歴史の流れ 防長回天史を読む34 第二編 嘉永安政萬延記 第八章 安政3年の毛利氏

歴史の流れ 防長回天史を読む34

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

防長回天史 第二編 嘉永安政萬延記
八章 安政3年の毛利氏

外船に対する軽挙の戒飭(かいちょく・*慎み)
○高崎 伝蔵の招聘
○公の帰藩
○スクーナー(*原文・スク―ネル)製造
○医師の管轄
○製薬師・土屋 養哲
○吉川 監物の来萩
○梅田 雲浜の来萩
○文武奨励
○松下塾の勃興

安政3年(*1856年)正月元日、
(*忠正)公は江戸に居て震災の後を受けて、
麻布邸に仮居する。
よって、年初の儀礼は、一に簡省に従う。
(*1月)12日、周布 政之助の禁固を免じる。
この日、(*忠正)公に実妹・三寿姫が国で亡くなる。
姫は、去年、清末公に降嫁する。
降嫁に及び、病があり、遂に起たず。
(*1月)20日、
これより先、尾崎 小右衛門に命じ、萩から行程、
20日で急に江戸邸宅に来させる(*担当とする)。
この日、(*忠正)公は、(*尾崎) 小右衛門に命じ
伊豆・戸田村に行き、洋製船艦の造法、並びに操法を
学ばせる。
(*尾崎) 小右衛門は水軍に属し、船工の長と
させる。
(*1月)29日、
異船が沿海に来たが、みだりに事を構えてはならない旨
を藩内に達する。
その文に云うに、
【*以下、原文意訳】
近年、異国船は頻繁に渡来致し、又、アメリカからは
海上測量などの儀が、ようやく願い、御国体を窺う様子
と見えるところである。
御両国の義は、百里の沿海で広く離れているので、
繋船して測量などを致す節の取り計らいは、
(*忠正)公の辺りを御窺いすることになるが、
平穏に申し諭しても聞き入れず、およそ手荒な所行を
致し、人命にも関わるほどの儀もあるので、
押し捕えても時宜により、臨機の取り計らいがあるのは
もちろんの事であると共に、言語普通の異人とは、
行き違いなどがあり、先方から、かれこれと申す種を
致さぬように取り計らい申すべき旨である。
           【*原文意訳・以上】

同日(*1月29日)、
相州警衛の地にも、又、同じ首位の警戒を伝える。
時に(*忠正)公は、頻(しきり)にスクーナー形
洋式軍艦の製造に意欲があった。

*君沢形(スクーナー)軍艦。
君沢形(きみさわがた)は、西洋式帆船の型式。
原型は、下田沖で難破したロシア船員帰国用に
戸田村で建造された「ヘダ号」。
「ヘダ」は「戸田村」に由来し、
「君沢形」は戸田村が属した「君沢郡」に由来。
スクーナー(schooner) は、2本以上のマストの
縦帆帆装を特徴とする帆船の一種で、
ブリタニカ百科事典第11版によると、
建築業者・ンドリュー・ロビンソンにより
建造され1713年にグロスター(米)で
進水したものが最初の船である。

2月9日、
浦 靭負に幕府製造のスクーナー船を品川沖に観覧
させる。
本多越中守の家臣、高崎 伝蔵らを斡旋する所が
あった。
越えて、(*2月)11日、
(*忠正)公は、有福 弥七を本多邸に遣わし、
請うて高崎 伝蔵を招聘させる。
(*本多)越中守は、奥州菊田郡、泉の藩主で、
当時、若年寄・海防掛であった。
しかし、(*高崎) 伝蔵は、身が船工である故、
戸田村の造船の業に従事し、造詣するところが
あったためである。
後、幾日もなく、(*忠正公は、)(*高崎) 伝蔵が
必要な職工8、9名を率いて来るのを承諾し、
次いで萩に来る。
[斉藤 弥九郎が同伴している。]

(*2月)15日、
毛利 筑前に終身年金300両を賜い、浦 靭負に
禄、千石を加増する。
根来 主馬に在職中は、年、銀6貫目を賜う。
多年、公務に服する功労を賞するものである。
(*2月)16日、
(*忠正)公、スクーナー船、一隻、短挺、一隻を
製造する議を決する。

