歴史の流れ 防長回天史を読む36 第二編 嘉永安政萬延記第十章 相州警衛(その1)- 1

歴史の流れ 防長回天史を読む36

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

防長回天史 第二編 嘉永安政萬延記
第十章 相州警衛(その1)- 1

相州警衛の総論
○警衛準備の要件
○兵員の部署
○諸隊への訓諭
○黒印条書
○諸法度条々
○備場授受の幕令
○諸員の出発
○行軍規定
○衛地の授受
○兵員配当 諸勤務規定
○海陸運輸の進歩
○砲台装置の砲類
○毛利、井伊両家の砲種比較
○演舞の大要
○郡司病院設置の建議

毛利氏が初めて相州警衛の命を受けたのは、
嘉永6年(*1853年)11月14日で
[前任の井伊氏と授受が終わったのは翌年の
3月である。]

これを免じられ、さらに兵庫警衛の命を受けた
のは、安政5年(*1858年) 6月20日である。
[実際、相州の引き渡しを終了したのは、
翌年の正月である。]

その間、5ヶ年とする守衛の区域は、
鎌倉、三浦の2郡の中、69ヶ村、
石高20,686石4斗9升9合2勺の地である。
名は、警衛であると云えども、幕府はこれに
主管の全権を委任し、武備の他、さらに文治を
任じるものであった。
当時、その地を賞して備場、もしくは預かり地と
云い、警衛隊は、出て一政府を作った。
派遣の藩士は、本来、警備の戦員であると云えども、
吏員(*役人)に至っては、皆、文武両権利を握り、
時あっては、まさに衛兵となり、時あっては、
行政の吏員となる。
これを総括して総奉行が一人。
これを補佐して都合役二人[都合役は、奉行役と
改める。]を置く。
総奉行は文武の一切を統括し、都合役は行政の
事務を主理する。
但し、都合役中の一人は、藩邸の吏員で
これを兼ねて、常に藩邸にいた。
初めて総奉行に任じられたのは益田越中で、
都合役に任じられたのは木原 源右衛門、
三井 孫右衛門であった。
三井(*孫右衛門)は、江戸の公儀人であり、
都合役を兼ね、木原(* 源右衛門)は都合役で
総奉行・用談役を兼ね、益田・木原は任地に赴き、
三井は留まって江戸に在て、警衛に関する諸般の
事務を処理した。
益田(*越中)の後を受け、相継いで総奉行と
なったのは毛利 隠岐、毛利 主計、毛利 筑前、
福原 左近之允である。

安政2年(*1855年)、
毛利 隠岐の就任以後の総奉行は、皆、
江戸詰めである。
安政2年、天野 九郎右衛門が、総奉行・用談役
に任じられ、
後、(*安政)3年1月、木原(* 源右衛門)に
代わって奉行役となる。
安政4年(*1857年)には、井上 与四郎が
奉行役 兼 用談役となり、
安政5年(*1858年)には、又、これに代わる。
その他の吏員は、中間頭2人、作事方2人、
米銀方3人、機械玉薬方2人、元締役1人、
筆者7人とした。

初め、嘉永6年(*1853年)11月、
相州警衛の命が下ると、その19日、
政務役・周布 政之助が旨を受けて急行して
帰藩し、国相府諸員を会し、警衛準備の要件を
議定する。
当時、毛利氏の最も焦心、苦慮する所のものは、
軍需品の充実に在るようなものであった。
周布(*政之助)が諸老臣と議決するところの
要件に云うには、

【*以下、原文意訳】
兵器の材料は、到底、江戸在来のものだけで、
これに応じることは出来ない。
しかも藩地・江戸の兵器の混沌は煩雑を増すので、
軍需品は力の及ぶ限り、一切、藩地から輸送する
こととし、国相府において、その準備を怠らず、
常に出張の人員に応じる器械の輸送計画を
立てる事。
大砲は、貫目以上のもの、30貫目以下のもの、
の30門を直ちに輸送する事。
海岸の砲台用の大口径砲は、江戸において鋳造
することを目的とし、その原料および鋳工を
藩地から送る事。
[当時、各藩は競って銃砲鋳造の挙があったため、
江戸市中においては、鉄類に価格が日に騰貴する
傾向があったので、(*周布)正之助は藩に行く途中、
大坂に行き、その価格を調査して、この挙に出る。]

