三郎    1里27丁
石薬師(東宿・44) ご休憩     25丁
庄野(東宿・45)御立場 御本亭 
浪田 兵左衛門    2里
亀山(東宿・46)御立場 御本亭 
樋口 太郎兵衛  1里半
関(東宿・47)ご宿泊
*関町(せきちょう)、現・三重県亀山市。

右の通り諸所で御休になり、夜入過ぎ、ご到着。
今晩、本田親雄へ問い合わせを出す。

旅日記(関)
同上
12 IMG_0037 ★関 (1280x960).jpg


閏8月5日
七ツ半時(*午前5時頃)
関(東宿・47)  御立   3里     
加太  少しご休憩  坂 清次郎  1里半8丁
柘植  少しご休憩 御本亭 福池 彦六 1里半
柄山村 御立場         1里半
寺庄村 ご休憩         1里8丁
三木柳村 御立場 植木屋 庄右衛門 
1里半8丁
石部(東宿・51)  ご宿泊

★(久光公 石部に到着。 日光宮、ご通行)
右の通り、日光宮様
(*北白川宮能久親王・きたしらかわのみや
よしひさ しんのう。孝明天皇の義弟、
明治天皇の義理の叔父に当たる。)の
御通行につき、道筋を変えてご通行される。
夜入過ぎ、五ツ時分(*午後8時頃) ご到着。

一 今日は、先番につき、本街道を通行し、
七ツ過後(*午後4時過ぎ頃)到着し、
今夕は、泊まり番を勤める。

旅日記(石部)
同上
13 IMG_0038 ★石部 (1280x960).jpg


閏8月6日
七ツ半 (*午前5時頃)お目覚め。
六ツ時(*午前6時頃) 
石部(東宿・51) ご出発    1里7丁
梅木村 少しご休憩 大角彌右衛門 1里半
草津(東宿・52)  ご休憩   2里6丁
鳥居川 御立場 鍵屋 庄兵衛  1里半6丁
大津(東宿・53)  ご宿泊

右の通りご通行された。
今日、八ツ過(*午後2時頃過ぎ)ご到着。

一 今般、(*大阪から)加藤 十兵衛が旅宿へ
見舞いに来た。

一 本田 親雄(*京都留守居役)も御用で来た。
よって、同道して本陣へ行き、
中山 中左衛門(*御小納戸役)に引き合わせ、
本田 親雄と、又々、旅宿へ同伴し、
九ツ時分(*午前0時頃)に帰られた。

旅日記(大津)
同上
14 IMG_0039 ★大津 (1280x960).jpg


閏8月7日
一 八ツ時(*午後2時頃過ぎ)
 お仕舞いの通り、大津駅。
  暁七ツ時(*午前4時頃)ご出発  1里
追分  少しご休憩 有川 市郎兵衛  1里半
蹴上  ご休憩           1里ほど

(久光公、京都着。近衛家を訪問する。)
陽明殿

右の通り、少しご休憩され、ご旅装のまま、
陽明家(*近衛家)へご参殿。
お控席へお通リになり、程なく、御書院で
御父子様とお逢いになり、一応、
下がられて議奏(ぎそう・太政官が政務に関し
審議し、結論が出た事柄 について、天皇に
上奏する公家の職。)の方々とお会いになり、
ご用談なされた。

一 明後9日、ご用の件があらせられるので、
ご参内するようにと、議奏衆からの内勅が
あった。

★(久光公 薩摩藩・錦町邸に入る。)

一 (*久光公、)暮頃に退散され、
 錦町邸に、ご帰館なされた。

一 今日の道順、三条通寺町通、
今出川中立売御門へお入りになられ、
陽明家(*近衛家)表御門から、お入りになられた。
御行列の拝見の富者・貧者、老若数が非常に多く、
ようやく、輿(こし)が、通れるほどであった。
特に御所の辺りは、身分の低い官女の者まで、
拝見に来て、その後を追って来られ、
実に恐れ多くとも、何とも言葉に尽くし難く、
夢中の心持でありました。