幕末、明治、大正回顧八十年史.
第1輯(著作権満了のものより)
君沢形
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同・最初の洋式船 
鳳凰丸
安政元年5月10日
幕府の建造船で浦賀で進水した。
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(*2月)19日、
(*忠正)公、江戸を発して3月18日、萩に入る。
去年、震災のため諸邸が破損し、用に堪えないので
幕府に請い、(*萩への)帰期を速めたのである。
(*3月)26日、
浦 靭負、病を負うて職を辞す。
聞かぬ間に、4月1日、
毛利 筑前は職を辞し、益田 弾正がこれに代わる。
4月5日、
内藤 兵衛の手元役を罷免し、前田 孫右衛門を
これに代える。
4月24日、
桂 与一右衛門に巨艦製造用掛を命じ、
小畑浦の恵美須岬に造船場を敷く。
*恵美須ヶ鼻(えびすがはな) 造船所である。
7月26日、
(*忠正)公は、小畑造船場に臨み、造船工事を
視察する。
時に短挺が既に成る。
よって以前に招聘している高崎 伝蔵らに謁見を賜い、
(*高崎)伝蔵以下の衆、工に酒を賜う。
8月8日、
これより先、明倫館に用所役を置く。
行相府・国相府は、鼎足(ていそく・*ここでは、
並び立つ、意。)の勢いをなす。
ここに至り、これを廃止して旧に復し、
これ(*用所役)を両相府に属す。
細事は、明倫館頭人に管轄させる。
8月23日、
(*忠正)公は、さらに小畑造船場に臨み、近臣に
新造の短挺を河中に操縦させて、これを観る。
そして随行の衆臣に酒を賜う。
9月1日、
今津 文右衛門を社中組に列し、年棒8石を賜う。
(*そして)久しく越氏塾の会頭に任じる。
教育に功があったためである。
吉川 監物が、ある日、まさに萩に来ようとする。
*吉川 監物(*通称)
吉川 経幹(きっかわ つねまさ)は、周防国岩国領の
第12代領主、後、岩国藩・初代藩主。
吉川家は、初代領主以来、毛利家とは疎遠であったが、
経幹はその融和に努めた。

よって、この月(*9月)9日、
特に藩吏を諭し、旧例、古格に固執せず、もっぱら
懇親を旨とさせる。
その文に云うに、

【*以下、原文意訳】
一 今度、吉川 監物殿が、思いかけず、萩を出られる
ことについては、諸向(しょこう・*あちらこちらへ
出掛けて寄ること)を引き請け、 勤方において、
違例の件がある節は、双方、かれこれと申し立てて
不穏な趣きが前々から間々あると存じます。
しかしながら、今度、萩を出るに付いては、
厳しく御仕組の中の件において、彼方(あちら)も
省略の用件となると聞き及んでおります。
(*又)なお、万端、親しくありがたく、思召しの折柄、
自然、右ら(*吉川 監物)が申す時は、
御上意の儀に叶わないので、銘々、とくと心得、
穏便に取り計らう様にと赴きの申し出を仰せ付け
られた。
       【*原文意訳・以上】

これより先、去年(*安政2年)11月23日、
(*忠正)公は、江戸から直目付・佐伯 丹下を岩国に
遣わす。
*現・萩市呉服町2丁目に旧・佐伯 丹下家屋敷がある。

まさしく、宗藩と吉川家は、久しく善い関係では
なかった。
(*忠正)公は、深くこれを憂い、宿昔の私心を
なげうって共に公務に勉めようと欲する。
故に(*佐伯)丹下に内諭し、(*忠正)公は、
久濶を叙し(*久しくご無沙汰している、の意)、
かつ、海防の時宜などを謀る所があると望み、
よって(*忠正)公の帰藩を待って、
萩に来られること願う意を吉川氏に伝えさせた。
[吉川氏は、邸宅を萩に有していると云えども、
これより先、萩に来ないことは既に久しかった。]