兵船および注進船は、現に三田尻に繫留されるもの
があると云えども、到底、遠州洋の波浪を凌ぐこと
は出来ないので、大砲を、小早船5隻および
注進船5隻の材料ならびに船工を水路で、
江戸近海に送り、その地で製造させる事。
糧食は人員に応じて、おおよそ1ヶ年分を送り、
それ以後、年々、発送すべき事。
[11月中旬、都合役・栗屋 隼太に1千石の糧食を
送るべし、と命じた。]

警衛のために出張すべき人員は、益田越中を総奉行
とし、木原 源右衛門を都合役[後、預り地奉行と
改称]とし、組頭・粟屋 帯刀、物頭4名、役人
若干の他、大組40人、中間頭2人(組共)は、
国相府がこれを選抜し、出府させる事。

異船の再来の日に臨み、或いは要することを思い、
その準備として組頭1人、寄組両3人、番頭1人、
先鋒隊100人、遠近附20人、医師5人、
無給通30人、物頭2人(組共)、
中間頭2人(組共)を国相府において、
あらかじめ選定する事。

(*忠正)公が出馬の事がないので、
第二増員の選抜および徒士以下、貸与の武具も又、
国相府において準備すべき事。
【*原文意訳・以上】

周布(*政之助)は、これを追行する手段を
商議し、日、ならずして東帰する。
[周布(*政之助)は、東帰の時、未だ詳細
ではないが、始め江戸を出発するに当たり、
行相府から国相府に寄せた書中に、
「周布政之助へ差し向かい申し含め、道中、
総陸15、6日にして、今日、御用が済み次第、
爰元[ここもと]が出かけるについては、
各様へ御相談があるので、彼の者が着き、
早速、ご承知になられて御評議が決まり次第、
早々、返らせるようにと存じます。」と、あり、
又、翌年、安政元年(*1854年)正月7日、
浦 靱負を相州に遣わすとき、毛利 能登に
浦 靱負が不在中、当役座事務の兼摂(*兼任)
を命じ、周布(*政之助)に中川 宇右衛門が
不在中、矢倉頭人および用所役事務の兼摂を
命じた、と記録に見られる。
すなわち、当時、周布(*政之助)は、既に
帰着していたか、もしくは、江戸着が不日
(ふじつ・*日数が余り経たない)であること
を知るべきである。]

この間において、江戸邸に在っては、
周布(*政之助)が西下の後、命を藩地に下し、
組頭・柳沢 備後、以下150余人を選抜し、
これ(*彼ら) に東上を命じる。
[寄組2人、証人1人、番頭1人、
物頭2人(組共)、大番100人、遠近付20人、
医師5人、中間頭2人(組共)、
無給通20人である。]

又、砲術家・兵学家、数人を相州に派遣し、
これに海岸を巡見させようとする。
兵員の部署、陣営の位置、銃砲の配当は皆、
現場の実検を要すれば成った。
時、あたかも年末に際しても果たさず、
翌、安政元年(*1854年)正月、
当役・浦 靭負、公儀人・小倉 源五右衛門、
当役 手元役・中井 次郎右衛門、
右筆役・赤川 太郎右衛門、
所帯役・中川 宇右衛門、用談役・木原 源右衛門、
筆者・杉 梅太郎、兵学家・湯原 右門、
砲術家・森重 正之進、郡司 覚之進など
70余人を派遣して相州海岸を巡察させる。

浦 (*靭負)などは、
その(*安政元年正月)7日、江戸を出発し、
浦賀海関所 造船所
[浦 靭負手記によれば、当時、浦賀造船所には
短挺2隻、西洋形小舟3、4隻が竣工していた、
とある。]、
砲台陣営などを巡視し、城ヶ島を経て、まさに
荒崎に到ろうとすると、たまたま、異船の来航の
警報(*が、鳴るに)到る。
すなわち、昼夜兼行、(*安政元年正月)12日、
薄暮、江戸に帰る。

この行末は、未だ全く警衛することは出来ないと
云えども、陣営の砲台の地に至っては、
概(おおむ)ね、これが巡察を終わり、
異船は、既に来航する。
警備の急は、ますます迫り、(*忠正)公は、
益田 越中らに急行の出発を命じ、
[益田 越中については、もし、上府の途上で
緩急があれば、臨機に部下を藤沢から相州の
警衛地に行かせ、単身、上府すべきことを
命じたのである。]