一 今日、三条通りにおいて、お駕籠に
訴状致し者があった。

一 ご帰殿の節、夜に入り、道筋は、
軒々へ行燈を出して奔走した

一 今夕、出殿し、祝酒を頂いた。

閏8月8日

一 今朝、出殿。
吉祥院(税所乗願)
*吉祥院住職・税所 篤の実兄、篤清。
久光の寵遇を受けるに従い、税所家は好転した。

小河 弥右衛門
*小河 一敏(おごう かずとし)
豊後国・岡藩に生まれ、朱子学、陽明学を学び、
早くから尊王攘夷の志を抱いた。
自身、薩摩藩邸に身を置きながら活動を継続
していた。

その他、 だんだん見舞客が来た。

★(利通、近衛公父子に謁見する。)
一 四時(*午前10時頃)出勤。 
四ツ後(*午前10時頃後、)小松帯刀、
藤井良節、共々、近衛家へ参殿した。
(*近衛公)父子様がお目見えに成り、
久光公の京都滞在の件など、いろいろと
仰せ付けられた。よって、
七ツ過(*午後4時頃過ぎ)、退出し出殿した。
今夕、正親町三条家へお使いとして参殿し、
いろいろと申し上げた。
四時(*午後10時頃)、退殿し、
中山 中左衛門へ少し、立ち寄って帰った。

閏8月9日
六ツ時(*午前6時頃) 
中山大納言様(*中山 忠能)へ参殿などを
(*久光公に)言上して、それから、
陽明家(*近衛家)へ先番として参殿した。

一 五ツ半時(*午前9時頃)
お供揃いで、御池廻り、行列で参殿し、
控席へ通った。

一 青蓮院宮様(*久邇宮朝彦親王)、
三条少将様(*三条実美)も参殿された。

一 (*近衛家)父子様の対面が終わって、
宮様(*青蓮院宮様)、三條様(*三条実美)とも
ご対面された。

一 八ツ時(*午後2時頃)お控席で、
御料理を出された。

★(久光公、参内し復命する。)
*復命とは、命令を受けた者が、その経過や結果を
報告すること。

★(久光公に褒勅(ほうちょく・お褒めの言葉)
があり、御剣・一口を賜わる。)

一 申刻頃(*午後3時から5時頃)、
(*久光公は、)
関白様(近衛忠熙)からご拝領の直垂
(ひたたれ・*男性の大礼服)に召し替えられて
参内され、御台所御門からお入りになり、
奏者所の玄関から上がられ、御輿所でお控えなされ、
お取次ぎ・虫鹿織部(むしか おりべ)の案内で、
伝奏衆・坊城 俊克(ぼうじょう としかつ)宰相と
お会いになり、又々、お控え所へ入られ、
直ちに虫鹿織部の案内で、伝奏の方と会われ、
伝奏の方の案内で、長橋局の縁座敷へ着座された。
*長橋局(ながはしのつぼね)
*宮中に仕えた女官。
勾当内侍(こうとうのないし)の別称。
清涼殿の 東南隅から紫宸殿の御後(ごご)に通じる
細長い板の橋を長橋と云う。
そして、その側に勾当内侍の局があった。)

(*そして)上段に上がられ、
議奏の三卿、
中山忠能(なかやま ただやす)
正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう さねなる)
野宮定功(ののみや さだいさ)  と、
伝奏・坊城 俊克 の御席詰めで、関東の状況を
お尋ねになられ、(*久光公は) 言上され、
議奏の方々が、(*久光公から聞いたことを
議奏の方々を通じて) 経奏される間、
(しばらくは、彼らが入られたり、又々、
出られたりして)経奏されたところ、思いがけず、
天皇の感心は、浅くないとの思し召しを賜り、
(中山忠能様を通じて)お褒めの言葉と
御剣・一口を拝領遊ばされ、
お控所で、お茶菓子を頂戴され、申の下刻
(*午後4時頃)、又々、近衛殿が退散され、
お控え所を通り、湯漬けを頂き、後、
近衛父子様と会われ、四ツ時(*午後10時頃)
(*薩摩藩)錦町邸へ、ご帰館なされた。