その(*安政4年)12月16日、
(*佐伯)丹下は岩国に行き、吉川 監物に謁見して
君意のあるところを伝える。
(*吉川 )監物は歓喜し、直ちに書でもって承諾の意
を答える。
ここに至り、(*吉川 )監物は、まさに萩に来ようと
する。
よって、特に藩吏に諭達したのである。
9月15日、(*吉川 )監物、萩に入る。
(*9月) 17日、
(*吉川監物、)(*忠正)公に城中で謁見し、
太刀・一腰、銀・一枚・干鯛一凾を献じる。
礼酒の献酬があった。
(*忠正)公は、これを便殿(べんでん・休息所)に
に導き、更に茶菓・酒・肴を饗し、談話に及ぶ。
(*9月) 18日、
花江(はなのえ)の別殿に饗し、毛利 筑前、
毛利 隠岐、根来 主馬、浦 靭負らがこれに加わり、
黄昏に至る。
(*9月) 22日、
(*忠正)公、又、茗讌(めいえん・*茶会)を
花江の別殿に設け、これを饗し、名器の棗(なつめ)
を賜い、(*忠正)公自らその匣(はこ)に花押する。
ひいては又、江風山月書楼(*萩藩主の別邸)に
宴する。
(*江風山月書)楼は、城の西南、花江の岸にある。
[すなわち、別殿の一部で俗に花江の御茶屋と称する。]

(*これは)先公(*毛利 斉広)の別殿の茶室の
遺留するものを去年、少しこれを移して河岸に
臨ませ、今年、増築を加えて遊憩の所としたもの
である。
(*忠正)公は、暇があれば、すなわち諸有司(*諸役人)
をここに会し、悠々閑話、自ら遣る儀礼の外に出て
臣下に親接する。
独り、風流韻事に止まらなかった。
山縣半七、山縣 恭平、吉田 松陰らは、皆、
(*江風山月書)楼記にあった。

この日、(*忠正)公は、壁に小雅支弁の図を掲げる。
讌酣(えんいん・*酒盛り)をして(*忠正)公は、
手から取って、これを(*吉川)監物に贈る。
まさしく、葛蘿(かずら)が松柏(*しょうはく・
*松とコノテガシワ)を攀(よ)じって纒綿
(てんめん・*からみつき)し、くっつく。
(*その)意は、相、依り、助ける情を諷する
(*風刺している)。
(*吉川)監物は又、席上で「雨奇晴好」の四大字を
書いて、「遊江風山月 書楼記・一篇」を作る。
この時、予め命じる所の漁船の数隻を楼の前の
水中に網し、鮮鱗(せんりん・*鮮魚)10尾を獲り、
陶然(とうぜん・*酒に酔ってよい 気持ちになるさま)
として楽しむ。
(*忠正)公は、獲った鮮魚を(*吉川)監物の邸に
贈らせる。
この日、(*吉川)監物の従臣・宮庄 図書、吉川 采女、
森脇 三郎助、佐々木 権兵衛、安達 十郎右衛門、
吉川邸留守居・近藤 金平が、又、皆、召されて、
酒を賜い、各々、茶器、書幅などの物を贈られる事、
皆、特典に出ると云う。
(*9月) 23日、
(*吉川)監物、使臣に前日の恩を謝す。
(*9月) 27日、
(*忠正)公、又、(*吉川)監物を花江の茶楼に
饗し、新製の短挺を楼下の水に浮かべ、人にこれを
操作させて、共にこれを観る。
(*9月) 27日、
(*吉川)監物、登城して別れを告げる。
(*忠正)公、南京焼の花瓶一個を贈る。
既に、さらに別室に引き左右を退け、談するところが
あった。
まさしく国事に関することである。
次いで宴を設け、(*忠正)公は親しくこれを饗し、
老臣らに、これに同席させる。
(*9月) 30日、
(*吉川)監物は萩を発し、その邑(*ここでは郷の意。)
に帰る。
(*吉川)監物のこの行いは、両家をして初めて再び
親密さを復帰させた。
後、来国の多端な日になり、両家は艱難、相、共に
する。
まさしく、ここに基づくものが多いとされる。
後、10月9日になり、
(*吉川)監物は使いを遣わし、(*忠正公)に厚遇を
謝し、煎海鼠(いりこ・*ナマコ類の煮干し品)一凾を
献じる。
既にして、その(*10月)28日に及び、
(*吉川)監物は、又、水盤、一基を献じる。
添えるに棘鬣魚(真鯛・マダイ)一隻をもってする。
盤は小堀遠州の意匠をもって製造する名器で、
誰かが袖と云う。
(*そして) まさしく重ねて曩日(のうじつ・
*さきの日)を殊遇(しゅぐう・手厚いもてなし)
を謝する。