さらに、岡部 内記など数人に命じて、臨機に
警衛地に到るべきとし、別に部署を定めて、
備場総奉行を
[当時、警衛地の称号が一定しないため、
一般に備場と称することに定めたのである。]

先手総奉行とし、御前警衛隊を先鋒隊に当て、
あたかも(*忠正)公 が、まさに自ら出馬
しようとするもののように行い、
[御前警衛隊は、一時、先鋒隊を兼ねたが、
藩主の出馬の時は、本務に服して、君前を
守護すべきことを命じた。]

もし、益田 越中が到る前に急変があれば、
毛利 能登び代えて先手備総奉行の事を兼務
させるべきである事を命じ、
旗本備斥候6人が2人交代して、浦賀に行って
その動静を窺わせる。
[この6人は、あたかも将校、斥候のような
任務を負っていた。]

間もなく、益田 越中は江戸に入る。
(*忠正)公は、すなわち、益田(*越中)を
先手備総奉行とした。
[初め周布(*政之助)の帰藩中、益田 越中は
年、少事に嫻(なら)わざれないので、
その就任に難を示す色があったが、周布への
勧誘が止まず、遂に奮進して事に従った。]

既にして、先に招致するところの兵員は、
2・3月の交わりに到り、ことごとく江戸に
集中する。
ここにおいてか、3月13日、
さらに全員を別けて先手備、後手引当の
二つとし、一つは、警衛地に行かせて、
一つは、江戸に留めさせる。
その部署の便概を挙げれば、左(*下)の
ようである。

●先手備
○備場総奉行(先手惣奉行)益田 越中
○総奉行所役人
 (用談役1人、惣奉行手元役1人、
  公儀人助役1人、勤方1人、目附役2人、
  筆者4人、用掛2人、密用方兼右筆2人、
  大検視1人、)
○組頭
 (大組物頭以下、先鋒拾聚、遠近附寺社組
  共支配)      粟屋 帯刀
○番頭 1人
○物頭 4人
○足軽頭 2人
○銃陣見合 (先鋒隊1隊に2人宛)8人
○先手使役 4人
○大筒 2人
○先鋒隊四隊
(一隊は五伍から成り一伍は6人から成る)
120人
○遠近附六伍
(一伍は5人から成る) 30人
○無給通
(一組は6人から成る) 30人
○御供徒士 1人
○儒者   1人
○師    3人
○船大工棟梁  1人
○御船手組 若干
○幟貝金鼓持 仲間六尺  若干
○預地奉行  木原 源右衛門
(総奉行・用談役・小荷駄奉行 兼帯 無給通
以下、諸沙汰および米銀方、作事方、仲取方
などの勘定、奥書、その他、諸沙汰)

預地奉行所 役人
(小荷駄奉行に属すべきものを含有する)
○本締役 1人
○筆者  2人
○機械方仲取方 1人
○玉薬方仲取方 2人
○作事方 兼 固屋方 1人
○御銀方 修甫銀方 古物 御米方 旅役方  1人

これを警衛地派遣の隊伍編成とする。

●後手引当
○後手引総奉行  柳沢 備後
(後手引当諸隊 遠近附寺社組共、支配)
○寄組   2人
○物頭   2人
○大筒打  3人
○儒者   1人
○医師   4人
○御前警衛隊 1隊
○先鋒隊  若干
○遠近附  15人

後手引当は、アメリカ艦退去の後に至り、
全て国に帰った。

守兵の出発(*日)の近くに、すなわち、
その(*3月)14日に訓諭して云うには、

【*以下、原文意訳】
この度、相州の御備場の出張を仰せ付けられた。
面々は、世上華美の風に流れ移り、
物前の心がけは自然と薄くなっては、
追々、仰せ付けられる御主意にも叶わず、
場所柄の件につき、傍ら、虚文を省き、質素を
尊び、不覚悟が無いように常々、心得る事が
肝要の事に付き、左(*以下)の通り
御云い付けになられる。