★(利通、久光公に従い、御所へ行く。)
一 用人の場に、小松家帯刀、中山次右衛門、
近侍・中山中左衛門、 私目、谷村昌武、
木藤角太夫、
御供目付両人・奈良原喜左衛門、海江田武次、
奥小姓・相良量右衛門 、
近侍之場・本田 親雄、
お履(くつ)上げ、吉井友実。

一 太刀は、 中山中左衛門が持ち、
定差を腰物袋入に入れて私目がこれを持った。

一 お冠りは、関白様のお持ち合わせのものを
頂いた。

一 お履(くつ)は、二条斎敬様の
お持ち合わせのものを頂いた。


閏8月10日
一 今日、四時(*午前10時頃) 出勤。
泊まりである。

閏8月11日
★(利通、公卿邸へお礼廻りを勤める。)
一 六ツ半(午前7時頃)お目覚め。
お仕舞は、平日の通り。
中山忠能様、野宮定功様、正親町三条実愛 様へ
ご参内のお礼、かつ又、お土産を進上する使者
を相、勤めた。
暮れ過ぎに帰り、本田親雄、吉井友実が来る。

閏8月12日
一 四時(*午前10時頃) 出勤。
八後(*午後2時頃過ぎ)退出。
八ツ後(*午後2時頃過ぎ)
伝奏・坊城 俊克様へ参内のお礼の使者を
相、勤めた。
少し経って、伊地知正治が来た。
今夕、谷村昌武へ、お悔やみとして伺った。

閏8月13日
今朝、(*御用部屋・書役)有馬九左衛門が、
見舞いとして来た。
四ツ時(*午前10時頃) 出勤。
今夕、泊まり番である。
夜入過 佐土原藩士・能勢 次郎右衛門に
御用があり、小松家へ伺った。
もっとも、岩下 方平、吉井友実、
高崎 猪太郎に明日、出府が仰せ付けられた。
今晩、ご用談として参られ、ご用談が済むと、
又々、出殿した。


閏8月14日
一 泊り明けである。

★(久光公、青蓮院宮[久邇宮朝彦親王 ] を
訪問する。)

一 お目覚め、 六ツ半時(*午前7時頃)。
仕舞いは、平日の通り。
巳刻(*午前10時頃)、お供揃いで、
青蓮院宮様(久邇宮朝彦親王)が仰せ付けに
なられた。
七ツ半(*午後5時頃)、帰殿された。

一 今日、吉井友実らが出立につき、
本田親雄、吉井友実が来て、
いろいろと談合した。

★(利通 近衛家へ行く。 
久光公、内勅をいただく。)
一 近衛家から参殿の御用があると来られたので、
少しの間、出殿し、いろいろな御沙汰を承知し、
暮時分に参殿した。
よって、正親町三条実愛 様にお目見えを
仰せ付けられ、両日中に、島津久光公が
議奏の方々と対面し、いろいろと言上されるので、
概略のご返事を承り、
引き続き、近衛父子様(近衛忠熙・忠房)が
お目見えになり、仰せ付けられた。
(*それは)久光公への秘策が献呈されるなど
のことで、格別のご内勅がされるので、
私目に、お渡しになられた。
よって退出し、しばらくして出殿し、休んで、
帰宿した。

閏8月15日
一 四時 出勤(*午前10時頃) 出勤。
明日、陽明家(*近衛家)へ、
辰半刻(*午前9時頃)に参殿して、
久光公の御使者・大塚儀八郎、
中山家の御使者・相良内膳をいろいろと
応接する。

一 (*佐土原藩士)能勢 次郎右衛門へ
(*久光公の命により)◆趣意書を渡した。
八後(*午後2時頃過ぎ)退出し、
七ツ後(*午後5時頃後)から本田親雄
(*京都留守居役)と
(*佐土原藩士)能勢 次郎右衛門と同道し、
本圀寺を見物するとして伺った。
帰りがけに、鰻を食して、
五ツ時分(*午後8時頃)帰った。
本田親雄・藤井良節が立ち寄られ、談話し、
深夜に及んだ。