これより先、9月10日、
藩中にレ氏、水泳ならびに野山の跋歩に務め、
もっぱら身体の強健を謀らせる。
まさしく、旧例では、もし士人が河川で溺死をすれば、
その後、禄せず、このために、士人の多くは、
水泳を好むようになった。
論示の文に云うに、

【*以下、原文意訳】
海寇(かいこう・*海上から侵入する外敵)防禦の
御手当については、御家来中、兼々、海上の走行など
稽古して、船軍の心がけるのが肝要である。
海上の儀は、難破船の憂いがあり、はかばかしく
稽古が出来かねるように見受けられる。
当時、御手当の儀は、国家の第一の要務につき、
稽古方については、向こう海陸ともに自然、
不慮の義があり、跡職の義は、遂に御詮議なされる
べきで、条は、かねがね海上、山野を厭とせず、
令の稽古を心掛ける様仰せ付けられたとの事。
          【*原文意訳・以上】

11月15日、
椋梨 藤太は政務役を罷め、赤川 太郎右衛門がこれに
代わり、国相府・右筆・三宅 忠蔵が転じて
行相府・右筆となり、赤川 (*太郎右衛門)に属する。
12月6日、
(*忠正)公は大いに明木・追山に狩りする。
実は武事を演じていたのである。
(*12月)17日、
小畑造船場において君沢形 新造スクーナー船の進水式
を行う。
(*忠正)公は、親しくこれに臨む。
この年(*安政3年)12月、
梅田 源次郎が京都から来て、萩に遊ぶ。
(*梅田) 源次郎は、号を雲浜、
若州(じゃくしゅう・わかさ国の別名)の小浜の人。
以前から尊攘の儀を唱え、同志に謀り、幕府に勅命を
奉じさせようとし、朝廷の微力を慨し(うれたし・
*嘆き)、勤王の雄藩を説き、その志を達しようとして
長州に下ったのである。
こと時に当たり、(*忠正)公は文武を奨励して怠る所が
なく、度々、明倫館、その他の講習場に臨み、
又、度々、重臣を城中に召して経史を会読させて、
或いは、儒臣に公園させて一門の諸士と共にこれを聞き、
もって興奮する所があるようにさせた。
(*忠正)公は又、襲封(しゅうほう・*領地を
受け継ぐこと)以来、孝子篤行、高齢の類を賞し、
極貧、無告(むこく・*苦しみを訴える相手のない)の
民を憐れむ。

この年(*安政3年)又、5月14日には、
大津郡深川の温浴上あって郡中の孝子、高寿、篤行、
無告に恵与するところがあった。
4月28日、
又、相州の警衛地において、本藩の例に倣い、
孝貞、奇篤者に賞賜を行わせ、
9月5日には、
藩内の孝子義人、旌標の制を改めて、高札を
繁華の付近の巷(ちまた)に建て、広く衆目に
触れさせた。
[天保6年に7日間、間口に張り札を行う制と
する。
文政元年、門口に高札を建てる制に改める。
そして、この類の民は、およそ辺鄙(へんぴ)な地、
もしくは狭い巷などの人目の多く及ばないところに 
住む。
よって、その制を改め、門口の張札は、天保年間に、
定める所に従い、高札は、その市中と諸郡にあるとを
問わず、付近の公の場所、その他、公衆が通過し、
繁多な地を選び、ここに建てさせる。]