一、 正月3日の間、上下着用仰せ付けられる事。
但し、本文の他、何かがある節は、
干時(*時に)において沙汰が仰せ付けられるので、
私用の勤めなど、上下着用の件は、もちろん
用捨(ようしゃ・*取捨)あるべき事

一、 稽古方は便利のため、胴着、稽古袴などでの
往来は、勝手次第(*思い通りである)の事。

一、 御備場の着服は、この荼毘の御云い付けの通り
総綿服はもちろんの事、
但し、江戸屋敷においては、5月5日までは、
差支えの向きもあるので、行形(*いきなり)に
仰せ付けられるところでは、御帰国の節、
御供中の振りもあるので、出張当日から区々(くく・
まちまち)でなく、きっと改められるように
御云い付けられるとの事。
         【*原文意訳・以上】

時、あたかも5ヶ年倹約の令を布き、
財政整理の間にあり、
故に、その(*3月)20日に至り、さらに平生の
実行を戒めて云うには、

【*以下、原文意訳】
一、 御陣屋諸居の面々、酒販の集会、ならびに
音信贈答、又は盤上茶湯などは、堅く差し留める事。
右(*上)の旨もって沙汰あるべきものである。
         【*原文意訳・以上】

さらに出発の諸員に訓諭するところがあり、
称して条数と云う。
その文に云うには、

【*以下、原文意訳】
一、 相模国・御備場の出張申し付ける。
面々は、公儀に従いお言い付けられた旨、
ならびに当家古来の作法を謹んで守り、
総奉行の下知、その他、頭々の指図に従い
背かない事。
 付、例えと云えども、全て下の者は、
指図を請い、下知を伝えれば、その旨、
謹んで守る事。

一、 無事の時に当たっては、文武の修行を暫時も
油断せず、兼々、行規正しく、志気を養い、
質素をもっぱらとし、自然、事あれば、各々、
忠勇を励むべき事。

一、 諸役は、采配の上下を論じず、謹んで勤み、
例え身分に応じない件と云えども、
一旦、その節は残さず遂げることは、
仔細があれば追って申すべきで、全て何事によらず
私(*事)の持ち方の申し立て、終には徒党を結び、
訴訟などをなすことは論外である。
もし不心得の者がいれば、厳法に処する事。
  付、役人は異変に臨み、その役をそのままにして
自分の手柄を心掛ける事は停止する事。

一、 同隊・相伍の者は、諸事、厚く申談すること、
殊に陣中の一和は第一につき、各、貴賤の分限を
顧みて、礼儀を尽くし、少しも争論に及ぶことが
ないようにする事。

一、陣門の出入りの作法は、堅く守る事。

一、 陣屋において、火の元は、わけても大切な件
につき、昼夜、入念にすべき事。

一、 又、人のことは、主人、主人が手堅く
申し付けること。
もし不法の者があっては、その主人の落度である
べき事。

右(*上)の条々、背かず、ひとかども曲げ無い事
を申し付けるものである。
        【*原文意訳・以上】

これと同時に、又、別に、諸法度、条々を称する
ものを示して、云うには、
【*以下、原文意訳】

一、 相模国・御備場の出張を仰せ付けられたことに
付き、御書付けを差し出されたので、読知し、
謹んで守り、その旨を衆心一和させて、粉骨砕身、
遂げられ、御奉公の事。

一、 物前(ものまえ・*戦争の直前)の角顔は、
第一であり、兼ねて(*より)士道に励み、かつ、
武具・馬具など華美の費用を省き、簡便にして
手近に取り調(ととの)え置き、異変に及んでも
覚悟があるように心がける事。

一、 隊伍、組合を定め置くので、互いに親疎が
ないように申談し、相伍のことは、進退動止、
一身のようにではなくてはならず、
その詮事(*なすべき事)については、
平日の交わりが共にあるように心得る事。

一、 御陣門の勘過(かんか・*よく調べて通す)
のことは、切に手詰り(*であると)に
仰せ付けられ、自用(*自分の用事)については、
朝六つ時(*午前6時頃)から
暮れ六つ(*午後6時頃)に限り仰せ付けられ、
もっとも(*これは)御用につき、出入りの件は、
制外(せいがい・*制度の範囲外)の事。