―――――――――――――――――――――

(文書)23・ 文久2年閏8月15日
   生麦事件に関する伝達書

(要点)
◆本書は、利通が生麦事件につき久光公の意を
受けて、佐土原藩の側役である能勢 直陳
(時に[能勢]次郎左衛門と称する)に
与えたものである。

(解説)
久光公は、勅使、警衛の任を終えて8月21日、
江戸を発し西上したが、その途中、生麦において
英国人4人が、公の行列を遮り、よって、
従士が、これを殺傷する生麦事件、即ち、
これである。
薩摩藩は、江戸留守居役が、これを取り扱う。
加害者は、先年、脱藩した足軽・岡野新助である旨を
幕府に稟申したが、幕府は英国の抗議を恐れ、
薩摩藩に命じて厳格に加害者を捜索し捕縛する。
既に、英国は果たして幕府に対し、もし、
速やかに犯人を出さなければ、軍艦を回航して
薩摩藩に請求すべしと厳格に談じる。
時に、久光公は復命(*命令を受けた者が、
その経過や結果を報告すること。)して、
京都にいたが、すなわち、岩下方平らを江戸に
急行させて、生麦事件の事は、彼に任せて幕府を
交渉させて、さらに、当時、在京中であった
佐土原藩の能勢直陳が江戸に行き、
政治総裁職・松平慶永に対英策を進言させた。
本書は、すなわち、利通が久光公の意を受けて、
交渉の要点を適宜に記して能勢直陳に与えたもので、
利通の日記によれば、閏8月15日、能勢に交付した
もののようで、まさに能勢らが、翌年、薩英戦争後の
和議、談判に尽力したのは、この故である。

(本文・意訳)
一 岡野新助が夷人(*外国人)を殺害の状況を
届けたところ、夷人(*外国人)の申し立ての筋は、
齟齬(そご・*食い違うこと)致し、ぜひ、
探索は、勿論のこと、証人を差し出すよう幕府から
きっと諮問されることがあり、
岩山八郎太(*薩摩藩家老)、内田仲之助(*同 重職)が
急に上京、致したけれども、
最初から「ありてい(*実際)の状況」を
届けることにすれば、どのような厳しいお達しが
あっても、事実に相違、これなく、いまさら、
お届けを変更する件はもちろん、証人らを差し出すに
及ばず、前意の通り突っ切り、この上ながら、
幕府が(*イギリス人を)応接出来かねないのであれば、
薩摩藩へ回船いたすよう、お達ししていただきたく
存じます。
(*そうすれば)皇国において、これは、
瑕瑾(かきん・*きず)と相、ならず、いささか、
国威を失う事実(*だけ)は、明白であります。
(*よって)応接をすることが、これが大意であり、
岩下佐二右衛門、吉井中助、高崎猪太へ
お含めおきをして、急いで出府を仰せ付けられ、
詳細については全ての件は、当人共、心得下さるよう
願います。