この間において、長州藩の下層間には、別に一種の
新勢力が萌芽し、ようやく、まさに蜂起の状を呈し
ようとしていた。
吉田松陰の松下塾が、これである。
これより先、(*吉田)松陰の叔父・玉木 文之進は、
進んで諸生をその家に集めて、教授する。
家が松本村にあるので、称して松下村塾と云う。
玉木(*文之進)が出て仕えるに及び、又、
(*塾)を拝しする。
少しもしない間に、松陰の外叔父・久保氏が、又、
子弟をその家に会して教え、その塾名を踏襲する。
(*吉田)松陰が野山獄を出て、家居するに及んで、
密かに近隣の児童を集めて、これに教授する。
窪氏の家塾が相、接近するので久保氏の家塾は、
廃するの後、その名を踏襲して松下村塾と称する。
この年(*安政4年)9月になり、
軍学教授の名をもって、塾舎開続の許可を藩政府に
受ける。
松下塾の名は、これより現れる松陰の子弟を
教えると、一に実用に適し、実際に応じるので、
その第一義となる。
故に大義名分、論にあらず、すなわち富国強兵説
である。
これに交えるに銃剣を使用し、準銃を使用する。
要するに活発有為で気概ある士を作り出すことが
松陰の目的としたる所である。
藩学・明倫館は、普(あまね)く藩士を教養する所
で、以前には、海内に名があった。
その設備は、至れる諸藩の中、稀に見る所とする。
しかしながら、学風は、なお未だ門閥の痕跡を
免れず、その教養の法は、普通、規矩の外に
逸出していた。
加えるに卒族の子弟のような者は、当時、なお、
未だ入学することを許さず、
[文久年間に至り、これを許す。]

これをもって班位が卑しくて気概ある者は、皆、
争って松陰の門下に娶る(めとる・*迎える)。
[班位が卑しくなくても逸足有為(いっそく うい・
*才能がある)の士で門下に入る者、なきにしも
在らずであった。
高杉(*晋作)のような者は、これである。】

明倫館の諸生が故書敗紙(*役に立たない書)
の内に彷徨(さまよ)っている間において、
松下村塾の門下生は、早く既に時事に通暁し、
国家の安危を自己の休戚(きゅうせき・
喜びと悲しみ)とするのに至っていた。
ここにおいてか、長州藩の後進の青年子弟の
気風は、俄然として一変し、文武の修養は、
既に諸藩に超越する長州藩では一段の異彩が
加えられ、その結果、次第にその勢力を一藩の
政事に及ぼし、延びて天下の大勢に及んだので
ある。

安政3年間 要路(*要職)一覧
【行相府】
●当役
浦 靭負

●御用掛
坪井 九郎右衛門

●手元役
(11月15日、罷免)
椋梨 藤太

小川 七兵衛

(4月4日、任命)
前田 孫右衛門

●用所役
(4月23日、罷免)
長井 弥次郎 実充

(8月11日、地方)
中川 宇右衛門

(兼任)
小河 七兵衛

(返済方)
内藤 吉兵衛

(4月11日、任命)
山縣 市之助

(江戸方 現除[*名誉職])
兼重 新右衛門

●右筆役
(11月19日、手元参)
赤川 太郎右衛門

(11月15日、罷免)
椋梨 藤太

(5月8日、任命、副約)
北条 瀬兵衛

――――――――――――

●直目付
八木 甚兵衛

梨羽 直衛

――――――――――――

【国相府】
●当職
(4月1日、罷免)
毛利 筑前

(4月1日、任命)
益田 弾正

●裏判役
(7月24日、転任)
山内 新右衛門

(7月24日、任命)
梨羽 半兵衛

●蔵元 両人役
(12月8日、罷免)
三須 市郎兵衛 守襄

(4月4日)
前田 孫右衛門

(4月11日、任命)
福原 荒助

●遠近方
中島 市郎兵衛

中川 宇右衛門

布施 虎之助

(4月11日、任命)
村岡 伊右衛門

●所帯方(用所役 同)

●右筆
三宅 忠蔵

(4月11日、罷免)
山縣 右平

(4月11日、本)
渡邊 伊兵衛

(現除[*名誉職])
伊藤 市右衛門


*次回からは、第九章 江戸海 防備の概要 です。


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