一、 御請場(しんば・*幕命の受信役所)門、
その外において、遊客を引き状を請い世渡りする
者が間々ありと聞く。
右体(*上)の場所に行くことは制禁の事。
  付、神社仏閣の寄付は一切、差し留める事。

一、 請場の件は海陸共、公領ならびに諸家の
御料地が入り交じる場所柄につき、
操練の当日の他は、総奉行の聞き届がなく、
みだりに鉄砲を打つことは、差し留める事。
        【*原文意訳・以上】


その(*3月)22日,
(*忠正)公は、特に総奉行・益田越中などを
引見して、黒印条書を(*益田)越中に賜う。
*黒印状は、将軍・大名・旗本などが墨を
用いて押印した上で発給した文書。

その文に云うには、

【*以下、原文意訳】(*長文)
相模国・御備場の出張の面々は、警衛が大切な
ことなので、もし異変の節は、わが国の武威が
輝き、少しの暇も僅かに無いように、その覚悟が
肝要である。
よって今度申し渡す条数ならびに総奉行の下知は、
謹んで守り、衆心一和で忠節を遂げる奉公は、
本懐である。
もし、背いた族は、心外ながら先公の御条目の
旨を申し付けるべきである。
この旨、よくよく心得るべきである。

一、 今度、その方の事、今の役目から相模国・
御備場総奉行が申し付ける条は、公儀に従うよう
御云い付けられる諸法度、ならびに兼ねて
(*よりの)定置の法令の旨をもって、諸事、
よくするべき心遣いがあるべき事。

一、異国船の防禦のことについて、もし、その方の
落着が成り難いこともあれば、(*その)品格を伺い、
もっとも差向うことは、浦賀御奉行所が承合
(*しょうごう・*問い合わせて知ること)し、
なお三家の申談は、何分、時宜に応じて沙汰が
あるべき事。

一、 多数の人数を差し出すので、無事な時に
当たっては、文武の修行を第一とし、自然、
事あれば、各忠臣を選ぶよう、厚く心を用い、
沙汰を申し付けられる事。

一、 諸士役のことは、その方が校量をもって
沙汰し、もっとも諸役人の令は、一和により
推量により偏りが無いように念を入れ、
申し渡される事。

一、 御領地奉行の者は、地下(じげ・*昇殿を
許されない公卿)の諸沙汰は肝要であり、
人民教育の筋において、その方も気づけば、
遠慮なく右の奉行所へ申し聞く事。

一、 御備えの向きは格別の筋であるけれども、
所帯が難渋の時節につき、平常のことは、わけても
令を省略するように、所役の者へ厚く申し付ける事。

一、 出張の面々は、善悪があり、あるいは、
褒美を加え、あるいは罪科を行う者共のことは、
その意は、趣きが共にあると云うべきで、
差し向かっては如何様にも申し付け、
追って、その趣きを言上すべき事。
 付、相伍の内、行跡が宜しくない族があるとき
には、よくよく申し諭し、趣次第では、懇々と
存じ寄りを加えられ、もし承引(しょういん・
*承諾)が無い時は、その趣を有体に訴え出られる
こと。
自然、隠し置いて、脇から漏聞においては、
同隊の面々も無念と為す事。

一、 喧嘩、口論をする者共は、双方共、
厳科に処される事。
 付、荷担する者は罪が本人において重く
なる事。

一、御備場の件は、公領(*地)ならびに
諸家御預地に接している事につき、
公儀衆、又は他家の御家来と立ち会うことある。
ついては、御家の風俗は、他の評判にも
成り申すので、銘々、行儀佐保を乱さず、
末々までも貞実(ていじつ・*節操があること)
を手本とし、善悪床、他家の取り沙汰にならない
ようにする事。
 付、町家・民家へ立ち寄り、飲酒あるいは、
諸物を押買など、総じて、乱暴狼藉は禁止の事。
 付、田畑を荒らし、竹木をみだりに
採用しない事。

一、 陣屋において火事を出すことにおいては、
火元の下人法度で行われ、かつ、その主人も
落度となされるべき事。

一、 異国船が渡来して戦争の勢いが相違なければ、
総奉行の指図次第で防禦の働きをすることは、
もちろんのことである。
その期に臨み、衆に遅れ、あるいは駆け抜けされる
ことは、堅く禁止を仰せ付けられる事。