一 右について、とくと心得下され、熟慮されれば、
幕府は、前条の次第を内外の主な者の
主客の取り違えと思召し、外を跡にし内を親み
(*国外の事を後回しにして、国内の事を聞き入れ)
真実、皇国の利益を思い、公平之論を打ち出せば、
応接をもって、外国人を鎮める道は、どこにでもあり、
全く私を離れ、双方に偏る思召しがあっても、
およそ、大名の行列には、作法があり、(*その)
慣習は厳密で 、国内の人でも無礼を行えば、
切り捨てになり、いわんや、外国人においては、
なおさらのこと、かれこれの分かれ(*見解の相違)
があり、よって、当日、薩摩藩の通行について
徘徊してはならないと令してありました。
それ(*大名行列の作法)をも用いず、徘徊して、
曲げても(*不理は)相手方にあり、
かつ又、無礼にも行列へ馬を乗り駆けるとは、
大いに失礼に当たり、相手方においては、作法、
不案内はもちろんのこと、当方においては、日頃から
非常のことを前もって注意を与えております。
職務の者が、主のために右のような次第に及んだ
ことは、日本の気風で、臣子の本意とするところ
であるので、当方においては、左(*相手方)だけを
咎める訳ではありません。
(*そして)相手方の申し立てるところ、
なお、人を害したことについては、究明の上、
処置を加えるべきでありますが、当人は、
その場を逃げ去り、国内は広大で、急に行方を
捜すことができず、精々、探索中のところで、
どのように火急に、と申し立てたところで、
その他にすることは無く、とかく、探すことが
出来るまでは静まりかえっております。
(*このように)理を尽くして、応接すれば、
(*樹木に例えれば)その上枝の葉の事を
申し立てをする件は、屈服致すことが出来る
と存じます。
(*このように)道は、いかようにもあるべきで、
大礼の筋を立てて押し通せば、別段の配慮を
するに及ばず、(*幕府からの)思召しがあると存じます。

一 幕府の趣意は、ぜひ、(*薩摩藩は)本人を差し出し、
厳刑に処して、この哀れに思う皇国が人心の紛争を治め、
治乱(ちらん・*世の中が治まることと乱れること)に
関与すれば、つまるところ、外国人が渡来する根拠の訳、
かつ、つまるところ、攘夷と云うのは、先々からの
確固たる叡慮にあり、(*これは)天下に顕然とあることで
あります。
加えて、かつてない聖断(*さいだん・天子が下す判断)
をもって勅使を立てて、公武合体、万民安堵、上下一和
の復古の基本を開かされ、それがため朝廷が尊崇の道を
立たれ、皇国を世界一流の強国と成して、
寛永の時代に再び、大変革のご初政の時節が切迫し
このような内外の取り違いがあるので、居合において
(*刀が鞘の内にある間に 勝負を決すること)
如何あるべきであるでしょうか。
薩摩藩は、人心においては、先般の堀小太郎の
一件で、制止し難く、この企ては差し控えていただき、
この節の(*実情の)訳では、その憤激は、
十倍になることは、必定であります。
(*よって)よくよく熟思すれば、第一、(*これは)
幕府のためによろしくなく、天下を失望させる一件で
あると思召のほど、(*願い)存じます。
このように、とくとお考えの上、
越前(*政治総裁職・松平慶永こと松平春嶽)へ
進言し、切迫の議論をして頂きたく、
お知らせ下さい。

―――――――――――――――――――――

大久保利通日記・上巻・第2巻.
【大久保利通日記】から 文久2年(1862年)
(本文・意訳)

閏8月16日
近衛家(通称・陽明家)、ご参殿につき、
ご先番として五ツ時分(午前8時頃)
お側役・中山次左衛門、奥小姓・相良量右衛門は、
奥にいられた。

一 辰半刻頃(午前9時頃)、(*久光公)ご参殿。
お控所へお通りになった。

一 正親町三条実愛様、ご参殿で、ご用で
お目見えなり、いろいろ仰せ付かり、承知の旨を
(*久光公に)言上した。

一 中山忠能、野宮定功、(*正親町三条実愛)
議奏三卿、ご参殿。

★(議奏三卿、参内され、久光公と会議)
一 御父子様[近衛]とお会いになり、
終って、 三卿とお会いになられた。
八ツ時分(*午後2時頃)からご用談が済み、
三卿はご参内され、暫時、お引きになり、
又々 御父子[近衛]様、居間へお通リになり、
数刻、ご用談なされ、
七ツ半(*午後5時頃)、議奏の方々は退散され 
ご参殿後、暫時、久光公は、お控所へ入られ、
又々、議奏三卿とお会いになり、数時間後、
夜入過にお控所へ入られ、
又々、御父子[近衛]様とお会いになり、
五ツ半(*午後9時頃)退散された。