右(*上述)条々、違反の者共においては、
厳科に処されるところ、御云い付けられる。
よって、この様な件を熟達すること。
        【*原文意訳・以上】

これより先、この月(*3月)15日、
海防掛月番・阿部 正弘から命があり、
云うには、
「井伊氏と交渉して相州浦賀村・千代崎から
腰越村に至るまでの授受をすべし。
その間に幕府が造る所の台場・番所などは、
幕吏交授させる」と。
ここにおいてか、井伊氏・幕吏などと
その交代の交渉を終了し、予め行軍の日を
定め、順を追って守衛地に向かう。
すなわち、3月17日をもって、
預地奉行、興銀、助役、大検視、その他、
役人、50人を先発し、
その(*3月)23日をもって
原陣営詰・宮田陣営詰の一部を送発する。
その日(*3月23日)、
(*忠正)公 は、特に陣笠の一つを
(*益田)越中に賜い、その行いに尽くす。
(*3月)24日、
原陣営詰の残余の人員を送り、
(*3月)25日、
総奉行・益田 越中が途中で上る。
奉行所役員・宮田陣営詰の人員の一部が
これに従う。
[この日、井伊家の人員、原・三崎の両陣営
を引き払う。]

その(*3月)26日、
宮田陣営詰の残余人員を送り
[この日、井伊家の人員、宮田陣営を引き払う。]

その(*3月)27日、
三崎陣営詰の残余人員を送り、全く、
その行軍を終わる。
その行軍規定に云うには、

【*以下、原文意訳】
一、 出発の当日、暁八ツ時(*午前2時頃)、
江戸の御屋敷を出発し、戸塚駅で止宿し、
宿々と割席割りなど張り札の次第で、
陣中を動揺に心得て、下々に至るまで
混雑がない様に止宿し、
一建々々、着揃いの上、その段、筆頭から
御目付役座まで達するよう仰せ付けられる。
前もって宿割り、旅籠を決められて
仰せ付けられるので、その辻で払い方が出来、
戸塚宿から上宮田・三崎までの途中は、
諸事、不便で、昼休み、食事など差し支える
ので、戸塚泊りにおいて、銘々から申し付け
持参すべき事。

一、翌朝、八ツ時(*午前2時頃)、
一番の拍子木で出発の用意、二番の拍子木で
順々、出発し、御請場に着陣することを
仰せ付けられる事。
但し、陣屋着の上は、到着に到り、仰せ付けられる
件は、銘々、ひな形の通りに調(ととの)え、
組頭役・頭支配人など一手で取り揃え、
素奉行の所へ差し出すように仰せ付けられる事。

一、 着服の儀は、塗笠尻割羽織、半股引きに
仰せ付けられる事。
但し、足軽以下は、浅黄股引きを捻(ひね)
からける事。

一、 着当たり分は、賄方に差支えがあるので、
立て替えて賄うよう仰せ付けられるので、
銘々、人数高を付き出すよう仰せ付けられる事。
但し、出発の日限ならびに前後、順次のことは、
(*忠正)公辺りへ問い合わせの上、
追って沙汰が申し付けられる事。
【*原文意訳・以上】

既にして、守兵が相模に入ると、警衛地と
民政との授受を行う。
幕府は、御勘定組頭・高橋平作、以下、
属吏・御徒目付組・田中勘右衛門、
御普請役・石川 周蔵などを遣わし、
井伊氏は、城使(長州の預地奉行に当たる)
宇津木 六之丞を留めて、残務を掌握させる。
毛利氏は、大検使・北条 瀬兵衛を派遣して、
代官役の事を兼ねさせて、3月27日から
同・29日に至る間、八王子山、安房崎、千駄崎、
千代崎、大浦山、荒崎、剣崎、ならびに
上宮田・三崎・原陣営の各所の授受を終わる。
(この内、井伊氏が構築の陣営などは、毛利氏が
その費用を償い、これを井伊氏から譲り受け、
その価銀は、8月15日をもって完済した。
後、安政2年[]1855年] 7月、千代崎・弾薬証拠に
盗難があった際に、倉庫内の弾薬の員数を
精査するのに井伊氏から受領した弾丸の内、
総数は目録に符号し、弾種は大いに相違している
ことを発見した、と云う。)

続く

*次回は、第十章 相州警衛1-2 です。

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