閏8月17日
段々と、来客があった。
一 四時(*午前10時頃)出勤。 今日は泊番である。
五ツ半(*午後9時頃)(*久光公は)寝られた。

閏8月18日
一 六ツ時(*午前6時頃)、(*久光公) お目覚め。
八ツ後(*午後2時頃)退出。
本田親雄が来て、話し合い、書面を相、認めた。

閏8月19日
一 今朝、段々と来客し、藤井良節も来た。
四時(*午前10時頃)出勤。 書面を差し上げた。
八ツ後(*午後2時頃)退出。
中山家、正親町家へお使かい、相、勤めた。
暮に帰宿。 小河 一敏が来る。
*小河 一敏は、京都での岡藩の尊王派の指導者。
岡藩は、豊後国 (大分県) 直入郡・岡地方を領有した
外様の小藩。

閏8月20日
一 四時(*午前10時頃)出勤。 
今日、
九ツ時(*お昼12時頃)、お供揃いで、
近衛様が、川原御殿、桜木町御殿へ入られ、
桜木町町御殿へ、ご先番として伺った。
七ツ後(午後4時過ぎ頃)、(*久光公)ご帰殿された。 
大鐘時分(*午前0時頃)、(*私目は)帰邸。
今晩(*大阪から)加藤 十兵衛、浪江野が来た。

閏8月21日
一 今日、五ツ半(*午前9時頃)、お供揃えで、
近衛様へ参殿した。
お控所へ御着坐になった。

一 議奏三卿、坊城宰相様もお出でになり、
お会いになられた。
暫時、(*久光公は)お控所へ入られ、
大原重徳様もお出でになり、お会いになられた。

一 大原重徳様からのお召しで、お目見えした等。

★(久光公、近衛公父子と、くつろいで話をする。)
一 議奏衆がご帰殿の後、 ご休息所で近衛公父子と
お会いになる。

★(利通、懐紙を賜う)
一 私目と中山次右衛門が、ご休息所に召され、
御手から懐紙の拝領を仰せ付けられた。
誠に光栄の至りである。

一 夜五ツ時(*午後8時頃)、 (*久光公は)
お控所へ入られ、夜膳を受けられた。

一 (*久光公)四ツ時(*午後10時頃) ご帰殿。

一 今日は、ご先番であり・
後から退出し、暫時、出殿した。


閏8月22日
一 九時(*お昼12時頃)出勤。泊まりである。
明日、御立の故、混雑であった。 
四ツ過(午後8時頃)、ご就寝。


――――――――――――――――

小河 一敏への書簡
文久2年閏8月22日

【解説】
この書は、利通が久光公に随従して京都から帰藩の途
につく前日、小河 一敏の来書に答えたものである。
(*小河)一敏は、寺田屋事変後、薩摩藩の厚遇を受け、
当時、寺町通大雲院内の超勝院に仮居して薩摩藩の庇護を
受けつつあったが、帰国の際、久光公の尽力により、
(*小河)一敏らが久光公に随従して国事に鞅掌
(おうしょう・*暇がない忙しく立ち働く。)している
ことを褒められる旨のご沙汰書を賜ったのである。

(意訳)
貴殿の書簡、拝見致しました。
今朝は、不容易にもご書き付けを頂き拝見、万々、
奉賀の至りであります。
ついては、早々に旅宿ヘ お見舞い下され、
痛み入り存じます。
明朝、こちらの邸宅にお出でになられるについて、
刻限の件を仰せ付けられたく、何分、早目の方が
幸せに存じます。
この旨、貴殿のご返事まで、早々、繁忙中、
乱筆、御免ください。以上
 閏8月22日 大久保 一蔵
小河 弥右衛門 様
  拝復

*小河 一敏は、京都での岡藩の尊王派の指導者。
岡藩は、豊後国 (大分県) 直入郡・岡地方を領有した
外様の小藩。



次回、歴史の流れ・「大久保利通日記と文書」を読む25
大久保利通日記・上巻・第2巻  に続きます。



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